著者
酉水 孜郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.12, no.6, pp.527-540, 1936

Since there is a large variety of vegetables cultivated by very intensive methods in the vicinity of T&ocirc;ky&ocirc;, it is possible to find various forms of cultivation, showing the regionality in agriculture of this part of the country.<br> The various forms of cultivation we see are mainly results of thenature of the soils, -climate, crop-rotation, and the intensive method of cultivation used.<br> As the loamy soil of the Musasino Upland, west of T&ocirc;ky&ocirc;, is light and readily holds moisture, barleys on the upland are cultivated by means of the dotted method (Fig 2), which makes it easier for the. farmers to avoid frost damage.<br> On the sandy soil of the Tama-gawa and Ara-kawa flood plains, barleys are cultivated, in line form (Fig. 3), because here frost scarcely does any damage.<br> To avoid the severe frost and the cold N. W. wind in winter, which often injure vegetables, the farmers use coverings to protect the vegetables from frost, but in such a way as not to shade them entirely from sunshine (Fig. 5, 6, 8, 10). The vegetables are also planted on the southern side of the barleys so as not to be damaged by N. W. winds (Fig. 11).<br> During the season from spring to summer, owing to circumstancesof crop-rotation and climate, the winter barleys are not cultivated so. intensively. In that case there are various forms of cultivation (Fig. 9, 12), and the wide spaces between the furrows of barleys is used for some kinds -of vegetables; thus certain forms of inter-tillage can be noticed (Fig. 14, 15 16, 18).<br> As the crop rotates very quickly in this neighbourhood, we have consequently many types of inter-tillage, thus showing the seedling and cropping periods of each plant at the same time (Fig. 17, 19). Inter-tillage applied only to vegetables also may be noticed in this part of the country (Fig. 20, 21) 23, 24).
著者
松本 繁樹
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.38, no.10, pp.630-642, 1965-10-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
4

筆者は中部地方建設局磐田工事事務所保管の資料をもとに,大井川下流部 (0~23km) 問における最近の河床変動の実態を検討し,ついでこれと砂利採取との関係について考察を加え,さらに今後の採取可能量にまで論及したが,それらを要約するとつぎのようになる. 1) 大井川下流部の1963年度の平均河床高を,1955年度のそれと比較してみると,全ての区間での河床低下が認められ,低下量の最大は73.6cm, 最小は1.6cm, 全区間の平均では33.5cmとなる. 2) つぎに総土砂変動量から河床の変動をみると, 1958および1961の両年度で堆積となった以外は,全ての年度で洗掘を示し, 1958年度以降6年間の総計では,差引約370万m3の洗掘という結果になる. 3) 大井川下流部での砂利採取は,近年急激な勢で増加していて, 1958年度以降1963年度までの採取許可量は,合計約320万m3にのぼり,その推定採取量では640万m3ないしはそれ以上に達するものとみられる. 4) 一方,同じ6年間の川自身による堆積量を逆算してみると,約270万m3となるが,この値は先の砂利採取量の2分ノ1以下にしかすぎない. つぎに上記の資料をもとに, 1kmの区間毎の土砂変動量(洗掘量)洗掘量と砂利採取量との関係を吟味してみると,両者には一部の区間を除いて,かなりの相関が認められ(相関係数r=0,602), その関係はy=0.351x+13.92なる式をもって表わすことができる,また砂利採取量のみから算定した河床低下量と実測による低下量との問にも,ほぼ類似したかなりの相関が示され(r=0.635), その関係はy=0.469 x+5.48という式で表わすことができる. 8) 下流部河床内における1963年度末現在の砂利の採取可能量は,約850万m3と計算されているが,実際にはこれにさらに上流からの流入土砂量(年間約70万m3ないしは45m3)を加算しなけれぼならない。しかし,今後の砂利採取量を現在とほぼ同一である(実質採取量で年間約200万m3)と仮定しても,大井川下流部での砂利採取は,この先10年を待たずして,全面的な禁止を余儀なくされるものと考えられる.
著者
田口 雄作 永井 茂
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.239-257, 1982-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
11

