著者
安井 眞奈美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.259-273, 2014-09

本稿は、筆者が二〇一三年九月に、山口県大島郡周防大島町沖家室島にて譲り受けた一九三〇年代の三枚の古写真を、ハワイ移民関連資料として紹介し、その歴史的な位置付けを行うことを目的としている。 沖家室島からは、近代に数多くの人々が、朝鮮半島や台湾、ハワイへ出稼ぎに向った。特にハワイへの移民の中には、漁業関係の仕事で成功し、財を成したものも少なくはない。彼ら沖家室島出身者たちは、オアフ島ホノルル、ハワイ島ヒロにて、ハワイ沖家室会という同郷会を結成し、協力し合って生活をしていた。また沖家室島では、沖家室惺々会が機関誌『かむろ』を一九一四年に刊行し、一九四〇年までの二十七年間、沖家室島の情報や沖家室島出身の海外在住者の近況を取り上げ、情報を発信し続けた。 本稿で紹介する古写真三枚のうち、一九三〇年に撮影された写真1は、沖家室島出身のハワイ在住者たちが、ワイキキでピクニックをした際の記念写真である。なお本稿の分析により、一九二八年に撮影された同類の写真は、昭和天皇即位大礼記念の記念品としてハワイから沖家室島へ送られたことも明らかとなった。次に写真2は、「ホノルル日本人料理人組合員 大谷松次郎氏 厄払祝宴」と題された料理人たちの写真である。写真3は説明書きはないものの、写真2と同日に撮影されたと考えられることから、ハワイで漁業関連の仕事により大成功を収めた沖家室島出身の大谷松治郎が、一九三一年、四十二歳の厄年に際して、千人以上もの客を招待して盛大に行った祝宴の記念写真と推定できる。 これらの古写真は、近代におけるハワイ移民の生活、同郷者との協力と親睦、故郷とのつながりを具体的に示す貴重な写真である。また本稿の分析により、故郷・沖家室島へのハワイでの記念写真の寄贈が明らかとなったことから、これらの写真はハワイ在住者の故郷観を示す資料としても位置付けられるだろう。 最後に本稿では、貴重な歴史遺産である古写真を、地域で保存活用する方法についても検討した。今後も引き続き沖家室の人々と連携しながら、地域の歴史遺産の展示と活用について具体的な方法を模索していきたい。
著者
安田 喜憲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.491-525, 2007-05
被引用文献数
1

食物の獲得は気候に左右される。ある人々の集団が何を食物とするかは、その人々が居住する土地の気候により決まる。例えば、アジアのモンスーン地域では、年間平均二〇〇〇ミリを超える降雨量は夏季に集中する。このような気候に適する穀物は米である。また豊かな水量は、河川での漁業を盛んにし、流域の人々にタンパク源を供給することを意味する。こうしてアジア・モンスーン地域の稲作漁撈民は、米と魚を食料とする生活様式を確立してきたのである。しかしこうした生活様式は、年間平均雨量が少なく、主に冬季に降雨が集中する西アジアの住民には受け入れられない。この型の気候では、小麦が主たる穀物となるのである。しかも河川での漁獲量は少なく、人々は羊、ヤギを飼育して、その肉をもってタンパク源とする畑作牧畜民のライフスタイルをとらざるをえない。この美しい地球上で、人類は気候に適した穀物の収穫を増大させることにより、豊かな生活が送れるように努力を重ねてきた。しかしこうした努力は、異なる文明間で、明らかに対照的な結果を生み出してしまったのだ。ある文明は、森林に対して回復し難い破壊をもたらした一方、またある文明は、森林や水循環系を持続可能の状態に維持することに成功している。イスラエルからメソポタミアにかけてのベルト地帯は、文明発祥の地とされている。その文明は、小麦の栽培と牧畜により維持された畑作牧畜民の文明であった。この地帯は、今から一万年前ごろまでは深い森林に覆われていたが、間断なく、広範囲にわたる破壊を受けて、今から五〇〇〇年前までに、ほとんどが消滅した。主に家畜たちが森林を食い尽してしまった。ギリシア文明最盛期の頃、ギリシアも深い森林に覆われていた。有名なデルフォイの神殿は建設当時森の中にあったのだ。しかし森林環境の破壊は、河川から海に流入する栄養素の枯渇の原因となり、プランクトンの減少により魚は餌を奪われ、地中海は"死の海"と化したのである。一二世紀以後、文明の中心はヨーロッパに移動し、中世の大規模な土地開墾が始まって、多くの森林は急速に耕地化されてしまった。一七世紀までに、イングランド、ドイツ、そしてスイスにおける森林の破壊は七〇%以上に達した。今日、ヨーロッパに見られる森林のほとんどは、一八世紀以後の植林事業の所産である。この森林破壊に加えて、一七世紀に生じた小氷河期の寒冷気候とともにペストが大流行し、ヨーロッパは食糧危機に陥った。人々はアメリカへの移住を余儀なくされ、続く三〇年の間に、アメリカの森林の八〇%が失われた。一八四〇年代、ヨーロッパ人はニュージーランドに達し、ここでも森林は急速に姿を消した。一八八〇年から一九〇〇年のわずか二〇年の短期間にニュージーランドの森林の四〇%が破壊されたのである。同じような状況は、畑作牧畜民が居住する中国北東部(満州平野)でも見られる。明朝の時代(一三六八~一六四四年)、満州平野は森林に覆われていたが、清朝(一六四四~一九一二年)発足後、北東中国平原の急激な開発とともに森林は全く姿を消してしまった。これに対し稲作漁撈民は、これまで常に慈悲の心をもって永きにわたり、生きとし生ける物すべてに思いやりの心、善隣の気持ちを示してきたのである。私はこの稲作漁撈文明のエートスでる慈悲の精神こそが、将来にわたってこの地球を救うことになると本稿で指摘する。
著者
Mostafa Ahamed Mohamed Fathy
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.339-357, 2000-02

