著者
村山 聡
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.53-75,iv, 2001

近世ヨーロッパに関して、各人の年齢が記載されている歴史資料を見つけることは非常に難しい。ヨーロッパでは、洗礼、堅信礼、婚姻、埋葬などの各イベントにおいて、教会は記録を残している。しかし、ヨーロッパの歴史人口学で使用されてきた洗礼、婚姻、埋葬の記録である教区簿冊においても、年齢記載がなされているものは多くない。それに対して、日本の近世江戸期の史料では、五〇年以上、場合によっては一〇〇年、二〇〇年という単位で毎年各人の年齢が記載されている「宗門人別改帳」などの史料が残されている。このような史料が残っていることはまれであるものの、多くの地域で年齢記載のある史料が残されていること自体が近世日本の特徴であると考えられる。毎年何十年にもわたって同一のフォーマットで記録され続けていたということはどのように理解すればいいのだろうか。近世ヨーロッパでは一部の地域を除くと、そのような記録は残されていない。この違いをどのように考えればよいのだろうか。また、近世日本における人口関係資料のもう一つの特徴は、多くの地域で実際の世帯と考えられる生活単位そのものが一つの単位として取り扱われ、それについての記録が毎年なされていることである。近世ヨーロッパの史料においても、世帯構造を分析できる史料がある。しかし毎年継続的かつ定期的にそのようなセンサスタイプの史料が残されているケースは、ヨーロッパではオーストリア、イタリアとスウェーデンぐらいであるとされている。それゆえ、なぜ詳しい年齢記載がなされているのか、という疑問に加えてもう一つの疑問点は、なぜ、毎年、世帯の単位で記載がされる必要があったのかということである。あるいは、なぜそのような記載の形式が持続されえたのか、ということである。年齢記載を含めて、記録された世帯の分析についてはすでに多くの蓄積がなされてきた。しかし、記録され続けたことの意味については、それほど多くの注意が払われてきたわけではない。記録された世帯について、残された史料データに基づいて現在でも多くの分析が可能であるということは、記録されたその時代においても、現在とは基準が異なるにせよ、何らかの分析可能性があったことを示唆する。この意味で、このような種類の史料が存在する社会というのは、少なくとも、家族関係については、情報編集性の非常に高い社会であったのではないであろうか。特に家族の選択的行動には実に様々な利用可能性があったと考える。これを誰がいかに利用していたかは、それぞれの時代や地域において、大きな差があったと考えるが、単に権力者側の意図が反映して作成されていたのではないことは確かであろう。その意味で、各地域の住民や地方役人は、規則としてだけでなくかなり主体的に年齢記載などを行ったのではないかと推察する。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.527-536, 2007-05

この論文では、日文研でのCMの共同研究の成果を踏まえて、テレビ・コマーシャル(CM)による文化研究の過去と現状を通覧する。日本のCM研究は、映像のストックがない、コマーシャルを論じる分野や論者が極めて限定されていたという問題がある。CMによる文化研究という面では、ロラン・バルト流の記号分析を応用した研究が八〇年代初頭からみられた。しかし、研究の本格的な進展は、ビデオ・レコーダが普及した八〇年代後半からだった。その後、CMの評価の国際比較、ジェンダー、CM作品の表現傾向と社会の相関を探る研究などが生まれた。 現代のCM研究者は、CMという言葉から通常私たちが想像するような、一定の映像様式が存立する根本を見直しはじめている。名作中心主義による研究の妥当性、CMに芸術性をみいだそうとする力学の解明、CMを独立した単体ではなくテレビ番組との連続性の中に定位しようとする研究、CMと国民国家の関係を問う研究などが進められている。 しかしながら、CM研究をさらに進めるには、映像資料の入手可能性、保存体制などに大きな限界があり、研究環境の早急な改善が必要である。
著者
郭 永哲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.17, pp.221-254, 1998-02

