著者
井上 章一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.49-57, 1997-09-30

日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
著者
山梨 淳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.179-217, 2010-03-31

本論は、一九三一年に公開された無声映画『殉教血史 日本二十六聖人』(日活太秦撮影所、池田富安監督)を取り上げ、一九三〇年代前半期日本カトリック教会の一動向を明らかにすることを目的としている。この映画作品は、十六世紀末、豊臣秀吉の命で、長崎で処刑された外国人神父や日本人信者ら二十六人の殉教者をめぐるものである。長崎出身のカトリック信者で、朝鮮在住の資産家であった平山政十が、この映画の製作を企画し、彼の資金出資のもとに制作された。作品は日本で一般公開されたのち、平山個人によって北米と西欧諸国に、海外興行が試みられている。
著者
梁 青
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.167-178, 2013-09

『新撰万葉集』(八九三年)はそれぞれの和歌に一首の七言四句の漢詩が配された詩歌集である。本論文では、『新撰万葉集』上巻恋歌に付された漢詩を取り上げ、そこに見られる日本的要素を探り、先行した恋歌との関連を考察することによって、それと中国および勅撰三集の閨怨詩との相違を明らかにし、『古今集』成立前夜における王朝漢詩の展開の一端を浮き彫りにしてみたい。 まず、勅撰三集所収の閨怨詩はほぼ中国詩をまねたもので、その表現には作者の個性をほとんど見出せないことを解明した。そして、『新撰万葉集』の漢詩における「蕩子」「怨言」の使い方について検討した。それにより『新撰万葉集』の漢詩に多く描かれたのは、見たこともない長安の美女の閨怨ではなく、平安朝を舞台にした男女の恋であることが明らかになった。さらに、『新撰万葉集』の恋部の漢詩は恋歌をもとにして作られたので、和歌の内容と深く関わっている。心の中で恋焦がれても人に知られないように恋心を抑えたり、相手を忘れようとしてもかえって恋しさを募らせたりするという緻密な心情描写は、唐代までの中国詩や前代の日本閨怨詩にはほとんど見られず、恋歌の世界を強く志向しようとした結果だと考える。 以上から、『新撰万葉集』の漢詩は単なる中国詩の模倣にとどまらず、日本の文化や風土に合わせて独自の展開を遂げたことがわかる。これは王朝漢詩の成熟を物語り、国風文化成立の前兆と見ることができる。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.43-84, 2009-11

江戸時代といえば、固定化された身分制社会としてのイメージが強い。しかし、身分移動の可能性が完全に閉ざされているわけではなかった。武士身分の売買が行われていたことから、個人レベルの身分上昇や身分移動は事実として存在した。 本稿の目的は、江戸時代前中期を中心に、旗本を対象とした持参金に基づく養子縁組、いわゆる「持参金養子」の処罰事例を分析することである。また、養子制と身分移動の関係性についても検討する。 近世武家の養子制は、血縁関係に拘束されることなく幅広い範囲での養子選定を認めていた。婿養子から全く血縁のつながりのない他人まで、養子として出願することが可能であった。この特質は身分移動の手段として利用された。いわゆる持参金養子である。 持参金養子の背後には、身分を正当化するための様々な偽籍工作があった。養子を実子、実弟、実従弟などと偽る、いわゆる「入子」がしばしば用いられた。「入子」になった者の中で、元の身分から幕臣の親類へと身分の転換を果たし、そのうえで別の幕臣の家と正式に養子縁組を行う者も多かった。 幕府の養子規定にある身分相応の原則に反する養子縁組は江戸時代前中期にすでに存在しており、旗本身分についても、御家人同様に、金銭に基づく不正な養子縁組である持参金養子が行われていたことが明らかになった。
著者
AhamedMohamedFathyMostafa
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.105-121, 1999-06

