著者
諸岡 了介
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.623-643, 2011-12-30

本稿の狙いは、世俗化論をそれが伴ってきた「宗教とは何か」という問いについて再解釈するとともに、宗教概念批判論を経た現在においてこの問いが持つ意義を示すことにある。世俗化論と称されてきた諸理論は、「従来的な意味における宗教」と「従来見逃されてきた種類の宗教」の双方を捉えようとする上で、宗教に関する高度に一般的な考察を展開したところに特徴があった。しかし、宗教復興現象への関心の高まりや、宗教の定義に関する理論構成上の不備といった理由から世俗化論に対する批判が強まると、それが担ってきた宗教の一般的考察もまた回避されるようになった。また近年では、系譜学的手法による宗教概念批判論によって、この概念の学的な使用自体が問題視されてきてもいる。しかし、適切な理論的前提の下では、近現代社会について「宗教とは何か」を問う視点は、系譜学的概念批判論の洞察を深めながら、これと相互に補完しあう社会学的宗教概念批判とも称しうる研究実践を導くものである。
著者
青木 健
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.837-860, 2009-12-30 (Released:2017-07-14)

本論文は、現在までのザラスシュトラ研究の回顧から出発する。近年の研究によって、ザラスシュトラ観には、時代と共に変遷があることが明らかにされた。特に、一〇〜一三世紀に、ザラスシュトラ観が転回したことが確認されている。だが、この時期はゾロアスター教の内在的な文献を欠き、シリア語・アラビア語文献に頼って研究を進めなくてはならない。而して、二〇世紀半ば以降、この時期のイスマーイール派ペルシア学派文献の校訂出版が相次いだ。そこで、本論文ではナサフィー・ラーズィー論争に関するアラビア語テキストを主に、ザラスシュトラ観が「神官から預言者へ」変わる過程を検証する。最後に、ラーズィーがシリア教会に倣ってザラスシュトラをセム的一神教の異端と位置付けようとしたのに対し、ナサフィーは彼をセム的一神教の預言者と捉えようとして論争した経緯を明らかにする。結局、後者がイスラーム世界での共通認識になってゆくのである。
著者
川上 光代
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.1166-1167, 2013-03-30
著者
藁科 智恵
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.27-52, 2015-06-30

二〇世紀初頭ドイツにおいて行われた「宗教的アプリオリ」という概念をめぐる議論は、多くの神学者、哲学者を惹き付けた。本稿では、ルドルフ・オットーの「宗教的アプリオリ」という概念をエルンスト・トレルチが展開した議論との対比において明らかにする。この概念における両者の共通点、相違点を明らかにすることにより、オットーが『カント・フリースの宗教哲学』『聖なるもの』において、当時取った態度、問題の解決方法の独自性がより明らかとなるだろう。このことは、ドイツにおける宗教研究を当時の精神的情況との関係において理解する上でも非常に重要となる。さらにこの議論は、当時の学問における認識と認識外のものをめぐる緊張を孕んだ関係、その学問自体を取り囲む精神的情況を明らかにする手がかりとなるだろう。
著者
住家 正芳
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.1-25, 2013-06-30

ナショナリズムはなぜ宗教を必要とするのか。本稿は、その答えの一つを十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて世界的に流行した社会進化論の論理に求めるものである。社会進化論の発想からは、社会および国家どうしの関係が社会有機体間の生存競争として捉えられた。その競争を生き残る「強い」国家をつくるためには、国民の強固な統合が不可欠とされ、それを実現し得るものとして宗教が要請された。社会や国家の統合のためには、何らかの価値体系の共有が必要とされ、それを実現することが宗教に求められたのである。本稿はまず、国家神道概念の淵源とされる加藤玄智の宗教論に以上の論理を見出すことができることを示したうえで、同様の論理が清末から民国初期にかけての中国できわめて大きな影響力を持った梁啓超の宗教理解にも見出されることを確認する。
著者
土井 健司
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.1-26, 2012-06-30

