著者
大戸 朋子 伊藤 泰信
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.207-232, 2019-08-31

本稿は、腐女子と呼ばれる男性同性愛フィクションを嗜好する少女・女性の二次創作活動とメディア利用を対象とし、彼女たちがどのようにコミュニティを形成し維持しているのかについて、作品やキャラクタへの「愛」という不可視で不可量なものを議論の導きの糸として明らかにすることを目的としている。二次創作コミュニティは、二次創作者らの原作に対する「愛」によって形成されている。しかし、原作に対する解釈は個人によって異なっており、「愛」をめぐってコンフリクトが発生する。本稿では、このコミュニティ内で発生したコンフリクトが、2種類の対応によって調停されることが明らかとなった。1つ目は、二次創作者が言行一致の姿勢を取っている/いない、原作のキャラクタや設定から逸脱し過ぎている/いないなどの基準によって、原作に対する「愛」の具体化である二次創作作品を評価し、「愛」がないと判断した場合、コミュニティのソトに押しやり、原作への「愛」を持つ者同士のコミュニティを維持しようとする。2つ目は、過度な性描写や暴力表現などが盛り込まれた二次創作作品であっても、肯定的なコメントを送ったり、無視をして評価を行わないことで、メンバ間の衝突を回避し、コミュニティを維持しようとする、という調停である。
著者
黒川 正剛
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.211-231, 2015-03-31

呪術/魔術が西欧社会で問題化したのは魔女裁判が猖獗を極めた16・17 世紀の近世のことである。本稿では、当時の魔女信仰の分析から「呪術的実践 = 知の歴史的諸相」について考察する。ただし、本稿で行われるのは「呪術的実践 = 知の歴史的諸相」の本格的な解明に必要な準備作業であり、「実践 = 知」のうち「実践」に焦点を絞って検討をすすめる。拙稿「呪術と現実・真実・想像--西欧近世の魔女言説から」(白川・川田編『呪術の人類学』人文書院、2012 年所収)で論じた「呪術のリアリティ」に関する問題、『魔女狩り--西欧の三つの近代化』(講談社選書メチエ、2014 年)で扱った「視覚の特権化」「自然認識の変容」「他者排除」に関わる三つの西欧の近代化の問題をもとにしてアプローチを試みる。そしてカルロ・ギンズブルグのベナンダンティに関する研究にもとづいて、「呪術的実践」に関わる四つの知覚作用に関わる動詞「信じる・知る・行う・感じる」の問題について若干考察する。
著者
田中 雅一
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2013, pp.30-59, 2014-03-31

本稿の目的は、日本におけるセックスワーク(売春)の性質を、肉体労働、感情労働、官能労働の3つの労働から理解しようとするものである。資料は5人の日本人女性セックスワーカーたちへのインタビューに基づく。セックスワークは、1970年代に作られた言葉で、売春をほかの仕事(ワーク)と同じく合法的な活動(サービス産業)ととらえるべきであるという主張がこめられている。しかし、このような主張には、根強い批判が認められる。ひとつは、セックスワーカーが人身売買の犠牲者であって、セックスワークを合法化しようとするのは、その犯罪性を隠蔽することになるという主張である。二つ目は、セックスワークは若くて未熟なワーカーが喜ばれ、価値もあるという点で、熟練度が重視される通常の仕事と同じだとみなすべきではないという主張である。最後の批判は、本来私生活に属するセックスを仕事とすることで、ワーカーたちは多大な精神的被害を受けるはずであるため仕事とはいえないという批判である。本稿では、セックスワーカーたちと顧客との親密なやり取りについての語りを分析することで、これらの批判の妥当性を吟味した。日本のセックスワーカーは、1時間から2時間を単位として顧客と限られた時間を過ごす。彼女たちは、顧客の支払額を増やすためにできるだけ長くいること(延長)を顧客に求め、また収入を安定させるために繰り返し一人の女性を指名する常連を増やそうとする。顧客はワーカーが自分に好意を示し、自分との性行為によってオーガズムに達することを好む。このような顧客の要望に応じるため、ワーカーは「感情労働」を通じて好意があるかのような演技をする。オーガズムについては、あたかも女性が感じているかのようなふりをする「官能労働」が必要となる。本稿のデータから明らかなのは、どのワーカーも自分を犠牲者だとみなしていないことである(だからといって、日本のセックスワーカー全員が犠牲者ではないとはいえない)。また、素人が好まれることから、素人のようにふるまう技術を身につける。さらに、顧客の気づかないところで気を遣い、暴力を回避するための交渉を行っている。顧客の要望に応じて、感情労働や官能労働の主体として彼女たちは積極的に顧客と接しているのである。たしかに、セックスを仕事にすることで私生活に影響が出るが、これはむしろ合法化することで解決可能だと考えられる。問題があるから合法化すべきでないというのは本末転倒であろう。
著者
石田 智恵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2014, pp.56-82, 2015-03-31

