著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.27, pp.215-237, 2003-03-31

『百人一首』の研究は近年盛んになりつつあるが、近代(明治時代以降)の享受の実態についてはほとんど行われていない状態である。本論稿は、近代に特徴的に見られる『百人一首』の恋歌に対する非難の実態と、そのような論調により作り変えられた恋歌を排除した『百人一首』に関するものである。加えてその原因について考察を行った結果、①百人一首歌留多の興隆と受容形態の変化、②旧派歌人を中心とした恋歌の消滅、がその背景にあることがわかった。
著者
落合 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.p89-100, 1995-06

昨年、「近代家族」に関する本が三冊、社会学者(山田昌弘氏、上野千鶴子氏及び落合)により出版されたのを受けて、本稿ではこれらの本、及び立命館大学と京都橘女子大学にて行われたシンポジウムによい近代家族論の現状をめぐって交わされた議論を振りかえる。今号の(1)では「近代家族」の定義論を扱い、次号に掲載予定の(2)では「日本の家は『近代家族』であった/ある」という仮説の当否を論じる。
著者
戸塚 隆子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.105-122, 2001-03

石川啄木の第一歌集『あこがれ』の序詩「沈める鐘」には<永遠の生命>との一体感と神の加護を得て詩人の王座を築こうとする想いが描かれている。この<永遠の生命>都は主に明治・大正期の総合雑誌「太陽」を舞台に繰り広げられた高山樗牛と姉崎嘲風のドイツ思想・文化受容と日本文明批評の論説から影響を受けた詩語と考えられる。先行研究では、啄木の評論がいかに高山・姉崎の影響を受けているか、または、『あこがれ』は高山と姉崎の論説を機に啄木が執筆・中断した評論「ワグネルの思想」の詩作品かという指摘があるが、それだけにとどまらないのではないか。詩表現に即して読んでいくと、『あこがれ』の世界と高山・姉崎の主張は想像以上に深く共鳴しあっていると考えられるのである。例えば、「われなりき」などに顕著な「今」=「瞬間」に「永遠」を感受する時間認識がある。これは姉崎嘲風の「清見潟の除夜」の時間認識と重なる。また、詩「閑古鳥」に表されたこの世の汚濁と戦う勇士の姿がある。この戦闘意識も姉崎の「戦へ、大に戦へ」に触発されたと考えられる。ここで注意しておきたいのは詩の優位性と詩人の使命の自覚が詩中に認められることであるが、芸術至上主義的な発想もすでに高山樗牛の「美的生活を論ず」や姉崎嘲風の「久遠の女性」に著されている。姉崎の「民族の運命と詩人の夢と」は国民の精神に関与しその運命を導くものとして「詩人」を捉えているが、啄木は予言者としての詩人の存在をここから学んだのではないだろうか。以上を踏まえ、再び「永遠の生命」に戻りたい。高山樗牛・姉崎嘲風の論説全体から考えると、この言葉は先行研究で理解されているように宇宙の大生命との一体化を示すスピリチュアリズムだけを意味しない。高山・姉崎は真の永世は<精神と精神の交通>であることを説いているのだ。つまり、現世と理想界、天井と地上という構図的な様相のみを指しているのではなく、精神の継承を説いている点に注意すべきである。そして、この主張は啄木詩においては「閑古鳥」「マカロフ提督追悼の詩」に顕著に体現されている。しかし、堀合節子との恋愛の成就、上京の挫折を機に啄木の「永遠の生命」との一体感は薄れていく。「二つの影」には永遠と切り離された「今」だけが描写されている。また、「白鵠」ではかつての自分を幼い夢物語と自虐的に振り返る啄木が居る。では、「永遠の生命」は完全に消失したのか。いや、そうではない。後の短歌評論「歌のいろいろ」には確かに「永遠」を拒絶する啄木が居る。だが、『一握の砂』の砂山の歌十首には「有限」を選んだ者が有限を認識するが故に「短歌」という形を選び、それは<精神の交通>を果たしつつ有限の生を永遠化すると考える啄木が読み取れる。「永遠の生命」は意味を転化させながら啄木の生涯を地下水脈の様に流れていたのではなかったか。
著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10-20

