著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.342-365, 1995 (Released:2018-03-27)

新潟県佐渡島の人々の間では,ムジナ(貉(ムジナ))ないしトンチボ(頓智坊)と呼ばれる動物がしばしば話題に上る。この動物は動物でありながら神であり,ときに人間にも変身する存在として知られている。ところが,注意深くこの概念を巡る語りをみてみると,その意味が極めて同定し難いことがわかる。われわれからみると明らかに異質な存在が,同じものであるかのように「あたりまえ」のものとして語られるのである。本稿の目的は,そのムジナについての語りの分析を通じて,従来人類学者が「象徴」という概念を用いる衝動に駆られるとき,いったいなにが起きているのか,また,語りの中でそのような概念の果たしている役割は何か,という問いに答えようとするものである。「あたりまえ」と考えられていることを相対化し,考察するために,従来の中間的話体に加えて,テキストの微視的な分析を行うことにより,われわれ,そしてかれらの中で起こっているコンテキストのくむかえや矛盾の無視などが明らかにされる。
著者
渡辺 公三
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.492-504, 2000-03-30 (Released:2018-03-27)

近代人類学の始まりとして1859年におけるパリおよびロンドンでの学会創立の日付がしばしばあげられる。パリ人類学会の中心的な創立者ポール・ブロカは創立直後におこなった「フランスの民族学的研究」という基調報告をケルトやキムリスなどのraceがフランスのnationを構成することの論証にあてている。国民の人種構成を論証するために使われたデータは, 当時ほぼ唯一の全国的な統計資料だった徴兵検査資料, とりわけ身長統計である。身長という粗雑な特徴に満足していたわけではないブロカは, この報告の後, 晩年まで人種的差異の実証的根拠づけに多くの力を注ぐことになった。その後ブロカの洗練した身体計測技法は, ブロカの不肖の弟子でもあったパリ警視庁に勤務するベルティヨンによって意外な用途を発見された。身体の各部分のサイズが全く同じ成人は稀であり, 身体各部の正確な計測値を一定のしかたで分類のエントリーとして使うことで, 名前にも顔にも頼る事なく個体を個体として同定できるというわけである。この着想は軽犯罪の急増に悩む世紀末フランス市民社会にきわめて有効な身元確認技術を提供することになった。ここには国民国家の根幹をなす軍隊の人員管理技術の整備とともに, 人類学的な国民の人種的同一性確定手法が洗練されてゆき, その手法が警察の犯罪者同定技術として利用されていったという過程があったことが示されている。統治技術から人類学へ, そしてまた人類学から統治技術へという人目にはつきにくい知の技法の往還が見出されるといえよう。この小論ではフランスにおける, 今世紀初頭までのパリ人類学会の動向を, 軍および徴兵制との関係を中心に簡単に検討し, とりわけ徴兵制の変化が, 人類学会で一定の学問的な言説としてどのように議論されていたかについて検討する。それがどのような問題構成の枠のなかでおこなわれ, 人類学固有の問題としてどう受け止められていたのか, そしてそこにわれわれは19世紀人類学のどのような存立条件を見極められるのかを見ていくことにしたい。
著者
橋本 裕之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.537-562, 1998 (Released:2018-03-27)

近年, 人文科学および社会科学の諸領域において文化の政治性や歴史性に対する関心が急速に高まった結果として, 博物館についても展示を巨大な言説の空間に見立てた上でテクストとしての展示, もしくは表象としての展示に埋めこまれたイデオロギー的な意味を解読した成果が数多く見られる。だが, 展示をとりあげることによって表象の政治学を展開する試みは, 理論的にも実践的にも限界を内在しているように思われる。そこで決定的に欠落している要素は, 来館者が構築する意味に対する視座であろう。展示がどう読めるものであったとしても, 来館者が展示された物をどう解釈しているのかという問題は, 必ずしも十分に検討されていないといわざるを得ないのである。本稿は以上の視座に依拠しながら, 博物館において現実に生起している出来事, つまり来館者のパフォーマンスを視野に収めることによって, 博物館における物を介したコミュニケーションの構造について検討するものであり, 同時に展示のエスノグラフィーのための諸前提を提出しておきたい。実際は欧米で急成長しているミュージアム・スタディーズの成果を批判的に継承しつつも, 私が国立歴史民俗博物館に勤務している間に知ることができた内外の若干のデータを演劇のメタファーによって理解するという方法を採用する。じじつ博物館は演劇における屈折したコミュニケーションにきわめて近似した構造を持っており, そもそも物を介したインターラクティヴ・ミスコミュニケーションに根ざした物質文化の劇場として存在しているということができる。こうした事態を理解することは民族学・文化人類学における博物館の場所を再考するためにも有益であると思われる。
著者
中川 敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.262-279, 2003-09-30 (Released:2018-03-22)

