著者
吉野 斉志
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.27-51, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

本論では近年翻刻・公刊された西田幾多郎の「宗教学講義ノート」(一九一三~一四年講義)に基づき、時期の近い公刊著作『善の研究』(一九一一年)とも照応して、初期西田の宗教哲学の解明を目指す。西田によれば、一方には純粋経験の統一があり、他方にはその分化発展と自己限定により個物が成立する。そして究極の統一にこそ「神」あるいは「宗教的なもの」が求められる。この思想は「宗教学講義ノート」でも共通しており、西田が同時代の様々な宗教論や思想史に関する著作を参照しながら宗教思想に判断を下す論に、はっきりとその立場が現れている。また、『善の研究』の宗教論は「汎神論」を主張しているが、この論の背景も「宗教学講義ノート」を参照することにより、仏教が汎神論であるという理解と、その仏教を擁護する意図があったことが判明する。西洋の文献を渉猟し、その内在的な批判から独自の論を立てようとした「西洋哲学者」としての西田の姿が、この読解から明らかになるはずである。
著者
永岡 崇
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.143-166, 2008-06-30 (Released:2017-07-14)

天理教をめぐる従来の歴史的研究では、一八八七年に教祖の中山みきが"現身を隠す″と、親神への信仰によって結びつけられた共同体は合法的な宗教活動の道を探り、その過程で、国家権力への妥協・迎合が露骨に行われるようになったといわれてきた。こうした見方は一面では正しいが、国家協力の事例が強調される一方で、そうしたものの基盤となる、日常的な信仰の営みが見過ごされてきたのではないだろうか。本稿は、みきに代わって親神のことば=「おさしづ」を語り、信徒たちを指導した本席・飯降伊蔵を取り上げ、彼が「おさしづ」を語るにいたるプロセスを跡づけるとともに、信徒たちに注視される彼の心身や語りがどのように共同体を再構築し、信仰を再生産していったのかを明らかにする。伊蔵の「おさしづ」は、親神の意思として観念的に認められただけではなく伊蔵の身ぶりや声、病、語りのことば遣いなどが絶えずみきの記憶を喚起し、さらにそれらを変化させながら信徒たちの信仰を獲得していったのである。
著者
何 燕生
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.2, pp.81-108, 2020 (Released:2020-12-30)

「人間仏教」は太虚によって提唱された中国仏教復興のための指導理念であり、二〇世紀以来、中国本土はもちろん、海外の中国人社会における仏教の共通の思想である。本稿は、太虚およびその弟子の印順の主張を通して、「人間仏教」の思想とは何かについて、具体的に確認するとともに、「人間仏教」という理念の下に行われている台湾の仏光山や慈済会および東南アジアの中国人社会における実践活動を取り上げて考察することを目的とする。「人間仏教」の主張は仏教思想の近代的再解釈であり、その理念のもとに行われている活動は、いわゆる「社会参加仏教」に近い要素をもっている。しかし、「近代仏教」およびEngaged Buddhismなどの分析枠で捉えるには限界がある。本稿はそれらについて問題を提起し、中国語圏における歴史的社会的政治的文脈を重視する視点が必要であることを指摘した。
著者
村上 寛
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.669-691, 2011-12-30 (Released:2017-07-14)

本稿は、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete)及びその著作『単純な魂の鏡(Mirover des Simples Ames)』に対する異端審問における思想的問題について考察している。異端判決では一五箇所が異端箇所として列挙されたが、その内現在までその内容が伝わるものは三箇所であり、それぞれ徳理解、自然本性理解、神を巡る意図についての理解が問題視されている。その徳理解について問題となるのは、自由権(licentia)を巡る徳と魂の師弟関係の逆転、それに実践(usus)に関する理解である。自然本性理解については、身体と必要性という観点が考慮されるべきである。そして神を巡る意図については、慰めと賜物に関する理解及び「一切の意図が神を巡るものである」ことの意味が考察された。以上の考察によって、それらの概念に関するポレート自身の理解が明らかになったものと思われる。
著者
深澤 英隆
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.205-212, 2022-06-30 (Released:2022-09-30)
著者
藤本 龍児
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.323-350, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

