著者
松山 あゆみ
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.11-24, 2010-12-20

ジークムント・フロイト(1856-1939)の初期の草稿である「心理学草案J(1950 [1895]) は再評価されているが,それに対し,その他の初期の草稿には,いまだ十分な光があてられておら ず,正確な読解すらほとんどなされていない.本稿では,メランコリーというテーマに着目し,晦 渋な初期草稿のうちの一つ,草稿GIメランコリーJ(1895)を取り上げる.フロイトがメランコ リーを主題として扱ったのは,この草稿以外には,メタサイコロジー諸編のー論稿「喪とメランコ リーJ(1917 [1915J) だけである.両者には約20年もの歳月の隔たりがあるにもかかわらず, リ ビード経済論的見地から両者を比較してみれば,メランコリーに対するその基本的見解はほとんど 一致している.これを明らかにすることにより,精神分析理論に対する草稿G のリビード論的意 義を見出すことが本稿の狙いである.
著者
戸田 潤也
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-78, 2009-12-20

『人倫の形而上学の基礎づけ』には定言命法および定言命法と見なされるものが様々な形で提示されている.それゆえ,定言命法全てを正確に数え上げ分類することは非常に困難である.こうした中,定言命法を五つの法式に大別するペイトンの解釈は,現在に至るまで多くの研究者によって踏襲されている.この解釈は同時に定言命法の「基本法式」を「道徳性の普遍的な最高原理」とするものであるが,このことは意志の自律を「唯一の」「道徳性の最高原理」とするカントの立場と相容れないように思われる.本稿では,ペイトンの解釈をテキストに定位して確認し(第一節),その解釈とは異なった角度から意志の自律の特性を明らかにし(第二節),その正当性を確保する(第三節).これによって,意志の自律の解明を行なうその後の同書の議論への道筋をつけることができる.
著者
津田 壮章
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.135-151, 2020-12-20

本稿は, 京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」を主な題材に, 「自由な校風」という教育実践の意義と限界を考察するものである. 同校では, 戦後直後から表現の自由が重視されていた. 当初は仮装行列であった「仰げば尊し」は, 1960年代にデモンストレーションとなる. 1980年代には教育実践としても位置づけられているが, 2010年代の校舎改築及び校風改革によって廃止された. しかし, 主権者教育が推進される現代においてこそ, 自由で自立した市民を育てる校風として再評価できるのではないだろうか.
著者
大山 万容
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.121-132, 2012

本稿では, フランスにおけるニューカマーの子どもに対する受け入れ政策と, 雷語教育支援の特般について論じる. フランスは国際社会においては欧州評議会の言語政策部門が提唱する複言語主義(plurilingualism) を標榜するが, 国内の移民に対する政策にその主張はどのように反映されているのだろうか. 本稿ではフランスにおける移民の定義について概観した後, 政策の実践例として, フランスの「ニューカマーおよびロマの子どものための学校教育センター」(Centre Academique pour la Scolarisation des Nouveaux Arrivants et des enfants du Voyage :CASNAV) を取り上げ, その設立に至る背景, ニューカマーの子どもと学校教師への支援のあり方とその課題を明らかしその取り組みにおける複言語主義との組離を示す. 最後に社会統合のための複言語主義教育の可能性について考察する.
著者
川北 天華
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.101-114, 2018

