著者
森賀 一惠
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.155-173, 2019-02-20
著者
金子 幸代
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.56, pp.456-444, 2012

2011年は,魯迅生誕130年にあたる。そこで本稿では,近代劇を代表するノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセン Henrik Ibsen (1828~1908)の『人形の家』Et Dukkehjem(1879.9)を取り上げ,日本と中国の文豪,森鴎外(1862~1922)と魯迅(1881~1936)のこの戯曲への反応を考察し,両者の関係について探っていきたい。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.69, pp.33-50, 2018

本号は,『富山大学人文学部紀要』の第61 号(2014 年8月)から第68 号(2018 年2月)にかけて連載した「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(1)~(8)」の本文テキストの索引である。本書『タズキラ・イ・ホージャガーン』には270余りの聖・俗の人物名をはじめ地名,集団名など数多くの固有名詞や特殊用語がみられる。本書の活用をはかるため分類索引を作成した。
著者
佐藤 裕
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.59, pp.1-33, 2013

ウィトゲンシュタインの哲学,特に「哲学探究」を中心とする,いわゆる「後期」のそれは,社会学という学問分野においても多くの議論を呼び起こしてきた。とりわけ,「規則(に従うこと)」や「私的言語」といった論点は,「言語(活動)」と「社会」との接点に位置しており,社会学者にとって意義のある検討課題であろう。 しかし,後期ウィトゲンシュタインの「中心テーマ」と評されることもある,「言語ゲーム」という概念それ自体は,それほど主題化されてこなかったのではないかと私は考えている。これは,ウィトゲンシュタイン自身がこの概念を明確には定義しておらず,むしろ積極的な定義を避けているようにも見える,といったことにもよるだろうし,この概念を理論的な概念であるというよりは理論の方向性を(漠然と)示すものとして受け止められてきたためではないかとも思う。 しかしながら,少なくとも社会学にとっては,この「言語ゲーム」という概念は,それ自体が詳細に検討する価値のある概念なのではないかと私は考えている。そこで,本論では「言語ゲーム」という概念そのものを主題化することにより,社会学におけるこの概念の利用可能性を検討したい。
著者
中島 淑恵
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.153-167, 2017-08-21

ラフカディオ・ハーンが日本に興味を抱いたのは,1884年にニューオリンズで開催された万国博覧会で日本の様々な文物に触れ,また農商務省の服部一三と出会ってそれらの文物の説明を受けことがきっかけであると一般に言われている。しかし,ニューオリンズ時代のハーンは,それよりも1年も前に発表されたコラム「日本の詩瞥見(A Peep at Japanese poetry))において,「日本の詩」すなわち和歌についての並々ならぬ知見を披露している。この時期のハーンは確かに,のちにモーデルによって取りまとめられた『東西文学評論(Essays in European and Oriental Literature)』の目次を見ればわかるように,世界各地の民話や伝承に興味を抱いていたのであって,日本をとりわけ特別な国と認識していたとは言い難いかも知れない。実際,『東西文学評論』にまとめられたアジアに関するコラムは,仏教の紹介からインドの女流による詩,中国人の信仰と並んでこの「日本の詩瞥見」が収められているのであって,アジアをざっと俯瞰したような布置になっているのは確かである。しかし,ヘルン文庫に収められた,このコラムを執筆する種本になったと思われるレオン・ド・ロニーの『日本詞華集(Anthologie japonaise)』を精査すると,おそらくこのコラムの発表された1883年頃に,ハーンの中で日本という国が,アジア諸国の「ワン・オブ・ゼム」から,何か特別な位置を占める唯一の国に変貌を遂げたのではないかと思われる点が見受けられる。すなわち,実際の日本や日本人と対峙する前に,ハーンは書物によってすでに「日本」なるものに深い関心を寄せていたのではないかということが十分に推察されるのである。またモーデルは,1923年に『東西文学評論』を編纂するにあたって,グールドがその著作の中でリストに挙げなかった1882年から1884年までの『タイムズ・デモクラット』紙に収められた無署名のコラムをハーンのものとして収録しており,「日本の詩瞥見」もその一つである。これら無署名のコラムをどのようにしてハーンの筆になるものと同定できるのかについて,実は客観的な根拠はないに等しい。またモーデルは序文の中で,「グールドの著作にないタイトルで私が選んだコラムは,ハーンによるものであることに些かの疑いの痕跡もないものである(The editorials I chose, whose titles do not appear in Gould's book are those of which there is not the least vestige of doubt that they are Hearn's)」と述べているが,その理由は「同紙の他の誰も,東洋の事柄についてこれほど親しんだ者はいないし,フランスのロマン派に熱情を抱く者もいなかった(No one else on the paper was as familiar with Oriental topics or had such a passion for the French romantics)」というものであり,これに続く例示はロチなどフランスの作家についてのもので,「日本」を題材にした「日本の詩瞥見」が,なぜ「疑いの余地なく」ハーンの筆になるものと同定できるのかについては何も述べていない。しかし,ヘルン文庫に収められたロニーの『日本詞華集』の精査によって,やはりこのコラムがハーンの筆になるものとある程度確定できる根拠となるものが見つかったようにも思われるのである。以下小論は,このような見地からロニーの『日本詞華集』を中心に,1883年頃のハーンの日本に関する関心のありようを観察することによって,「日本の詩瞥見」をその後のハーンの日本関連の著作との関連から読み直そうとするものであり,この無署名のコラムがハーンの筆になるものと確定し得る根拠の一端を示そうとするものでもある。
著者
田村 俊介
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.308-289, 2017-08-21