「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では『愛玩』(一九五二年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品をもってシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。そこで先ず、安岡章太郎の心の中に「戦争」のイメージを作り上げただろうと思われる幾つかの要素が取り上げられる。1、 少年時代から、軍人だった父親の仕事の都合のせいで転校生の生活を数回も強いられ、結果的に学校嫌い・勉強嫌いになり自分の世界に閉じこもってしまうわけだ。これで彼は軍および戦争に対して自分なりのイメージができてしまったのではないか。2、 太平洋戦争の終わりころに入隊をしたときの嫌な思い出。3、 敗戦の時期を伴った安岡章太郎の発病(脊椎カリエス)およびその長い闘病生活。4、 敗戦後の安岡章太郎家族三人による生活無能力の情けなさ。5、 両親の夫婦関係悪化。6、 戦場からの父親の不名誉な帰還。7、 母親の発狂。以上の七点の中から、この論文では、特に三点目から七点目まで取り上げてみた。これは『愛玩』からいくつかの引用と照らし合わせながら考えてみた。また、以上の七つの要素をもとに、安岡章太郎の胸の中にある種の「敗戦の後遺症」と呼び得るものができたのではないかと考えた。結論とするところは、愛玩つまりウサギは日本国民の「精神」がシンボリックに描かれていて、安岡章太郎一家三人、つまり日本国民に敗戦の後遺症の早期回復の希望を促すものではないかというのが一つの点である。もう一つの点は、いわばこの作品ではもしウサギが日本精神を表すものなら、これはまた「日の丸」のシンボルではないだろうかという点である。ウサギの白い毛や赤い眼が大事なキーワードではないかと思われる。
著者
柴田 依子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.巻末5-7, 2004-12

一九世紀後半に日本の美術・工芸品が輸出されてジャポニスムの流行をもたらし、フランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その流行が終わる頃の二〇世紀の初頭に、俳句(俳諧)はヨーロッパに紹介された。 その先駆者の一人であるポール=ルイ・クーシュー(①879-1959哲学者、精神科医)が、青年期に「世界周遊」の給費生として来日(一九〇三―一九〇四)し、俳句をフランスへ移入してから、本年二〇〇四年は一〇〇年を迎える。帰国後、クーシューは最初のフランス・ハイカイ創作の小冊子(一九〇六)を友人とともに出版した。翌年には俳句仏訳論文「ハイカイ」(日本の詩的エピグラム)をフランス文芸誌に連載した。そこに俳句の特質として「大胆なほどの単純化」「日本風の素描」などを挙げ、一五八の俳句を仏訳・解説している。一九一六年には、同論文「ハイカイ」を「日本の叙情的エピグラム」として再録した著書『アジアの賢人と詩人』がパリで刊行された。同書には、俳句を、浮世絵と対比し、日本の芸術として、しかも普遍的なポエムとして紹介している。第一次大戦中に刊行されたクーシューの書は彼の俳句活動とともに、フランスの文人たちにハイカイ創作への啓示を与えた。 一九二〇年九月には、二〇世紀フランス文学を担った『N・R・F』誌の巻頭に「ハイカイ」アンソロジーが花開いたのである。ダダの芸術革新運動がパリで推し進められていた時期に、同誌には、詩人や作家――ジャン・ポーラン、ポール・エリュアール、ジュリアン・ヴォカンス、ジャン=リシャール・ブロックなど一二人によるフランス・ハイカイ八二編がクーシューを筆頭に発表された。これはフランスにおける詩歌のジャポニスムの開花とも呼ぶべき、画期的な出来事であったと考えられる。同誌の刊行された一九二〇年を、フランスの文芸評論家は「ハイカイの年」と呼んでいた。この「ハイカイ」掲載が導火線となって、フランスでは一九二〇年代に、「詩法」などの優れたハイカイ集や二八三編のハイカイ選集などが次々と発表され、さらに俳句の受容はリルケなどヨーロッパの芸術家たちにも及び、文学の領域を越えて音楽の分野にも波及していった。 本稿では、『N・R・F』誌に「ハイカイ」の掲載が実現するまでの過程について、クーシューの俳句紹介の活動、特に著書『アジアの賢人と詩人』刊行以後を軸に、関係一次資料をたどりながら、考察する。主な資料は、ベルナール・バイヨーによって近年発表されたクーシューやポーランの書簡及び筆者が収集したクーシューの未発表書簡他である。 以上、資料を検討することによって、次のことが浮き彫りにされた。(1) クーシューの書はフランスの詩人や作家たちに新しい詩のヴィジョンを啓示し、ハイカイの創作活動を触発した。同書を読んだポーランは、論文「日本のハイカイ」(一九一七)を発表し、俳句に「純粋な感覚にきりつめられた詩」として共感し、「日欧の人々が共有する感動の言語を創造すること」という普遍的なポエムを感得した。彼は、友人のダダの詩人エリュアールに、注目すべき同書のことを一九一九年三月に書簡で知らせており、その書に関心を抱いていたエリュアールは同書を読んだらしく、同年五月に自作のハイカイ作品を手書きで記し、ポーランに送っている。また作家ブロックも一九二〇年一月にクーシューの書を読み、啓発されて多くの作品を創作していた。(2) クーシューの俳句活動の全容、俳句の紹介と創作の他に、ハイジンの会合をも主宰していた事情が明らかになった。クーシューは大戦中、軍医の任にありながら、ハイジンの会合の開催にも心を傾け、大戦後一九一九年五月一一日に自宅にハイジンたちを食事に招き、初会合を催した。その招待状をポーランとヴォカンスに送っているが、エリュアールらを含めて六人を招いている。クーシューはフランス・ハイカイの「座」の結成ともいえる活動も行っていたのである。(3) 興味深いことには、エリュアールが自作のハイカイ作品をポーランに送っている時期は、この会合の後、五月末のことであり、ポーランもその返事に自作の作品を添えている。翌一九二〇年初めには、エリュアールの誘いを通じて、クーシューとヴォカンスの二人が、ポーランばかりではなく、ダダの集会に出席している。ハイジンの集いが契機となって、ハイカイの創作意欲やハイジンたちの文学交流も次第に深まっていったことがうかがえる。(4) 『N・R・F』誌「ハイカイ」掲載の経緯についてであるが、その口火を切ったのは、ブロックである。彼は同誌編集長ジャック・リヴィエールに、一九二〇年三月、自作のハイカイを送っていた。同年五月、これを「ハイカイ」アンソロジーの企画へと発展させたのは、秘書のポーランであった。彼はリヴィエールやヴォカンスの支持や協力を得て、その編集を同年九月の発刊までひたむきに手がけたのである。このアンソロジーの発案とその編集の大きな契機となったのは、彼が参加したハイジンの会合やクーシューの活動であることがうかがえる。このアンソロジーには、ハイジンの会合の招待者六人全員の作品がクーシューを筆頭に掲載され、その前書きに「クーシューのもとに、ハイカイの作り手一〇人が初めてここに集い」と記されている。また、将来ハイカイがソネットのような新しい詩の領域を開くことへの冒険と期待も表明されている。同アンソロジーの発刊の背景にはクーシューの書や会合に啓発されたポーランのハイカイという新しい詩へのヴィジョンが、また俳人たちの新文芸への情熱が反映していることが考えられる。 ポーランは、フランス・ハイカイが、浮世絵がフランス絵画に革命を促したように、将来、詩の分野に革新をもたらす可能性を予見して、クーシューを始めとするハイジンの活動成果を文壇にいち早く提示したかったのではないだろうか。
著者
保立 道久
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.35-62, 2017-05