Charlotte Brontëの『ジェーン・エア』(Jane Eyre, 1847)は出版当初から傑作として高く評価された一方, 話の展開が不自然, また主人公Janeの行動が不自然で一貫性がないといった批判がなされてきた. 特に, Janeが一度Rochesterの元を去りながら, ある日突然遠く離れた彼の呼び声を聞き, 彼のもとに戻って結婚するという筋書きには反発が多い. これらの批判はJaneの行動原理が正しく理解されていないことに起因する. 本稿では, Janeの行動原理を分析する手掛かりとして, 第12章で彼女が口にする"power of vision"という表現に注目し, このvisionの力こそがJaneの求めるものであり, Rochesterとの結婚がその願望を充足させるという仮説を立てる. ここでのvisionは従来視覚の意味で捉えられてきたが, 本稿ではこれに留まらず, 予示, 想像という別の解釈を導入する. これにより, Janeの行動は一貫して不思議な予示の力に導かれていること, また, 彼女の成長は作者Charlotte Brontëの想像力の表現の発展と呼応していることが示される. JaneがRochesterと結婚するのは, 彼となら彼女が求めていたvisionの共有が叶うからであり, またそれは, 読者とvisionを共有したいという作者本人の欲求に根差すものである.
著者
細川 真由
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-217, 2018-12-20

第一次世界大戦後, 未曾有の大戦争を経験した世界は, 国際連盟の創設や多国間条約の締結を通じて国際平和の構築を図った. 中でも1928年に締結された「国策の手段としての戦争放棄に関する条約」(不戦条約)は, フランスとアメリカとの協議から生まれた条約であるが, 最終的には多くの国が参加し, 史上初めて「国策の手段としての戦争」を禁止した画期的な条約となった. そして, この条約の成立にはアメリカにおける戦争違法化運動が大きな影響を与えたとして, 多くの先行研究の対象とされてきた. その一方で, 不戦条約をめぐるフランス外交に関する研究はほとんど見られない. しかし, 条約成立に至る複雑な交渉過程におけるフランス政府の意図やその背景にあるものについて検討を加えてはじめて, 不戦条約の意義と限界を明確にすることが可能となる. 本論文では, 政府文書・外交文書・同時代の著作等の一次史料, および先行研究に基づき, 不戦条約をめぐるフランスの外交的背景を考察した. その結果, 不戦条約は, 従来考えられてきたような理想主義的性質とはかけ離れた, 現実主義的な交渉過程を経て成立したことが明らかとなった.
著者
細川 真由
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-217, 2018

第一次世界大戦後, 未曾有の大戦争を経験した世界は, 国際連盟の創設や多国間条約の締結を通じて国際平和の構築を図った. 中でも1928年に締結された「国策の手段としての戦争放棄に関する条約」(不戦条約)は, フランスとアメリカとの協議から生まれた条約であるが, 最終的には多くの国が参加し, 史上初めて「国策の手段としての戦争」を禁止した画期的な条約となった. そして, この条約の成立にはアメリカにおける戦争違法化運動が大きな影響を与えたとして, 多くの先行研究の対象とされてきた. その一方で, 不戦条約をめぐるフランス外交に関する研究はほとんど見られない. しかし, 条約成立に至る複雑な交渉過程におけるフランス政府の意図やその背景にあるものについて検討を加えてはじめて, 不戦条約の意義と限界を明確にすることが可能となる. 本論文では, 政府文書・外交文書・同時代の著作等の一次史料, および先行研究に基づき, 不戦条約をめぐるフランスの外交的背景を考察した. その結果, 不戦条約は, 従来考えられてきたような理想主義的性質とはかけ離れた, 現実主義的な交渉過程を経て成立したことが明らかとなった.
著者
西島 順子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.153-167, 2018

本稿は, 1970年代のイタリアにおいて展開した民主的言語教育の複言語主義の概念と起源を, トゥッリオ・デ・マウロの言説をもって解明した. 民主的言語教育は欧州評議会の言語教育理念である複言語主義と親和性があるといわれているが, 両者は政治的な文脈も時代も異なるものである. 民主的言語教育を学界に提唱した言語学者デ・マウロは, それを提唱する以前の1960年代から1970年代にかけて, 論考などにおいて複言語主義を意味するplurilinguismoを使用していた. デ・マウロが使用するこれらのplurilinguismoを分析・分類したところ, 三つに分類された. 第一に「複言語状態」(ある領域において複数の言語が共存する状態, つまり多言語状態・一つの個別言語にさまざまな言語の性質が共存する状態・言語に多様な表現記号が存在する状態), 第二に「複言語政策」(多言語地域において政治的に複数の言語使用を認める政策), そして最後に「複言語能力」(個々人の言語体験によって蓄積された複数の言語を, コミュニケーションや創作活動において用いる能力)を意味していた. また, その起源を考察すると, 「複言語状態」「複言語政策」はソシュールの理論や記号学などの一般言語学, そして歴史的・地理的言語研究に由来することが判明した. その一方で「複言語能力」はデ・マウロの政治思想を内包しており, グラムシの言語哲学の影響を受け「複言語教育」としての民主的言語教育へと展開したことが明らかとなった.
著者
小島 基洋
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.17-28, 2017

