- 著者
-
福田 珠己
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.253, 2009 (Released:2009-06-22)
1 問題の所在
「郷土」とは,所与の存在として「そこにある」ものなのであろうか。『郷土―表象と実践』(「郷土」研究会 2003)で議論されたのはそのような対象としての郷土ではない。むしろ,社会的実践の中で郷土なるものがどのように策定され具体化されているのか,そのことが問題とされたのである。
本報告は,このような「郷土」の理解を継承するものである。具体的には,明治から昭和にかけて,ある意味で,郷土となるものとかかわり続けた人物,棚橋源太郎に焦点をあて,郷土なるものがどのように具体化・視覚化されたのか,彼の思想との関連から考察する。
2 棚橋源太郎と博物館
棚橋源太郎(1869-1961)は,多様な顔を持つ。理科(博物学)教育を中心とした学校教育、社会教育(生活改善運動)、博物館と多岐にわたる活動を精力的に展開してきた人物である。そのような人物を取り上げるのには理由がある。それは,地理学的知の実践が、狭い意味での学問分野の中に限定されるものではないからである。つまり,地理学者,あるいは地理教育者として名を連ねている者のみが地理学的知の実践者ではないのである。
他方,棚橋の活動期間が極めて長いことも,今回注目する理由の一つである。明治初期から昭和にかけて,様々な社会的状況の中で,郷土なるものに向かい合い続けてきたことに注目することによって,学校教育(あるいは地理教育)の枠の中で郷土なるものを検討してきた従来の郷土研究とは異なった視点を提供できると考えるからである。
棚橋源太郎の生涯を振り返ると,時期によってその活動にいくつかの特徴を見出すことができる。ここでは,棚橋の生涯を振り返りながら,特に,郷土との関連から説明していこう。
第一に,博物学教育者として,理科教材や実科教授法について,思想や方法を展開した時期があげられよう。後の東京高等師範学校で学び,その後,附属小学校に赴任する頃,明治30年頃までがそれにあたる。この時期の棚橋は,実物を重視した理科教育(博物学教育)の展開のみならず,当時導入された郷土教育の教授法にも力を注いだ時期である。この時期の郷土教育については,地理学においても検討されているところである。
第二は,教育博物館への関心が高まった時期である。具体的には,東京高等師範学校附属東京教育博物館主事となった1906年(明治39)から,2年間のドイツ・アメリカ留学をへて,1924年(大正13)に東京教育博物館を退職する頃までがそれに該当する。実科教授法や郷土教育を論じる中でも,学校博物館について言及していたが,この時期には,本格的な教育博物館を立ち上げることに力を注いだ。また,西洋の博物館事情を積極的に紹介した時期でもある。
第三は,1925年(大正14)の二度目のヨーロッパ留学を経て,日本赤十字博物館を拠点として博物館活動を展開する時期である。この時期,棚橋は,郷土博物館設立の運動にも関与するが,通俗教育(社会教育)へと軸足を移していること,また,日本の博物館界の基盤形成を行い,同時に,国際的な視野で博物館を論じたことも特筆すべきことである。
3 考察
棚橋源太郎が実践しようとした,あるいは,視覚化しようとした「郷土」とはどのような存在なのだろうか。また,どのような思想や社会状況と関わっているのだろうか。本報告では,第一に,理科教育から郷土教育,通俗教育へと棚橋の活動の重点が移動していく中で,「郷土」はどのような役割を果たしたのかという点,第二に,郷土なるものがいかなるスケールで思考・実践されてきたかという点,すなわち,様々なスケールで展開される思考・実践の中に「郷土」を位置づけることに焦点をあて,郷土なるものの具体化について論じていきたい。
【文献】
「郷土」研究会 2003. 『郷土―表象と実践』嵯峨野書院.