本論文は、1970年代後半アルゼンチンの軍事政権下で反体制派弾圧の方法として生み出された「失踪者」の大量創出という文脈において、日本人移民とその子孫、およびかれらのコミュニティがどのような位置を占めていたか、また「失踪」にいたった日系人たちの政治参加において出自やネイションはいかなる意味を持っていたのかについて、軍政下の国民社会をコンタクト・ゾーンとして捉えることで考察する。軍部は「反乱分子」とみなした人々を次々と拉致・拘留・拷問しながら、被害者を「失踪者」と呼んで行為を否認することで、社会全体を恐怖によって沈黙させた。この体制はコンタクト・ゾーンそのものを消失させようとするものである。日系コミュニティは、アルゼンチン社会における「日本人」に対する肯定的イメージの保守を内部規範とし、個人の政治への参加をタブーとすることで、軍政に翼賛的なモデル・マイノリティを生み出す装置として機能していた。70年代の若者たち「二世」の多くは「日本人」の規範を抑圧と感じ、そこからの離脱に向かった。重複する国家とコミュニティの規範を破り、別様の社会を求めて政治に参加することは「失踪」の対象となった。「日系失踪者」たちの思想や行動についての周囲の人々の語りから、かれらが身を投じた政治とは、個人の社会性・政治性の否定の上に成り立つ国民の安全保障を拒否し、コミュニティを媒介したネイションへの同一化ではなく、個人の位置を自ら社会につくりだすことで社会を変えるための方法であったと理解できる。
著者
田中 雅一
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.30-59, 2014-03-31

本稿の目的は、日本におけるセックスワーク(売春)の性質を、肉体労働、感情労働、官能労働の3つの労働から理解しようとするものである。資料は5人の日本人女性セックスワーカーたちへのインタビューに基づく。セックスワークは、1970 年代に作られた言葉で、売春をほかの仕事(ワーク)と同じく合法的な活動(サービス産業)ととらえるべきであるという主張がこめられている。しかし、このような主張には、根強い批判が認められる。 ひとつは、セックスワーカーが人身売買の犠牲者であって、セックスワークを合法化しようとするのは、その犯罪性を隠蔽することになるという主張である。二つ目は、セックスワークは若くて未熟なワーカーが喜ばれ、価値もあるという点で、熟練度が重視される通常の仕事と同じだとみなすべきではないという主張である。最後の批判は、本来私生活に属するセックスを仕事とすることで、ワーカーたちは多大な精神的被害を受けるはずであるため仕事とはいえないという批判である。本稿では、セックスワーカーたちと顧客との親密なやり取りについての語りを分析することで、これらの批判の妥当性を吟味した。 日本のセックスワーカーは、1時間から2時間を単位として顧客と限られた時間を過ごす。彼女たちは、顧客の支払額を増やすためにできるだけ長くいること(延長)を顧客に求め、また収入を安定させるために繰り返し一人の女性を指名する常連を増やそうとする。顧客はワーカーが自分に好意を示し、自分との性行為によってオーガズムに達することを好む。このような顧客の要望に応じるため、ワーカーは「感情労働」を通じて好意があるかのような演技をする。オーガズムについては、あたかも女性が感じているかのようなふりをする「官能労働」が必要となる。 本稿のデータから明らかなのは、どのワーカーも自分を犠牲者だとみなしていないことである(だからといって、日本のセックスワーカー全員が犠牲者ではないとはいえない)。また、素人が好まれることから、素人のようにふるまう技術を身につける。さらに、顧客の気づかないところで気を遣い、暴力を回避するための交渉を行っている。顧客の要望に応じて、感情労働や官能労働の主体として彼女たちは積極的に顧客と接しているのである。たしかに、セックスを仕事にすることで私生活に影響が出るが、これはむしろ合法化することで解決可能だと考えられる。問題があるから合法化すべきでないというのは本末転倒であろう。
著者
茶園 敏美
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.128-162, 2014-03-31