『ハウス・ガード』における「ハウス」というキーワードと『ガラスの靴』における「接収家屋」というキーワードはとても重要なものと思われる。おそらく「ハウス」にしても「接収家屋」にしても、これは戦勝国のアメリカやロシアにおさえられた、そもそも主人公の「僕」と両作品に登場する大和撫子のイメージを仄めかす「メード」の「家」であって、言い換えればその「ハウス」こそが占領下の日本のことであろうし、そしてこれこそが作者安岡章太郎の「被占領者」の意識を、両小説を通して表す一つの重要なキーワードになろう。 「僕」は、その「ハウス」つまり「日本」では、自由に大和撫子たる「チャコちゃん」もしくは「悦子」とも、まともな恋愛関係ができないという皮肉に「屈辱」を覚えてしまうのである。 「僕」はGHQの接収家屋のインスペクターを恐れて、いつも門前にジープの音が聞えると気になってカーテンの陰から覗いてみる習慣が身についた。しかし、「US」ではなく「USSR」というジープに書かれた文字が「僕」の眼につくと、「僕」は安心した。これは、「僕」がある程度ロシア人に対して好意をもっていて時々自分が苦手なアメリカ人やヨーロッパ人と比べたりしたからである。しかし、「僕」がロシア人のモスカリオフに襟元をおさえられて咽をしめあげられてから、「US」も「USSR」も、インスペクターもモスカリオフも、文字や国籍が違っても両方ともに、「占領者」であることに、もはや違いはなくなっていたのである。 『ハウス・ガード』と『ガラスの靴』の二つの作品に認められる「屈辱感」は、安岡章太郎の初期文学活動、特に一九五一年(『ガラスの靴』)から一九六二年(『家族団欒図』)までの一連の作品にみられる同作家のいわゆる「敗戦の後遺症」の一要素として考えられよう。そしてこの要素を含んだ『ハウス・ガード』及び『ガラスの靴』という二作品は、安岡章太郎を戦後派作家として位置づけるのに重要な手掛かりになるのではないかと思われる。
著者
武藤 秀太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.241-262, 2002-04