日本語と韓国語とは、漢字使用や文法的構造の類似性などから他の国の言語より親密性を持っている。これらの漢字使用と文法的構造の接点は古くからあり、日韓両国語は互いに間接影響しあうようになったと見られる。韓国語における日本語との交渉という面は、歴史的には非常に古いと言えるが、その具体的接触は朝鮮通信使の使行記録からであると言ってよい。 今回の調査では、日韓併合以前の開化期教科書に用いられている漢字語を抽出し、その典拠別に分類し使用実態の把握を試みた。六種の教科書から漢字語を抽出し、それぞれの漢字語の出自を念頭において、中国・韓国・日本の辞書への登載有無を調査しつつ、各グループ別の使用実態や特徴などを調べてみた。さらに、日本語の関与による漢字語を確定し、その実態などについても述べた。今回調査した漢字語の中では、①幕末・明治初期以降、日本において西洋伝来の新しい概念を付与するために用いられた、漢籍に典拠をもつ「転用語・日本経由語」と、②日本人によって新しく作られた「日本製漢語」とが相当見出された。 抽出語をその出自別分布・使用率から分析すると、次のようなことが言える。① 籍・漢訳仏典に典拠のある語のうち、韓国・日本の両辞典に見出される語が八割を越えた。② 漢籍・漢訳仏典に典拠の不明な語は、韓・日共通登載率が約三割に過ぎない半面、韓国の辞書にのみ見られる語または死語となった語の比率が高い。③ 韓国固有漢字語は、家族制度・社会倫理・礼儀作法に関する語が多かった。日本語の関与による語は、その使用率の高い語が多い。前項③に比べて、文明開化に伴う新しい概念を表す専門用語が多く見られた。
著者
外村 中
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-40, 2015-03

日本の奈良の東大寺大仏(752年開眼)は、宇宙に花咲く蓮の花托に坐す仏を表したもので、世界的にも有名な芸術作品の一つである。また、日本の華厳宗の大本山である東大寺の本尊であるから、大乗仏教の最も代表的な経典の一つである『華厳経』を当時の日本人が如何に理解していたかを考察する上でも、非常に重要な仏像である。ところが、大仏は、意匠的には、華厳宗がもとづく『華厳経』よりも律宗で重んじられた『梵網経』の内容に符合しているようにも見える。その理由は、いまだ明らかにはされておらず、大仏は、実のところは華厳教主像ではなく、梵網教主像であろうとする説もある。しかしながら、やはり華厳教主像と見るべきであろう。小稿は、そのように思われる理由を整理するものである。『華厳経』の漢訳完本である『六十華厳』と『八十華厳』の内容、とくに両仏典が記す宇宙論の内容を比較分析するに、『六十華厳』の内容には重大な欠落があることが知られる。おそらくは、大仏の意匠を決定するにあたり、『六十華厳』のその欠落を補うために、『梵網経』の内容が援用されたのであろう。ただし、大仏は、積極的に梵網教主像として造られたものではなく、あくまで華厳教主像として造られたものらしい。大仏の意匠は、確かに『八十華厳』の内容とは齟齬をきたすが、実は『六十華厳』の内容とは必ずしも違うものではない。この点は、従来の研究においては注意が払われていないが、大仏が六十華厳教主廬舎那像として造られたものであることをしめすものであろう。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p89-104, 1992-09

慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。 しかし私の関ヶ原合戦に関する研究によるならば、同合戦において家康の下で戦った東軍(家康方)の軍事的構成が、専ら豊臣系諸大名を主力としており、本来の徳川軍の比重がきわめて低かったという事実が明らかとなった。すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。 本稿は家康の将軍任官のより立ち入った意義を、このような政治状況との相関の中で検討し、さらにはそれを踏まえて、関ヶ原合戦より大坂の陣に至る近世初頭の政治史的展開、およびこの時期の国制の構造を考察する。
著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。 将軍の御成などを念頭に置いて造営された有力大名下屋敷の広大な池泉庭園では、滝・池・護岸石組・州浜といった水をめぐる各種デザインが大きな見せ場であった。そのため、水源の確保が極めて重要な課題であり、各大名屋敷では、湧水のほか上水道や小河川・都市水路などからの導水に大きな努力を払ったと見られる。一方、隅田川沿いの旗本屋敷では潮汐の影響を受ける隅田川から直接導水する「潮入り」の手法が発明され、これがその後に海岸沿いの大名屋敷の庭園でも採用されることとなったと考えられる。また、庭園を眺める視点場として二階建て数寄屋楼閣が重要な役割を果たしていたことも注目される。さらに、池泉庭園を備えない上屋敷などでは市中にあって山居をイメージさせる、都市文化の極みともいうべき茶室と露地が設えられていたことが駿河大納言上屋敷の様子から窺える。庭園管理という観点では、例えば樹木を剪定整枝して仕立てる技術がすでにしっかりと定着していたことが植物の描き方に示される。加えて、御花畠からは、花卉を中心とする園芸文化が、いわば江戸の主人たる将軍の先導のもと、文字通り豊かに花開いていたことがわかる。以上のように、慶長八年(一六〇三)の開府からおおよそ三十年を経た江戸では、庭園をめぐる文化は多様で多面的なありようを見せていたのである。
著者
久世 夏奈子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.143-189, 2014-09