静岡県熱海市に設置した深さ80mの観測井において, 1980年6月下旬から約3か月間にわたって発生した,いわゆる伊豆半島東方沖群発地震に対応する水位変動を観測した.なかでも, 6月29日16時20分に発生したM=6.7の主震で,本井の水位は, coseismicに約80cm低下した.低下した水位は,もとのレベルに復帰するまでに1年2か月の時間を要した.得られた水位記録をもとに,地震との対応を求めたところ,地下水位低下量は,地震のエネルギーの大きさに対応し,地震後の時間の経過につれて減少することが判明した.本井の地下水は自由地下水的な性状を示しており,初川の河川水によって伏没かん養されている.したがって,水位変動に与える影響は,降水がもっとも大きく,気圧との対応は顕著でない.このような水文学的性状は,主震の発生前後でほとんど差異は認められない.これらの現象を考慮して,地震による地下水位変動のメカニズムに関するモデルを提案する.
著者
杉浦 芳失
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.8, pp.621-642, 1978-08-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
30
被引用文献数
1 1

流行の拡散過程の分析は,拡散チャンネルとしての地域体系の推定を可能にすると考えられる.本稿では,こうした観点に立ち,江戸明和期の御蔭参りの流行を事例とし,情報伝達手段の差異に着目しつつ,その拡散過程において当時の地域体系がいかに機能していたかを考察した.各国へ流行が伝わったと推定される日付(拡散日)を,地域傾向面分析ならびにモンテカルロ・シミュレーション・モデルによって分析した結果,以下のような結論を得た.明和の御蔭参りは山城から陸路を楕円状に拡がっていく一方,瀬戸内航路,北陸日本海航路を介して,西日本諸国,北陸諸国へ拡がっていった.こうした空間的拡散過程のなかで,中部山地が自然的バリヤー(障壁)の機能を果たし,東日本のいくつかの国では,浄土真宗信者,日蓮宗信者の伊勢信仰に対する宗教的抵抗が存在していた.とくに上記の航路が流行の拡散を早めていたことは,当時の大坂,京都を中心とする畿内地方が西日本地方および北陸地方との間に緊密な機能的関係を有していた事実と対応するものである.
著者
小川 賢之輔
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.241-259, 1965-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
6
被引用文献数
1

本論文は,駿河湾北部に存在する,田子の浦砂丘を研究することにより,該砂丘類似の地形2)の成因・形成過程及び形成の時期等を解明しようとするものである.筆者は,該研究を進めるにあたり,地形学的方法・地質学的方法及び,考古学的方法等を採用して,下記考察を試みた. 1)海岸に発達する,砂丘地形の観察・地質構造の解明及び,堆積物の岩質等により,物質の供給源と運搬営力とを考察した. 2) 該砂丘類似の地形形成過程に関しては,主として,砂丘の一般地形・地質構造・構成する地層の層相及び,物質の粒度・運搬営力・氷河期及び,地殼変動に於ける海面の昇降・風波の営力等の関連に於て,堆積機構・形成過程等を考察した. 3) 該砂丘類似の地形形成の時期に関しては,洪積世以後の海面の昇降・生物化石・Key bedの追跡・砂丘に埋没している文化遺跡の調査・歴史上の事実等により,砂丘形成時期の考察を試みた. 以上の考察により,一応下記の通り堆論した.即ち, 1) 海岸に発達する,砂丘類似の地形のあるものの成因は,まず,主として,付近河川によって,内陸より運搬された物質・海食により崩壊した物質等が,主として,沿岸流によって,浅海底に運搬され,狭長に堆積して,海面下に沿岸州を形成した. 2) 浅海底に形成された沿岸州は,やがて,海退に伴って海面上に姿を現わし,砂丘の基底をなす砂州を形成した. 3) 砂州が形成されるや,風波の営力による飛砂が堆積し,砂州を覆って,砂丘が発達した.従って,現在各地に存在する,該砂丘類似の地形のあるものは,既に,以上の形成過程に於て,今日観察される地形を決定される。4) 該砂丘類似の地形の,あるものの形成時期は, 2期に分けられる.即ち,前期は,海面下で,沿岸州の成長しつつある時期であり,後期は,海退に伴って,海面上で,砂丘の形成されつつある時期である.
著者
阿部 和俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.43-67, 1984
被引用文献数
16