佐藤陸氏は「『義経記』巻七の改竄」に於いて、「義経記」巻七は、第一系列本のほうが第二系列本よりも優秀で、後者は、前者の本文を改竄・削除して成立したものであることを明らかにしている(以下、本拙稿に於いて、佐藤陸氏の説を引用する場合、特に断らない場合、この論文に拠る)。これを受けて、私も、第一系列本の優秀性を示す根拠を私なりに付け加えてみたい。
著者
中島 淑恵
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.175-189, 2017-02-20

富山大学附属図書館所蔵のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)旧蔵書(ヘルン文庫)には,2種類の『ギリシア詞華集』が収蔵されている。そのうち1種類は英語版で,書架番号[302]The Greek anthology : as selected for the use of Westminster, Eton and other Public schools / literally translated into English prose, chiefly by George Burges, to witch are added Metrical Versions by Bland, Merivale, and others, and an index of reference to the originals, London, G. Bell, 1893.であり, もう1種類はフランス語版で2巻本の,書架番号[1641]と[1642]Anthologie Grecque, Tome I-II,traduite sur le texte publié d’après le manuscrit palatin par Fr. Jacobs, avec des notices biograophiques et littéraires sur les poëtes de l’anthologie, Paris, Hachette, 1863. であり,いずれもハーンが来日後に購入したものと思われる。いずれの『ギリシア詞華集』にもハーンによる鉛筆の書き込みが随所に見られるが,本稿はそのうちフランス語訳の2巻本について調査を行った結果を記すものである。
著者
恒川 正巳
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.59, pp.121-134, 2013

