著者
梁 媛淋
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.127-151, 2016-06-30

本稿は、1830年頃に譜代大名彦根井伊家で作成された分限帳を主な素材として、同家の身分構造を明らかにする。大名家の内部構造の解明は近世の政治体制を知るために重要であり、明治維新やそれに伴う武士身分の解体を考える手がかりとなるだろう。
著者
唐 権
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.77-103, 2001-03

十七世紀以来、幕府の長崎貿易体制のもとに、長崎を訪問する中国人と丸山遊郭の遊女の間に大規模で、かつ多様な交流が存在したことは周知の事実である。この交流は日中貿易の繁栄がもたらした副産物だけではなく、日中間交通の発達とともに発生した独自の現象でもある。多くの中国人は、単に「快楽」を求めるため、長崎を訪問した。この現象が生じた最大の理由は、明清の王朝交代がもたらした中国国内の娯楽業の長い不況であると考えられる。また、幕府は、貿易に対していろいろ制限の政策を設けながら、中国人の遊興に対しては寛大であり、それを助長する傾向さえ見られる。ゆえに中国人にとって近世の長崎は貿易都市であると同時に、行楽の地としての側面も有している。中国人と遊女の交流は江戸時代を通じて存在し、一八三〇年代前後、一つのピークに達した。この交流は、明治維新以後大勢の日本人女性が「からゆきさん」として海外へ進出することと深く関わっている。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.405-419, 2007-05

古代日本における政治・軍事権力の頂点に立つ者に対して、天皇という称号が用いられたが、その称号が用いられる以前は大王であった。大王から天皇へと称号が変わったのは、いつ頃かについては、これまで多くの議論があった。現在においても、その時期については、断案がない。この問題についての、議論は、『日本書紀』推古紀、『隋書』倭国伝、「天寿国繍帳」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」などの解釈をめぐってなされてきた。天皇号が初めて使われた時期について、早稲田大学教授津田左右吉の見解がその後の議論の糸口になった。津田は、法隆寺薬師像光背銘が推古朝に書かれたと見なし、それに「天皇」という文字が刻まれていることと、『日本書紀』推古紀にみる「天皇」と対応させて、天皇号の成立を推古朝とした。それに対して、建築史家の京都大学教授福山敏夫は、法隆寺薬師像の銘文は、推古朝の年号が書かれてはいるが、それは後年に記されたもので、推古朝に天皇号が使われた根拠とすることはできないと論じた。天皇号が初めて使われた年代をめぐる議論は、津田と福山の見解の相違に集約することができる。だが、この議論は、主として、津田の見解を是認する古代研究者によって展開され、福山説にしたがう説は、近年になって発表されるようになった。津田の見解を大筋認める研究者たちについてみると、津田から直接影響をうけた、早稲田大学、東京大学に関わる者で占められ、その傾向は、今日まで及ぶ。時に、定説、通説として語られることさえある。しかし、天皇号が推古朝に初めて使用されたとする確実な論拠がない点からみると、一種の不思議な現象として目に映る。それは、あたかも、邪馬台国論争におけるかたくなな九州説の展開との類似性を指摘することができる。
著者
酒井 直樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.11-22, 2016-06-30

アジア太平洋戦争後の東アジアで、日本はアジアの近代化の寵児とみなされ、アジアで唯一の先進国と呼ばれてきた。冷戦秩序下のパックス・アメリカーナ(アメリカの支配下の平和の意味)で日本は、東アジアにおけるアメリカ合州国の反共政策の中枢の役割を担い、「下請けの帝国」の地位を与えられ、経済的・政治的な特別待遇を享受してきた。日本研究は、この状況下で、欧米研究者による地域研究と日本人研究者の日本文学・日本史の間の共犯構造の下で、育成されてきたと言ってよい。「失われた二十年」の後、地域研究としての日本研究も日本文化論としての日本研究も根本的な変身を迫られている。それは、東アジアの研究者の眼差しを無視した日本研究が最早成り立つことができないからで、これまでの日本文化論に典型的にみられる欧米と日本の間の文明論的な転移構造にもとづく日本研究を維持することができなくなってきたからである。これからの日本研究には、合州国と日本の植民地意識を同時に俎上にあげるような理論的な視点が重要になってきている。
著者
楊 暁捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.13-30, 2012-09

