著者
太田 裕信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.53-78, 2012

西田幾多郎は自身の哲学を「宗教」と密接に関わるものとして考えていたが、その「宗教」に本質的な契機として「罪悪」の問題がある。西田はその問題を初期から晩年に至るまで、親鶯やキリスト教の思想に触れながら度々論じている。本稿では、西田がこの「罪悪」の問題を「場所の論理」という存在論においてどのように考えていたかを論じる。西田は『哲学論文集第四』(一九四一年)において、キェルケゴールの『死に至る病』に書かれた「罪」の思想に共感しているから、本稿はキェルケゴールの思想との関係を論究の手がかりとする。西田は「罪悪」を単に道徳的な局面のものとしてではなく、「作られたものから作るものへ」と言われる自己の存在論的構造において考えている。より詳しく言えば「罪悪」を「対象的自己意識」と「意志」という二つの契機から考えている。そして、この問題は「逆対応」などの根本概念において表現されている西田の「宗教」思想の本質的な契機となっているのである。
著者
徳野 崇行
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.81-105, 2016 (Released:2017-09-15)

本論では、曹洞宗における「食」と修行との関わりを道元の説いた食時作法(じきじさほう)の伝統が受け継がれているとされる永平寺を例に検討する。食に関わる語彙を日常のそれと比較し、応量器を用いた僧堂飯台(そうどうはんだい)における儀礼や偈文、禁忌を取り上げつつ、料理を準備し、給仕する浄人(じょうにん)の所作に焦点を当てる。そして食時作法と呼ばれる一連の儀礼が食べ物や食器を聖化する役割を果たし、伽藍のもつ仏・菩薩—僧侶—鬼神という仏教的なパンテオンを身体化する営みとなっていることを明かにする。本論後半では、菜食と粗食という二つの意味を包含する「精進料理」という言葉の歴史を辿り、「精進料理」なる語が「他者表象」として用いられることで、食べ物と食べ方が一体化した仏教的な「食」のあり方から世界観や儀礼の多くを濾過して「料理」を抽出する役割を果たしたこと、近代以降は「日本料理の源流」の一つとされることでナショナリズムの文脈を帯びてゆくことを論じる。
著者
宮下 聡子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.67-89, 2006

ユングは古来の難問、「悪の問題」に、神義論とは異なる立場から答えようとした。ユングは「キリスト、自己の象徴」(『アイオーン』第V章)で、彼の見るところ「悪の問題」へのキリスト教の答えである「善の欠如」の教説を批判している。ユングによれば、この教説は「最高善」である神の被造物の中に悪は存在しないと説いているが、それは誤りである。神は「最高善」ではないし、そのような神の被造物として人間にも悪は具わっている。ユングはまた『ヨブへの答え』で、神を「対立の一致」にして「無意識」と規定し、「人間化」を欲しているとする。ユングによれば、神は「対立の一致」として善だけでなく悪も含んでおり、しかも「無意識」で自己反省を欠くため、悪の面が現れ出ることがあり得る。そして神は「人間化」を欲し人間に宿ろうとするため、悪は神と人間の関係において解決されるべき問題となる。ユングはこのようにして「悪の問題」に答えようとする。ここに、人間悪を徹底的に見詰め、しかも神との関連においてその解決策を探ろうとした、ユングの思想的格闘の成果を見ることができるのである。
著者
引野 亨輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.1-26, 2016

<p>明治期の日本社会に活版印刷をはじめとする西洋流印刷術が伝播すると、江戸時代以来の伝統的な印刷術は急速に衰退したとされる。しかし、仏教書のように専門性の高い本の場合、江戸時代から続く老舗出版社が、熱心な講読層をがっちり掌握していた。売れる部数だけ出版するという戦略にのっとる限り、老舗出版社が急いで活版印刷を導入し、大量複製や高速印刷の技術を身につける必要はなかった。もっとも、東京の仏教系出版社に注目すると、明治二〇年代にはいち早く西洋流印刷術を導入していく。それは、明治期の啓蒙思想家たちが自ら出版社を創業し、広く一般人にまで仏教教理を説き聞かせようとしたためである。他方、京都の仏教系出版社は、修行中の僧侶に向けて仏教経典の註釈書などを販売する必要があったため、木版印刷や和装製本を根強く使用し続けた。しかし、活版印刷や洋装製本によって大部の著作が縮刷印刷され始めると、その利便性が認められ、明治三〇年代を境として日本の伝統的な印刷術は衰退していった。</p>
著者
星川 啓慈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.377-401, 2013-09-30 (Released:2017-07-14)

