著者
松尾 剛次
出版者
智山勧学会
雑誌
智山學報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.1-29, 2014-03-31
著者
松尾 剛次
出版者
山形大学大学院社会文化システム研究科
雑誌
山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 = Bulletin of Graduate School of Social & Cultural Systems at Yamagata University
巻号頁・発行日
vol.1, pp.256-246, 2005-03-31

羽黒山といえば、月山・羽黒山・湯殿山とともに出羽三山を構成する修験の山として知られている。すなわち、山岳修験の霊場としてイメージされる。こうしたイメージは、戸川安章・岩鼻通明氏らによる近世を中心とした民俗学的・地理学的成果によって形成されてきた。他方、伊藤清郎氏らの歴史学的研究は、八宗兼学の地方有力学問寺院としての姿に光を当てた。ようするに、羽黒山寂光寺は、一方では修験の寺として、他方は、僧位・僧官を有する官僧の住む学問寺としての羽黒山に注目している。前者は近世に、後者は古代・中世に注目した結果といえる。いずれの指摘も、それぞれに説得力あるもので、示唆にとんでいるが、本稿では、中世の羽黒山に注目することで、両者を止揚する新たな像を提示したい。より言うなら、有力官僧寺院から(近世においても、その性格を完全に失うわけではないが)、どのようにして修験の寺に性格を変化させていったのか、見てみよう。しかし、羽黒山の中世史は、なぞに包まれている。それは残存する史料が極端に少ないことによる。だが、そのことは、奥州・出羽・佐渡・越後・信濃は羽黒権現の敷地といわれ、「西二十四ヶ国は紀州熊野三所権現の、九州九ヶ国は彦山権現の、東三十三ヶ国は羽黒山権現の領地だ」といわれた羽黒山の中世史が貧弱であったことを意味してはいない。たとえば、承元三(一二〇九)年に、羽黒山の僧侶たちが大泉庄地頭大泉氏平を所領「千八百枚」を押領し、羽黒山内の事に介入したとして鎌倉幕府に訴え、幕府も羽黒山の言い分を認めたことはよく知られている。一枚を一町とすれば千八百町の所領を有する地方の巨大寺院であった。また、『太平記』に見られる雲景未来記の作者雲景は羽黒の山伏であった。このように、中世の羽黒山はその存在を日本中に知られていたのである。そこで本稿では、中世の羽黒山の実態に迫ることを主眼とする。けれども、やはり資料の少なさは遺憾ともしがたい。しかし、幸いにも今回、以下のような注目すべき二点の新資料を見いだすことができたので、それらを紹介しつつ中世の羽黒山の実態に迫ろう。
著者
松尾 剛次
出版者
山形大学
雑誌
山形大学人文学部研究年報
巻号頁・発行日
vol.7, pp.121-170, 2010-03-23

はじめに ここで文書目録を刊行する真田玉蔵坊文書は, 羽黒山妻帯修験の頂点に立っていた真田玉蔵坊家に伝わった文書群である。真田玉蔵坊家は, 承久元(一二二一) 年に起こった承久の乱に際し, 鎌倉幕府から羽黒山に所司代として遣わされた真田家久に始まるという。玉蔵坊文書は七一六点もある。そのほとんどは, 一七-一九世紀の江戸時代の文書および冊子であるが, 二点の中世文書(近世に書写された) が特に注目される。それらは, 康暦二(一三八〇) 年一一月一五日付の「なかをく辺いのこほりのちしきとう々之事」(目録番号2-136,以下, 番号のみ記す) と応永二五(一四一八) 年九月四日付「二迫うくい沢木仏等先達之者之預ける分書上写」(1-1) である。それらは, 中世における霞(修験者の縄張り) 支配のありようを伝える貴重な史料であり, 別稿で紹介し考察を加えた。ところで, 羽黒修験は, 山上の別当宝前院以下三十二院に暮らす清僧修験と麓の手向の三六〇坊に暮らす妻帯修験とに分かれる。真田玉蔵坊家は, 手向の妻帯修験の代表者として, 種々の特権と義務を負っていた。玉蔵坊文書からも, そのありようを窺うことができる。
著者
池上 良正 中村 生雄 井上 治代 岡田 真美子 佐藤 弘夫 兵藤 裕己 松尾 剛次 池上 良正 中村 生雄
出版者
駒澤大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

「供養の文化」を日本の民俗宗教の重要な特徴のひとつとして位置づけることによって、古代・中世から近現代にいたる、その歴史的変遷の一端を解明することができた。さらに、フィールドワークを通して、中国・韓国を含めた現代の東アジア地域における「供養の文化」の活性化や変貌の実態を明らかにした。
著者
松尾 剛次
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.169-193, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

本稿では、光明皇后垢すり伝説の変容とその背後にある叡尊・忍性らを代表とする叡尊教団による身体的接触をともなうライ者救済活動に光を当てた。また、叡尊教団によるライ者救済活動が文殊信仰に基づいていることを論じた。まず、鎌倉期から南北朝期に、光明皇后垢すり伝説において、垢すりの場が阿閦寺(の前身)から法華寺へと変化し、また、皇后の慈愛を試す仏が阿閦仏から文殊菩薩へと変化した伝承があることを指摘した。そうした変化はまさに、その時期にライ者救済活動を担い、法華寺をも末寺化し、光明皇后ライ者垢すり伝説を広めた主体であった叡尊教団による、と考えられる。また、古代・中世日本において浄・不浄観は重要な社会的な意味を有していた。ライ者は穢れた存在とされていた。それゆえ、ライ者との身体的な接触は穢れに触れる不浄な行為と考えられていたが、忍性らは、自分たちは厳格な戒律護持を行っており、穢れることはないと考えていた。
著者
松尾 剛次
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国際日本文学研究集会会議録 = PROCEEDINGS OF INTERNATIONAL CONFERENCE ON JAPANESE LITERATURE (ISSN:03877280)
巻号頁・発行日
no.24, pp.55-67, 2001-03-01