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.77-130, 2011-10-23

茶の湯の歴史について、現代の流派や家元のあり方をイメージしながら過去を論じていることはないだろうか。近世中期に生まれた家元という存在は、近代における紆余曲折をへて、現在の姿に至っているのである。
著者
廣田 浩治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.11-33, 2013-09

「政基公旅引付」は、戦国期に家領和泉国日根荘に在住した前関白九条政基の日記である。当該期の村落研究に頻繁に使用される史料であるが、ここでは公家日記としての「旅引付」の性格を考察した。「旅引付」は在荘直務時の自筆本の日記で、政基は在荘中に入手した文書(反故紙)の紙背を日記に再利用していない。政基は在荘した「旅所」を離れず、「旅引付」の記事の多くは伝聞情報であるが、政基の家僕や村の報告や情報に基づく正確な記事である。「旅引付」には「後聞」として後日知ったことを記した箇所があり、政基は「後聞」のことも含めて情報を整理して何日分かずつまとめて書いたと考えられる。政基は直務に関する事項を家僕に周知するため、「旅引付」を読み聞かせたこともある。「旅引付」は政基にとって実用的な日記で、常に引用・参照されるべき「旅所」の「引付」であった。「旅引付」には虚偽や改竄の記述があることが知られるが、これは政基が荘園経営の先例・「後例」とするにふさわしくない事柄の記述を避けたのである。しかし政基はこのような場合でも事実を記した文書を残し、「旅引付」に改竄の経緯や理由を書き残した。政基は後世に備えて作為や改竄の事実も含めて事件を克明に「旅引付」に記録した。「旅引付」には政基が手元に置いた文書が筆写され、直務支配の賦課台帳や証拠文書も引用されている。政基は日根荘の村や外部勢力(和泉守護・根来寺僧)と頻繁に文書を授受し、日根荘の脅威である守護・根来寺に対しては村を通して文書を授受した。そしてこの文書を保管するか「旅引付」に筆写した。「旅引付」は、政基の子息九条尚経の雑記集「後慈眼院殿雑筆」や九条家家僕の日記とも記事や内容が一致しており、政基は九条家を通じて京都政界の情報収集も怠らなかった。家領下向・在荘直務支配の日記であり、村落の世界を描いた「旅引付」は特異な公家日記であるが、公家の在荘が常態化した戦国期には「旅引付」のような日記は多数書かれていたと考えられる。
著者
河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-27, 1992-03-30

『風土記』には、昔話の主題となる話が多く語られている。それより時代の下る中世の説話集にも多くの昔話の主題が認められる。ところが、『風土記』には認められても中世の説話集に認められぬもの、あるいはその逆のものなどがあり、それらを比較してみると、日本人の心の在り方が時代によって変化してゆく様相の一面が把えられ、また、日本の昔話の成立過程などを考える上で興味深い。
著者
別役 恭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.8, pp.p71-99,図2p, 1993-03

浮田一蕙の「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮の徳川家茂への降嫁に対する風刺絵だとされてきた。しかし、一蕙の作品群を調べると、一蕙が信州に滞在した嘉永五年十月から翌六年二月にかけて、「狐の嫁入り」を主題とした掛幅や六曲一双の屏風を既に制作しており、「婚怪草紙絵巻」もその延長線上で描かれたと思われる。即ち、一蕙が江戸に滞在した嘉永六年三月から安政元年七月の間で、それは和宮降嫁の議が内々論議された安政五年秋から冬にかけてより、四年有余遡るのである。 江戸中、後期は擬人化の風潮が顕著に現れた時期であった。そして、妖怪奇異に対する好奇心が版本の普及とともに高揚した時期でもあった。想像力の逞しい画家や作家たちが、幻想、奇想の世界を創り出していた背景を考えると、「婚怪草紙絵巻」が生まれる土壌は、風刺を抜きにして充分整っていたのである。一蕙が古典絵巻から吸収した知識と、当時の社会に培われていた、洒落や、遊戯や、パロディーの精神が結びつき「婚怪草紙絵巻」は生まれたのである。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03-31

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
著者
成田 龍一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.15-33, 2017-05