本稿は、戦後日本のマルクス主義経済学の第一人者であった宇野弘蔵(一八九七―一九七七)の東アジア認識を、主に戦時中に彼が執筆した二つの広域経済論を手掛かりに検討する。「大東亜共栄圏」は、「広域経済を具体的に実現すべき任務を有するものと考えることが出来る」。――このように結論づけられた宇野の広域経済論に関しては、これまでいくつかの解釈が試みられてきた。だが、先行研究では、宇野が転向したか否か、あるいは、かかる発言をした社会的責任はあるかどうか、といった点に議論がいささか限定されているきらいがあり、戦後の宇野の発言等を含めた総合的な分析はなされていない。私見では、宇野の広域経済論は、戦前戦後を通じて一貫した経済学方法論に基づいて展開されており、彼の東アジア認識を問う上で非常に貴重な資料である。大東亜共栄圏樹立を目指す日本は、東アジア諸国と「密接不可分の共同関係」を築いていかねばならないという、広域経済論で打ち出されたヴィジョンは戦後も基本的に継承されている。このことを明らかにするために、広域経済論を戦後初期に宇野が発表している日本経済論との対比から考察する。
著者
沈 煕燦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.63-84, 2016-06

日本の「失われた二十年」は日本経済の抱える問題の象徴であり、経済の停滞と崩壊の時代である。そして、その背景には、さしあたり、冷戦後の日本を支えてきた思想の崩壊があった。なかでも重要なのはデモクラシーの問題だ。本稿は、日本の「失われた二十年」と1967年の韓国小説、宝榮雄の『糞礼記』を比べて、デモクラシーの出現について考える。 本稿ではまずポピュリズムに関する最新の言説を紹介し、次いで冷戦体制が確立されようとしていた時代の韓国に目を向け、1960年の四月革命のとき芽生えたデモクラシーの可能性を探る。これは今日の韓国のデモクラシーとは似て非なるものではあろうが、『糞礼記』の登場人物たちの革命的性格に注目することによって、この時代が投げかけた問題を論じていきたい。彼らはならず者にされた人々、いわゆるルンペン・プロレタリアート、つまりデモクラシーが内包する排他性によって排斥され無視された人々である。本稿は、こうした人びとを政治的舞台に復権させることを目指すものである。
著者
浅岡 邦雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-214, 2003-03

本稿の目的は、鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』に掲載の論文、原秀成「近代の法とメディア―博文館が手本とした一九世紀の欧米」を批判的に検証することにある。 原論文における中心的論点は以下の通りである。出版社博文館が発行した雑誌『日本大家論集』は、米国で刊行された『ハーパー新月報』を手本にしたものである。その根拠は、『日本大家論集』創刊から七年半後、雑誌『太陽』創刊の広告に記載された九誌の欧米雑誌のなかで、米国の『ハーパー新月報』が『日本大家論集』と同様の無断転載雑誌であったからだという。また、『ハーパー新月報』が他誌から無断転載が可能であった要因として、米国はベルヌ著作権条約に加盟していなかったこと、さらにベルヌ著作権条約自体が必ずしも雑誌記事の無断転載を禁じていなかったことをあげ、博文館は『ハーパー新月報』と同じやり方で『日本大家論集』を出版し、複製の仕方が、欧米から複製されたのだと述べる。 しかしながら、前述の中心的論点は、次の理由で根本的に成立しないということができる。(1) 広告に記載された欧米の九雑誌は、雑誌『太陽』の創刊に参照された雑誌であり、『日本大家論集』はその七年半前に創刊されたのであるから、欧米の九雑誌とは何ら関係がないこと。(2) 原論文自身そのことを明らかにしているように、『ハーパー新月報』は一八五〇年代末には無断転載雑誌ではなくなっているのであるから、一八八七年創刊の『日本大家論集』が参考にできるはずがないこと。 この問題についての筆者の見解を述べれば次の通りである。 『日本大家論集』の構想は、長岡で書店を経営していた大橋新太郎によって着想されたものである。その書店で、学術雑誌などの販売の経験を通じて、彼は新しい雑誌出版の発想を得たものと考えられる。彼が扱った雑誌の中には、『日本大家論集』のモデルともいえる他雑誌から無断で記事を転載する雑誌もあった。以上のことから、『日本大家論集』の出版の発想は、新太郎の雑誌販売の経験から着想されたことは間違いない。 このように原論文には、論証作業の不備、その時代の特性に対する感受性の欠如、さらには資料を正確に読み取れていないこと、などの欠点があると指摘できよう。本稿ではこのほかにも、歴史的研究論考としていかに多くの欠陥と問題点があるかを具体的に論証した。
著者
光平 有希
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.33-59, 2016-03

