著者
髙橋 沙奈美
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.3, pp.25-48, 2017

<p>本稿はペテルブルグの聖クセーニヤに対する崇敬を事例として、人びとの日常生活の中で経験され、表現される「生きた宗教(lived religion)」が、社会主義時代にどのような主体によって維持され、いかに変容し、またいかに持続したかという問題を検討する。十八世紀末の帝都の下町に暮らしたといわれるクセーニヤは、十九世紀後半から二〇世紀にかけて、悩みや苦しみに寄り添い力を貸してくれる聖痴愚として、人びとに慕われ始めた。一九一七年の革命後、反宗教政策で教会が壊滅状態に陥り、祈?を依頼できる司祭がいなくなると、レニングラードの人びとはクセーニヤに「手紙」を書くことで崇敬を維持した。クセーニヤは過去の記憶ではなく、テロルや包囲戦の時期もレニングラードと共にある等身大の福者として意識された。また、帝政末期にすでに正教会にも認められていたクセーニヤ崇敬は、教会権力によって単なる民衆宗教として排斥されず、西側の世論を怖れたソ連政府も礼拝堂の破壊を思いとどまった。一九八八年の列聖は、信者たちにとって、革命以前の信仰生活の復活ではなく、ともに最も苦しい時代を生き抜いたクセーニヤの記念を意味したのである。</p>
著者
クレーマ ハンス・マーティン
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.521-544, 2014-12-30 (Released:2017-07-14)

明治前期における宗教概念形成過程のなかで、浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷(一八三八-一九一一)が果たした役割の重要性は、先行研究においてすでに指摘されている。その理由の一つは、「信教の自由」の先駆者として捉えられてきた島地が明治五年、実際にヨーロッパを遊学したことであるが、彼がヨーロッパで具体的に誰と会い、どのような経験を通して「ヨーロッパ」の影響を受けたかは、必ずしも解明されていない。本論文の目的は、島地がフランスやドイツで明治五・六年に出会った人物とその思想を明らかにすることを通じて、帰国後の彼の思想展開を分析するための手がかりを得ることである。特にこれまでの研究において謎であった、島地がベルリンで面会した「リスコ」の人物像を解明し、プロテスタント牧師であった彼から島地が学んだ自由神学の影響を検討することによって、近代日本における宗教概念形成研究への貢献を目指すものである。
著者
熊谷 友里
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.1, pp.75-98, 2020

<p>近代カトリックの宗教としての性格を理解しようとするとき、教会の諸制度を含めた宗教実践の実定的側面が宗教的真理としていかに位置づけられてきたかは重要な論点である。本稿では、一九世紀フランスにおけるウルトラモンタニスムとガリカニスムの対立図式上に生じた「典礼論争」を背景に、ベネディクト会ソレーム修道院の院長プロスペル・ゲランジェがオルレアン司教に宛てた三通の書簡を考察対象とし、そこにおいて実定的性格をもつ典礼がいかに規定され意義づけられているか、さらにはそれらの議論のなかでカトリックの宗教としての性格がいかに捉え直されているかを検討する。内的事柄のみを宗教的本質とみる司教に対し、ゲランジェは典礼の意味と意義を多様に論じつつ、地上の教会に関わる実定的な事柄を、宗教的真理にとって不可欠な要素として本質的領域に再設定し、カトリシスムの真理構造とその宗教的性格をも再検討させている。</p>
著者
磯前 順一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.193-216, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

近代ナショナリズムに対する批判が、人間の歴史的真正さへの志向性を相対化することに成功し、宗教概念論という新たな研究潮流を生み出した。その背景には一九六〇年代後半に始まるフランス現代思想の、ポストコロニアリズムあるいは植民地主義を介した一九九〇年代の動きがあった。こうした流れの中で、近代を中心とする日本宗教史の言説が流布しているが、一方で近世以前の時期に対する研究は影を潜め、近代が作り出した過去の言説として、近世以前の時期は扱われるにとどまった。同時にそうした固定化された日本宗教史研究は、ポストコロニアル研究などのもつ社会に不平等性に対する批判力を抹消させ、形骸化された制度史研究に宗教概念論の批評性を無効化させてきた。本稿ではこうした近年の傾向に一石を投じるために、非近代西洋的な余白として近世の信仰世界や民俗宗教を研究する可能性を理論的に模索する。
著者
嶺崎 寛子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.191-215, 2019

