著者
津田 謙治
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.153-175, 2017-09-30 (Released:2017-12-30)

本稿は、初期キリスト教思想において神学的意義をもつようになった「オイコノミア」概念を、古代ギリシアから遡って用語と文脈の変遷を分析し、概念史上でどのように位置付けられるかを模索するものである。ギリシア語元来のオイコノミアのもつ意味は「家政」であり、家族や家財などを含む広い意味での家を取り仕切ることを指していた。ストア主義において「家政」元来のもつ意味を保持したまま、「家」が世界全体に拡張され、自然による世界統御を指すようになったが、この思考は初期のキリスト教でも神が被造物を支配することと結び付いた。この極めて一般的な語が神学的に重要な意義を獲得した背景の一つには、世界における不条理や悪などが神による統御とどのように両立され得るかという問題があったと考えられる。グノーシスなどによって不完全な造物主に帰せられた世界統御は、教父たちによってロゴス・キリスト論を通じて神に帰着することが確認される。
著者
大谷 正幸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.1, pp.101-126, 2021

<p>浅間社は富士信仰を行うための施設であるが、富士信仰の多様さに合わせてその形態や実際に祀る神はさまざまである。本論ではその諸相を提示し、最終的に、富士山―一次的に富士信仰を受容する大都市文化圏―二次的に受容して独自にローカルな信仰様式・習俗を創り出す文化圏近郊や富士山との中間地帯、という構造が富士山を挟んで東西にあるとする富士信仰の伝播と受容に関するモデルを考えたい。浅間社の諸相として、中世の城郭に浅間社が祀られた事例、富士信仰に因んだ可能性がある地名を中部地方各県から検索し、その中から「フジヅカ」に関する事例、「フジ」という名を持っていても富士信仰かわからない社の事例を挙げる。特に「フジヅカ」については研究史上その定義をめぐって議論があり、議論の有効性に対して疑問を持つ立場から考えてみたいと思う。</p>
著者
高田 信良
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.503-524, 2009

<仏教には、倫理、とりわけ、社会倫理が欠如している>との批判がある。倫理が、なんらかの超越的実在に規定されるような道徳・社会的規範、あるいは、社会形成力を持つ規範などと理解される場合には、たしかに、そうであろう。仏教は、「出世間」の宗教であり、「世間」(社会生活)で価値形成的にはたらく行為規範を教えるものではないからである。現代のグローバル化状況における<宗教多元>は<価値多元><倫理多元>でもある。宗教が倫理的生の周縁部へと追いやられてしまっているだけではない。人間的な存在欲求の直接的なぶつかりあいのなかで倫理不在でもある。個々の宗教倫理、市民社会の倫理などの混在状況において、各々は、互いに限定的なものであり、かつ、独自なものであることを際立たせ合っている。<宗教と倫理>(の異同/関係)が関心事とされることにより、各々の宗教における実践(宗教倫理)のアイデンティティが問われてくる。仏教における実践性は、仏教徒の行う世俗倫理にあるのではなく、<仏教徒になる>ところにあるのではないだろうか。「念仏の教え」に焦点を当てつつ考えてみたい。
著者
清水 邦彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.3, pp.78-83, 2017-12-30 (Released:2018-03-30)
著者
井上 順孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.347-373, 2011-09-30

一九九〇年代に急速に進行したグローバル化・情報化と呼ばれる社会変化は、宗教教育に関する従来の議論に介在していると考えられる認知フレームに加え、新しい認知フレームを導入することを要請している。日本における宗教教育についての戦後の議論は、宗教知識教育、宗教情操教育、宗派教育という三区分を前提とするものが多い。このうち宗教情操教育が公立学校において可能かどうかをめぐる議論が大きな対立点となってきた。その理由には、近代日本の宗教史の独自の展開が関わっている。しかし、近年は国際理解教育の一環としての宗教に関する教育、多元的価値観の共存を前提とした宗教教育、そして宗教文化教育などと、新しい認知フレームに基づくとみなせる研究が増えてきている。これは、宗教教育に関する規範的視点とは別に、全体社会の変化に対応して形成されたものであり、従来の多くの議論とは異なる新しいフレームが加わった結果であると考える。
著者
弓山 達也
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.553-577, 2010-09-30

本稿では、一九九〇年代後半から文部行政によって喧伝された「目に見えないものを大事にする」教育を官製スピリチュアル教育と措定し、それと取り組む教育現場の代表的な議論・実践を紹介しつつ、官製スピリチュアル教育の限界を明らかにする。教育現場では、官製スピリチュアリティの見えづらさをどう可視化するかが課題となるが、これを「こころの教育」「いのちの教育」のモデル校である京都府下の公立小中学校の試みから探り、これを官製スピリチュアル教育に対置する地域に根ざしたスピリチュアル教育と呼ぶ。しかし地域に根ざしたスピリチュアル教育にも限界があり、これを地域コミュニティ、宗教的資源、学校教育、スピリチュアル研究との関わりと結びつけ、その可能性を整理していく。