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(一九七九年)は, 語り手の三人目の恋人を襲った悲劇的な死を隠蔽すべく, <<虚偽>>の詩学を用いて書かれている. この目的のために, 村上は「ハッピー・バースデイ, そしてホワイト・クリスマス」という<<虚偽>>のオリジナル・タイトルを付け, 最終的なタイトル「風の歌を聴け」が付けられた後には, カポーティの短編「最後のドアを閉めろ」という<<虚偽>>の出典を指示する. また<<虚偽>>のSF作家デレク・ハートフィールドの自死について語り, 物語の<<虚偽>>の焦点を当てるのは, 彼女が死んだ1970年4月ではなく, 8月である. 更に, 彼女への鎮魂の意味合いが強い「風の歌を聴く」という表現の代わりに, 「雲雀の唄を聴く」という<<虚偽>>のフレーズを使用する. 恋人の死という余りに重いテーマは新人作家であった若き村上春樹には表現することが困難であったのだが, 彼は後年, 『ノルウェイの森』(1987年)において, それを見事に表出するに至る.
著者
辰已 知広
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.39-48, 2020

本稿は, 1954年に映画製作を再開した日本の映画会社「日活」の歴史を, 衣裳の検証を通じて解明することを試みるものである. 映画衣裳については, 欧米の研究者が1970年代頃よりその重要性を指摘し, 直近三十年程で研究を充実させた経緯があるものの, 日本映画の衣裳そのものを詳細に分析した先行研究はほとんど存在しない. こうした状況に鑑み, 本稿では, 日活が一時中断していた映画製作を再開した1954年から62年までに公開された代表的な作品を取り上げ, 日活の歴史とその独自性を, 衣裳を通じて振り返るとする. 第1節では, 日活専属のスクリプターであった白鳥あかねの証言をもとに, 当時の日活が森英恵に多くの衣裳製作を依頼していたことや, 撮影所システムの下で衣裳がどのように扱われ, 最終的に決定に至ったのかを明らかにし, 整理する. 続く第2節では, 文芸作品からエンターテイメント路線への変更によるアクション作品までにおける, 特徴的な男女の衣裳をピックアップし, それらの機能や意味を, 日活衣裳部員の証言を交えつつ, 時代の流れや風俗と共に考察する. 最後に第3節では衣裳の変遷をジェンダーの観点から捉え, 当時の日活が「男性路線」と言われつつも, いかに女性観客を意識した男性像を視覚化していたかを論証し, 結論へと導く.
著者
平井 克尚
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.13-26, 2011