日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。 本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において8世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。それは論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にある。それはまた、鈴木は無前提に禅と真宗を日本仏教の中心に捉えているという、梅原の批判にも通ずるものである。 残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しのなかで検討することの必要性を示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。
著者
辛島 理人
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.155-183, 2012-03

本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p125-137, 1990-03

人間の知的な営みの本質には、ここではない「もうひとつの世界」、この私ではない「もうひとりの私」を空想し、反芻する性向がある。スタニスワフ・レムとタルコフスキーの『ソラリス』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作品世界は、この「もうひとつの世界・もうひとりの私」へと向かう想像力によって、形成されている。そして、その想像力の根底にあるものは、「死」へのまなざしであり、「救済」の希求である。人が「もうひとつの」なにかへと超越しようとするのは、そこに死と救済がたちあらわれてくるからなのだ。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.237-260, 2011-03

本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.187-214, 2010-09

日本の一九二〇年代、三〇年代における(狭義の)モダニズム文藝のヴィジュアリティー(視覚性)は、絵画、写真、また演劇等の映像だけではなく、映画の動く映像技法と密接に関係する。江戸川乱歩の探偵小説は、視覚像の喚起力に富むこと、また視覚像のトリックを意識的に用いるなど視覚とのかかわりが強いことでも知られる。それゆえ、ここでは、江戸川乱歩の小説作品群のヴィジュアリティー、特に映画の表現技法との関係を考察するが、乱歩が探偵小説を書きはじめる時期に強く影響をうけた谷崎潤一郎の小説群には、映画的表現技法の導入が明確であり、それと比較することで、江戸川乱歩におけるヴィジュアリティーの特質を明らかにしたい。それによって、日本の文藝における「モダニズム」概念と「ヴィジュアリティー」概念、そして、その関係の再検討を試みたい。
著者
青山 玄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p69-78, 1990-03

