著者
李 均洋
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.105-128, 1996-12-27

雷神の文字学の考察、納西族や壮族などの口頭の神話と近古(宋代)および現在に残っている雷神を祭祀する民俗の考察により、原始民の神という観念は、雷神を「世界と万物を創った」最高の天神として祭祀することと共に出現した、と考えることができる。つまり、雷神の起源は神即ち宗教の起源と共に発生したのである。原始民の雷神信仰は自然崇拝に属するのであるが、その後に出現してきたトーテム崇拝や祖先崇拝などは、雷神崇拝と切っても切れないつながりを持っている。
著者
李 均洋
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.47-61, 1996-03-31

雷神はただ人々によく知られている神様というだけではなく、文化史と思想史の上でも重要な位置を占めている。

1 0 0 0 OA 陽夏の謝氏

著者
井波 律子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.135-145, 2007-05-21
著者
趙 維平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.11-41, 2011-03

中国は古代から文化制度、宮廷行事などの広い領域にわたって日本に影響を及ぼした。当然音楽もその中に含まれている。しかし当時両国の間における文化的土壌や民族性が異なり、社会の発展程度にも相違があるため、文化接触した際に、受け入れる程度やその内容に差異があり、中国文化のすべてをそのまま輸入したわけではない。「踏歌」という述語は七世紀の末に日本の史籍に初出し、つまり唐人、漢人が直接日本の宮廷で演奏したものである。その最初の演奏実態は中国人によるものであったが、日本に伝わってから、平安前期において宮廷儀式の音楽として重要な役割を果たしてきたことが六国史からうかがえる。小論は「踏歌」というジャンルはいったいどういうものであったのか、そもそも中国における踏歌、とくに中国の唐およびそれ以前の文献に見られる踏歌の実体はどうであったのか、また当時日本の文化受容層がどのように中国文化を受け入れ、消化し、自文化の中に組み込み、また変容させたのかを明らかにしようとしたものである。
著者
バスキンド ジェームス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.125-161, 2008-03-31

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
著者
単 援朝
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.111-124, 2002-02-28

本稿は芥川龍之介「湖南の扇」をめぐって、作品の構築における体験と虚構化の働きを検証しつつ、玉蘭の物語を中心に作品の成立と方法を探り、さらに魯迅の「薬」との対比を通じて作品の位相を考えるものである。結論としては、「湖南の扇」は、作品世界の構築に作者の中国旅行の体験や見聞が生かされていつつも、基本的に体験の再構成を含む虚構化の方法による小説にほかならない。作品のモチーフは冒頭の命題というよりクライマックスのシーンにあり、作品世界は「美しい歯にビスケットの一片」という、作者の原光景ともいえる構図を原点に形成され、虚構の「事件」が体験的現実として描かれているところに作品の方法があるが、作品の「出来損なひ」はこの方法に起因するものであるといわざるをえない。そして、魯迅「薬」との対比を通じてみると、「迷信」として批判されるはずの人血饅頭の話をロマンチックな物語、「情熱の女」の神話に作り替えられたところに、芥川のロマンチシズムへの志向と「支那」的生命力に寄せる憧れが見て取れる。
著者
金 釆洙
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.177-207, 2004-01-31

湾岸戦争以降、世界の情勢はアメリカ中心になりつつある。EC(ヨーロッパ共同体)は、世界の情勢がアメリカ中心になっていくことを防ぐ方法としてEU(ヨーロッパ連合)に転換してきた。しかし、東アジア地域の国々は二十世紀のナショナリズムに縛られ、アメリカやヨーロッパの動きに対応できるような連帯形態を作れないのが現状である。
著者
武藤 秀太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.241-262, 2002-04-30

本稿は、戦後日本のマルクス主義経済学の第一人者であった宇野弘蔵(一八九七―一九七七)の東アジア認識を、主に戦時中に彼が執筆した二つの広域経済論を手掛かりに検討する。「大東亜共栄圏」は、「広域経済を具体的に実現すべき任務を有するものと考えることが出来る」。――このように結論づけられた宇野の広域経済論に関しては、これまでいくつかの解釈が試みられてきた。だが、先行研究では、宇野が転向したか否か、あるいは、かかる発言をした社会的責任はあるかどうか、といった点に議論がいささか限定されているきらいがあり、戦後の宇野の発言等を含めた総合的な分析はなされていない。私見では、宇野の広域経済論は、戦前戦後を通じて一貫した経済学方法論に基づいて展開されており、彼の東アジア認識を問う上で非常に貴重な資料である。大東亜共栄圏樹立を目指す日本は、東アジア諸国と「密接不可分の共同関係」を築いていかねばならないという、広域経済論で打ち出されたヴィジョンは戦後も基本的に継承されている。このことを明らかにするために、広域経済論を戦後初期に宇野が発表している日本経済論との対比から考察する。
著者
朱 捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.79-95, 1990-03-10