戦後における日本文化の歴史的な研究のいくつかの局面に着目し、その推移を考察する。まずは、1980年代以降の特徴として、A「文化」に力点を置くものと、B「歴史」に比重を多く日本文化研究の二つが併存していることを入り口とする。Aは「日本文化論」、Bは「日本文化史」として提供されてきた。A(日本文化論)は、対象に着目し、叙述はしばしばテーマ別の編成となるのに対し、B(日本文化史)は通時的に論を立てることに主眼を置く。このとき、本稿で扱う1980年ごろまでは、双方ともに素朴な実在論に立つ。1980年ころまでは、AもBも、「日本」と「日本文化」の実在をもとに、それぞれ「論」と「歴史」を切り口としていった。AとBとの相違は、前者が日本、日本文化に肯定的であるのに対し、後者が批判的であるという点にとどまる。ことばを換えれば、日本、日本文化を論ずるにあたり、双方ともにアイデンティティとして、日本、日本文化をみていたということである。そのため、AとBとが近接する動向も見られる。だが、1980年代以降は、双方は文化と歴史への向きあい方が大きく異なってくる。言語論的転回が日本文化研究にも波及し、素朴な実在論が成立しなくなるなか、Aはあえて日本、日本文化を自明のものとし、それをテーマへと分節するのに対し、Bは日本、日本文化が自明とみえてしまうカラクリを問題化していくのである。そしてBは構成的な日本、日本文化の概念が、どのような画期をもち、どのようにそれぞれの時期で「日本なるもの」「日本文化なるもの」を創りあげたかに関心を寄せる。本稿は、こうして日本文化研究の推移を、文化論と文化史、実体論と構成論を軸として考察することにする。このとき、それぞれが日本文化を礼賛する見解と、「批判」的な議論と、日本文化を礼賛し「肯定」する議論として論及されることにも目を配る。
著者
厳 紹璗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.33-72, 1995-06-30

奈良時代の日本古代文学にきわめて重視すべき作品『浦島子伝』がある。その題材や文体などすべては中国唐代の「伝奇」にたいへん類似している。本稿ではこれを「漢文伝奇」と名付けた。『浦島子伝』と「浦島伝説」は二つの異なる発展段階の作品である。――「浦島伝説」は「伝奇」に先行する段階の作品であり、完全に民間のものであり、それに対して、『浦島子伝』は文人の創作の作品である。日中古代文学が神話や伝説から物語文学へと発展する過程には、「漢文伝奇」の創作を主な内容とした過渡期的段階がある。『浦島子伝』こそ「漢文伝奇」の代表的な作品である。伝播の歴史が古いので、『浦島子伝』のテキスト間には多岐にわたる意義の相違が生じた。文化史学的立場から考察を加えるとすれば、それぞれ異なったテキストの間には、事実上前後する伝承関係がある。これらが示す伝承の発展こそ、伝記文学の日本化の過程である。本稿では『浦島子伝』のテキストを四つの系統に分けた。『古事記』の「火遠理命神話」、『日本書紀』の「浦島伝説」、及び『萬葉集』にある「水江浦島子」という三つの神話と伝説が、この伝奇を構成した日本民族文化のルーツである。その中で、「水江浦島子」は日本先住民の「汎海洋崇拝」という心態を表し、「浦島伝説」は渡来人(帰化人)の「特定生物に対する崇拝」という心態を表しているのであるが、しかし、「火遠理命神話」には作品の創作に創造的な空間が加えられているのである。また、文献学的に実証的な手段を取ると、この『浦島子伝』からそこに融合された東アジア文化(主に中国文化)の要素を引き出すことができるのである。本稿ではこれらの要素を「媒体」と名付けた。この伝奇が媒体とした中国文化の要素には、主に四つの様式がある。Aは、秦漢から魏晉にかけての「神女文学チェーン」で、Bは、『遊仙窟』を始めとした唐代伝奇で、Cは、「神仙観念」と「亀崇拝」及び「情愛のリビドー」を融合した「蓬莱文化」、Dは、「丹石の煉」と「房中の術」をもって「不老不死」を目的とした道教理念である。『浦島子伝』は、一方で日本民族の神話や伝説を継承しつつ、また、一方で東アジア文化と多く関連している。この特徴は、まさに日本物語文学形成における文化の豊かさ、及びそこに内在するメカニズムの複雑さを表しているのである。
著者
近藤 好和
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.11-36, 2010-09-30