人間が治療や健康促進・維持の手段として音楽を用いてきたことの歴史は古く、東西で古代まで遡ることができる。各時代を経て発展してきたそれらの歴史を辿り、思想を解明することは、現代音楽療法の思想形成の過程を辿る意味でも大きな意義を孕んでいるが、その歴史研究は、国内外でさかんになされてこなかった。 この音楽と治療や健康促進・維持との関係については、日本においても伝統芸能や儀礼の中で古くから自国の文化的土壌に根付いた相互の関連性が言及されてきた。しかしこのような伝統芸能や儀礼だけでなく、近世に刊行された養生書の中には健康促進・維持に音楽を用いることについていくつかの記述があることが明らかとなった。その中から本論では、養生論に音楽を適用した貝原益軒に焦点を当て、(1)貝原益軒における音楽思想の基盤、(2)貝原益軒の養生観、(3)貝原益軒の養生論における音楽の役割、(4)貝原益軒の養生論における音楽の効果と同時代イギリスの「非自然的事物」における音楽の効果との比較検討、と稿をすすめながら、益軒の考える養生論における音楽効果の特徴を解明することを研究目的とした。 その結果、『養生訓』『頤生輯要』『音楽紀聞』を中心とした益軒の著作の分析を通じて、益軒の養生論における音楽の適用の基盤には、『礼記』「楽記篇」を中心とした礼楽思想と、『千金方』や『黄帝内経』など中国医学古典に起源を持つ養生観があるということがわかった。そして、その基盤上で論じられた音楽効果に関しては、特に能動的に行う詠歌舞踏に焦点を当て、詠歌舞踏の持つ心身双方への働きかけが「気血」を養い、それが養生につながるという考えを『養生訓』から読み解くことができた。また、同時代イギリスにおいて書かれた養生論における音楽療法思想と益軒の思想とを比較してみたところ、益軒の音楽効果論には音楽の「楽」の要素を重視し、音楽が心に働きかける効果を特に重んじているという特徴が見られた。 このように益軒の養生論における音楽効果は、古代中国古典の思想を基盤としながらも、その引照に終始するのではなく、益軒の生きた近世日本の土壌に根付いた独自の観点から音楽の持つ心理的・生理的な効果を応用して、心身の健康維持・促進を図ることを目的として書かれているという点で、重要な示唆を含んでいると考えられる。
著者
東 昇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.299-322, 2004-01

ここでは近世後期の天草における人と物の移動について分析した。対象とした場所は、天草の西海岸に位置する高浜村である。対象とした資料は、高浜村庄屋上田家文書中の村への人の出入りを改める旅人改帳・往来請負帳である。分析の結果、次の四点が判明した。 1 旅人改制度は、文化一〇年、江戸幕府の直轄支配となり強化された。旅人を改める理由は次の三点である。人口が多く経済状態が悪い、外国の窓口である長崎に近く外国船に接触する機会が多い、村の治安維持のため、である。 2 高浜村への旅人は、年間平均四五件と多数到来する。特に天草周辺の四ヵ国(肥前・筑後・肥後・薩摩)を中心に、全国に分布していた。高浜村は、天草西海岸で有数の港であり、問屋・宿も三軒ある。穀物や生活必需品は、主に柳川と大川の船で搬入された。高浜村は、山海産物や焼物を搬出していた。 3 高浜村から旅に出た者は、商売や漁を目的とする場合が中心で、病気の養生や巡礼のためにも頻繁に村を出ている。目的地は天草の北に位置する肥前、天草の南・西に位置する薩摩や五島へと時代を経るに従い変化していく。その理由は、漁稼ぎの増加など産業構造の変化である。上田家など商人的性格を持つ家では、廻船の定期運行を行い、焼物を瀬戸内や大阪で販売した。 4 庄屋上田家の政治的地位の上昇、流行病への科学的な対処、港などの社会資本の整備により、高浜村の活発な人の移動、経済活動が可能となった。天草は船という主段で他地域と交流し、農産物を他地域からの買い入れに依存し、山海産物を他地域に売る経済構造であった。
著者
朴 雪梅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.121-147, 2017-10