詞書と絵によって構成される中世の絵巻は、独自の表現の規則を持つ。その規則を析出することは、絵巻読解の上で大事な課題である。この論考は、言語における文法の言説を応用して、「絵巻の文法」を構築しようとする。規則の細目を説明するために、中世絵巻の基準作である『後三年合戦絵詞』三巻十五段を用いる。「絵巻の文法」の枠組みを描き出すために、絵巻の表現方法をめぐる在来の研究成果を受け継ぎ、それを整理し、具体的な位置づけを与える一方、新たな表現の原則を見出すことを試みる。とりわけ時間と空間の表現に関連して、これまでの研究で繰り返し取り扱われた「瞬間表現」、「異時同図」、「単一固定視点の排除」に加えて、「同図多義」、「異次元の時空」などの概念を提出する。さらに構図にみる語彙と文型について、代表的な事例を詳しく分析し、絵巻における規則への反動、詞書にみる文字と音声という異なるメディアの特牲などを指摘する。
著者
モスタファ アハマド M. F.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.105-121, 1999-06-30

「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では『愛玩』(一九五二年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品をもってシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。
著者
安田 喜憲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.101-123, 1997-09-30

ギルガメシュ叙事詩は四六〇〇年前にメソポタミヤ南部で書かれた人類最古の叙事詩である。この叙事詩のメインテーマはウルクの王ギルガメシュと友人エンキドゥが、森の神フンババを殺す物語である。フンババはメソポタミヤの神エンリルに命ぜられてレバノンスギの森を数千年の間守ってきた。そこに青銅の斧をもったギルガメシュとエンキドゥがやってきた。フンババは怒り狂い口から炎を出して襲いかかった。しかしギルガメシュたちは強く、とうとうフンババは殺されてしまった。フンババの森の神を殺したことによって、ギルガメシュはレバノンスギを自由に手に入れることができた。人類が最初に書いた物語は森林破壊の物語だった。フンババの殺害を知ったエンリルは激怒し、大地を炎にかえ、食べ物を焼き尽くすという。すでにギルガメシュ叙事詩の作者は森林破壊の恐ろしさを知っていたのである。フンババが殺されてから三〇〇〇年後、日本では八世紀に日本書紀が編纂された。その日本書紀のなかにスサノオノミコトとイタケルノミコトの物語が書かれている。二人は新羅国より日本にやってきて、スサノオノミコトは髭からスギを胸毛からヒノキを産みだし、イタケルは持ってきた木の種を九州からはじめて日本全土に播いた。この功績で紀ノ国に神としてまつられた。この二つの神話にかたられる神の行動はあまりにも相違している。ギルガメシュはフンババを殺しレバノンスギの森を破壊した。スサノオノミコトとイタケルノミコトは木を作りだし木を植えた。この神話の相違は花粉分析の結果から復元した両地域の森林の変遷にみごとに反映されていた。フンババの森の神を殺したメソポタミヤや地中海沿岸では森はすでに八六〇〇年前から大規模に破壊され、五〇〇〇年前にはアスサリエ山などのメソポタミヤ低地に面した山の斜面からはほとんど森が消滅していた。そして森は二度と回復することはなかった。これにたいし、日本でもたしかに森は破壊された。しかし、八―一〇世紀の段階で、すでに植林活動が始まっていた。このためいったん破壊された後地にふたたび森が回復してきた。日本では今日においても国土の六七パーセントもが森に覆われている。二つの神話はそののちの二つの地域がたどる森の歴史をみごとに予言していた。フンババの森の神を殺したメソポタミヤでは森という森はことごとく消滅し文明も崩壊した。これにたいしスサノオノミコトとイタケルノミコトが森を植えた日本は、今日においても深い森におおわれ繁栄を享受しているのである。
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.404-373, 1998-02-27