神経生理学者ベンジャミン・リベット(1916-2007)たちは、手首を曲げるなどの随意運動における「自由意志」は脳内に準備電位が蓄積されてから約五五〇ミリ秒後で発現する、という一連の実験結果を発表した。この「自由意志は無意識的な脳活動の後から生じる」という衝撃的な実験結果は、多くの分野の研究者の耳目を集め、従来の決定論や自由意志論の解釈に大きな波紋を投げかけた。自然主義的傾向が強い研究者たちは、これを「自由意志の否定」と結びつけた。しかし、リベット自身は自由意志の存在を否定するのではなく、行為を「拒否/中断する」という特殊な形態においてではあるが、自由意志の存在を一貫して肯定した。その裏には、ユダヤ教信者としての彼の「自由意志を死守するという信念」が存在していた。さらに、彼は自らの実験結果と結びつけて「倫理体系としてのユダヤ教はキリスト教よりも優れている」とみなした。彼の神経生理学上の実験解釈や思索を決定づけたものは、ユダヤ教であった。
著者
デラコルダ川島 ティンカ
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.125-145, 2019 (Released:2019-09-30)

中・東欧の旧社会主義国では、かつて宗教統制がおこなわれていたものの、現在は宗教の多様化が進んでいる。ミサ参列率の低さにあらわれているように、組織宗教は独占的な立場ではなく、宗教の個人化傾向もみられる。聖地巡礼の盛行はこうした傾向を示しているものといえよう。本論では、ボスニア・ヘルツェゴビナの聖地メジュゴリエをとりあげ、巡礼における民衆宗教性について考察する。分析対象となるのは、スロベニアからのバス巡礼に参加した巡礼者たち、ツアー・リーダー、巡礼の経験者などである。巡礼者の動機や行動の観察を通じて明らかになったのは、巡礼者らが教会組織からの束縛を忌避し、自発的な宗教的体験を求める傾向を持っていることである。カトリックの公式な聖地ではないメジュゴリエの宗教的自由が、そのような巡礼者を惹きつけているといえる。絶対的な宗教的権威からはなれた個人的な宗教経験を求める姿は、スロベニアの民衆宗教性を示していると考えられる。
著者
柴田 大輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.269-295, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

現在のイラク北部を中心に繁栄した古代の領域国家アッシリアの王宮と国家神アッシュルの神殿は異なる組織によって運営されたが、両者は統治において一種の共犯関係にあった。王宮を中心とする行政機構によって統治された国土は、理念上国家神の所有とされた。その国家神は神殿において祀られていた(「扶養」されていた)が、この神の祭祀に必要な物資は、規定供物の制度を通じ、アッシリアを構成する全行政州によって共同で賄われた。さらに、規定供物の制度は、理念上で国家神の祭司を兼任した王の直属の人員によって統括された可能性が高い。
著者
脇坂 真弥
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.403-430, 2013-09-30 (Released:2017-07-14)

本稿はヴェイユの「科学と知覚」論文を検討し、後の「盲目的メカニズム」としての世界観やそこでの神と人間の関係を読み解くための準備とする。この論文で自らデカルト的懐疑を試みるヴェイユは、《力》を根源的な現象とし、人間と事物を《力》の結節点として理解する。人間は「想像力」においてこの《力》を自覚的に用い(=労働)それによって自分を世界の一部として見出す。ヴェイユによれば、「真の科学」は個人のこのような「知覚する労働」の延長線上にある《人類の知覚》である。人間をこのように《力》の網目の中に位置する存在として理解する一方で、自分を含むその世界をありのままに捉え、想像力を正しく用いて「労働」することにヴェイユは人間の役割を見る。このような理解は、必然性の冷酷なメカニズムに捉えられつつも、人間がこの必然性に自ら同意し「従順」であることによって世界の一部となるヴェイユの後の思想の萌芽だと言えるだろう。
著者
鎌田 東二
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.429-456, 2011

「ワザ(技・業・術)」とは人間が編み出し、伝承し、改変を加えてきたさまざまな技法・技術であるが、その中に呼吸法や瞑想法などを含む身体技法や各種の芸能・芸術の技法やコミュニケーション技術、また物体を用いる技法・身体を用いる技法・意識に改変を加える技法などがある。ワザは心とモノとをつなぐ媒介者であり、身体を用いた心の表現法でもある。「滝行」を含む諸種の「ボディワーク(身体技法)」は、「ある目的(解脱・霊験・法力・活力を得る・悩みの解除など)を達成するために、心身を鍛錬し有効に用いるワザ・作法・技法である」。宗教的「身体知」も、宗教的観念や宗教思想に裏打ちされながら、さまざまなワザを持っている。その宗教的ワザの一つとしての「滝行」に着目することにより、日本の宗教的身体知の独自性とそこに宿る「生態智」を掘り起こす。