<p>本稿では、ジェンダー・オリエンタリズムという難問(アポリア)を示し、それをいかに乗り越えるかを論じている。西洋と東洋を二項対立的に捉え、西洋が東洋を他者化し、東洋に自分たちの世界にはない独特/特殊な女性差別や女性蔑視を見出し、それを「遅れている」「女性差別的である」ことの証左とするまなざしがジェンダー・オリエンタリズムである。ムスリム女性は、一貫してこのまなざしが注がれる、主要な客体の一つであった。これに抗する第三世界フェミニズムは、不均衡な権力構造や表象のポリティクスについて、丁寧に紐解いてきた。一方日本の宗教学はジェンダー・オリエンタリズムに反論しようとするあまり、結果的にそれを再生産するという罠に嵌っている。研究者としてすべきことは、構造自体を白日の下に曝し、問い自体を無化することである。多数派を巻き込みつつ、ジェンダー主流化の意義を共有し、具体的な方法論を提示することによって、この隘路を切り抜けられるのではないか。</p>
著者
岡本 亮輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.2, pp.57-80, 2020 (Released:2020-12-30)

二一世紀以降、サンティアゴ巡礼路には様々な背景を持った世界中からの巡礼者が集まるようになったが、その多くは信仰なき巡礼者である。彼らにとって大聖堂の聖遺物は巡礼の目的にはなり得ず、巡礼過程での交流体験とそれがもたらす気づきや自己変革が重視される。本稿では、こうした状況を伝統宗教の枠組みからの離脱という意味で、信仰の背景化として捉える。そして、サンティアゴ巡礼をモデルとして展開する日本の聖地巡礼にも、信仰を過去のものとし、現在についてはスピリチュアルな語りをするパターンが見出せ、さらに、この種の言説が、伝統信仰の担い手である宗教者によっても紡がれることを確認する。
著者
李 賢京 田島 忠篤
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.2, pp.3-28, 2020 (Released:2020-12-30)

本稿は、グローバル化する奄美大島の宗教と地域社会のかかわりについて、トランスナショナリズムの視点から考察することを目的とする。奄美を舞台に国際移住したカトリック信者・宗教者を手掛かりに、カトリックという宗教を軸に越境を捉え、出身地と移住過程、移住先とでトランスナショナル宗教的紐帯およびコミュニティが、どのように形成されるのかについて確認する。本稿では、具体的な事例として、奄美出身日系ブラジル人一世、日系ブラジル人二世、ブラジル帰国者のシスター、日本人女性と結婚した韓国人、中国人元留学生、ベトナム人司祭およびベトナム人たちを取り上げ、聞き取り調査および現地参与観察を通して検討した。結果として、奄美国際移住者たちは地域コミュニティを維持する人材として包摂されたため、教会を媒介とした出身国と奄美間の宗教的紐帯は見られず、トランスナショナル宗教的コミュニティとしてのディアスポラも確認できなかった。
著者
大谷 正幸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.27-52, 2016 (Released:2017-07-03)

食行身禄(本名は小林某、一六七一―一七三三)は筆者が角行系と呼ぶ富士信仰一派の五世代目にあたる行者である。彼の二番目の著作『一切の決定讀哥』(一七三二成立)は、歌集であり、また六十・六一歳の時点における富士信仰の行状を自ら記したものである。彼の師・月行は元禄元年(一六八八)六月十五日に世界の支配が従来の記紀神話的な神々から自らの神・南無仙元大菩薩様へ移譲されたと言い、「身禄の世」なる神代が始まったとした。それから四十年余り経って、食行は彼の世界観や歴史説を敷衍した『一字不説お開みろく之訳お書置申候』を著した。老境に達した食行は新たに富士山頂にて「身禄の御世」を開き、その翌年に「一切の決定」と称する富士登山を行う。 本稿は富士信仰研究史において全く研究されたことがない『一切の決定讀哥』を新たに翻刻し、その上で理解しやすいよう分科しつつキーワード「決定」について考察する。
著者
田中 悟
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.139-160, 2009-06-30 (Released:2017-07-14)

子安宣邦による「国家神道」論が提起しようとした問題は、その後の議論において正当に受け止められたと言えるだろうか。本論文は、「国家」や「国民国家」といったタームを手がかりとして、「国家神道」をめぐる従来的な議論に若干の新たな認識視座を導入しようという試みである。宗教学的な「国家神道」研究はこれまで、「神道」研究(の一環)とみなされ、「国家」研究の側面が疎かにされてきた。しかし「国家神道」は、政治学的な「国家」の枠組みにおいても把握が目指されねばならない研究対象である。「神道とは何か」と同時に、「国家とは何か」が問われねばならない。「国家神道」は、両者の問いの相関として議論されねばならないのである。そこで筆者が提示しようとする「国家神道」の新たな認識視座とはすなわち、「国家とは何か」という問いをそれ自体としてまず直視し、「国家」と「神道」との相関を問う、関係論としての「国家神道」論である。
著者
岩田 文昭
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.375-399, 2011-09-30 (Released:2017-07-14)