ウルマーのイディッシュ期の映画『グリーン・フィールド』を論じる.これまでこの映画に関しては,文化的側面とフィルム・テクスト的側面の差異がさして意識されることなく調和的に論じられてきたが,本論では,これまで論じられてこなかった,イディッシュ文化とフィルム・テクストとの軋みの部分に焦点をあて,この観点を軸に論じる.それは,ウルマーによるこの映画がマイノリティの文化的共同性を単に補強するものではなく,様々な映画的記憶により織り成されたテクスチャーであることを示すことになるであろう.最初に,この期の映画を検証するにあたりイディッシュ,ウルマー,イディッシュ期のウルマーについて見る(I).次に,この期のウルマーの映画『グリーン・フィールド』の製作経緯を見る(II).引き続き,この映画の最後のシーンに着目する(III).最期に,この映画のフィルム・テクストを分析する(IV).This article sets out to argue about the film Green Field directed by E. G. Ulmer in the yiddish period, from a viewpoint of the dissonance between the yiddish culture and the film text. This film is not just an attempt to reinforce the cultural community of the ethnic minorities. It should be seen as a landmark film for Ulmer with a whole array of cinematic memories behind it. First we survey the yiddish film, E. G. Ulmer and his yiddish period to examine his films in the yiddish period (I).Second the making process of the film Green Field in his yiddish period is examined (II).Third we take notice of the last scene of this film (III).Finally through a close analysis of the cinematic text, we try to place Green Field in the context of Ulmer's career as well as American film history (IV).
著者
真鍋 公希
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.39-51, 2019

作田啓一は, 生の経験の中にあらわれる非合理性を捉えるための理論体系の構築に一貫して取り組んだ社会学者である. 先行研究では, 彼の生の経験への関心が中心的に論じられてきた. しかし, 作田の特徴は, 生の経験への関心だけでなく, それとは矛盾するように思われがちな体系化への志向性をも兼ね備えている点にあるように思われる. この問題意識に基づき, 本稿では作田の思想における理論の位置づけについて検討する. 本稿では, まず, 『命題コレクション社会学』の付論に注目し, 水平的関係と垂直的関係という二つの関係性を抽出する. 続いて, 現代社会学と小林秀雄に向けた作田の批判を検討し, 批判の要点が, 両者がともに, 現実を水平的/垂直的関係に還元して論じようとする点にあることを明らかにする. 最後に, 作田の犯罪分析を取り上げ, 彼が水平的関係と垂直的関係の両方を論じようとしていたことを指摘する. 以上から, 作田は社会学的な説明(水平的関係)と生の経験(垂直的関係)の二つを結びつけた理論的視座の構築を試みていたことを指摘し, その理論によって一つの「全体」を仮構していたと結論づける.
著者
ベレック クロエ
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.29-41, 2015

薙刀とは, 本来長い柄の先に反り返った長い刃をつけた武器であるが, 一般的には「なぎなた」が女子の活動としてとらえられており, 学校のクラブ活動として発展している. 日本全国で盛んに行われているが, 国際的には1990に国際なぎなた連盟が発足し, 現在は14ヶ国が加盟している. なぎなたは女子向けの武道として長い歴史を持っているため. 日本においては女子のものとして認められており, なぎなたには女性的なイメージが存在している. そして1960年代と1970年代にアメリカ・台湾・ヨーロッパにおいてなぎなたの稽占を始めたのも女性だった. ただ, 海外ではなぎなたが, 僧兵と武士が戦場で用いた武器としてのイメージを通じて普及したため, やがて男性に人気が高まり, 1990年代以降, なぎなたの愛好者は男性のほうが多くなっている. 全日本なぎなた連盟はこの現象に対して, 反対を表明しておらず, 男性のなぎなたを日本の伝統文化の活動として認め, 日本人男性にもなぎなたを奨励するようになっている. 本稿は, なぎなたの園際発展を通して, なぎなたのジェンダー・イメージがどのように変化したのか明らかにした.
著者
牧野 広樹
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.115-126, 2018