本論では、一九二八年十一月から十二月に日本で開催された「唐宋元明名画展覧会」について、いわゆる「外務省記録」を中心に用いて考察する。 「唐宋元明名画展覧会」は「日華聯合絵画展覧会」の主催団体であった東方絵画協会と、同展覧会へ「対支文化事業」より助成費を支出していた外務省関係者との間で発案され、事実上東方絵画協会によって実施された。当初は第五回日華聯合絵画展と前後して開催予定であったが、中国側会員間の内紛により同展が延期されたために単独で開催された。 中国人に対する賛助・出品交渉は、中国大陸において国民革命軍による(第二次)北伐の開始からその完成(北京政府の消滅)を経て、(南京)国民政府が新体制を確立するまでと同時期に行われた。特に北伐開始直後に日中の軍隊が衝突し(済南事件)、その解決交渉が十カ月に及んだだけでなく中国では対日不買運動が盛んとなったが、中国人収蔵家と国民政府首脳が出品と賛助に同意して開催が実現した。 展覧会への出品点数は、中国人三百点強、日本人三百点弱、合計六百点超である。中国人出品者は旧北京政府の閣僚経験者、画家、実業家が多数を占める一方、日本人出品者は実業家が半数近くを占め、古寺・旧大名家・公家、勲功華族も含まれた。伝称作者の時代では明代が最も多く四割以上、宋代・元代を合わせて九割近くに上り、清代・五代・唐代が若干含まれた。その内容は当時の日中における収蔵内容の差異だけでなく、日本における新旧収蔵家の交代をも反映した。 結論として、「唐宋元明」展は第一に近代日本における中国絵画受容の論点より見れば、戦前における新来の中国絵画紹介の集大成であり、日本人の中国絵画観の修正を決定づけた。第二に近代日中関係史における文化外交の論点より見れば、近代以降の複雑な背景と多彩な陣容からなる日中双方の官民の利害に十分に一致し、日本の対支文化事業の明白な成功事例であった。
著者
高 文勝
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.85-102, 2009-11

本稿では、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度を考察することで、主に以下のことを示すことができた。第一に、日露戦争後、満蒙における特殊権益を拡大しそれを維持していくのは日本の一貫した政策であり、日本はその特殊権益を中国側に返還する意図を有さなかったのである。この問題について、幣原外交も例外ではなかった。第二に、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度は大体において孫文の主張を継承するものであり、日本に対してかなり妥協的であった。国民政府はその革命理念から日本の満蒙特殊権益を回収すべきだと主張するが、満蒙特殊権益の早急の回収が不可能だと認識し、それを現実として容認し、その根本的解決を将来の懸案として後回しにして、当面解決可能な問題から日中関係の改善を優先し、両国間の感情を緩和していく、その上で、満蒙問題の解決を図ろうとした。このようなアプローチは幣原外交における対中国政策と一致している。したがって、満蒙問題に関して、日中両国は究極の目標において対立したものの、交渉による妥協の余地が十分にありうるであろう。
著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする"性教育"論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような"性教育論"の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において"性教育"論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも"性教育"論の歴史の再構成を試みる。 具体的には、現状最も優れた先行研究である茂木輝順の論稿の批判検討を通じて、歴史記述を行う。取り扱う時期を近世後期~明治後期に設定し、"性教育"論の源流の存在と誕生を追っていく。 日本においては、近世後期にすでに"性教育"論の源流とも言える教育論は存在し、ただ、それはその後の時代の"性教育"論と比すると、不完全なものであった。近代西洋の知の流入は、そうした日本の"性教育"論の源流の知に様々な新規な知識を付け加えていく。そのような過程のなかで、"性教育"論は明確なかたちで誕生していくわけであるが、その誕生の過程では、舶来物の知識と従来の日本における文化との摩擦もあり、その摩擦を解消するためには"性教育"論を学術的なものだと見做す力が必要だった。 その摩擦をひとまず解消し、"性教育"論が日本において確立するのは、明治期が終わりを迎えるころであった。その時期には、「性教育」という名称が出現し、"性教育論"の要素を占める主要な教育論も出そろい、社会的な認知や承認も十分に備わっていた。
著者
村井 康彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p65-95, 1989-05