二〇〇六年十二月に改正施行された教育基本法や、二〇〇八年度に告示された小中学校の学習指導要領の登場とともに、日本の学校での宗教教育を巡る状況はいま新たな段階に入っている。このような状況を踏まえながら、本稿では国公立学校での宗教教育の現状を分析し、その教育の課題を探究したい。まず、これまで論じられてきた宗教的情操の内容と、戦前・戦後の宗教的情操教育をめぐる状況を考察する。その考察によって、国公立の学校では、宗教的情操の涵養を直接に目指す教育は、原理的にも歴史的にも実際的にも困難であることを示す。と同時に、宗教的情操教育に代わりうる教育が実際になされていることを明らかにする。そして、この代替教育は、二つの局面で宗教と関わりえるが、それは従来の宗教教育という枠に収まらないことを示す。最後に、教科における知識教育、とくに社会科における宗教知識教育の内実について検討する。そこから、宗教知識教育と価値形成との問題連関を指摘し、この連関の探究を深めるという課題が横たわっていることを示す。
著者
加藤 喜之
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.101-124, 2019

<p>自然法則を神の意志と密接に結びつけたデカルトの革新的な考えによって、「自然における悪」とそれさえ意志する「善なる神」という概念的な矛盾が生じてしまう。多くの初期近代の思想家たちはこれを悪の問題とみなし、様々な解決法を論じた。十七世紀オランダの哲学者スピノザもそのひとりである。しかし先行研究をみても、スピノザの悪の問題についての議論とその解決策を的確に論じているものはない。そこで本稿はその全体像を明らかにするために、まず、一六六四年から六五年にかけて交わされた在野の神学・哲学者W・ブレイエンベルフとの書簡を分析する。つぎに、『エチカ』(一六七七年)の第四部でスピノザが悪について論じた箇所に着目し、伝統的な哲学との理解の違いを確認する。最後に彼の『神学・政治論』(一六七〇年)をひらき、キリスト教会と悪の関係に光をあて、この問題の解決としての彼の国家論に注目したい。</p>
著者
横田 理博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.789-811, 2009-12-30 (Released:2017-07-14)

西田幾多郎の『善の研究』がウィリアム・ジェイムズからの大きな影響のもとに成立したことは周知である。これまでの研究では、両者の「純粋経験」概念の共通性と異質性とが問題とされてきた。しかし、本稿は、従来の研究が「純粋経験」に関心を向けてきたがゆえに、西田とジェイムズとの本当の関係が見失われてきたのではないかという疑念のもとに、次の二点に光をあてる。第一に、両者は「神人合一」の「宗教的経験」という状態を宗教論の中心に置いた。とはいえ、ジェイムズの考察が経験科学的な宗教心理学の立場であるのに対して、西田は独自の宗教哲学を語ろうとした。第二に、科学の抽象性よりも現実そのままの豊かな光景を本質的なものとするフェヒナーの思想に両者は共感している。しかし、ジェイムズが「多元論」的立場をとるのに対して、西田は「一元論」的な立場をとる。
著者
大谷 正幸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.27-52, 2016

<p>食行身禄(本名は小林某、一六七一―一七三三)は筆者が角行系と呼ぶ富士信仰一派の五世代目にあたる行者である。彼の二番目の著作『一切の決定讀哥』(一七三二成立)は、歌集であり、また六十・六一歳の時点における富士信仰の行状を自ら記したものである。彼の師・月行は元禄元年(一六八八)六月十五日に世界の支配が従来の記紀神話的な神々から自らの神・南無仙元大菩薩様へ移譲されたと言い、「身禄の世」なる神代が始まったとした。それから四十年余り経って、食行は彼の世界観や歴史説を敷衍した『一字不説お開みろく之訳お書置申候』を著した。老境に達した食行は新たに富士山頂にて「身禄の御世」を開き、その翌年に「一切の決定」と称する富士登山を行う。</p><p> 本稿は富士信仰研究史において全く研究されたことがない『一切の決定讀哥』を新たに翻刻し、その上で理解しやすいよう分科しつつキーワード「決定」について考察する。</p>