本論は、占領期の日本をあらゆるひとたちが相互交渉し対処する場を、「コンタクト・ゾーン」としてみる。それはたんに、勝者米国が敗者日本を統治したというだけではなく、日本のおんなたちとGI(米兵)が対等に相互交渉をおこなっているということを明らかにする。とりわけ本論では、1人のGI と関わる、「オンリー」や「オンリー・ワン」と呼ばれていたおんなたちに注目する。 具体的には、占領期に京都社会福祉研究所が調査した、26 名のおんなたちの口述記録を考察する。彼女たちは、GI と性的な関係を持ったという理由で性病検診を強制的に受けさせられたおんなたちである。彼女たちは「高級街娼」とみなされ、「オンリー・ワン」と分類された。 さらに本論では、さまざまなおんなたちがお互いに助け合う可能性についても論じる。とりわけ、占領期に実施された強制的性病検診を受けるために待つ空間であった、病院の待合室に注目する。病院の待合室はGHQ や日本政府がおんなたちの間に「分断支配」[Enloe 2000;エンロー 2006]を持ち込もうとする空間であるからだ。 本来、あらゆる立場を超えておんなたちが、一斉検挙という暴力に対して互いに手を結ぶことができるにもかかわらず、当局側の「分断支配」によって被害を受けているおんなたち同士が互いに反目しあう状況が生み出される。 だがコンタクト・ゾーンという視点で彼女たちとGI たちとの関係に注目すると、エンローの「分断支配」も、彼女たちを調査した研究員たちのように一義的な力関係を前提とする分析にすぎないことがわかる。 彼女たちは、これまでの既存の枠組みでは分析できないおんなたちである。「規範」のものさしで彼女たちを測ることをやめたとき、彼女たちのことをもっと理解することができるだろう。
著者
福田 安佐子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.122-142, 2019-08-31

『ホワイト・ゾンビ』(1932)においてゾンビは初めて長編映画に登場した。本作の舞台は当時アメリカの施政下に置かれていたハイチである。また、ここでのゾンビとはヴードゥーの呪術により、意思や人間性を奪われたものであり、奴隷や労働者のメタファーとしてこれまで論じられてきた。しかし本作品には人間へと戻るゾンビや、名前や個性が与えられたものも登場している。なぜこのようにゾンビが様々に描かれる必要があったのだろうか。本論文では、まず第1章で『ホワイト・ゾンビ』でのゾンビの描写から、原作の『魔法の島』との影響関係やその差異を指摘し、それら2作品の登場によって、従来の「ゾンビ」という語の意味が大きく変化したことを確認する。第2章では、映画によって新たに付加されることになった、単なる奴隷の比喩からはかけ離れた「ゾンビ」が、作品における人種表象とも関連して、当時のアメリカ内外における情勢を反映したものであることを分析する。『ホワイト・ゾンビ』には、原作の語りを再現するかのように、筆者の体験と主人公の物語が重ね合わせられていくのだが、当時のホラー作品に典型的な人物配置や映像構成も同時に組み込まれている。これらの存在が、本作品を紀行本の翻案からホラー作品へと橋渡ししている。第3章では、女性のゾンビ化と呪術者の関係性を表現している「視線」のあり方に着目し、同時代のホラー映画との影響関係や本作品独特の表現方法を指摘する。以上、『ホワイト・ゾンビ』におけるゾンビ描写の分析から本作品を再検討することで、『ホワイト・ゾンビ』とは、「植民地」での経験を物語化したものだけではなく、西洋社会のうちに存在した社会的・文化的な諸問題をも提起する作品であることを明らかにする。
著者
黒川 正剛
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.211-231, 2015-03-31