本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.41-57, 1994-09-30

明治日本の朝鮮との関係を論ずる場合、明治初年の征韓論はともかく明治九年の江華島条約を日本の朝鮮への侵略の第一歩として叙述する場合が多い。しかし、実際にその当時の新聞論調を読むと、むしろこの朝鮮との条約の締結を、ペリー来航時の状況に譬えて考えているものが多いことがわかる。
著者
魯 成煥
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.117-146, 2014-03

本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。この問題は外交問題にまで発展し、韓国政府は日本人篤志家に対し、その私有財産の返還を求めた。その結果、論介の影幀と石碑は韓国側に返され、また合同慰霊祭もしないことになった。論介は日本で夫婦円満と子孫繁昌の神になりつつあったが、これによりあっけなく途絶えてしまった。言い換えれば、韓国人の子孫らは、論介が日本の神になるのを拒んだのである。まさに宝寿院の荒廃は、こうした韓日間の葛藤を象徴している。
著者
根川 幸男
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.125-150, 2012-09

小稿は、小林美登利という一日本人キリスト者の移動・遍歴の足跡を、会津、同志社、ハワイ・米国、ブラジル渡航後、一時帰国期の五期に分けてたどり、グローバルな複数地域を横断する越境史として捉えなおす試みである。小林は、会津でキリスト教に出会い、同志社人脈を通してハワイ・米本土での伝道・留学の機会をつかみ、米国で強力な支援者を得た。またブラジルではマッケンジー大学を通して人脈を構築し、日系移民子弟教育というニーズを背景に聖州義塾という教育機関を設立した。さらに日本に一時帰国した小林は、渋沢栄一の知遇を得、渋沢の呼びかけによって、日本財界から多額の寄付金を獲得、義塾事業拡張を達成するのである。彼はこの過程で、会津という地縁、同志社などの学校縁、キリスト教会という信仰縁、在米・在伯日本人というエスニック縁の活用によって、右記四地域を横断する越境ネットワークを形成した。渋沢の支援も米国内の排日運動への対応と連動しており、小林の越境ネットワークは日本の国益を背景とする彼らのネットワークに接続することによって、広がりを見せ強化されるのであった。そこには、それぞれの〈縁〉を活用し、自前のネットワークをより大きく強固なネットワークに接続していくことによって、連鎖的にネットワークを拡大していくメカニズムが働いている。こうした〈縁〉を通じたネットワークは、ブラジルという異国で小林の事業を展開するための資源として活用され、聖州義塾は小林の「真の意味の伯化」という理念にもとづき、ブラジル日本人移民とその子弟たちの二文化化のエージェントとして排日予防啓発の役割を担うのである。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.13-72, 2010-03

本稿において、茶の湯の家元である千家の血脈をめぐる論争を材料として、家元システムの現代的展開について考察する。 千利休の直系の子孫である三家の千家は、茶の湯の家元として現在もその存在感を示している。その千家の初期の系譜のうち、千家第三代の千宗旦の出自については、千宗旦が千道安の実子であるという説と千少庵妻・千宗旦母が千利休の娘であるという説とが、昭和三十年前後に強く主張された。その対立する見解は、表千家の機関誌である『茶道雑誌』の誌上に発表されたものが多い。これは一種の論争として、四十年代、五十年代と、新たな論者が参入しながら継続した。この背景には、現在の千家が千利休の血を引いているのかどうかという教条主義的な問題があり、それが論争を大きくしたといえる。すなわち、「利休血脈論争」と呼ぶべき性格のものであった。 現在では、千少庵妻は千利休の娘「お亀」であると一般には理解されている。しかし、結論を出すには根拠が不十分という考え方も歴史学者の間では依然として根強い。そもそも、この両説は江戸時代から存在しており、千家の系譜に関する歴史資料自体がすでに意図的に潤色されている可能性がある。 ところで、筆者の関心は、江戸時代からすでに存在している説をめぐって、なぜ昭和三十年代から論争に発展しなければならなかったかにある。近世に誕生し、発展してきた家元システムは、明治維新に伴う混乱期を乗り越え、第二次世界大戦後には、伝統文化の領域における頂点に上昇することとなる。さらに、昭和三十年以降の高度経済成長により、経済力を身につけた大衆に立脚する現代の巨大家元システムへと飛躍することに成功する。その過程において、千利休の血脈を継承していることが、家元の正統性の根拠としてあらためて主張される必要があったものと考える。
著者
ガデレワ エミリア
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.11-33,iii, 2001