見立ては、つきつめて言えば、異なる事象たる甲と乙との間に共通した要素を見つけることである。それは、身ぶりしぐさなどの生活の知恵としての見立てから、芸術表現の様式としての見立てまで、幅が広い。美学的価値から言えば、それは大きく二つのレベルに分けることができる。一つは、おもに甲と乙との間の外面的、知的な共通要素を媒介とする見立てである。いま一つは、甲と乙との間の内面的、情趣的な共通要素を媒介とする見立てである。前者は、一般に言う譬喩に近く、比較的素朴で、日常的であるのに対して、後者は、芭蕉の配合に近く、より奥深くて芸術的である。従って、日常生活から芸術表現まで幅広く認められる見立ての究極的な境地は、内面的、情趣的な要素による異質な事象観の配合にあると言える。配合は、内面的、情趣的な要素を媒介にしている上に、素材感に連鎖を与えずに並列させるため、素材間の飛躍が大きくなり、飛躍が大きければ大きいほど、思いがけない新鮮なイメージが躍動してくる。
著者
リュッターマン マルクス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.28, pp.13-46, 2004-01-31

「畏まりました」「恐れ入ります」の類の言葉を日本列島ではよく耳にする。拝して曲腰をして恐縮する姿を型としている作法に合わせて「恐れ」の感を言い表わす礼儀は依然として根強く育まれている。「型」である。拙論では、仮にそれを「恐怖の修辞」と呼び、観察の焦点を挨拶の言葉に限定し、その普及と徹底的な定着の所以を問う。要するに「恐怖の修辞」形成過程の復元と、その由来の歴史的考察とを五段階を経て行いたい。一説では「恐れ」を言い表す主な古語である「恐る」や「畏む」や「憚る」を収集して、その意味を整理し、その変化を追求する。それらの本来の語義は平安時代以降から挨拶詞として定着したように見えるのである。したがって、これらの大和詞には共通した総括的な変容が著しく生じて、新たな意味(感謝、呼び掛けなど)が追加された。そういった「恐れ」の表現の性質を検討するに当たって、手掛かりを仮に書簡の修辞法(文書形式や書札・書札礼)に求める。それに二つの方面から光を照らし合せてみたい。一つには二節において文化歴史上の比較でもってその世界的普遍性の有無を確認したい。果たして古代地中海のレトリックを組む欧州弁術法にも「恐怖」が型となっているのだろうか。二つには斯かる言葉遣いの独特な由来の検討を三節の旨とする。即ち中国の漢・唐時代の修辞法に溯って、『獨斷』を始め、書儀類などを検討し、その結果、「恐怖の修辞」は古代地中海都市広場でもなく、都市裁判の場でもなく、漢国家体制或いはそれ以前の帝・天使の朝廷と中国士族の祖先崇拝へ溯る特徴が判明する。いわゆる「啓」と「状」とが唐に広く書簡として使用されるようになり、士身分以外にも、つまり庶民に浸透すると同時に「恐怖の修辞」も多くの人の身についたことは想像に難くない。礼儀作法書且つ書礼規範書として流行った書儀にも同様な傾向が反映している。書儀伝承と木簡出土などが雄弁にかたるように、文書主義の一面として「恐怖の修辞」も渡日した。日本における書札礼儀の展開における「恐怖の修辞」の変遷・推移を四節で具体的に分析する。『正倉院文書』を始め書簡手跡の実例に配慮する一方、中心的に『雲州消息』『高山寺本古往来』『弘安禮節』『庭訓往来』『書札調法記』『不斷重寶記大全』『書禮口訣』等々の主な礼書を分析する。儀礼に溯る思想もしくは表現が礼学の文脈で多く日本に伝わっており、「恐れ」を意味する仕種や語彙が少なからず含まれている。「恐々」「恐惶」等々の漢語を規範書から検出して、其の使用法や機能・連想に光を当てて、またそれらが中国よりも徹底的に市民の間に普及した様子を描く。最後にかかる漢語の訳語として大和詞の「かしこ」を例に、中国の修辞法に由来する使用法の転換を明らかにする。「めでたくかしこ・かしこ」はそれなりに世俗化や日常化や大衆化と滑稽化ともいうべき変遷を遂げた、現代まで日本で影響力を保っている「恐怖の修辞」を代表するといってよい。延いては礼儀の一系統への理解を深めるのに好適なこの一例をもって、拙論を結ぶ。
著者
池内 恵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.109-120, 2007-09-28

日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
著者
エルマコーワ リュドミーラ M.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.71-90, 2003-03-31

本稿の目的は、ある偶然をきっかけにして発見されることになった一つの歴史的資料、すなわち一五八二年に長崎から出帆しヴァチカンを訪ねローマ教皇の謁見を賜った遣欧一行の一人による自筆の書、について紹介することである。これは赤い紙に一六世紀のスタイルで書かれた書であり、そこには旧約聖書の詩篇からとられた二つのダビデの聖歌の一部がラテン語と日本語両方で記されている。
著者
光平 有希
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.33-59, 2016-03-25

人間が治療や健康促進・維持の手段として音楽を用いてきたことの歴史は古く、東西で古代まで遡ることができる。各時代を経て発展してきたそれらの歴史を辿り、思想を解明することは、現代音楽療法の思想形成の過程を辿る意味でも大きな意義を孕んでいるが、その歴史研究は、国内外でさかんになされてこなかった。
著者
速水 融
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.135-164, 1993-09-30