本稿では, フリッツ・イェーデの『青年運動か, それとも青年の育成か』(1917年)における指導者像を, 彼の教育観に影響を与えたルソーの消極教育(Negative Erziehung)における指導者像や, 20世紀初頭におけるドイツの改革教育を代表するグスタフ・ヴィネケンの指導者像と照らし合わせつつ明らかにする. フリッツ・イェーデの指導者像は, いわば「導かない指導者」ともいえる, 語義矛盾を含んだ指導者像であり, 指導者が青年を導くのではなく, 両者が対等に向き合って互いに関係性を形作るという共同体モデルを起点として考え出されたものであった.Das Wort „Führer" lässt auch heute noch an Adolf Hitler, der als charismatischer Diktator das Dritte Reich beherrschte, denken. Nach einem für das 20. Jahrehundert typischen Führerbegriff führt er mit Charisma und heldischem Wesen die Menschen an. Eine solche Auffassung herrschte im Laufe des 20. Jahrhunderts nicht nur in Deutschland, sondern auch in anderen Nationen oder Regionen weltweit vor. Fritz Jöde jedoch, einer der Vertreter der Jugendmusikbewegung, hatte andere als die damals typischen Ansichten zum Führerbegriff. Die vorliegende Abhandlung greift Jödes Führerbegriff und, im Zusmmenhang damit, seinen Gemeinschaftsgedanken auf und zeigt im Vergleich mit Gustav Wyneken, der Jödes Erziehungsgedanken beeinflusste und zugleich einen typischen Führerbegriff vertrat, die Gemeinsamkeiten und Unterschiede im Denken Wynekens und Jödes auf. Unter einem „Führer" wird im Allgemeinen jemand verstanden, der aus seinem ausgeprägten Führerwillen heraus im Zentrum einer Gemeinschaft steht und ihre Mitglieder anführt. Jöde andererseits hat das Idealbild des Führers ohne Führerwillen konzipiert. Der ideale Führer ist demnach nicht der Mensch, welcher der Jugend irgendeine Richtung weist, sondern derjenige, der im Verkehr mit der Jugend sich selbst sucht und ihr als Vorbild der Selbstwerdung dient. Nach Jödes Ansicht ist es genug, dass der Führer der Jugend eine Methode zur Selbsterziehung vermittelt, denn für ihn bedeutet Erziehung nicht, dass die Jugend den Anweisungen des Führers folgt, oder dass er sie über programmatische Inhalte wie etwa parteipolitisches Programm belehrt.
著者
道下 敏則 髙橋 輝雄
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-15, 2018

この論文で、可搬型で自立型の小型フ―コーの振り子が理想的な振る舞いを実現する新しい方法が記述される。振り子の回転角の位相とその角作用に対する二次元の摂動ハミルトン方程式の解析結果から、フーコーの振り子はフーコーの回転時間以上にわたり平均化された角作用がゼロとなる場合に理想的な振舞いを呈することが新たに予測された。これは、角作用の詳細な観測実験によって、充分に実証された。フーコーの回転速度自身は緯度に依存するが、開発された装置で異なる緯度における観測結果から、理想的フーコーの回転を実現する制御パラメーターの最適化条件自身は緯度依存性がない事が確認された。さらに、制御用パラメーターに依存して、振り子の回転のリミットサイクル運動や位相のロッキング現象も観測された。これらの現象の発生条件は、アドラー方程式を用いて検討された。
著者
谷川 嘉浩
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.107-118, 2017

