1 0 0 0 OA 笑いと宗教

著者
柏木 哲夫 釈 徹宗
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.Suppl, pp.9-16, 2022-03-30 (Released:2022-06-30)
著者
上村 静
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.29-53, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

福音書のイエスはしばしば病人と接触しており、その中には当時のユダヤ社会において「穢れ」とされたツァラアト/レプラの人も含まれていた。本稿では、彼らとの接触を切り口に、イエスが「穢れ」と「聖性」についてどのような態度をとったのかを考察する。ヘブライ語聖書において、「聖性」は神の属性であり、それゆえユダヤ人は「聖なる民族」として「穢れ」を避け、「浄い」状態で生きることが求められた。ツァラアトの人は「穢れたもの」の象徴とされ、その病は神罰と解されていた。イエスは「穢れ」の問題を無視してツァラアト/レプラの人と接触した。イエスにとって神は「いのちを生かすはたらき」なのであり、律法規定が「いのちを殺すこと」になるならば、「穢れ」も「聖性」も無視すべき観念なのである。
著者
角田 佑一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.51-74, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

本論の主題は、曽我量深(一八七五―一九七一)の「日蓮論」における日蓮本仏論の構造を解明することである。曽我は近代日本を代表する浄土真宗の教学者である。彼は二〇歳代の頃、日蓮研究を行い、同時代の日蓮主義から影響を受けて、自らの日蓮理解を深めていった。曽我の「日蓮論」(一九〇四年)において、彼の日蓮理解はさまざまに変化するが、最終的に彼は「日蓮本仏・釈尊迹仏」の見解を示す。筆者の解釈では、曽我の述べる「日蓮本仏・釈尊迹仏」の基盤には以下のような構造があると考えられる。すなわち、日蓮が自らの罪悪と無力を自覚して題目を受持するとき、久遠実成の如来を自らの主体として認識し、「本仏」としての自覚に至る。そのうえで、日蓮は久遠実成の釈尊を客体として認識し、釈尊を「迹仏」であるとみなす。曽我の日蓮本仏論の特色は、日蓮の罪悪と無力の自覚、題目受持、「本仏」としての自覚が相互に深く結びついている点である。
著者
増田 友哉
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.27-49, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

本稿は平田篤胤(一七七六―一八四三・安永五―天保十四)の思想における、ウブスナ神という存在に注目し、篤胤の思想においてウブスナ神が担った役割を捉えなおす事を目的とする。その際、篤胤が近世社会におけるウブスナ神の受容から発展させた逸脱を捉える。また、篤胤のウブスナ神に関する語りを民俗や怪異の探求という視点のみで捉えるのではなく、篤胤が神話の解釈を基に創造したコスモロジーにおける、ウブスナ神の位置や役割を明らかにすることに本稿の目的がある。篤胤は世界生成の根源神であるムスビ二神の意志に基づき、オホクニヌシが人間の死後を掌り、そしてその役割をウブスナ神に委譲したと考えたのである。本稿の結論は、篤胤が近世人の日常生活に身近なウブスナ神を媒介として、自らを含む民衆一人一人の生死を、『古史伝』で創造したコスモロジーへと架橋することを可能としたということである。
著者
清田 政秋
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.1-26, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

従来本居宣長は仏教批判者とされ、また宣長自身が自らの学問への仏教の影響を語らないために、宣長研究は仏教を考慮外に置いてきた。それに対し漢学との関係は、宣長が京都で医学修行の基礎として学んだ関係からよく研究された。しかし宣長の学問は仏教と深く関連し、それを追究すれば宣長について従来とは異なる新たな知見が得られる。それは宣長にとって仏教とは何であったかの追究でもある。本稿は宣長の学問の出発点である「物のあはれ」説を取り上げる。「物のあはれ」説には膨大な先行研究があるが、まだ十分明らかになっていない問題がある。宣長は、その説は藤原俊成の「恋せずは人は心もなからまし物のあはれも是よりぞ知る」の歌がきっかけになったと語る。だが研究史では俊成の歌からいかにして「物のあはれ」説が成立したかは十分解明されていない。本稿はその成立に『摩訶止観』の心の有り様と感情をめぐる仏教の哲学的思考が関わることを明らかにする。
著者
陳 継東
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.862-888, 2011-03-30 (Released:2017-07-14)

一八九〇年代以降、中国では、仏教は近代国家の形成に欠かせない「宗教」として認識されるようになり、その社会的位置づけが大きく変動したことは注目に値する。多くの改革志向を持つ知識人は仏教を利用して、近代国家の樹立を目指した。これと同時に、仏教界からの社会変革への発信も強まっていったのである。本稿はこうした動きに焦点をあわせ、仏教がいかに再認識され、近代社会への転換に積極的に関わったかを明らかにする。具体的には、まず「宗教」という概念の形成過程を考察する。つぎに、近代国家の実現に求められる自立的な個人の確立と仏教との関係、それから文明と野蛮に峻別された国際秩序に抵抗し打破するために、仏教は果たした役割、さらに、清末中国のナショナリズムの形成と仏教の関係を明らかにする。
著者
小林 奈央子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.57-78, 2019-09-30 (Released:2020-01-07)