呪術/魔術が西欧社会で問題化したのは魔女裁判が猖獗を極めた16・17 世紀の近世のことである。本稿では、当時の魔女信仰の分析から「呪術的実践 = 知の歴史的諸相」について考察する。ただし、本稿で行われるのは「呪術的実践 = 知の歴史的諸相」の本格的な解明に必要な準備作業であり、「実践 = 知」のうち「実践」に焦点を絞って検討をすすめる。拙稿「呪術と現実・真実・想像--西欧近世の魔女言説から」(白川・川田編『呪術の人類学』人文書院、2012 年所収)で論じた「呪術のリアリティ」に関する問題、『魔女狩り--西欧の三つの近代化』(講談社選書メチエ、2014 年)で扱った「視覚の特権化」「自然認識の変容」「他者排除」に関わる三つの西欧の近代化の問題をもとにしてアプローチを試みる。そしてカルロ・ギンズブルグのベナンダンティに関する研究にもとづいて、「呪術的実践」に関わる四つの知覚作用に関わる動詞「信じる・知る・行う・感じる」の問題について若干考察する。
著者
濱野 千尋
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.62-94, 2019-08-31

本論文の目的は、ドイツにおける動物性愛者への調査に基づいて、動物性愛というセクシュアリティがもたらす、人間と動物のセックスを含めた種間関係のあり方を考察するものである。その際に本論文で焦点を当てるのは、動物性愛を意図的に選択し、自ら動物性愛者になっていく人々である。このような人々の存在について、これまで他領域を含む先行研究では言及されてこなかった。動物性愛というセクシュアリティを選び取る人々について学術的な言説のなかで言及するのは本論文が初めてである。本論文では彼らの実態を紹介し、事例を踏まえてダナ・ハラウェイによる伴侶種概念と比較検討しつつ、伴侶種を論じる際のセクシュアリティに対する視点の必要性を指摘する。動物性愛を選択する人々がいる事実は、動物性愛というセクシュアリティを生来的なものではなく、身近な動物との共生のためのオルタナティブな方法として受け入れうるものと説明できる可能性がある。本論文では、このような人々の事例をもとに、セクシュアリティの選択と、その結果としてもたらされる、異種間関係および人間関係の変容について論じる。
著者
劉 振業
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.172-206, 2019-08-31