E. M. フォースター(E. M. Forster)の『眺めのいい部屋』(A Room with a View)は,1908 年に彼の3番目の小説として出版された。ただし,執筆が開始されたのは彼の小説のなかでは最も早く,作品の構想を記したメモが1901 年から翌年にかけて作成されている。完成までの6 年間にフォースターは執筆を2度やり直し,その結果『眺めのいい部屋』は姉妹版ともいうべき物語を2つ持つことになる。アビンジャー版フォースター著作集の1 冊The Lucy Novelsに収められているこの2作品は,通常「旧ルーシー」("Old Lucy") ,「新ルーシー」("New Lucy")と呼ばれる(Stallybrass vii-ix)。どちらの作品も断章や矛盾する記述を含んでいて物語としては未完成ではあるが,『眺めのいい部屋』のいわば別バージョンとして興味深い。『眺めのいい部屋』を含むこれらの3作品は,主人公ルーシーをはじめ主要な登場人物や物語世界をかなりな程度まで共有しつつも,はっきり異なる部分を持つ。たとえば,「旧ルーシー」のストーリーは,フィレンツェに滞在する英国婦人たちが企画するチャリティ・コンサートをめぐって展開するが,この出来事は『眺めのいい部屋』には採用されていない。「新ルーシー」においては,『眺めのいい部屋』でルーシーと結婚し,物語を幸福に締めくくるのに欠かせない登場人物のジョージ・エマソンが,ルーシーとの結婚直前に事故死してしまう。3作品はきわめて近い関係にあり,たとえその創作にまつわる事実をまったく知らない読者が読んだとしても,その共通する要素に容易に気づくことができるだろう。一方で3作品は矛盾する内容を持つため,1つの物語世界に並存することはできない。「旧ルーシー」,「新ルーシー」,『眺めのいい部屋』は,不安定な間テクスト関係を結びながら,たがいの物語の潜在要素を浮かび上がらせている。 3作品のこうした特質を解明する考察の一環として,本論では「旧ルーシー」と『眺めのいい部屋』の主要登場人物の特性の変化を分析する。「旧ルーシー」の主人公ルーシー(以下,区別する必要がある際には旧ルーシーと呼ぶ)と彼女の友人アーサー氏に,『眺めのいい部屋』のルーシーとジョージには見られない,どのような特性が賦与されているのかを確認する。結論を先取りして述べると,旧ルーシーは,『眺めのいい部屋』のルーシーにくらべて物語冒頭から独立心が強く,現状への不満を強く意識している。主人公のこの特性にふさわしい結末として,「旧ルーシー」はルーシーがみずからの決断でフィレンツェを離れることで一応の終わりを見る。アーサー氏は,ジョージにくらべて,その知的,芸術的特性が強調されている。画業を志しイタリアへやって来た彼は,思索の結果,進むべき道が別にあることに気づく。旧ルーシーがそうであるように,アーサー氏もジョージにくらべてずっと内省的である。以下,こうした点を具体的に確認するにあたって,本論はまず,登場人物を考察するための分析アプローチのあり方を概観する。その際とくに,ユーリ・マーゴリン(Uri Margolin)が可能世界意味論の観点から物語世界の人物について考察した一連の論文に注目する。
著者
藤田 秀樹
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.61, pp.183-200, 2014

1970年代から現在に至るまでその旺盛な創作力でハリウッドを牽引し続けているフィルムメーカー,スティーヴン・スピルバーグのキャリアを概観すると,1980年代後半が彼の作風の大きな転換点として浮かび上がる。本論では,スピルバーグのキャリアにおける転換点を画するこれらの作品群のひとつであり,また彼の作品の中でも等閑視されてきた感のあるもののひとつでもある『太陽の帝国』を取り上げる。この『太陽の帝国』において,彼は少年と世界が痛々しい成熟へと至る軌跡を活写する。従来のハッピーエンディング的な大団円とは違って,どこか屈折や屈託を孕みつつ物語が終結していくのも,この作品がそれまでのスピルバーグ作品と一線を画するものであることを示唆するものと言えよう。物語を通して交錯するふたつの「通過儀礼」に焦点を当てながら,『太陽の帝国』という映画テクストを読み解くことを試みる。
著者
恒川 正巳
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.121-134, 2013-08-26

E. M. フォースター(E. M. Forster)の『眺めのいい部屋』(A Room with a View)は,1908 年に彼の3番目の小説として出版された。ただし,執筆が開始されたのは彼の小説のなかでは最も早く,作品の構想を記したメモが1901 年から翌年にかけて作成されている。完成までの6 年間にフォースターは執筆を2度やり直し,その結果『眺めのいい部屋』は姉妹版ともいうべき物語を2つ持つことになる。アビンジャー版フォースター著作集の1 冊The Lucy Novelsに収められているこの2作品は,通常「旧ルーシー」("Old Lucy") ,「新ルーシー」("New Lucy")と呼ばれる(Stallybrass vii-ix)。どちらの作品も断章や矛盾する記述を含んでいて物語としては未完成ではあるが,『眺めのいい部屋』のいわば別バージョンとして興味深い。『眺めのいい部屋』を含むこれらの3作品は,主人公ルーシーをはじめ主要な登場人物や物語世界をかなりな程度まで共有しつつも,はっきり異なる部分を持つ。たとえば,「旧ルーシー」のストーリーは,フィレンツェに滞在する英国婦人たちが企画するチャリティ・コンサートをめぐって展開するが,この出来事は『眺めのいい部屋』には採用されていない。「新ルーシー」においては,『眺めのいい部屋』でルーシーと結婚し,物語を幸福に締めくくるのに欠かせない登場人物のジョージ・エマソンが,ルーシーとの結婚直前に事故死してしまう。3作品はきわめて近い関係にあり,たとえその創作にまつわる事実をまったく知らない読者が読んだとしても,その共通する要素に容易に気づくことができるだろう。一方で3作品は矛盾する内容を持つため,1つの物語世界に並存することはできない。「旧ルーシー」,「新ルーシー」,『眺めのいい部屋』は,不安定な間テクスト関係を結びながら,たがいの物語の潜在要素を浮かび上がらせている。 3作品のこうした特質を解明する考察の一環として,本論では「旧ルーシー」と『眺めのいい部屋』の主要登場人物の特性の変化を分析する。「旧ルーシー」の主人公ルーシー(以下,区別する必要がある際には旧ルーシーと呼ぶ)と彼女の友人アーサー氏に,『眺めのいい部屋』のルーシーとジョージには見られない,どのような特性が賦与されているのかを確認する。結論を先取りして述べると,旧ルーシーは,『眺めのいい部屋』のルーシーにくらべて物語冒頭から独立心が強く,現状への不満を強く意識している。主人公のこの特性にふさわしい結末として,「旧ルーシー」はルーシーがみずからの決断でフィレンツェを離れることで一応の終わりを見る。アーサー氏は,ジョージにくらべて,その知的,芸術的特性が強調されている。画業を志しイタリアへやって来た彼は,思索の結果,進むべき道が別にあることに気づく。旧ルーシーがそうであるように,アーサー氏もジョージにくらべてずっと内省的である。以下,こうした点を具体的に確認するにあたって,本論はまず,登場人物を考察するための分析アプローチのあり方を概観する。その際とくに,ユーリ・マーゴリン(Uri Margolin)が可能世界意味論の観点から物語世界の人物について考察した一連の論文に注目する。
著者
中沢 敦夫
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.61, pp.233-268, 2014

