1 0 0 0 OA 「三夢記」考

著者
[ナガタニ] 弘信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.707-732, 2010-12-30 (Released:2017-07-14)

専修寺には建長二年(一二五〇)に親鸞が末娘覚信尼に与えたとされる「建長二年文書(「三夢記」)」が伝来している。従来後世の偽作とされてきたこの文書であるが、古田武彦が『親鸞思想-その史料批判』(冨山房、一九七五年)等において真作説を提唱して以来その真偽が議論されてきた。今回筆者は「三夢記」に添えられた「書簡」の「親鸞が建長二年、覚信尼の要請に応えて『四十八願文』とともに「かたみ」として与えた」という記述に着目、検討を加え、「三夢記」が偽作であること、併せて、元久二年(一二〇五)の親鸞の改名-従来は「綽空」から「善信」への改名であると考えられていたが、筆者はこれを「親鸞」への改名であると考える-を促したとされる建久二年(一一九一・親鸞十九歳)の磯長の聖徳太子廟での夢告が史実ではないことを論証していくこととする。
著者
田中 悟
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.139-160, 2009

子安宣邦による「国家神道」論が提起しようとした問題は、その後の議論において正当に受け止められたと言えるだろうか。本論文は、「国家」や「国民国家」といったタームを手がかりとして、「国家神道」をめぐる従来的な議論に若干の新たな認識視座を導入しようという試みである。宗教学的な「国家神道」研究はこれまで、「神道」研究(の一環)とみなされ、「国家」研究の側面が疎かにされてきた。しかし「国家神道」は、政治学的な「国家」の枠組みにおいても把握が目指されねばならない研究対象である。「神道とは何か」と同時に、「国家とは何か」が問われねばならない。「国家神道」は、両者の問いの相関として議論されねばならないのである。そこで筆者が提示しようとする「国家神道」の新たな認識視座とはすなわち、「国家とは何か」という問いをそれ自体としてまず直視し、「国家」と「神道」との相関を問う、関係論としての「国家神道」論である。
著者
宮下 聡子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.67-89, 2006-06-30 (Released:2017-07-14)

ユングは古来の難問、「悪の問題」に、神義論とは異なる立場から答えようとした。ユングは「キリスト、自己の象徴」(『アイオーン』第V章)で、彼の見るところ「悪の問題」へのキリスト教の答えである「善の欠如」の教説を批判している。ユングによれば、この教説は「最高善」である神の被造物の中に悪は存在しないと説いているが、それは誤りである。神は「最高善」ではないし、そのような神の被造物として人間にも悪は具わっている。ユングはまた『ヨブへの答え』で、神を「対立の一致」にして「無意識」と規定し、「人間化」を欲しているとする。ユングによれば、神は「対立の一致」として善だけでなく悪も含んでおり、しかも「無意識」で自己反省を欠くため、悪の面が現れ出ることがあり得る。そして神は「人間化」を欲し人間に宿ろうとするため、悪は神と人間の関係において解決されるべき問題となる。ユングはこのようにして「悪の問題」に答えようとする。ここに、人間悪を徹底的に見詰め、しかも神との関連においてその解決策を探ろうとした、ユングの思想的格闘の成果を見ることができるのである。
著者
ウェッシンガー キャサリン 粟津 賢太
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.243-273, 2012-09-30 (Released:2017-07-14)

二〇〇五年八月二九日にニューオーリンズをはじめルイジアナ州やミシシッピ州のメキシコ湾岸地域を襲ったハリケーン・カトリーナによる災害は、さまざまなタイプのおびただしい宗教的応答を促した。個人化されたスピリチュアルな応答もあれば、特定の宗教教団の見解に沿ったものもあった。一方で、災害を罪に対する神の懲罰であるとみなすネガティヴな宗教的対応もあった。(なにゆえに神は人々が苦しむことを許したのかを説明する)懲罰的な神義論は、個人や会衆によって組織化された救済活動を阻むものではなかった。しかしながら、救済するつもりのない外部の者によって示された懲罰的神義論は、ある特定の政治的神学的な意図を普及させる手段であった。他方で、カトリーナ災害への宗教的応答のほとんどはポジティヴな宗教的対応を示しており、人々に高次の力からの慰籍を与え、他者を助けようと志向させ、被災者を非難しない思慮深い神学的な説明を受け入れさせた。宗教的観点から動機づけられているか否かにかかわらず、傍らに寄り添い、同情的かつ共感的に耳を傾ける存在はカトリーナの被災者たちにとって大きな助けとなった。
著者
川橋 範子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.31-55, 2019