本稿では最古の病院のひとつに数えられるカイサレアのバシレイオスの建てた病院施設「バシレイアス」について残存する資料を用いて再構成し、さらにバシレイオスがこれを建てた理由、背景を探り、最後に彼の病貧者観について考察する。残存する資料から次のことが分かる。バシレイオスはウァレンス帝から賜ったカイサレア近郊の土地に病院施設を建てたが、そこには看護者、医者、牛馬、さらに案内人として聖職者たちもいた。これはバシレイオス自身によって「カタゴギア」、「クセノドケイオン」、また「プトコトロフェイオン」とも呼ばれている。バシレイオスは寄付によってこの施設を運営し、おそらく患者や旅人などは無料であった。また彼は定期的にこの施設を訪れ、なかでもレプラの病貧者の治療を行っていた。それは修道士たちによっても実践され、それはバシレイオスの定める修道的生活のプログラムに含まれていた。この病院はバシレイオス自身のフィランスロピア思想と受肉論に支えられていて、蔑まれていたレプラの病貧者を同じ人間として、またキリストとしてその看護・治療を行って行く場所となっていった。
著者
佐藤 研
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.409-426, 2008-09-30 (Released:2017-07-14)

キリスト教の内部批判として二百年以上前に誕生した「聖書学」は、歴史学と人間学に基づいた学問である。そうであれば、現段階に至って、その「批判」の対象を、キリスト教会や聖書文書だけに留まらず、人間イエス自身にも向けるのは当然と言わねばならない。教祖をあえて批判するという「不敬」こそ、今のキリスト教のキリスト論には必要と思える。それによって初めて、イエスの何が重大なのかが反省されるであろう。そもそもイエスは、人間として幾度も飛躍して最後の刑死の姿に至った。そうであれば、いわゆる公生涯の大部分において彼が語った言葉も、究極の妥当性を持ったものばかりではない。そこには、その終末論的時間感覚のごとく現在の私たちにはそのままでは通じないものもあれば、その威嚇的態度や自己使命の絶対化とも思える意味づけ等、教会が暗黙の内に真似をして悲劇的な自己尊大化を招いたものも存在する。現代の私たちは、こうした面のイエスに直線的に「まねび」の対象を見出してはならない。むしろ、そのゲツセマネの苦悩を通過した後、ゴルゴタで絶叫死するまでの沈黙から響いてくるものをこそ最も貴重な指針として全体を構成し直す必要があると思われる。
著者
萩原 修子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.1-25, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

犯罪者の更生支援の活動はさまざまにあるが、一度犯罪者のスティグマを背負った者の更生が困難であることは、再犯者率の高さが示している。深刻化する高齢者や障害をもった者の再犯は、社会との絆が弱まり、出所後の行き場のなさから、再犯という負のスパイラルを示している。本稿では、法務省管轄下の更生保護施設、自立準備ホームであるNPO法人「オリーブの家」の事例をとりあげる。それは、自立後の再犯率が低く、設立者が元受刑者で、矯正施設で信仰を得た宗教者であるという点に着目したからである。本稿では、この施設における対人援助の特徴を、治療共同体モデルやナラティヴ・アプローチによって考察し、宗教者が対人援助でなしうる倫理の一端を叙述する。それによって、「宗教と社会貢献」研究において、事例研究の少なかった更生支援の分野に、本稿の知見を加えるとともに、宗教固有の価値を検討することを本稿の目的としている。
著者
澤田 愛子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.355-380, 2006-09-30 (Released:2017-07-14)