古代社会に成立した日本的王権=天皇制が、長期にわたって存続した歴史的背景を明らかにすることは、天皇制それ自体にとどまらず、日本の社会や文化の特質を知るためにも不可欠の研究課題である。天皇制を存続させた最大の理由は、王権における権威と権力が分化し、天皇が権威だけをもつ存在になったことにあるが、その権威と権力の分化をもたらしたのは、天皇の即位年齢の低下と、それによる天皇の政治的主体性の弱体化にある。そのきっかけをなしたのが、天智天皇が大友皇子(二三歳)の即位を実現するために発した詔を「不改常典」(天智が定めた、永遠に変更されることのない法)と称し、これを拠として、持統女帝と元明女帝がそれぞれ孫の皇子(一五歳・二三歳)の即位を実現したことにある。この過程で生れた、王権の継受に関する新しい制度が皇太子制度であり、これが持統女帝にはじまる譲位の慣例化とあいまって、年少天皇の即位、不執政天皇の出現をもたらすこととなった。日本的王権=天皇制の成立といってよい。それは平安初期のことである。
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06-30

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする“性教育”論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような“性教育論”の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において“性教育”論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも“性教育”論の歴史の再構成を試みる。
著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.31-52, 2013-03

本論は、林羅山の『多識編』という本草学の書物に見られるかみの和名から、彼の思想的営為とその変遷について考察したものである。この書物で用いられているかみは、従来林羅山の神道思想として取り上げられてきた理当心地神道には見られないもので、「怪異」に関する名物である。 羅山は「怪異」を世俗の領域にある、仏教と関わりがあるものとし、教化の対象とした。そこには慶長年間、徳川幕府に仕えた羅山が思想的挫折を経験し、「従俗の論理」を得たことが大きく作用している。つまり『多識論』の「怪異」の名物を考えることは、神道思想や本草学だけに留まらず、儒学を含む羅山の思想的営為全体を考えることに他ならない。 『多識編』は、慶長期の草稿本と寛永期の刊本に大きく分けることができ、特に慶長期に付けられたかみの和名が寛永期ではほとんど削除されてしまっている。この変化から、羅山の従俗教化の特徴と変遷を読み取ろうとした。 慶長期の草稿本におけるかみの和名は、『和名類聚抄』という伝統的知識と朱子鬼神論を複合させて名物されたものであった。これは当時の社会の怪異認識と外見上類似するものであったが、内実には大きな差異があった。 しかし、それが寛永期の刊本でかみの和名がほとんど削除されてしまったのは、同時期に体系化された理当心地神道の影響を受けたからである。清浄かつ正常を求める理当心地神道には不正の鬼神である「怪異」が入る余地はなく、理当心地神道の「かみ」と「怪異」に名付けられたかみが同一視されることを回避するために削除されたのである。それは従俗教化の内容に大きな差異が見られた、ということを示している。 『多識編』のかみをめぐる問題から判明したのは、羅山的儒学による日本の知識体系の独自解釈であり、そこに「従俗の論理」があった。
著者
梁 媛淋
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.127-151, 2016-06