諸国遍歴の修験者円空(一六三二―九五)は、日本古来の修験道や密教的仏教の伝統の上に立って大量の作品を残しており、そのうち「円空仏」四、三二〇体、和歌一、六〇〇余首、他に絵一八四枚が現存しているが、円空の出自に不明な点が多いことから、一九七三年以来、円空を十分の根拠なしに私生児と考え、洪水で非業の死を遂げた母の鎮魂供養のために仏像を彫り、諸国勧進に努めたかのように説く谷口順三氏の説が広まった。この説に基づいて、一九七四年にはラジオ・ドラマ「木っ端聖・円空」が放送され、一九八八年にはテレビ・ドラマ「円空」が放映された。――筆者は、谷口氏のこのような円空観がいかに根拠薄弱であるかを明らかにすると共に、同氏が軽視した『浄海雑記』『近世畸人伝』に読まれる円空略伝やその他の断片的史料、ならびに円空の和歌などから、彼が単に天才的芸術家であっただけではなく、かなりの教養の持ち主で、その家柄も悪くなかったと思われることを明示した。そして彼が生まれた頃や少年だった頃に、その故郷の村々では無数のキリシタンが処刑されたこと、また彼が仏像を作り始めた一六六三年は、その二年前から木曽川を挟んだ対岸の尾張国中島郡やその隣の扶桑群の数十ヶ村で、無数の農民がキリシタンとして検挙されていた時であったこと、ならびに彼が造仏に精を出していた頃の美濃尾張の農民が処刑されたキリシタンの鎮魂を一大関心事にしていたこと、その他から、円空造仏の一つの動機が、信仰のために殺された無数のキリシタンたちの鎮魂供養にあることを立証した。
著者
本庄 総子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.7-20, 2015-03

税帳制度の始まりについては諸説あるが、大宝2年の大租数文作成命令は、従来考えられているような未熟な段階のものではなく、税帳制度の開始として積極的に評価されるべきものである。また、税帳の進上文言の分析を通してみれば、最初期の税帳には雑用記載の機能が備わっていなかったか、少なくとも主要な機能とはされていなかったことが確認できる。ただしそれは貯積を基本的属性とする正税の帳簿であるためであり、制度的な未熟と評価されるべきものではない。 天平6年の官稲混合は、大宝2年に成立した税帳に大きな変化をもたらした。税帳使の身分は国史生から国司四等官へと変化し、使者の責任が増大したことが窺える。また、税帳の名称も従来の収納帳から目録帳へと変化しており、公文としての重要度も増したものと考えられる。書式にも変化が見られる国があり、従来の倉札的な時系列書式から、雑用を別立てで記載する書式へと変化した。 官稲混合は地方財政、具体的には税帳雑用記載への監督強化と評価すべき面が強い。官稲混合の結果として、雑用記載には厳密なチェックが行われるようになり、見込みではなく実績での報告が求められるようになった。その結果、税帳の進上期限も翌年2月末に固定されていったものと考えられる。
著者
稲賀 繁美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.105-128, 2017-01

学術としての「美術史学」は全球化(globalize)できるか。この話題に関して、2005年にアイルランドのコークで国際会議が開かれ、報告書が2007年に刊行された。筆者は日本から唯一この企画への参加を求められ、コメントを提出した。本稿はこれを日本語に翻訳し、必要な増補を加えたものである。すでに原典刊行から8年を経過し、「全球化」は日本にも浸透をみせている話題である。だがなぜか日本での議論は希薄であり、また従来と同じく、一時の流行として処理され、日本美術史などの専門領域からは、問題意識が共有されるには至っていない。そうした状況に鑑み、本稿を研究ノートとして日本語でも読めるかたちで提供する。 本稿は、全球化について、①アカデミックな学問分野としての制度上の問題、②日本美術史、あるいは東洋美術史という対象の枠組の問題、③学術上の手続きの問題、④基本的な鍵術語(key term)の概念規定と、その翻訳可能性、という4点に重点を絞り、日本や東洋の学術に必ずしも通じていない西洋の美術史研究者を対象として、基本的な情報提供をおこなう。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
李 応寿
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.49-67,v, 2001