国家と宗教について考える際の基本理念は「政教分離」である、とされる。しかし、日本の「政教分離」は、欧米諸国のそれと比べて特殊な類型に属すと言わねばならない。しかも、欧米ではその理念じたいが見直され始めている。そこで本稿では、とくにアメリカの「政教分離」を中心に論じ、その思想的問題を明らかにすることを試みた。第一章では、まず日本における「政教分離」理解を、判例や学説を通して確認する。また、その特徴を明らかにするために、欧米における国家と宗教の類型を整理する。第二章では、世界で初めて憲法に「政教分離」を謳った、と考えられているアメリカの憲法についてみていく。ここでは、とくに日本の判例や学説に大きな影響を与えた「分離」原則について論じる。第三章では、一九八〇年代以降の変化について論じ、それまでに確認された国家と宗教にまつわる原理や原則、そしてその背後にある思想について整理し、その問題点を明らかにする。
著者
虫賀 幹華
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.1, pp.49-73, 2021 (Released:2021-09-30)

北インドのヒンドゥーの聖地ガヤーで行われる祖霊祭では、「男性・女性たちのための十六」という死者の救済のためのマントラが唱えられる。本論文は『ガヤーマーハートミヤ』(十―十一世紀頃)に掲載される同マントラを和訳した上で、これを池上良正が論じるところの「無主/無遮」の両側面を含む無縁供養であるとみて分析するものである。同マントラで供養の対象となるのは、「まつり手がいない(無主)」ことあるいは異常死を理由として葬儀が執行されないことによる苦しむ死者、生前の悪行が原因で生まれ変わり先で苦しむ死者、親族を超えた非常に広範囲の祭主の「縁者」たる死者である。異常死者や転生先で苦しむ死者と祭主との関係性の不問、輪廻思想による時空を超える対象の広がり、言葉を尽くした祭主との関係性の描写といった、このマントラなりの「一切衆生への平等な(無遮)」供養のあり方にも注目する。
著者
吉永 進一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.579-601, 2010-09-30 (Released:2017-07-14)

本論文では近代日本における神智学思想の歴史を明治から戦後の一九六〇年まで追う。最初に、ハネフラーフのエソテリシズム史やオルバニーズのメタフィジカル宗教史を日本の霊性思想史に適応できるか否かを、島薗進の新霊性運動における系譜論的議論と関係させながら論じた上で、構造的、理論的な定義ではなく、試論として歴史的な霊性思想のジャンルと特徴を抽出する。次に霊術や精神療法などの日本の霊性思想と類似したアメリカのメタフィジカル宗教について瞥見した上で、明治、大正期における日本への神智学の流入、ロッジ活動の失敗、出版での流布を紹介する。最後に三浦関造に焦点をしぼり、翻訳家から霊術家、そしてメタフィジカル教師への変貌の跡を追い、戦後の竜王文庫を通じてのアリス・ベイリーやドーリルといった神智学系グルの紹介と終末論的なオブセッションを論じる。
著者
牧野 静
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.3, pp.75-97, 2020 (Released:2021-03-30)

本論文は、宮沢賢治(一八九六―一九三三)が、妹トシ(一八九八―一九二二)の死に際して、国柱会の典礼をまとめた『妙行正軌』に従って追善を行おうとしたという見通しのもと、考察を行う。賢治はトシの通夜と葬儀に参列していない。これは『妙行正軌』が異教他宗の儀礼への参加を禁じていたためであり、賢治が国柱会会員としてのアイデンティティを強く保持していたことの証左である。次に、賢治がトシの死以前から『日蓮聖人御遺文』を手掛かりに法華経による死者の追善を主題とした創作を行おうとしていたことを確認した。そうして、賢治が『日蓮聖人御遺文』中の転生観に影響を受けつつ、トシの死後の行方を主題とする創作を行うも、トシの行方に確証が持てない過程を概観した。そののち、妹の死を経た兄が「すべてのいきもののほんたうの幸福」を追い求めるべきだとする物語である〔手紙四〕を配ったことも、『妙行正軌』の定める「教書」としての追善を意図したものだったと検証した。