本稿の目的はわが国の主要都市における本社,支所機能について,歴史的経緯をふまえつつ現況を中心に述べることにある.考察した結果は,以下の通りである.<br> まず第一に,都市におけるこの機能の集積をみると, 1907年にはかつての6大都市(東京,大阪,名古屋,横浜,京都,神戸)に多くの集積がみられ,さらに地方の都市にも相当数の本社の存在が認められた.しかし,次第に地方都市の本社は減少し,かわって大都市,とくに東京の本社が増加し続ける.この傾向は基本的に現在も変わっていない.<br> 横浜,京都,神戸における集積は1935年以降,とくに戦後になってあまり伸びず,逆に1935年に成長の兆しをみせ始めていた地方の中心的な都市での集積が急激に伸長し, 1960年以後完全に逆転した.また,新潟,静岡,千葉,金沢,富山,岡山といった地方都市での増加も著しい.第1表からみてもこの傾向は今後続くであろう.しかし,東京,大阪,名古屋では1980年においては,対象企業数が増加しなかったためか,その集積は停滞気味であった。地方の中心的な都市がわずかとはいえ増加していることと対照的で,今後これがどのように推移するかを注目したい.<br> これら本社,支所の業種を検討すると,初期においては鉄鋼諸機械,化学・ゴム・窯業部門は少なかったが, 1935年を境にこの部門は増加する.とくに, 1960年以後はこの傾向が一層強まる.とりわけ鉄鋼諸機械の支所は1935年から増加し始め,第二次大戦後は最も重要な業種となった.その集積は当初,東京,大阪,名古屋の三大都市に多くみられたが,次第に地方の中心的な都市においても増加してきている.建設業の本社,支所が戦後に増加するのも注目しておきたい.もっとも,支所の延べ数においては,金融・保険がその性格上圧倒的に多い.横浜,京都,神戸と上述の新潟以下の諸都市では,これら機能の集積が多い割に鉄鋼諸機械などの支所が少ないことも重要である.<br> 戦後を対象に本社機能の動向をみると,東京の重要性がますます高くなっていることが指摘できる.とりわけ大阪系企業においては,商社にみられるように発祥の地である大阪よりも東京の機能を強化するようになってきており,この点における大阪の衰退傾向が感じられる.大阪が西日本の中心的地位を保ち続けうるか,あるいはもう一ランク下位階層の広域中心的性格の方をより強めていくのかが,今後大いに注目されるところである.
著者
山口 貞夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.11, no.12, pp.981-1009, 1935-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
55
著者
奥山 好男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.39, no.5, pp.289-310, 1966
被引用文献数
2

関東平野を囲繞する山地帯の外縁および内縁-関東地方の周辺(外帯)および周縁(内帯)-には,機業地帯がつらなっている.ここは,日本における,いわゆる先染絹織物の主要な生産地帯である.とともに,ここは,林業もしくは畜産業を主業とする山村地帯である.この山村地帯に機業地帯がいち早く成立したことは,単なる偶然とは考えられない.<br> 近世幕藩体制下にあって, 近世領主的土地所有の対象とはならなかった存在としての林野.その林野を基盤として,近世以降ひきつづき存続しつづけた生産関係.そして,労働対象の土地からの解放.労働力の土地からの解放-自由な賃労働者の成立.これが,農奴制工業としての工場制手工業の存在,それの資本制工業として工場制手工業-本来の意味での工場制手工業-への発展の前提である.ここでは,これまでの経済史学の一般常識に反して,工場制手工業の原基型態が農奴制工業であると考えられるのである.<br> この農奴制経営の実存型態,ならびに,それの資本制経営への発展過程.この小論は,甲州郡内領の「延宝越訴状」を主題として,いくつかの史料を織りまぜつつ,これについての議論を展開する.林野の存在が工業と無縁でないこと,機業地帯と山村地帯が偶然の相関にあるのではないことも明らかとなるであろう.