著者
小池 靖
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.291-314, 2014-09-30 (Released:2017-07-14)

海外の研究者によれば、グローバル化する職業世界において、ますますスピリチュアルな論理が広がりを見せているという。そうした「ワークプレイス・スピリチュアリティ」の典型例として、自己啓発書『7つの習慣』が言及されてきた。そこで本稿では、日本の『7つの習慣』現象をフィールド調査し、スピリチュアリティの倫理と現代のグローバル資本主義との親和性を考察した。分析の結果、先行研究の見方とは異なり、企業研修では、常識的な対人関係観が説かれ、かつ、スピリチュアリティは極めて抑制的に語られていることが明らかになった。コミュニケーションの言説も、スピリチュアルというよりはセラピー的な語彙にほぼとどまっていた。そのような絶妙なバランスの上に、現実のグローバルな文脈での職業倫理は成立している。調和的な対人関係観については、新宗教的な源泉を読み取ることは不可能ではないが、それも宗教性を脱色した形で語られていることを示唆した。
著者
青木 健
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.25-47, 2005-06-30

本稿の目的は、古代のパフラヴィー語文献資料と、現代イランの現地調査を総合して、ゾロアスター教における聖地の概念を明確にすることにある。先ず、文献資料から、古代ゾロアスター教の聖地は、(1)「移動・純粋聖火型」と(2)「定着・他信仰融合型」に分類できることが指摘される。しかし、それぞれのケースは、ゾロアスター教史上、謎めいた展開を遂げている。次に、イランの現地調査から、現代ゾロアスター教の聖地は、(1)「神官レベルでの聖地」と(2)「平信徒レベルでの聖地」に分類できることが指摘される。そして、これらの各聖地は、古代の(1)、(2)と密接な関係があると類推された。ここに、古代の文献データと現代の現地調査データをリンクさせる根拠がある。その結果、(1)系の聖地は、ゾロアスター教の教義に忠実だが、神官団だけの占有物であり、(2)系の聖地は、イランの民間信仰に聖火を被せたものであることが立証された。古代から現代に至るまで、ゾロアスター教の聖地は大きくこの二系統で構成されているのである。
著者
長谷 千代子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.741-763, 2009-12-30

近年、自然環境問題に対する関心の高まりとともに、アニミズムが再び一部で注目されている。しかし、その現象を語るためのアニミズム「論」の再検討は不十分であり、本稿はそうした理論の整理を目的とする。アニミズム論は、タイラー以来、宗教の基礎理論とされてきたが、一部の論者はこれを環境認識の手法として捉えなおそうとしている。つまりアニミズム論とは、(自然)物に霊が宿ると「見立て」、「擬人化」する認識手法だというのである。しかしこの見方は、常に一方的に対象を認識する理性的能動的主体という至極近代的な人間観を前提としており、自己と(自然)物が等しく霊を共有し、その神秘的な力によって自らも生かされているという主体の受動的感覚を看過しやすくなる。人間が自然環境を一方的かつ操作的に扱ってきた近代的発想を批判したいのならば、この人間の受動性を再認識すべきであるというのが、本稿の主張である。
著者
大田 俊寛
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.603-625, 2007-12-30

ユングの思想と古代グノーシス主義の関係性は、これまで様々な仕方で論じられてきたにもかかわらず、未だ不分明なものに留まっている。その大きな原因は、グノーシス主義に関するユングの言及がきわめて曖昧であり、妥当性を欠いている一方、「自己の実現」という目的論や「善悪二元論」という世界観において、両者の思想がある種の共鳴を見せているからである。そこでこの論文では、ロマン主義の宗教論、具体的にはシュライエルマッハーとシェリングのそれを取り上げ、それがどのような点でユング思想の基礎と見なされ得るのか、また近代のロマン主義的パースペクティブを古代グノーシス主義へと適用することがどのような問題を発生させるのかについて考察してみたい。
著者
吉田 京子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.423-444, 2004-09-30 (Released:2017-07-14)

イスラーム世界全般に見られる(聖者)廟参詣は、これまで専ら文化人類学的研究の対象とされてきた。それらは、廟参詣を「公的」イスラームとは異なるものとして捉え、一般信者による「民衆的」行為として語ることが多い。しかしながら、イスラームには廟参詣を教義的イスラームと深く関わるものとして捉える事例も存在している。その一例として本論が採りあげるのが、十二イマーム・シーア派のイマーム廟参詣理論である。同派のイマーム廟参詣は、単なる墓参りではなく、「原初的過去からの伝統の継承」であり、「イマーム性の原理の確認行為」であり、そこから得られる報酬は、シーア派信者としての義務を果たした結果得られる正当な権利と理解されている。同派のイマーム廟参詣は、民衆による自発的実践行為であると同時に、「イマーム」に関わる点において、知識人側からも綿密な理論化を受けたものであり、正式なイスラームの信仰行為として展開されているものである。
著者
田中 雅一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.55-80, 2016