『日本研究』第十三集において、われわれは大野教授の「日本語=タミル語同系説」を検証した。それに対し、大野教授は『日本研究』第十五集でわれわれの検証に反論を提示した。そこで、今回この反論を含め、再び大野説を検証した。
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p13-23, 1989-05

アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
著者
阿満 利麿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.55-67, 1993-09-30

死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。
著者
朱 捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.69-91, 1996-12

本稿では、日本人の語感において嗅覚がいかに格別な地位を占めているかを論じる。京都の染色や日本刺繍、日本画、陶芸などでは今日でも、花の雄蘂・雌蘂その場所のことを「におい」と呼ぶ。これは仏教経典に見える、生命誕生に決定的な役割をはたす匂いの神ガンダルヴァの話を想起させる。どの辞書にも載らないこの使い方は、生命のほのかな、原初的な躍動を嗅覚でとらえる「にほひ」ということばの、最下層の面影を残しているように思われる。語源的に、「にほひ」は神秘的な生命力を秘める霊的物質水銀とのつながりを示唆する。「二」は水銀の原鉱石の丹砂を指し、「ニホ」は丹砂の産出を意味する「ニフ」や水銀の女神の名前ニホツヒメと明らかに接点をもつ。「にほひ」ということばには視覚と嗅覚が重なり合っている。それは、血のように鮮やかな水銀朱の色を視覚的に表現するいっぽう、視覚ではとらえきれない、丹砂という鉱石の奥をうねり脈打つ生命力の神秘性を嗅覚的にとらえていることを示している。内在的な生命力のうねりを嗅覚的に表現する「にほひ」の用例は、古典文学に多く見られる。源氏物語ではそれは男女の内在的な美的性的魅力をも意味する。魅惑的なフェロモンのような体臭をもちながら、薫がもっとも恐れていたのは「にほひ」のない男と呼ばれることだった。日本語では、絵画に与えるもっとも高い評価にも、「声のにほひ」などのように、聴覚のなかのもっとも美しい音声を表現するのにも、「にほひ」が使われる。そして「にほひ」は芭蕉の美学理念の重要なキーワードでもある。日本人の嗅覚は、他の感覚ではとらえきれない物事の奥に秘める生命力や人の心を打つものに対してとくに繊細である。対照的に、中国人の語感において聴覚が格別的で、響きを意味する「韵」が他の感覚を凌駕するキーワードとなることが多い。しかも興味深いことに、「にほひ」の漢字表記「匂」は、「韵」の右半分を取って造られた和製漢字である。
著者
早川 聞多
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.6, pp.p115-136, 1992-03

本研究ノートは、ある美術作品とそれを観る者の間に生まれる「魅力」といふものを、生きた形で記述するための一つの方法を提起する。私がここで提起する方法は、スタンダールが『恋愛論』の中で詳細に生き生きと記述した「結晶作用」といふ、恋する者の心の中で起こる現象の記述方法に倣はうとするものである。「結晶作用とは目前に現れるあらゆることから愛する相手の裡に新しい美点を次つぎと発見する精神の作用のことだ」とスタンダールは述べてゐるが、かうした心理現象は恋人に対してだけ生じるものではなく、愛好する美術作品に対しても起こつてゐるのではないかと、私は考へる。そこで本文では、この「結晶作用」といふ心理現象に従つて美術作品の「魅力」を記述する具体例を示すために、私が長年興味を覚え続けてきた美術作品の一つ、與謝蕪村筆『夜色樓臺図』を例に採り、私の裡で生じた「結晶作用」の発展過程を記してみようと思ふ。そこには私の勝手な思ひ込みが幾重にも重ねられてゐるが、私にとつてはそれこそが「魅力」というふものの真の姿のやうに思へてならない。

1 0 0 0 OA 黥と渡来人

著者
張 従軍 岡部 孝道
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.31-67, 2000-02-29