本論文はナチ時代の医師の犯罪に焦点を当て、その動機や心理状態を分析した上で、今後への提言を試みたものである。ナチ政権が犯した主要な犯罪には、「安楽死」の名を借りた障害者の抹殺(T4作戦)とヨーロッパユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)とがある。T4作戦は「アーリア人」の血統の純化が、一方、ホロコーストは極端な人種主義が背景思想となって生じた。この各々にナチの医師達は深く関与した。即ち、抹殺対象者を選別するのみならず、殺害にも直接関与し、非道な医学実験も実施した。彼らの動機は何よりも血統の純化や人種の衛生などを主張するナチズムに深く共鳴したことで、彼らは殺人自体を医学的メタファーを用いて正当化した。しかし殺害の実施においては、「ダブリング」や「サイキック・ナミング」等の心理的装置も働いていた。彼らは狂気の思想に取りつかれていたが、気が狂っていたわけではない。全体主義社会の狂気が医師達から理性を奪ってしまった。同じ過ちが繰り返されないためにも、生命倫理教育はまず、歴史のこの最暗黒の部分を直視することから始めなければならない。
著者
窪 徳忠
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.1249-1272, xiv, 2005-03-30

本居宣長などは、日本には道教は伝来しなかったというが、宮内庁書陵部現蔵の『正統道蔵』は一七世紀後半に佐伯毛利藩が入れたものだから、日本は道教と無関係ではない。一九五〇年に成立した日本道教学会の会員の活躍で、道教研究は大いに発展した。私は柳田国男の説によって沖縄県地方に庚申信仰の初期の形式を探しにいったが、中国的信仰のみ眼につき、庚申信仰はなかったので、目的を変更し、爾来沖縄の中国的信仰を調べ続けている。沖縄に道教の符に対する信仰の初伝は一五世紀中葉だが、福建人の来住と冊封体制下に入った結果、中国の影響を大きく受け、道教の高位の雷神、村や集落の守り神の土地公、后土神ともよぶ守墓神などの信仰を受け容れている。ただその場合、受容直後には中国の場合と全く同形だったであろうが、年を経た現在ではかなりの変容がみられる。異文化受容の際の当然の傾向であろう。
著者
栗田 英彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.3, pp.471-494, 2015-12-30 (Released:2017-07-14)

本論文では、哲学者・井上哲次郎によって構想された将来の宗教-「倫理的宗教」-と、それに対する改革派宗教者らの批判から、「修養」と呼ばれる宗教性を帯びたカテゴリーが生まれてきたことを論じる。明治三〇年代における教育からの宗教の排除と倫理教育への宗教の必要性という矛盾した要求のなかで、井上も宗教者らも新しい宗教のあり方を模索していた。それゆえ、宗教者たちは倫理的宗教論の抽象性を批判しつつ、その諸聖賢などの理想の人格や内観や坐禅といった具体的な実践をそこに結びつけることで、より実践的な倫理的宗教、すなわち「修養」を生み出した。さまざまな論者によって「修養」概念は用いられ、倫理と宗教、宗教と宗教の境界を超えて展開する超宗教的なカテゴリーとして、戦前日本で幅広い影響を与えることになったのである。
著者
山中 弘
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.255-280, 2017-09-30 (Released:2017-12-30)
被引用文献数
1

本稿は、現代社会に大きな影響を与えている消費という問題に注目して、マーケット論的視点から消費社会における現代宗教の変容を理論的に論ずることを目的としている。まず、宗教社会学理論において著名なR・スタークの経済的マーケットモデルを批判的に検討する。その上で、彼のモデルに代えて、ベビー・ブーマーたちの宗教意識とアメリカの宗教状況を明らかにしたW・ルーフの「スピリチュアル・マーケットプレイス」という概念と「探求」という心理的な志向性に注目する。次いで、現代社会の消費をめぐる議論を紹介しながら、「セラピー的な自己」とそれをターゲットとした聖地巡礼ツーリズムを検討する。最後に、宗教的マーケットと世俗的なそれとの融合という状況において出現している「軽い宗教」の存在が示すように、世俗化か再聖化か、という二項対立的な理論的議論は消費社会における宗教の変容の理解には有益でないことを示唆したい。