FD義務化を経て, 外来的なFDも日本国内に定着したように見える. しかし, 実際のFD実践・FD概念は多義的で錯綜しており, 交通整理を要する. 本稿では, FD概念を整理し, FDの根本目的を示した上で, それに適合的な思想を検討し, 効果的なFDの理論的条件を明らかにする. FDのミッションは「教育」であり, そこでは「柔軟な適応力」と呼べるような, 反省的探求を営む力の涵養が目指されている. 柔軟な適応力の内実を解明するために, 人間は現状に安定しない「未熟さ」があり, それが成長可能性を担保すると主張した, アメリカの哲学者ジョン・デューイの教育哲学を参照する. ここでは, 彼の「反省的注意」概念を検討し, その成果をアメリカの社会学者R. セネットのクラフツマンシップ論から捉え直すことで, FD活動それ自体が, 折り重なる反省的注意を大学全体に要求するような, 共同的な反省的探求の側面を持つことを示す. なお, 末尾では2017年度に義務化されたスタッフ・ディベロップメントにも一定の評価を行う.Faculty Development (FD) has become common in Japan. But it seems to be ineffective because the ideas of FD in Japan are lacking some holistic view. This paper aims at clarifying some theoretical conditions of the effective FD. The researchers have pointed out that its primary ends lie in education. I will define its educational ends in the light of the industrial world's need for FD. The capacity they need may be called the "power of the flexible adjustment", and this can be identified with the "reflexive attention" which John Dewey, an American psychologist, set up as the ends of his educational philosophy. According to his thoughts, I will elucidate some bases to develop reflexive attention which enables us to acquire the habits of reflexive inquiry. In The Craftsman, Richard Sennett, an American sociologist, insists that Dewey's philosophy has some practical implications. From his viewpoint, FD may be interpretedas the communal or cooperative craft of education that needs faculty members to have the reflexive regards for each. This view would imply the importance of having "a holistic view" by crafting the communities for FD.
著者
松波 烈
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.81-93, 2016

ドイツの詩人ヨハン・ハインリヒ・フォスは, 一般にはホメロス翻訳と自作牧歌詩によって知られているが, ドイツ譜韻律論の分野では, その先鋭的な擬古主義によりたびたび言及され, 多くの議論を呼んできた.フォスの理論が詳細に研究され評価されるようになっている今日でも, 詩学の主著『ドイツ語の時量時測』のテキストを読み解きその思想の射程を精確に見定めようとする議論はなお見当たらない.本稿はこの作業を行いながら実作を併せて対照し.はたしてフォスが旧世紀の遺物としての古典模倣者にすぎないのかどうか, あるいはその詩行に時代を突出する可能性が秘められているのかを検証する. This paper aims to assess Humc's handling of the "liberty of indifferente" and to reveal some arbitrary selections in his philosophy. Although Hume refers to a certain "Sensation" regarding the liberty of indifferente, he firmly rejects it and accepts the liberty of spontaneity. However, this fact is cicarly in conflict with the attitudc of Hume's philosophy that regards sensation, passion, feeling, etc. as intemal impressions that ftindamentally constitute aIl our perceptions and knowledge. From what Hume states about liberty, it could naturally bc inferred that there is an impression of the liberty of indiffcrcncc in it and that we recognize liberty by way of this impression. The reason why Hume does not incorporate the liberty of indifferente as an impression into his philosophical system is, 1 think. that he sees human beings excIusively from the particular perspective of a "philosopher, " and regards knowing causality as more important for human beings. I conchide this paper by stating that according to the initial purpose of his philosophy, Hume should have accepted the liberty of indifference as well as the one of spontaneity, and from that perspective, should have considered how our two liberties arc concerned with morality and religion.
著者
福田 安佐子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.55-68, 2016