本稿から始まる連載で翻訳と注釈を試みるのは,キエフ・ルーシ史研究のもっとも基本的な史料である『イパーチイ年代記』(Ипатьевская летопись) の,『原初年代記』(Повестьвременных лет) 以降の部分,記事の年代から言うと,6618(1110)年から6800(1292)年に相当する部分で,ほぼ12~13 世紀をカバーしている。『イパーチイ年代記』は中世ロシアのほとんどの年代記(летописи)がそうであるように,様々な時期に成立した個々の歴史的・年代誌的な記録が,特定の段階でまとめられて編集され,それがさらに何度かの再編集を経ることで成立した「年代記集成」(летописный свод)である。本連載の第1回目では,『キエフ年代記集成』の翻訳に入る前に,『原初年代記』と『キエフ年代記集成』をつなぐかたちになっている,『イパーチイ年代記』の,6618(1110)~ 6625(1117)年の記事の翻訳と注釈を行う。この部分は,『原初年代記』の主要諸写本の共通部分から離れ,『イパーチイ年代記』だけに認められる記事であり,なおかつ,のちの『キエフ年代記集成』の編集とは別個に行われたとされている部分である。研究史上は,『イパーチイ年代記』だけに見られる『原初年代記』の追加編集記事と考えられている。
著者
小助川 貞次
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.153-165, 2016

本稿では,訓点資料は重層性を持つ立体構造であるという基本認識の上に立って,これらの問題点について,近時刊行された東洋文庫善本叢書第5巻(勉誠出版,2015年2月)所収の国宝毛詩を取り上げて具体的に論じ,新たな訓点研究の方法を探りたい。なお本稿で取り上げる用例については,すべて上記善本叢書で検証可能なので,図版は掲げない。
著者
藤田 秀樹
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.233-245, 2016

『シザーハンズ』は,同質的な共同体とそこに闖入した強い異質性,他者性を帯びた「異形の者」との対峙・相克の物語と言えそうだ。エドワードの手=鋏にはさまざまな意味が重層的に織り込まれているように思われるが,その中で最も明確なのは,彼の異質性,他者性を際立たせる烙スティグマ印というものであろう。彼はこの手=鋏で新しいものを次々と創出し,住民たちに非日常的,祝祭的な刺激と興奮をもたらすことで束の間,住宅地を活性化させるが,やがて災厄をもたらす危険でおぞましい存在として排除される。彼を取り巻く状況のこのような起伏は,共同体に対して異質なものが否応なく帯びてしまう両義性を,角度を変えて見るなら,共同体が異質なものに対して抱くアンビヴァレンスを,浮き彫りにするものではあるまいか。以上のようなことに焦点を当てつつ,『シザーハンズ』という映画テクストを読み解くことを試みる。
著者
中村 雅之
出版者
富山大学
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.109-118, 2001-03-21