本稿では、中国広東省広州市、X社区「星光老年の家」利用者の麻雀賭博を事例として、「正の賭博」ともいえる「社会的熱」の生成について考察する。星光老年の家とは、中国政府が高齢化社会に対して打ち出した福祉政策である「星光計画」によって建てられた施設である。しかし、建設資金のみが出され、運営資金が考慮に入れられていなかったため、星光老年の家の多くが麻雀遊びのみしか残っていない「福祉的雀荘」へと変化したのである。これに対して、中国の学術的、社会的言説では、星光老年の家を「健康的」に発展させるためには有力な監督システムを作り、麻雀賭博を星光老年の家から排除しなければならない、という主張が繰り返されてきた。星光老年の家の実態を知るため、筆者は2016年9月から約6ヶ月、広州市X社区星光老年の家において、利用者の日常的実践である麻雀賭博に注目し、フィールドワークを行った。その中で、筆者が特に目を向けたのは、利用者の麻雀賭博に対する個人的言説とかれらの麻雀賭博の具体的実践である。既存の研究や新聞記事において、星光老年の家の雀荘化は、老人を賭博に耽溺させるものという負の意味づけがされる。しかし、X社区星光老年の家の利用者たちは、麻雀賭博に明け暮れるどころか、麻雀賭博を利用者たちに適した形態に改良していた。本稿では、そうした独自のルール改変とその分配や贈与関係を記述し、麻雀を通じて生まれた「社会的熱」を考察する。社会的熱とは、賭博によって生成され、賭博が一定の境界内に止まる限り、それが「社会的沸騰(socialeffervescence)」の望ましい形態のことである[Steinmüller 2011:263]。X社区星光老年の家の麻雀賭博を分析することで、利用者の麻雀賭博の実態を把握し、社会的熱を検討することと、「負の賭博」と表象されてしまう行為の中に「正の賭博」としての意義を見出すことを通じて、中国社会のありかたを解明することが本稿の目的である。
著者
合原 織部
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.72-97, 2017-12-31

本稿の目的は、宮崎県椎葉村を対象に、猟師と猟犬との種=横断的交渉のあり方を、日常生活が営まれる里の領域と、狩猟が実践される山の領域の異なる位相から考察することを通じて、各位相に特徴づけられる主体性の相互構築のあり方を検討することにある。九州山間部の狩猟文化を対象とし、猟犬に着目した従来の民俗学研究は、当該地域の狩猟において猟犬がきわめて重要な役割を担うことを指摘してきた。しかし、これらの研究は、狩猟(狩猟伝承)という文脈に限定して猟犬の役割を論じるため、日常生活における猟師と猟犬の関わりが見過ごされてきたことが指摘できる。 また、本稿が両者の関係を考察するうえで着目したいのが、人間と他生物種の交渉を扱い、なかでも人とイヌの関係を重点的に論じたダナ・ハラウェイの研究である [Haraway 2007; ハラウェイ 2013]。ハラウェイは、それらの相互交渉をコンタクト・ゾーンという枠組みを用いて理論化することを試みる。そこでは、コンタクト・ゾーンの特徴を、イヌと人間の絡み合いによる主体性の相互構築が生まれる一方で、複数種がともにあるためには、権力や階層性が深く関与するものと捉えている。本稿も先行研究と視点を同じくし、椎葉村の猟師と猟犬の交渉の場では、上記のコンタクト・ゾーンの特徴が認められることを論じるものである。しかし、本稿では、それらの特徴が、猟師とイヌの接触領域が山であるのか里であるのかによって大きく異なることを示す。上記の民俗学研究やハラウェイの研究は、共通して、イヌと人間の接触領域を一元的に捉えてきたことを指摘できる。本稿では、椎葉村の猟師と猟犬の相互交渉を、猟犬の飼育、狩猟の実際、猟犬の怪我と死、コウザキ信仰といったトピックから検討することを通して、従来の研究では見過ごされてきた里と山という異なる領域間を横断することによって猟犬が全く異なった存在となって立ち現れる諸相を考察する。The purpose of this paper is to examine the natures of trans-species engagements between hunters and hunting-dogs that have been observed in the two distinctive domains of a village and a mountain in Shiiba, Miyazaki. It also investigates how the conception of the subject has been co-constitutively made by the entanglements of those species in these domains. This study aims to contribute to expanding the existing knowledge of two different areas of studies; folklore studies focusing on hunting culture and hunting-dogs in the Kyushu area, and those studies focusing on human-dog entanglements from the perspectives of multispecies ethnographies. The folklore studies mentioned above have pointed out that dogs play the most important roles during hunting. However, it could be argued that those studies only focus on the roles of dogs within the context of hunting. Thus, a further investigation is needed to learn about the natures of relationships that hunters and dogs have in everyday lives in a village domain. Recent multispecies ethnographies focusing on the relations between humans and dogs have introduced the concept of 'contact zone' to analyze the space where those relations emerge [Haraway 2007]. Those studies consider 'contact zone' as a space where the selves are co-constitutively made through the interactions of humans and dogs; however, in order for different kinds of beings to live together in such a space, hierarchical relations are also involved. This study shows that the concept of 'contact zone' could be also applied to the place where hunters and dogs' relations emerge in Shiiba. However, this study argues that the concept of 'contact zone' largely differs when it is applied to human-dogs' relations as they exist in the village domain and in the mountain domain. In that sense, it could be argued that folklore studies and multispecies ethnographies above have both treated human and dogs' 'contact zone' one-dimensionally. Instead, by examining their entanglements through the topics of feeding dogs, actual hunting practices, injuries and the death of hunting-dogs, Kouzaki ritual, it will show that dogs become very different existences by crossing the boundaries of the village and the mountain.
著者
大戸 朋子 伊藤 泰信
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.207-232, 2019-08-31