この論文の目的は密接に関連した二点からなる:(1)ギアーツの「文化システムとしての宗教」とそれに対するアサッドの批判をあたらしい光の中で再解釈すること、そして、(2)そうすることによって、このような論争から帰結するとされる理論的な袋小路から抜け出す道を探り、同時に、人類学的な比較というもののあたらしい可能性を探り出すことである。アサッドの批判は、端的に言えば、ギアーツの議論はエスノセントリックである、ということである。ギアーツの宗教の定義は、ギアーツ自身の文化に特徴的な宗教、すなわち宗教改革以降のキリスト教の考え方に、無意識にせよ、多大な影響を受けているのである、とアサッドは主張するのである。このような批判からギアーツの議論をすくい出すために、私が主張したいのは、ギアーツの議論をローティの反・反エスノセントリズムの議論の脈絡で読め、ということである。反・反エスノセントリズムとは、簡単に言えば、自らのエスノセントリズムに自覚的であるべきであり、そして、(エスノセントリズムを破棄せよというのではなく、)あくまでそれから出発し、他の立場を受け入れることができるようにそのエスノセントリズムを拡大していくべきである、という考え方である。この立場は、もちろん、単純なエスノセントリズムではない(ちょうど反・反相対主義が単純な相対主義ではないように)。それゆえ、あくまで思考実験の中だけにせよ、ギアーツの自称する立場、すなわち、反・反相対主義と相容れない立場ではないと考えることは可能であろう。反・反エスノセントリズムという光の中で、当該の論文の中でのギアーツの作業は、次のようにとらえられることになる-彼は自らのもつ「宗教」に対するステレオタイプ(パットナムの言葉であるが)をできるだけ解明(カルナップの言葉であるが)しようとしているのだ、と。このようにしてギアーツの作業をとらえると、論争それ白身がまったく異なった様相を呈してくることとなる-それはもはや論争ではなく、対話(あるいは、ローティのお気に入りの言葉をつかえば、会話)なのである。二人の対話は経験に近い概念(「痛み」「苦しみ」「訓練」などなど)と経験に遠い概念、すなわち「宗教」との間を振り子運動する。対話者はさまざまな時代、さまざまな場所から民族誌的事実を引用し、そうすることによって、自らのエスノセントリックなステレオタイプを解明していくのだ。この対話こそが、私は主張したい、人類学の比較の模範演技である、と。
著者
太田 好信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.383-410, 1993-03-30 (Released:2018-03-27)
被引用文献数
2

本論は、文化の担い手が自己の文化を操作の対象として客体化し,その客体化のプロセスにより生産された文化をとおして自己のアイデンティティを形成する過程についての分析である。現代社会において,文化やアイデンティティについて語ることは,きわめて政治的にならざるをえない。したがって,この客体化の過程も,その対象や方法,またその権利などをめぐる闘争に満ちている。文化の客体化を促す社会的要因の一つは観光である。観光は「純粋な文化」の形骸化した姿を見せ物にするという批判もあるが,ここでは,観光を担う「ホスト」側の人々が,観光という力関係の編目を利用しながら,自己の文化ならびにアイデンティティを創造していることを確認する。つまり「ホスト」側の主体性に立脚した視点から観光を捉え直す。国内からの三事例を分析し,「真正さ(authenticity)」や「純粋な文化」という諸概念の政治性を再考する。
著者
鷹木 恵子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.9-24, 2000 (Released:2018-05-29)