『古事記』と『日本書紀』にみえるスサノヲの描き方に矛盾がある。一方、彼は高天の原で天つ罪を犯し、姉アマテラスを困らせるが、他方出雲国でヤマタノオロチを退治し、イナダヒメを助ける。それに対して『風土記』では、スサノヲの性格に悪い面が一つも見えない。この神の解釈が多くあるが、ここでは上述の三書や他古代史料の総合的なアプローチによる、私の仮定を述べてみた。スサノヲの矛盾的な役のもとには、政治的な意図があったことをいうだけでは、説明できない。この神の性格には、本来から善悪両面があったと思われる。彼は、豊饒に必要な雨水をもたらし、課題を果たしたことにより性格が良いか悪いかということが決められた。また、彼が崇拝された神社では、神々の食料と考えられたクマという聖なるお米や水がささげられたと考えられる。さらに、スサノヲとアマテラスとの関係についていえば、日の神―水の神のペア崇拝をもとにして、柳田国男がいうヒコ―ヒメ関係がその描き方を決定されたのではなかろうかと思われる。
著者
Herrigel Eugen 秋沢 美枝子 山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.285-315, 2006-03

ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。「国家社会主義と哲学」は、ヒトラーの第三帝国下で、哲学がいかなる任務を担いうるかを論じた講演録である。ヘリゲルは、精神生活の前提条件に「血統」と「人種」を置き、新しい反実証主義の哲学者としてニーチェ(一八四四~一九〇〇)を称揚した。ニーチェの著作には「主人の精神と奴隷の精神」があるといい、その支配―被支配の関係をドイツ人とユダヤ人に移し、差別を正当化しようとした。「サムライのエトス」は、ドイツの敗色が濃くなった戦況のなかで、日本のサムライ精神を讃えた講演録である。同盟国・日本の特攻精神の背後にある武道や武士道を、知日派学者として語ったものと思われる。ここでヘリゲルが一貫して語っているのは玉砕の美学であり、『弓と禅』で彼が論じた高尚な日本文化論とは、あざやかな対照をなしている。これらの講演録の存在は、ドイツ国内でも忘れられていた。無論、これらははじめての邦訳であり、戦時下ドイツにおける日本学の研究にとって貴重な資料となるだろう。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.13, pp.11-33, 1996-03
被引用文献数
1

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。筆者は鈴木尚氏の頭骨計測データを借用して新たに種々の統計学的検討を行い、また中尊寺の好意により短時間ながら遺体を直接観察する機会を得たので、その結果を報告して先人の研究の補遺としたい。この論文では次の点に触れる。一、 遺体の固定―基衡と秀衡の遺体がいつの時代かに入れ替わったという疑問について、少なくとも生物学的観点から結論を出すことは困難である。また一部の特徴には寺伝どおりでよいのではないかと思える点もあるので、この問題は今のところ保留としておいた方がよさそうに思える。二、 遺体のミイラ化の問題―遺体は自然にミイラ化したものと考えられるが、ごく簡単な吸湿処置がとられたという可能性が高い。三、 奥州藤原家の出自―藤原家はもともと京都方面の出身という可能性が高い。四、 エミシの人種的系統―古代・中世に奥州に住んでいたエミシは、現代的な意味でのアイヌでもなく和人でもなく、東北地方に残存していた縄文系集団が徐々に"和人化"しつつあった移行段階の集団であったと思われる。藤原家四代に見られる"貴族化"現象―特に鼻部の繊細化(貴族化)が著しいが、顔の輪郭や下顎骨の形態は日本人の一般集団に近いので、近世の徳川将軍や一部の大名に比較すれば貴族化の程度は弱かったと思われる。