1907年2月、東京の中国人女子留学生たちによって『中国新女界雑誌』(中文)が創刊された。本稿は、主にこの雑誌の発刊意図とそこに掲載された翻訳記事を中心に分析し、同誌の中国人女子留学生たちが求めた理想的女性のモデルが同時Iの日本人女性ではなく、女性解放の先頭に立って活躍する欧米人女性であったことを論証した。 編輯兼発行人である燕斌をはじめ、当時の中国人女子留学生たちがこの雑誌を創刊した目的は、中国人女性たちを「女国民」へと育成することであった。そのため彼女たちは、政治上においてまだ独立した人格を持たず、女性解放の萌芽的段階にあった日本の女子教育/女性論をモデルとせず、西欧諸国の最新の女子教育/女性論を選び、中国の女性たちに紹介したのである。さらに、清朝政府の女子教育開始に対応して、日本の女子教育に関する数多くの教科科目を翻訳する際にも、彼女たちはその中に顕著であった「女は内」という性役割分業思想、家庭内での奉仕を通じて間接的に国家に貢献する「良妻賢母」思想についての記事をすべて削除した。また、欧米女性の立身伝を翻訳するに当たり、日本の翻訳書から数名を選んで重訳したが、その選択基準も、一定の識字教育を施せば当時の中国でも登場し得るような現実に即したモデルが多かった。

1 0 0 0 IR 露伴初期

著者
井波 律子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.169-185, 1997-09

幸田露伴は一八六七年(慶応三年)、幕臣の家に生まれた。このため、明治維新を境に生家は没落、露伴は中学を中退して漢学塾に通った。この後、電信修技学校に入り、一八八五年(明治十八年)、電信技師として北海道の余市に赴任したが、二年足らずで東京にもどり、まもなく「露団々」で文壇にデビュー、職業作家となる。これを機に、放浪癖のある露伴は、原稿料が入ると旅に出かけるようになる。一種の異界志向が露伴を旅に駆り立て、その旅が次々に作品を生んだといえよう。 一八八九年(明治二十二年)の「風流仏」「対髑髏」から、「一口剣」「艶魔伝」を経て、一八九一年(明治二十四年)の「いさなとり」まで、露伴の初期作品群の鍵となるイメージは、「裏切る女」である。執拗に裏切る女を描きつづけた露伴は、「いさなとり」で、とうとう裏切る女を殺害する惨劇を描ききった。これ以後、露伴の作品の世界に、裏切る女はめったに登場しなくなる。その意味で、「いさなとり」は露伴の文学にエポックを劃する重要な作品にほかならない。本稿は、以上、旅のなかから生まれた露伴初期の作品世界の様相を、裏切る女のイメージを軸として、探ったものである。
著者
吉田 孝次郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p69-103, 1993-09

祇園会の山鉾に使用する工芸品は、質、量、品種に於いて世界の至宝といっても過言でないものを現在も使用しているが、特に懸装染織品は、近世染色美術史を痛感し得る内容をそなえ、中国大陸文化圏をはじめ、印度、中近東、大航海時代以降の欧州の染織品を数多く有している。 山鉾風流は南北朝期に出現(応仁の乱で焼失後、明応九年(一五〇〇)に復興)して以来、今日まで六五〇年の歴史をもつ伝統行事であり、今日では、国の重要有形民俗文化財、重要無形文化財の指定を受けている。 本稿では、祇園社の本来的神格を明らかにしつつ、室町時代―江戸時代前期に描かれた、「月次祭礼図」(東京国立博物館蔵)、「祇園、山王祭礼図」(サントリー美術館蔵)、町田家・上杉家本「洛中洛外図」、勝興寺本「洛中洛外図」、八幡山本「祇園祭礼図」などの絵画資料と、山鉾町に現存する懸装染織品の同定を基本とし、中世末期から近世初期における渡来懸装染色の実態を考察するものである。稿末に「品種別渡来染織品一覧表」を付した。
著者
全 美星
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.205-219, 2011-10