日本の社会において、女性が行者の道を選ぶということは、さまざまな困難や苦労が伴う。五障や血の穢れといった女性を聖なる領域から遠ざける教えや慣習に伴う問題はもちろんのこと、その女性に家庭があれば、直ちに家庭生活、そしてそれに伴う女性に課されてきた性役割との両立の問題を生じ、修行生活の大きな障壁となる。その一方で、男性行者の場合は、同様に家庭があっても、その限りではない。つまり、そこには性別にかかわる差異や非対称性が存在する。そのことを明示的にしてくれるのがジェンダーの視点である。本稿では、女性行者を含む女性宗教者に関する研究の、中心的な担い手となってきた民俗学およびその研究手法に依拠した民俗宗教研究が、今日までそうした女性たちをどのように描いてきたかを批判的に検討する。そして、研究者や宗教者のジェンダーに対する意識改革の必要性と宗教教団が真にジェンダー平等を実現できる方途について論ずる。
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.69-91, 2007-06-30 (Released:2017-07-14)

本論は、近世の仏教思想家であった普寂の思想から、近世から近代にかけての大きな問題であった大乗非仏説の問題を考察する。普寂の大乗論を通して、近世仏教の思想的意義を示すと共に、近世から近代への思想史的水脈の一つを明らかにする。普寂の大乗論は、華厳の教相判釈にもとつく実践論である。普寂にとっての教相判釈は概念的な理論ではなく、自らが生きて実行すべき修行の道程であり、魂が何生もかけて上昇していく階梯である。普寂は、華厳の教理を理論的基盤として、教判を実践することによって、自らの内部においては大乗非仏説を大乗仏説へと転換させた。思想史的に言えぼ、富永仲基に代表されるような合理的思惟方法は、教判を生きる普寂の宗教性を生んだ。近世仏教における両者のダイナミックな連関は、思想史深部の水脈として近代仏教へと流れ込み、村上専精をはじめとする近代仏者の精神的基盤の一つとなった。
著者
津曲 真一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.127-148, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

何かに触れることは日常的な行為であるが、それが宗教的な文脈の中で行われると特別な意味を持つことがある。チベット仏教徒にとって接触という行為は、悪果の因となり得る行為であり、また好ましい結果を生み出す行為ともなり得る。彼らは行者の持物や賢者の舎利に触れること、或いは加持された事物に触れることで、様々な願望を成就することができると信じており、また観想実践を通じて意識の中に顕れた対象との接触を通じて、宗教的価値を実現することができると考えている。しかし一方で、チベット仏教の教義に於いては、接触行為および接触体験の虚妄性が強調されることもある。本稿はチベットの宗教文献に広くあたり、接触体験の教理上の位置付けや、宗教実践の中で行われる多様な接触行為について紹介しつつ、チベット仏教における接触の意義とその特殊性について考察を行うものである。
著者
松尾 剛次
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.169-193, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

本稿では、光明皇后垢すり伝説の変容とその背後にある叡尊・忍性らを代表とする叡尊教団による身体的接触をともなうライ者救済活動に光を当てた。また、叡尊教団によるライ者救済活動が文殊信仰に基づいていることを論じた。まず、鎌倉期から南北朝期に、光明皇后垢すり伝説において、垢すりの場が阿閦寺(の前身)から法華寺へと変化し、また、皇后の慈愛を試す仏が阿閦仏から文殊菩薩へと変化した伝承があることを指摘した。そうした変化はまさに、その時期にライ者救済活動を担い、法華寺をも末寺化し、光明皇后ライ者垢すり伝説を広めた主体であった叡尊教団による、と考えられる。また、古代・中世日本において浄・不浄観は重要な社会的な意味を有していた。ライ者は穢れた存在とされていた。それゆえ、ライ者との身体的な接触は穢れに触れる不浄な行為と考えられていたが、忍性らは、自分たちは厳格な戒律護持を行っており、穢れることはないと考えていた。
著者
松山 大
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.53-77, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

本論は、真宗の開祖、親鸞が二双四重の教相判釈において竪超を「大乗真実の教」と記述する事由の検討とその考察を主題とする。親鸞による経の領解方法は二双四重の教相判釈と呼慣わされているが、なかでも、『仏説無量寿経』から導き出される横超が真実であり重要であるとされる。それ以外の経は方便との位置付けが宗派内外で半ば常識である。だが、親鸞自身は『教行信証』「信巻」のいわゆる「横超断四流釈」において、聖道門に於ける頓教である竪超の経文について「大乗真実の教なり」と記述している。この記述さえも方便であるという、矛盾する理解がこれまで続いてきた。そこで本論において、一、菩提心釈と横超断四流釈での記述、二、『愚禿鈔』での記述、三、「化身土巻」真仮分判釈での記述、四、横超断四流釈後の便同弥勒の文における記述、以上の箇所での親鸞による教相判釈を吟味し、これまでとは異なる解釈の可能性を提示している。
著者
吉野 斉志
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.27-51, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

本論では近年翻刻・公刊された西田幾多郎の「宗教学講義ノート」(一九一三~一四年講義)に基づき、時期の近い公刊著作『善の研究』(一九一一年)とも照応して、初期西田の宗教哲学の解明を目指す。西田によれば、一方には純粋経験の統一があり、他方にはその分化発展と自己限定により個物が成立する。そして究極の統一にこそ「神」あるいは「宗教的なもの」が求められる。この思想は「宗教学講義ノート」でも共通しており、西田が同時代の様々な宗教論や思想史に関する著作を参照しながら宗教思想に判断を下す論に、はっきりとその立場が現れている。また、『善の研究』の宗教論は「汎神論」を主張しているが、この論の背景も「宗教学講義ノート」を参照することにより、仏教が汎神論であるという理解と、その仏教を擁護する意図があったことが判明する。西洋の文献を渉猟し、その内在的な批判から独自の論を立てようとした「西洋哲学者」としての西田の姿が、この読解から明らかになるはずである。