本稿は、1830年頃に譜代大名彦根井伊家で作成された分限帳を主な素材として、同家の身分構造を明らかにする。大名家の内部構造の解明は近世の政治体制を知るために重要であり、明治維新やそれに伴う武士身分の解体を考える手がかりとなるだろう。 井伊家の事例で観察された事象は次の通りである。まず、家臣団は所属階層において侍と三御歩行に大別された。その組編成について見ていくと、井伊家は徳川将軍家の番方組織を模倣せず、独自な制度を有したことが判明した。次に、石高の分布を数量分析した結果、家臣団の全体的な石高分布の傾向として、千石以上の家臣が僅少で、二百石未満の家臣が約七割を占めた点において、萩毛利家や尾張徳川家と共通していることが分かった。ただし、知行取・蔵米取を分けて検討すると、他とやや異なる面が見えてくる。 近世武士の地位は、所属階層や給禄だけでなく、相続・御目見・役職の任命・騎馬の資格などの基準で判断できる。しかし、これらの諸基準による階層分けは必ずしも一致していないので、家臣団全員がこれらの基準によって同じ評価を得たわけではない。家臣団の下層部は基準ごとに評価が異なり、地位の不整合があった。この点が他の大大名と共通していることは、注目に値する。 また、井伊家では徳川将軍家や他の大名家と異なり、部屋住の登用が盛んであった。それは、藩政機構の整備過程において家臣の増員を控えたこと、さらに夭死・幼年家督相続など様々な理由で家督時に減知する慣例があったので、減知分を部屋住で奉公するものの給禄に当てられたためと考えられる。 本稿の分析によって、近世の武士は、高禄な知行取かつ御目見以上である騎士と、低禄な蔵米取かつ御目見以下である歩兵といったように、単純に把握できる社会階層ではないということが明らかになった。また、大名家では、徳川将軍家のように「家」単位での登用ではなく、個人単位の奉公が認められていたことも注意に値する。これらの事象は、大名家臣が倒幕に身を投じることや、武士身分の崩壊を考える際、重要な背景を提供するものであると考える。
著者
田 云明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.85-100, 2016-06

空海の『性霊集』劈頭に置かれた「遊山慕仙詩」において、詩題は一見遊仙詩のように隠逸風であるが、内容は仏教的なものが少なからず含まれている。波戸岡旭氏はこの一首の構成や、出典、さらに創作動機及び主題などについて、従来の遊仙詩との類似を考察し、空海の「遊山慕仙詩」は仏教思想を説くものでありながら、本格的な遊仙詩であると主張した。これに対し、井実充史氏が「『文選』遊仙詩を踏襲した形跡はない。言及しつつ踏襲していないということは、意識的に無視あるいは排除したといえる」と異議を呈し、「形式・内容ともにまったく新たな遊仙詩を歌い上げようとする」空海の創作意図を強調した。両氏とも「遊山慕仙詩」と『文選』などに載せられた従来の遊仙詩との関係性について言及しているものの、入唐の経験によって渉覧できた中国本土の文学作品や思想界の動向から受けた影響については、十分に検討がなされていないと考えられる。 空海の「遊山慕仙詩」はいかに仏教的なものを取り入れ、『文選』の遊仙詩を再構築したのか。それはすべて空海の独創により生み出されたものであろうか。本稿では、主に空海の帰国後の著述に表われた文学観を手がかりに、彼の文学創作の姿勢を把握したうえで、特に入唐時に目にとまった詩文や儒・仏・老の三教論との関連を視野に入れながら、「遊山慕仙詩」における『文選』遊仙詩の受容と超克を考察していきたい。空海の詩作を分析するにあたり、まず、『聾瞽指帰』と『三教指帰』及び『文鏡秘府論』を通して彼の文学観を把握する。次に、『文選』遊仙詩の内容と構成を明らかにしたうえで、「遊山慕仙詩」の内容、構成について分析を行なう。最後に、中唐詩僧・皎然の「短歌行」との関わりについて考察する。以上の考察を通じて、入唐の経験によって成立した文学観、三教論、および渉覧できた詩文が、空海「遊山慕仙詩」の創作に与えた影響を明らかにしたい。