広津柳浪『七騎落』(「文芸倶楽部」明治三〇年九月)の主人公平野三千三は、日清戦争に従軍し「七騎落の勇士」として故郷の野州松山に華々しく凱旋する。彼を熱烈に歓迎する村民の姿は、日清戦争によって「戦功」というものが新しい価値として明治社会に台頭してきたことを意味する。「金鵄勲章」によって「戦功」がさらに確定されるとき、地方の農民であってもその出自や身分に関係なく社会に認められ、立身出世できる可能性が開かれると考えられたのである。だからこそ、金鵄勲章受章を期待される平野三千三に、戦前にはあり得なかった富裕な村長の娘との結婚話がもたらされたのだ。 結局、三千三は論功行賞にもれてしまい、縁談は流れ、村人達に爪弾きされる悲惨な結末を迎えるが、実は、受勲を果たせなかったことに三千三の悲劇の根本的な原因があるのではない。それは、金鵄勲章受章者発表の前に、既に三千三が荒れすさみ、村民との葛藤が高じていた様子から窺える。両者の葛藤からは、次の二つの点を指摘できる。まず、出征・戦場経験・凱旋を通して、国家の誉れ高い「軍人」という自己認識を抱く三千三が、今や村人たちのような「農民」ではないと考えていること、ところが、村人は彼のそのような自己認識を認めない点をまず挙げられる。次に、村人にとって「戦功」は、いくら粗暴であろうとも凱旋勇士なので受け入れざるを得ないと覚悟するほどの、確固たる価値にはなっていなかった点である。 つまり柳狼が描いているのは、論功行賞の不公平さ等による悲劇というよりは、「名誉の軍人」という確固たる自己認識を有し、「戦功」という新しい価値を社会に通用するものとして確信したことによる悲劇だ。一時は「勇士」と呼ばれた元兵士たちの受け皿が、戦後の明治社会には存在しなかったのである。柳浪の明治に入って新しく移入された思想や理念や価値観に対する深い不信感が「七騎落」にも示されている。
著者
大形 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.18, pp.151-175, 1998-09

「茅」という漢字は「ちがや・かや」と訓まれる。植物学の分類によれば、カヤ(=ススキ、Micanthus siensis Anderss)とチガヤ(Imperata cylindrical (L.) Beanv)は異なる植物である。しかし古代の日本や中国では、しばしば混同されている。 茅(チガヤ)は典型的な魔除けの植物である。「茅は霊草をいう(『漢書』郊祀志上、顔師古注所引張晏)」と、茅には不思議な力が認められていた。日本では、端午の節句の時期にシメナワに茅と艾(ヨモギ)を結わえ、屋根に飾る風習がある。これは家屋に侵入しようとする悪鬼をしばりあげるためのものであろう。茅(チガヤ)は葉が矛の形に似る。また茅の葉は刃物の様によく切れる。「茅(ち)の輪くぐり」は輪をくぐることによって身についた悪鬼をそぎおとし、「茅(かや)葺き(カヤ=ススキ)」は屋根から侵入しようとする悪鬼をふせぐのだろう。また端午や夏至に食べる粽(チマキ=茅巻)は、茅(チ=チガヤ)で巻いたから、この名があるとされている。祇園祭のかざりチマキは門口にぶら下げられる。本来、正月のシメナワと同様の悪霊除けであったように思われる。
著者
吉本 弥生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.191-236, 2011-03