<p>本稿の目的は、侵犯的な宗教性について理解することである。ここで取り上げる供犠は、おおきく聖化と脱聖化の儀礼に分かれる。前者は神に近づき、聖なる力を獲得する道を提示するのに対し、後者は罪や不浄を取り除く。聖化では、神の力が充溢している供物の残滓を分配し、消費する。脱聖化では、残滓に罪や不浄が吸収され、家屋や寺院の外に放置される。しかし、儀礼の目的が脱聖化かどうか不明だが、残滓が摂取されない場合がある。それはヴェーダの神々や、憤怒の相を表す下級の神々を鎮めるための儀礼である。シヴァ神については、残滓はニルマーリヤと言い、これを受け取るのはチャンダとかチャンデーシュヴァラと呼ばれる聖人だけである。彼はシヴァの聖者の一人である。本来忌避すべきニルマーリヤを受け取るのは、侵犯的な信愛(バクティ)の表れの一つと言える。本稿では、供犠の残滓に注目することで規範の侵犯に認められる宗教的性格について考察する。</p>
著者
スザ ドミンゴス
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.1-24, 2005-06-30

キリスト教の啓示には異なる領域に属する二つの側面、すなわち歴史的真理と宗教的真理が含まれる。この二つの比較し得ない領域から、信仰と歴史の問題が生じてくる。すなわち神は歴史的現実として現れたが、それは直接的に知られるものではないし、歴史的知識から証明できない。では、いかに歴史的事実に基づいて宗教的真理に達し得るのか。本稿は、この根本問題に関するキェルケゴールの見解を考察する。キェルケゴールによれば、神が特定の時に人間の姿として現れたという出来事は、単純な歴史的出来事ではなく、絶対的事実である。すなわち、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいる。イエスという人物が存在したことは歴史的探究によって証明されるが、歴史的探究からは、イエスが神であるという結論は導き出せない。この点に関する歴史的不確実性は、信仰によってのみ乗り越えられる。しかし、信仰によって得られた確実性は主体的なものであり、客観的なものではない。個人がこの事実を信ずることを決意するとき、それが誤謬であるかもしれない危険を冒す。キェルケゴールにとって信仰とは、まさに危険を冒しながら、しかも信じることである。
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
関根 清三
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.479-501, 2009-09-30

現代は宗教と倫理の相剋の時代である。しかしこの相剋は必ずしも現代固有の現象ではなく、宗教の側からは古代のイサク献供物語、倫理の側からはアリストテレスの倫理学以来、繰り返し指摘されて来た。後者についてはカント、和辻らの批判があり、特に和辻は空の哲学から倫理の宗教的基礎について語った。しかし和辻自身はその構想を貫徹したとは言えない。また前者については、キルケゴール、レヴィナス、西田幾多郎らの解釈が注目される。特に西田の絶対矛盾的自己同一的神理解は、この物語の新たな読解のために示唆を与える。これらを踏まえ、あわせティリッヒの思索を顧みる時、我々は「宗教」「倫理」両概念ともに再解釈することを迫られる。その結果、宗教とは主観客観図式を超えた無制約的なものと関わることであり、倫理とは人格の統合を促す形で他者との共生を指示する理路であると再定義される。こう理解し直す時、両者相剋の克服の方途もまた、見えて来るに違いない。
著者
森 和也
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.733-754, 2010

国学者伴林光平(文化一〇年生-文久四年歿)は、もとは周永の名を持つ浄土真宗の僧侶であった。光平は、その生涯において二度の還俗を行ったが、その還俗に至る思想的転換の過程をその著作からたどることができる。『難解機能重荷』(安政五年)では、仏教に対してキリスト教の布教およびその背後にある欧米列強の侵掠に対する防壁の役割を期待していた。これは当時一般的な護法論の主張の範囲内である。しかし、『園の池水』(安政六年)を経て、第二回目の還俗後の著作である『於母比伝草』(文久二年)になると、仏教の社会的な役割としてのキリスト教に対する防壁の役割はそのままでも、社会的に存在し得る条件は著しく制限され、国体を毀損しない限りにおいて神道の下位に位置づけられる存在とされるようになった。これは仏教を日本社会にとって有用か無用かという規準から、機能論的にとらえたものであり、その後の近代宗教史を予見させる点において注目すべき思想である。
著者
碧海 寿広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.117-141, 2007-06-30

近年、仏教研究において「生活」の再評価が進んでいる。ゆえに、日本人の「生活」の歴史と仏教との関係をよく考えてきた仏教民俗学、特に五来重によるそれの思想的な意義を再検討する必要が出てきた。五来は彼の同時代の仏教をめぐる学問や実践のあり方に対して非常に批判的だった。特に仏教を哲学的なものとして理解する想定に疑問を抱き、代わりに仏教を受容する普通の人々の現実生活に即した彼の日本仏教観を提示した。その五来の仏教思想は、実践すなわち身体的・行為的な次元の仏教に主な焦点を当てた。彼の思想からは、人々の実践の中に存在するあらゆる形態の仏教を、その洗練度を問わず等しく認識し評価し反省するための視座を学ぶことができる。五来の思想には、「庶民信仰」に関する過度に理念化された論理の展開など問題もある。が、私たちが特定の学問枠組みから自由になって仏教をめぐる思考を深めようとする際、五来の思想から得られる知見はいまだに多大である。