ゾンビとは, 歩く死者, 生きている死者と呼ばれ, それは, 腐敗した身体を引きずってのろのろと動き, 集団で人問に襲いかかる.噛み付かれた人間は, 生きたまま肉体を食われるか, うまく逃げたとしても, 自らがゾンビへと変化し, 理性や感情を失い, 他の人間を襲いはじめる.このようなゾンビ像は, 1970年を前後して.ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リピングデッド5をはじめとする三部作の世界的なヒットによって生み出された.しかしながら, 2002年以降のゾンビ映画は, そのより凶暴な特徴により〈走るゾンビ〉や〈ゲームゾンビ〉と呼ばれ, 従来のものとは異なるものとして説明されている. 木稿では, ゾンビ映画史を振り返りながら, 1930年頃に西カリブ諸島を舞台に生み出されたゾンビが, ロメロの作品によって, その造形と物語構成の点でいかに変容したかを説明する.この時, ロメロゾンビとは, 前述の特徴に加え, 人間に似た怪物, という特徴を獲得していた.一方で, ロメロゾンビは当時のホラー映画におけるゴアジャンルの影響を受けることで, より残虐性を増したまた別のゾンビ像を形成した, つまり, 人問に似た怪物としてのゾンビと, 腐敗しよりグロテスクなゾンビである.双方はともにそれぞれの仕方で観客の恐怖を煽った.く〈走るゾンビ〉においては, この二種類のゾンビが様々な仕方で一つの映画の中に共存している, この共存の特殊な事態にこそ〈走るゾンビ〉の特異性が存在することを明らかにする. We know what zombies are. They are referred to as the "walking dead" or "living, dead". They have started to decompose, zombies walk in a tottering. manner, and they attack humans en masse for flesh meat. If a zombie attacks someone, that person will either be eaten alive or if he is lucky to escape, the victim himself will transform into a zombie and start to attack others. Such an image of zombies was rendered around the 1970's, by the Zombie trilogy filmed by George Andrew Romero (Night of the Living Dead, Dawn of the Dead and Day of the Dead). However, zombie films produced after 2002 portray them in another way. Zombies in these films arc called "running zombie" or "game zombie" and it is explained that they are vastly different from Romero's zombies. In this paper, we reconsider the historical view of zombie films and how zombies, who were in fact born in the West Indian nation of Haiti around 1930, have transformed in terms of representation and narrative thanks to the influence of Romero's works. Romero's zombies, in addition to the above-mentioned features, were human-like monsters. Furthermore, the effect of the gore genre, where Romero's zombies are also classified, created another image of the zombie : the one with more brutality and blood-shed. These two types of zombies, one as a human-like monster and another more grotesque and bloody, exist in their own works and frighten audiences in their own ways. Yet, in works containing "running zombie", these two types of zombies co-exist in the same film in various ways. It is in this special co-existence that a specificity of the "running zombies" is found.
著者
伊藤 弘了
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.31-44, 2016-12-20

本論文では是枝裕和の映画作品における入浴の役割を論じていく.第1節では, 是枝のフィルモグラフィを辿りながら, 入浴場面が「他者との親密な関係性を構築する場」として機能している点を確認する.入浴のこの機能は, しばしば「血縁によらない家族関係」という是枝作品の主要なテーマと結びつく.登場人物たちは風呂の水を共有することで家族になっていくのである(『幻の光』[1995年], 『誰も知らない』[2004年], 『花よりもなほ』[2006年], 『歩いても歩いても』[2008年]), その裏返しとして, 他者と水を共有しない入浴(一人きりの入浴)は, その人物の孤独をあらわすことになる(『ワンダフルライフ』[1998年], 『歩いても歩いても』, 『そして父になる』[2013年], 『海街diary』[2015年], 『海よりもまだ深く』[2016年]).第1節の議論を踏まえて, 弟2節では『DISTANCE』(2001年) に入浴場面が完全に欠けている意味について考察する.この作品では, 他者との関係性の不全が描かれており.入浴の欠如はこのテーマを体現しているのである, 水の主題系に彩られた本作では, 他者と関係を深めるための装置として, 入浴の代わりにプールが用いられることになる. This paper sheds light on the function of taking baths in Hirokazu Kore-eda's films. Section 1 demonstrates that throughout his filmography, bathing creates intimate relationships between characters. The function of baths is linked with the theme of families without blood relationships, one of the most important subject themes of Kore-eda's works. His characters create families by taking baths together (Alaborasi 1995 ; Nobody Knows 2004 ; Hone 2006 ; Still Walking 2008). Contrarily, taking a bath alone represents the solitudes of the character (After Life 1999 ; Still Walking ; Like Father, Like Son 2013 ; Our Little Sister 2015 ; After the Storm 2016). Based on this argument, section 2 examines Distance (2001). This film completely lacks a bath scene. It depicts the disorder of intimate relationships, and the lack of bath scenes embodies this theme. Yet, Distance substitutes the scene of swimming pools with the bath scenes and thereby articulates the relationship between water and intimacy as other Kore-eda films do.