明治後期、日本の美術界においてフランスやイギリスと同様、ドイツ美術は大きな影響を与えていた。しかし、従来はフランスとイギリスにその重きが置かれ、ドイツからの影響については、あまり大きく取り上げられてこなかった。これは、当時、日本において西洋芸術紹介者としての役割を担っていた雑誌『白樺』とのかかわりが考えられる。 『白樺』は、特にフランスとドイツの哲学思想から強い影響を受けているが、ドイツからの影響は従来、初期に限定され、その後はフランスの影響下にあったと認識されてきた。そして、同時に『白樺』には、人格主義の思想を持つ芸術家が次々に紹介される。 人格主義は、その人物の世界観や思想に重点をおいた解釈方法である。日本では、阿部次郎(『人格主義』岩波書店、一九二二年)や波多野精一(『宗教哲学』岩波書店、一九三五年)の著作がよく知られ、日本への受容において彼らの功績は大きい。 しかし、日本でのこの人格主義の流れの源泉は実は、当時の受容だけによらず、それより以前から日本に定着していた感情移入説にもとをたどることができる。 感情移入説は、ドイツで盛んになった美術概念で、主に「主観の挿入」をキーワードとして対象に感情を落とし込む表現をおこなうものである。その思想を体系化したのがテオドール・リップスである。リップスの思想は、一九一〇年以前から日本でも見られる。本稿では、その紹介者の嚆矢として、伊藤尚の「リップス論」(『早稲田文学』第七二号、一九一一年一一月)を取り上げ、それとの比較として阿部次郎の『美学』(岩波書店、一九一七年)を考察した。その結果、伊藤のリップス受容の特徴がオイケンとの比較にあり、それは早稲田大学哲学科の系譜に沿っていることが解された。伊藤の「リップス論」は、『早稲田文学』に広く影響を与えた。そして、阿部にも特徴的なことに、鑑賞者が制作者の経験を自己のものとして感じる「直接経験」という鑑賞方法が、『帝国文学』で盛んに紹介された『ファウスト』を例として具体的に提示され、それが人格主義の概念を中心に受容されていったことが明らかとなった。つまり、日本におけるリップス受容は、『帝国文学』と『早稲田文学』にも共通する鑑賞における新思潮として受容されていったのであった。
著者
田 云明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.11-30, 2013-03

日中文化交流において、仏教者による文化導入の重要性が日本の特牲として指摘されている。渡唐した留学僧は、国から派遣された知的エリートとして、仏教経典を研鑚するのみならず、作詩を含む文化活動にも参加した。彼らの文壇での活躍ぶりは、すでに『懐風藻』などの漢詩集に現れている。ここで注目されるのが、僧侶による詩作に隠逸志向を表す表現が少なからず見出せるということである。仏教修行の僧侶が隠逸表現を詩作に詠み込むことは、当時の僧侶が隠者という観念上の存在と同一視される契機となった。本稿は、公的文化伝播者・布教者という特殊な立場に置かれた僧侶に注目し、彼らの詩作、彼らに纏わる僧伝に現れた隠逸表現、及び同じく文壇で活躍する宮廷人の詩作に見られる僧侶観について考察し、文学表現における僧侶と隠者のつながり、さらに日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を究明しようとするものである。 具体的には、まず、『懐風藻』僧伝、とりわけ留学僧の卒伝と詩作に見られる脱俗性・反俗性に着目し、隠者を彷彿とさせる僧侶像、及び詩作が帯びる隠逸志向を考察する。とくに「竹林」「佯狂」「方外士」「養性」など隠者と文学的つながりを持つ表現によって、文学における僧侶と隠者の境界がいかに曖昧になったのかを分析する。次に、主に嵯峨天皇をはじめとする宮廷人が詠んだ『文華秀麗集』『経国集』の梵門詩について検討する。とくに、僧侶と宮廷人が〈仏〉〈俗〉の対立関係にありながら、〈隠〉をもって両者を同化させようとする宮廷人の作詩傾向に重点をおいて考察する。以上の考察を通して、日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を明らかにする。
著者
藤原 貞朗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.221-253, 2002-12
被引用文献数
1

一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.79-104, 1999-06-30

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。
著者
羽生 清
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p125-133, 1994-09

かつて、わが国の衣裳において、現代デザインでは見られなくなった文脈が生きていた。 衣裳は、身体に着せられたばかりではない。古代には、普段の風景とは異なった桜柳や紅葉など美しい自然の情景が、神の衣裳にたとえられた。(みたて) 近世になると、「源氏ひながた」に見られるように、町人が古代の世界を模倣し、自分を物語のヒロインに想定して楽しんでいる。(もどき) 「友禅ひいながた」では、豪華な素材にはない軽さを大切にして、折りや刺繍とは異なる染め衣裳が流行する。そこに、それまでの価値観を否定した新しい美意識が誕生した。(やつし) 華やかな友禅が粋な小紋に変わって行くと、山東京伝の「小紋雅話」のなかに、中国伝来の有職文様を解体しながら遊ぶ批評精神が窺える。(くずし) 崇高な神の衣裳から下世話な庶民の衣服へと、衣を通して時代の生活意識を見ることができる。