本稿は、腐女子と呼ばれる男性同性愛フィクションを嗜好する少女・女性の二次創作活動とメディア利用を対象とし、彼女たちがどのようにコミュニティを形成し維持しているのかについて、作品やキャラクタへの「愛」という不可視で不可量なものを議論の導きの糸として明らかにすることを目的としている。二次創作コミュニティは、二次創作者らの原作に対する「愛」によって形成されている。しかし、原作に対する解釈は個人によって異なっており、「愛」をめぐってコンフリクトが発生する。本稿では、このコミュニティ内で発生したコンフリクトが、2種類の対応によって調停されることが明らかとなった。1つ目は、二次創作者が言行一致の姿勢を取っている/いない、原作のキャラクタや設定から逸脱し過ぎている/いないなどの基準によって、原作に対する「愛」の具体化である二次創作作品を評価し、「愛」がないと判断した場合、コミュニティのソトに押しやり、原作への「愛」を持つ者同士のコミュニティを維持しようとする。2つ目は、過度な性描写や暴力表現などが盛り込まれた二次創作作品であっても、肯定的なコメントを送ったり、無視をして評価を行わないことで、メンバ間の衝突を回避し、コミュニティを維持しようとする、という調停である。
著者
田川 夢乃
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.95-121, 2019-08-31

本論は、フィリピン、マニラ首都圏M市の日系カラオケパブ(JKTV)の事例から、金銭を介した交換関係における親密性を検討することを目的とする。ここでは、売買春、セックスワークといった対人接客的性サービス業における「商品」をめぐる議論に基づき、JKTVにおける「サービス提供者」としてのフィリピン人女性と「顧客」としての日本人男性の関係性において金銭と引き換えに提供される「モノ」とは何かを考察する。売買春は、お金を用いた交換と社会関係に関して、最も議論されてきたもののひとつであろう。売買春をめぐっては、そこで取引されている商品が、売春者の身体や人格の一部であるのか(「性の商品化」)、性的なサービスであるのか(「セックスワーク」)が問題とされてきた。本論は、顧客男性の射精を促すサービスを含まない、売買春のグレーゾーンに位置づけられるJKTVを対象とし、ここでの「商品」を売春者と買春者の間に形成されるモノとして検討する。JKTV は、生活の文脈を共有しないフィリピン人女性と日本人男性が「サービス提供者」と「顧客」として出会うコンタクトゾーンとして想定される。そこでは、性的関心を含む好意を持った相手との「疑似恋愛」の相互的な働きかけのプロセスが、両者の間に<選択的コミットメント>に基づく文脈限定的な親密性を形成していた。JKTVにおいて顧客によって支払われる金銭は、共通性も共有性も持たない両者の関係性の文脈を代替し、「サービス提供者」との間に親密な関係性を形成しうる「顧客」としての「役割」をもたらしていると考えられる。
著者
安 姍姍
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2014, pp.134-158, 2015-03-31