イスラームは,その歴史的過程で二つの「知」, すなわちアラビア語でイルムとマァリファと呼ばれるものを発展させてきた。 本論は,イスラーム世界の音文化を,この二つの知の在り方との関連から検討するものである。イルムとは,コーラン学やハディース伝承学に始まる,イスラームの伝統的諸学,また現在では学問一般をも意味する 。それは学習によって習得可能な形式的知識,また差異化や序列化,規範化を指向する知識として捉えられる 。 他方,マァリファとは,イスラーム法の体系化に伴う信仰の形骸化に反発して生まれたイスラーム神秘主義において追求された,身体的修業を通して到達する神との神秘的合一境地で悟得される直観知,経験知を意味する 。 これら二つの知の主たる担い手,イルムの担い手ウラマーとマァリファの担い手スーフィーのあいだでは,音楽に対する解釈やその実践にも異なるものがみられた。ウラマーのあいだでは,当初,音楽をめぐり賛否両論の多くの議論があり,イスラーム法での儀礼規範にはコーラン読誦とアザーン以外, 音文化的要素はほとんどみられない。一方,マァリファを追求したイスラーム神秘主義では,サマーと呼ばれる修業法に,聖なる句を繰り返し唱えるズィクルや, 器楽,舞踊などが取り入れられ,豊かな音文化を開花させた 。またイルムの儀礼実践の中核にあるコーラン読誦では、啓示の意味を明確化し、他者への伝達を指向する。堀内正樹の分析概念に基づくならば,「音の分節化」がみられるのに対して,マァリファの儀礼実践ではズィクルにみるように,自己の内面への精神集中が目指され,神との合一境地ではその声は意味を解体させ,「音の脱分節化」という特徴がみられる。このようにイルムとマァリファの知の特徴の相違と同様,これらの儀礼的実践における音文化的特徴にも,それぞれ異なる特徴のあることを指摘し得る。またイスラーム世界ではコーラン読誦やアザーンは「音楽」の範鴎外とされていることから,より包括的な音の問題の検討の上では,「音文化」という概念が有効であることについても,最後に若干,コメントを付す。
著者
広畑 輔雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.191-204, 1975-12-31 (Released:2018-03-27)

The god Takami-musubi (皇高産霊), the Founder of the Imperial Family, in Japanese mythology seems to be equal to the god Tien-ti (天帝) . Tai-i (太一) or Tien-Huang-ta-ti (天皇大帝) in Chinese mythology. It appears that the myth of Tenno (天皇) , the monarch of Japan, being the descendant of Takami-musubi, was created for the purpose of making him equal with Huang-ti (皇帝) , the monarch of China. If Tenno is the descendant of Tien-ti or Tien-Huang-ta-ti, it follows that he has the right to worship the god Takami-musubi. And by that, he can also have the same privilege of worshiping the heavens as Huang-ti has. Thus, it shows that Tenno had the highest status because his ancestor was the highest god in the heavens. It is my opinion that the god of the Founder of the Imperial Family was created for such a purpose. In considering the reason why Amaterasu was made the Founder of the Imperial Family, we should do so on the basis of the relationship between Takami-musubi and Amaterasu, because Amaterasu was made the Founder of the Imperial Family later than Takami-musubi. Since Takami-musubi was originally made the ancestor god, it can be thought that Amaterasu, the Sun-goddess, was combined with Takami-musubi to become the joint-Founder of the Imperial Family. We can find proof of this in the fact that the Grand Shrines of Ise (伊勢神宮) have an indication of being combined with Tai-i of China. It seems to me that in the Imperial Court of Japan, the religious observation of the Sun-goddess had been performed before the Sun-goddess was made the Founder of the Imperial Family. There is a legend that Ame-no-hiboko (天之日矛) , the prince of Hsin-luo (新羅), came to Japan with a treasure, and that it was made a sacred treasure of the Isonokami Shrine (石上神宮). By examining this legend, I am of the opinion that it was the legend which reflected that the religious observation of the Sun-god had been transmitted from the royal family of Korea. After that the Sun-goddess was elevated to a higher status under the influence of Chinese thought, and finally reached the status of the Founder of the Imperial Family by being combined with the god Tai-i.
著者
窪 徳忠
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1-2, pp.412-437, 1960-03-25 (Released:2018-03-27)