It is well known that sekkyô-bushi is related to kanjin. Kanjin originally meant they promoted people to join Buddhism and do the good. It is also known that it changed to promote people to donate rice or money to build or restore temples, shrines and statues of Buddha around the end of Heian period.If so, there is a possibility that sekkyô-bushi Oguri Hangan was created relating to some temple's rebuilding. The temple should be Tôtakuzan shôjôkôji, which is given an important role in the story of Oguri Hangan.The story must have changed in many ways before it was printed as the authorized text in the Edo era, with the sekkyô-bushi one of spoken arts and literature performed by the troubadours who drifted through the nation. Therefore the point of this report is to reveal the mystery when and how the original story of Oguri Hangan was created by whom focusing the relationship between Shôjôkôji and kanjin. I refer to the picture scroll Yugyô-engi, Yugyô-keizu and the like as archives which have been hardly used before. The picture scroll Yugyô-engi is an ekotoba-den (picturized biography) created by Yugyôshônin, Sommyô the 13th, Taikû the 14th and Son'e the 15th in the early Muromachi era.In conclusion I think the original story of Oguri Hangan was created relating to a mass kanjin of reconstruction done by the Yugyôshônin, Taikû the 14th after the big fire in Ôei 33 (1426). Sekkyô-bushi were called oral literature and thought to be made by unknown singing poets so far. However, given the relationship between sekkyô-bushi and kanjin of temples, I think most sekkyô-bushi were created when occurred was kanjin of specific temple's reconstruction in terms of the original ones.
著者
松尾 剛次
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.204-229,274-27, 1980

In this essay the author attempts to make a contribution to the history of outcastes in Japan and, in doing so, to the present day burakumin liberation movement by exploring hinin-shuku in the kinai region under the control of the temple, Saidaiji, during the late Kamakura period. Hinin-shuku in medieval Japan were small pariah settlements organized by temples and shrines through operatives called chori. These shuku were located within larger way stations at important points along transportation routes in the Kinai, and provided an important source of non-agricultural labor ranging from simple portage to various defiling occupations like animal slaughter and burial services. By re-examing available documents concerning hinin-shuku, the author criticizes the position held by Oyama Kyohei that these shuku were controlled under the authority of the shugo in the Kinai provinces, and therefore ultimately under the Imperial prerogative (Amino Yoshihiko's position). As opposed to the management of these settlements by such religious organizations as Kofukuji and Gion shrine, in which hinin residents were organized into guild (za) formations, Saidaiji, through the leadership of two monks, Eison and Ninsho, carried out its control under the guise of almsgiving (segyo) and the offering of salvation through the beliefs surrounding monjushuri, the Bodhisattva of Supreme Wisdom. As his main conclusion the author argues that there was a close relationship between the Kamakura Bakufu and Saidaiji, and, therefore, in a certain sense through this relationship Bakufu domination of hinin-shuku was realized.
著者
松尾 剛次
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

本研究の狙いは、室町幕府の重要な宗教政策の1つである安国寺・利生塔政策の具体相について実証的lに明らかにすることであるが、本研究によって以下の点などが明らかとなった。(1)安国寺・利生塔は、建武5(1338)年から康永4(1345)年2月以前に設定され、とくに暦応2(1339)年が画期であった。とくに、暦応2年8月16日に、後醍醐天皇が足利尊氏らを呪いつつ死去するという大事件が起こっており、足利尊氏兄弟にとって、かつては主人でありながらも、結局は反逆することになった後醍醐天皇の鎮魂こそが非常に重要であった。それゆえ、歴応2年に安国寺あるいは利生塔として設定されたものが多い。(2)安国寺・利生塔政策は、南北朝動乱で協力した寺院への論功行賞の意味もあった。安国寺のうち寺格がもっとも高いのは、山城安国寺で、第2位は丹波安国寺であったが、丹波安国寺は、足利尊氏の生母上杉清子の菩提寺で、尊氏誕生の地という伝説がある。こうした寺が、安国寺に指定され、高い寺格を与えられたのは、常に味方し、祈願してくれた生母の菩提寺に対する論功行賞の意味があったことを示している。(3)従来、安国寺は、すべて五山派寺院すなわち禅宗寺院と考えられてきた。しかし、下野薬師寺(栃木県)・大和安国寺(奈良県)のように律宗寺院も少しあることは重要である。他方の利生塔は、禅宗寺院(30箇寺のうち13箇寺、うち2寺は曹洞宗)のみならず、備後浄土寺を初めとして律宗寺院も多く(10箇寺)設置された。このように、安国寺・利生塔は室町幕府の禅.律寺院優遇策の一環であった。(4)利生塔は五重塔ないし三重塔であるが、若狭神宮寺三重塔も利生塔の1つであった。(5)安国寺は、聖武天皇が天平13(744)年3月に詔を出して国ごとにおいた国分寺制度を、他方の利生塔は、インドの阿育王が建立したという八万四千塔をモデルとした。