中国では、出産後の一定期間「坐月子(ズオユエズ)」という産後の養生期間が伝統的に設けられ、食べ物や行動のタブーが定められている。本論文では、中国山西省の都市部の褥婦15人に聞き取り調査を行い、女性達が「坐月子」の期間に経験する葛藤に焦点を当てた。その結果、次の7点が明らかとなった。(1) 都市部では「坐月子」を過ごす場所は自宅や姑の家のこともあれば、家以外の施設(私立病院、産後養生ケアセンター)の場合もある。現在では、世話をするのは姑をはじめとする夫方の女性親族から、職業としての家政婦等のプロに移る傾向がある。(2) 女性はさまざまな行動上の制約を課せられる「坐月子」に不満を持っているが、養生を中心とする中医(中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学)の理論を完全に否定することができない。(3) 「坐月子」等の産後に段階的に行われる儀礼は、褥婦の身体の回復のためだけでなく、地位・役割の転換や家族関係の再調整をもたらす通過儀礼の特徴を備えている。(4) 「坐月子」においては、姑が褥婦の世話をするものとされていたが、女性達は実際には、実母や月嫂の援助を期待していた。(5) 都市部の女性は、伝統に束縛される受け身の立場から、近代・科学の力を使い、身体管理を積極的、能動的に行う主体へと変化しつつある。(6) 女性達は姑の世話を受ける伝統的な「坐月子」を好まないにもかかわらず、姑との関係を確立するために、家族、特に姑の意見に従っていた。(7) 医療化された出産は女性達に伝統的な過ごし方ではなく、より近代的な過ごし方を選ばせるようになっている。 以上のことから、中国の都市部の女性達は、近代医学の力を借りて主体性を確立すると同時に、伝統的な「坐月子」を通じて家族関係を強化したいと考えていると言えよう。
著者
風戸 真理
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.347-366, 2017-12-31

本論では、装い(ドレス)の中でもとくに装飾機能の強い身体装飾に焦点を当て、日本の女性の子どもがおこなう身体装飾の時間変化、その過程で直面する葛藤、そしてやがて大人になった女性の身体装飾と社会の関係を記述した。その上で、身体装飾に関する子ども・大人・社会の交渉と、審美性をめぐる規範・流行・便宜について考察した。なお身体装飾は、アクセサリーの着用、身体彩色(化粧)、身体変工(ピアス、タトゥーなど)の3つに分類した。結果としては、第一に、現代日本の子どもの身体装飾は学校という制度の中で、化粧を端緒として開始されていた。そこでは審美性や娯楽性とともに、校則への抵抗、教師との交渉、仲間との同調や差異化などの社会関係が重視されていた。第二に、身体装飾は学校・アルバイト・就職活動・親との関係において抑制されていた。とくに身体変工をめぐっては、外的な抑制、内的な抑制、身体的な困難が葛藤要因となっていた。第三に、大人の身体装飾と社会との関係については、流行歌の歌詞を分析した結果、最も日本社会に親和的なのは身体彩色であったが、ピアスやタトゥーに関しても豊かな表現が見られた。アクセサリーを外す行為は私的な親密さを帯びた身体の出現を示し、装身具には公私をスイッチングする道具としての機能が認められた。審美性の観点から、身体装飾をめぐる規範・流行・便宜の関係について検討すると次のことがいえるだろう。人びとは環境とのすり合わせにより社会適応的な装身の輪郭を探り、その範囲内で他者との差異化を図ったり、流行に同調したりすることをおしゃれとして楽しんでいた。また、身体変工には逸脱を含む多様な意味づけがなされていたが、身体の審美的価値を効率的に高めるために、身体変工の実利性、便宜性が評価される側面もみいだされた。