日本における第一回の国勢調査は、大正九年のことで、主要工業国のなかでは最も遅く始まった。しかし、全国的人口統計は早くから行われ、徳川時代においてさえ、幕府は、享保六年から弘化三年の間、六年に一回、国ごと、男女別の人口調査を行っている。
著者
尾本 恵市
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.14, pp.197-213, 1996-07

本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。(一)古典的人種分類への疑問、(二)日本人起源論、(三)アイヌの遺伝的起源。まず、第一章で筆者は、人種という概念を現代生物学の見地より検討し、それがもはや科学的に有効ではなく、人種分類は無意味であることを示す。第二章では、明治時代以降の様々な日本人起源論を概観し、埴原一雄の「二重構造説」が現在の出発点としてもっとも適当であることを確認する。筆者は、便宜上この仮説を次の二部分に分けて検証しようとしている。第一の部分は、後期旧石器時代および縄紋時代の集団(仮に原日本人と呼ばれる)と、弥生時代以後の渡来系の集団との二重構造が存在するという点、また、第二の部分は、原日本人が東南アジア起源であるという点についてのものである。筆者の行った分子人類学的研究の結果では、第一の仮説は支持されるが、第二の仮説は支持できない。また、アイヌと琉球人との類縁性が遺伝学的に示唆された。第三章で筆者は、混血の問題を考慮しても、アイヌと東南アジアの集団との間の類縁性が低いという事実に基づき、アイヌの起源に関する一つの作業仮説を提起している。それは、アイヌ集団が上洞人を含む東北アジアの後期旧石器時代人の集団に由来するというものである。また、分子人類学の手法は起源や系統の研究には有効であるが、個人や集団の形態や生活を復元するために、人骨資料がないときには先史考古学の資料を用いる学際的な研究が必要であると述べられている。
著者
杜 勤
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.69-80, 2000-02

日本神話は中国の経典・史書の構造的受容と同時に、思想体系の上でも中国思想の潤色を受けたと考えられる。小論ではイザナキ・イザナミ神話、アマテラス・スサノオ神話、天の石屋戸神話を取り上げて、老荘思想を中心に、「記・紀」神話における弁証法的思考の解読を試みてみたいと思う。天地の分離後、イザナキはイザナミを追って黄泉を訪問して、ヨミガヘリした。イザナキの懇願によってイザナミはいったん生の世界に帰ろうと決意した。なお最終的には、イザナキは父なる天になることによって「永遠の生」を得、一方ではイザナミは母なる大地の存在になりきれ、永遠な「死」を得たが、創成神になったことには変わりない。明らかにこの永遠の「生」・「死」両カテゴリーは是・非、善・悪という価値判断に左右されない性格を持っており、弁証法的な不可分性を語っている。スサノオは天上では悪や禍事の元凶であり、アマテラスの対立面として現れたが、地上での彼の姿はそれとは打って変わってすこぶる平和的な英雄神である。対立するものはそれぞれ正と反の間をさまよいながら、双方間の対立を繰り返していく。そして相互転化しながら、結局相補相成の関係を作っていく。天の石屋戸では宇宙の中に神と人間が共々にあるという宇宙観が語られている。それは寛容と融通性を特色とし、超越的至上神に支配され、不寛容と非妥協性を特色とする宇宙観と著しい対比を為している。彼・此、是・非の対立を超越し、それらを一体に包容しながら、それらを根源的な統合性から達観する。神話に投影されるこの弁証法的思考は日本人の思想、宗教、社会を支える重要な礎と言える。
著者
林 洋子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.13-37, 2006-03-31

両大戦間の日本とフランスの間を移動しながら活躍した画家・藤田嗣治(一八八六―一九六八)は、一九二〇年代のパリで描いた裸婦や猫をモティーフとするタブローや太平洋戦争中に描いた「戦争画」で広く知られる。しかしながら、一九二〇年代末から一九三〇年代に壁画の大作をパリと日本で複数手がけている。なかでも一九二九年にパリの日本館のために描いた《欧人日本へ到来の図》は、画家がはじめて本格的に取り組んだ壁画であり、彼にとって最大級のサイズだっただけでなく、注文画ながら異国で初めて取り組んだ「日本表象」であった。近年、この作品は日本とフランスの共同プロジェクトにより修復されたが、その前後の調査により、当時の藤田としては例外的にも作品の完成までに約二年を要しており、相当数のドローイングと複数のヴァリエーション作品が存在することが確認できた。本稿では、この対策の製作プロセスをたどることにより、一九二〇年代の静謐な裸婦表現から一九三〇年代以降の群像表現に移行していくこの画家の転換点を考える。
著者
山下 悦子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.107-124, 1990-03-10

この論文では、日本の知識人の間で大反響をもたらした、結婚制度にとらわれない男女の自由な性愛関係を理想とするコロンタイの恋愛観を基軸に、一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての知の変容(転向の問題)を探る。