川上音二郎(一八六四~一九一一)の新派の活動については、四回にわたる洋行と、それに伴う西洋の新技法の取り入れが、広く知られている。しかし、実のところ、川上音二郎は、西洋にばかり交流を求めていたのではない。日清戦争の最中の一八九四年の一〇月、彼は玄界灘を渡り、戦場の韓半島(朝鮮半島)で取材をし、添えを自分の演劇に反映している。 『壮絶快絶日清戦争』に続く『川上音二郎戦地見聞日記』がそれで、彼は、韓半島で蒐集した資料をもとに、写実的な演技を披露し、爆発的な人気を集めた。そしてその裏には、韓国人俳優丁無南の役割も大きかった。新聞に、彼の演技を眼目にして客を呼んだと報道されたほどである。 なお、川上の韓国観は、一九一〇年の一〇月、大阪の帝国座で上演された『新国王』からうかがい知ることができる。検閲を受ける前の題目が『朝鮮王』であったこの戯曲は、マイアー・フェルスター(Wilhelm Meyer Förster)の『アルト・ハイデルベルク(Alt Heidelberg)』を翻案したもので、書き手は巌谷小波(一八七〇~一九三三)、舞台の背景は朝鮮王宮と京都、内容は、日本に留学した朝鮮の王子と日本の料理屋の下女との悲恋の恋物語である。 しかし、原作に比べ、この作品には、王子の留学目的が意図的に強調されていた。それはおそらく、時のイベントであった英親王李垠(一八九七~一九七〇)の日本留学をそのまま反映したためであり、ひいては、日頃の川上の支援者であった亡き伊藤博文に対する鎮魂の意味を持たせていたためでもあったように思われる。
著者
下野 敏見
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.p101-119, 1995-06

トカラ列島から奄美・沖縄の琉球文化圏の墓制は、亀の甲墓や破風墓、積石墓、崖下葬、その他、いろんなタイプがある。墓制によって、また地域によって先祖祭りの仕方もちがってくる。 これらの地域の広い意味の祖霊祭はいったいどのような経過をへて現在に至っているのだろうか。 琉球における墓制の基本的な流れは遺棄的風葬墓と洗骨改葬墓の二つがある。この二つに伴う祖霊祭は当然異なる。前者は葬ったきり墓地へは二度と行かぬのだが、その代り年に一度、家でありったけのごちそうをして、歓待する。しかし、トカラ列島では家の外に近い縁側の隅でこれを行う。このことは神窓の外の庭で行うアイヌの先祖祭りのシヌラッパとよく似ている。 祖霊には、浮遊霊と遠祖(高祖)霊、近祖霊があるが、正月や盆の正祖霊は近祖霊が主対象であり、高祖霊は、正月や節替りの来訪神として現れる。浮遊霊は邪霊であり、病災をもたらしたりするので、正月や盆には門松や水棚でちょっとごちそうして退散してもらう。種子島やトカラ列島の門松での祭りがそれを証している。 琉球の夏正月とヤマト文化圏の冬正月に伴う祖霊祭の比較や夏正月の一日目から七日目までの第一週目の正月と、ヤマトの第一週目とそれに続いての十五日までの第二週目が加わった正月との比較も重要であるようだ。
著者
吉本 弥生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.331-371, 2010-03

絵画の約束論争(一九一一~一九一二年)は、木下杢太郎・山脇信徳・武者小路実篤によって交わされた、当時の絵画の評価基準に関する論争である。三人の議論が起こった最初のきっかけは、木下杢太郎が、山脇信徳の絵画についておこなった批評にある。本稿は、論争の中心人物となった三人の言説を明確化し、従来、指摘されてきた「主観」と「客観」の二項対立からではなく、「主客合一」の視点で論争をとらえ直した上で、同時代の芸術傾向と、批評を合わせて考察した結果、三人の芸術観には、共通して「印象」ではなく、「象徴」がベースにあることが分かった。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。