Since the Edo period there has been a prevailing opinion, that the origin of the Japanese Koshin Belief had been derived from Taoism in China, but in recent years Japanese folklorists, with Mr. Kunio YANAGITA as the leader, have come to assert that it was native to Japan. Up to now neither has yet claimed a definite conclusion on this question. The writer thinks that both hypotheses have weaknesses in their methodologies : the former referred only to the literature without reaching into the folk beliefs and customs of the Edo period ; the latter depends only on the results of field work with the presumed ignorance of historical documents. In addition, neither the former nor the latter compare Japanese Koshin Belief in detail with Taoism at all. The writer intends to synthesize the historical records from the Heian period, when Koshin Belief began to appear in Japan, to Meiji Era, with recent field work results, and to compare it with Chinese Taoism and the functions of the Chinese Koshin Belief. He assumed that this method would be the best to determine whether the Koshin Belief has its origin in Japan or not. As the result, Japanese Koshin Belief has come to be judged as the complex of Chinese Taoism, Buddhism including the esoteric form, Shintoism, Shugendo, magical medicine and various Japanese folk beliefs and customs. This study has been published by him under the title of Koshin Belief in Japan. His view-point has been furthermore substantiated by his field research throughout Japan excluding Hokkaido and by his bibliographic survey on this subject. The Japanese folklorist school still insists strongly on the Japanese origin. But he cannot rely on their methodology and is suspicious of how they deal with the data the amount of which in their possession seems not sufficient enough to be handled quantitatively, as well as qualitatively. He can hardly, at present, say whether it was native to Japan, and thinks that he does not need to correct his opinion which Mr. YANAGITA should take into account.
著者
木名瀬 高嗣
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.1-21, 1997-06-30 (Released:2018-03-27)

社会的レヴェルでのアイヌをめぐる問題の浮上や, 学者がそれに対して責任を果たすべきであるという気運の高まりに比して, アイヌに関する「現在」的な問題に対する文化人類学による取り組みの蓄積は依然乏しいままである。本稿は文化人類学におけるアイヌ研究の今後の可能性を模索するため, 日本におけるこの分野の言説の政治性について歴史的に考察する。そこに看取される論理への批判的視点から帝国日本の黎明期以来のアイヌを対象化する学的言説を概観したときに浮かび上がってくるのは, それらの言説が「国民」創出の過程と相関を保ちつつ, 文化的に「同化」していくアイヌの差異を永続的に対象化するレトリックを精緻なものにしていったプロセスである。本稿では, それらの言説のなかでアイヌの「現在」が捨象されることによって具体的現実のレヴェルで展開する「政治」が隠蔽されてきたことを明らかにする。
著者
金谷 美和
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.403-424, 2000-03-30 (Released:2018-03-27)

本論では, 日本民芸運動を事例にして, 日本の植民地という状況下において支配する側にいた人々が, 他者をどのように概念化し, 記述し, 理解しようとしたかを検討することで, 文化表象, ことに物質文化の表象について考察する。「民衆的工芸」=「民芸」という概念は, 大正時代末に柳宗悦を中心とする民芸運動によって作られた。流通機構の変化や機械生産の導入などにより衰退していた, 地方の手工芸による日用生活用品を取りあげて「民衆的工芸」=「民芸」と名付け, それらのもつ美的価値と, 「地方性」, 「民衆性」という性質から, 真正なる日本文化を示すものであると主張した。民芸運動の活動は, 日本が植民地支配下においていた中国北部においても行われ, その言論は, 日本の中国支配, さらには「満州国」や「大東亜共栄圏」を支持するものとなっていった。ここでは, 中国北部の民芸運動の中心人物であった吉田璋也と, 中国での運動から距離をおいていた柳宗悦の言説を比較し, 異なる文化を尊重することから始まった民芸運動が, 日本の植民地支配を支える方向に向かっていった原因が, 柳の民芸論に内包されていたことを明らかにする。そして, 文化表象には創造性と支配の2つの側面があること, 異文化表象の政治性を批判するだけでなく, 文化表象の創造性を問うことで文化表象についての議論が新たな方向に向かう可能性を示唆する。