渡来人の問題は、日本歴史の文化を研究する上で重要な課題である。一般には、渡来人は稲作とともに日本列島に入ってきたとされている。しかし、考古学の資料を見ると、古くは稲作が渡来した以前の縄文時代前・中期には、日本列島において、大陸文化に極めて類例した新しい文化要素が、すでに出現していたことが判明する。特に、顔に刻まれた入れ墨を特徴とする土偶などは、大陸の黄河流域における新石器文化に見られる入れ墨の形象と、ほぼ完全に一致している。入れ墨は、古代中国においては刑罰の一種であり、その起源も大変古い。入れ墨の刑を受けた者は、ただちに辺境の寒冷な北方地区に追放されるのが常で、二度と故郷に戻ることはなかった。このため、受刑者が追放された地方もまた、「鬼」の国と呼ばれていた。アジア東北地域に広く存在していた「鬼」の信仰など、この地域一帯で古くから密接な交流があったことを物語っている。初期に日本に上陸してきた「渡来人」とは、入れ墨の刑を受けた大陸からの流刑囚であった可能性を提起したい。彼らの影響によって日本列島では「紋身黥面」という風習が起こったのではなかろうか。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.451-467, 2007-05-21

ジャズはそれまでの音楽にはない急速で広範囲の伝播を特徴としている。その原型ができあがってまもない一九二〇年代に世界共通語になった背景には、三つの新しい再生技術―電気録音、ラジオ、サウンド同期映画(トーキー)―の力が大きい。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.125-137, 1990-03-10

人間の知的な営みの本質には、ここではない「もうひとつの世界」、この私ではない「もうひとりの私」を空想し、反芻する性向がある。スタニスワフ・レムとタルコフスキーの『ソラリス』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作品世界は、この「もうひとつの世界・もうひとりの私」へと向かう想像力によって、形成されている。そして、その想像力の根底にあるものは、「死」へのまなざしであり、「救済」の希求である。人が「もうひとつの」なにかへと超越しようとするのは、そこに死と救済がたちあらわれてくるからなのだ。
著者
別役 恭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.71-99, 1993-03-30

浮田一蕙の「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮の徳川家茂への降嫁に対する風刺絵だとされてきた。しかし、一蕙の作品群を調べると、一蕙が信州に滞在した嘉永五年十月から翌六年二月にかけて、「狐の嫁入り」を主題とした掛幅や六曲一双の屏風を既に制作しており、「婚怪草紙絵巻」もその延長線上で描かれたと思われる。即ち、一蕙が江戸に滞在した嘉永六年三月から安政元年七月の間で、それは和宮降嫁の議が内々論議された安政五年秋から冬にかけてより、四年有余遡るのである。
著者
王 秀文
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.69-109, 2000-10-31

桃は強い生命力を持つ仙果、陰や死に対して不思議な呪力をもつ陽木として、当然ながら長生の神仙の世界や不死の楽園に結びつけられる。伝承上では、神仙の住む世界は東の大海原にある蓬莱山で、桃の巨大な樹のある度朔山または桃都山でもあり、仙木である扶桑は桃と同じ陽性の植物である。また信仰上では、不死の薬の持ち主として人間の福寿を操る女神である西王母は、桃をシンボルとし、死を再生に転換させる生命の象徴である。
著者
山本 美紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.283-294, 2005-03

ジョージ・オルチン(George Allchin 1852-1935)による幻燈伝道は、彼の日本での宣教師としての仕事において、賛美歌の仕事と並ぶ大きな活動である。彼の伝道旅行は地方にも及び、多くの人々にとって福音のみならず賛美歌や聖歌といった西洋文化に初めて生でふれる機会となっていた。本論文は、時に一〇〇〇人以上という動員数を誇った彼の「幻燈伝道集会 Lantern Lecture」に焦点を当て、特に彼のオリジナル作品「ほととぎす」「世は情け」を中心にとりあげる。この二つの作品は聖書のたとえ話「放蕩息子」「善きサマリア人」の翻案である。本論では、オルチンの幻燈伝道を追うことにより、彼独自の宣教観や興行的センスと同時に、一般社会のレヴェルにおける実質的な文化反応の諸相を明らかにする。