<p>本稿ではジェンダー論的転回(gender-critical turns)が明らかにする日本の宗教研究の問題点を概観し、それらを修正するいくつかの方向性を提示していく。この作業にあたり、筆者と個人的な交流があるウルスラ・キング(ブリストル大学名誉教授)とモーニィ・ジョイ(カルガリー大学教授)という二人のフェミニスト宗教学の開拓者・先駆者(trailblazer)の理論的テクストの重要性を、日本で文脈化していく。宗教はグローバルなジェンダー正義を保障するための重要で積極的な要因となりうる。宗教の象徴力と組織力が強大であるがゆえに、宗教はジェンダー平等に敏感なものへと再構築される必要があると主張していく。結論部では、宗教と女性の主体を巡る近年の言説の陥穽とそれが日本の宗教研究に及ぼす個別の影響について考察する。</p>
著者
髙橋 沙奈美
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.3, pp.25-48, 2017

<p>本稿はペテルブルグの聖クセーニヤに対する崇敬を事例として、人びとの日常生活の中で経験され、表現される「生きた宗教(lived religion)」が、社会主義時代にどのような主体によって維持され、いかに変容し、またいかに持続したかという問題を検討する。十八世紀末の帝都の下町に暮らしたといわれるクセーニヤは、十九世紀後半から二〇世紀にかけて、悩みや苦しみに寄り添い力を貸してくれる聖痴愚として、人びとに慕われ始めた。一九一七年の革命後、反宗教政策で教会が壊滅状態に陥り、祈?を依頼できる司祭がいなくなると、レニングラードの人びとはクセーニヤに「手紙」を書くことで崇敬を維持した。クセーニヤは過去の記憶ではなく、テロルや包囲戦の時期もレニングラードと共にある等身大の福者として意識された。また、帝政末期にすでに正教会にも認められていたクセーニヤ崇敬は、教会権力によって単なる民衆宗教として排斥されず、西側の世論を怖れたソ連政府も礼拝堂の破壊を思いとどまった。一九八八年の列聖は、信者たちにとって、革命以前の信仰生活の復活ではなく、ともに最も苦しい時代を生き抜いたクセーニヤの記念を意味したのである。</p>
著者
クレーマ ハンス・マーティン
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.521-544, 2014-12-30 (Released:2017-07-14)

明治前期における宗教概念形成過程のなかで、浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷(一八三八-一九一一)が果たした役割の重要性は、先行研究においてすでに指摘されている。その理由の一つは、「信教の自由」の先駆者として捉えられてきた島地が明治五年、実際にヨーロッパを遊学したことであるが、彼がヨーロッパで具体的に誰と会い、どのような経験を通して「ヨーロッパ」の影響を受けたかは、必ずしも解明されていない。本論文の目的は、島地がフランスやドイツで明治五・六年に出会った人物とその思想を明らかにすることを通じて、帰国後の彼の思想展開を分析するための手がかりを得ることである。特にこれまでの研究において謎であった、島地がベルリンで面会した「リスコ」の人物像を解明し、プロテスタント牧師であった彼から島地が学んだ自由神学の影響を検討することによって、近代日本における宗教概念形成研究への貢献を目指すものである。
著者
熊谷 友里
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.1, pp.75-98, 2020

<p>近代カトリックの宗教としての性格を理解しようとするとき、教会の諸制度を含めた宗教実践の実定的側面が宗教的真理としていかに位置づけられてきたかは重要な論点である。本稿では、一九世紀フランスにおけるウルトラモンタニスムとガリカニスムの対立図式上に生じた「典礼論争」を背景に、ベネディクト会ソレーム修道院の院長プロスペル・ゲランジェがオルレアン司教に宛てた三通の書簡を考察対象とし、そこにおいて実定的性格をもつ典礼がいかに規定され意義づけられているか、さらにはそれらの議論のなかでカトリックの宗教としての性格がいかに捉え直されているかを検討する。内的事柄のみを宗教的本質とみる司教に対し、ゲランジェは典礼の意味と意義を多様に論じつつ、地上の教会に関わる実定的な事柄を、宗教的真理にとって不可欠な要素として本質的領域に再設定し、カトリシスムの真理構造とその宗教的性格をも再検討させている。</p>
著者
磯前 順一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.193-216, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

近代ナショナリズムに対する批判が、人間の歴史的真正さへの志向性を相対化することに成功し、宗教概念論という新たな研究潮流を生み出した。その背景には一九六〇年代後半に始まるフランス現代思想の、ポストコロニアリズムあるいは植民地主義を介した一九九〇年代の動きがあった。こうした流れの中で、近代を中心とする日本宗教史の言説が流布しているが、一方で近世以前の時期に対する研究は影を潜め、近代が作り出した過去の言説として、近世以前の時期は扱われるにとどまった。同時にそうした固定化された日本宗教史研究は、ポストコロニアル研究などのもつ社会に不平等性に対する批判力を抹消させ、形骸化された制度史研究に宗教概念論の批評性を無効化させてきた。本稿ではこうした近年の傾向に一石を投じるために、非近代西洋的な余白として近世の信仰世界や民俗宗教を研究する可能性を理論的に模索する。