著者
平石 岳
出版者
日本文学協会 ; 1952-
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.68, no.8, pp.24-36, 2019-08
著者
斎藤 英喜
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.57, no.5, pp.2-11, 2008-05-10 (Released:2017-08-01)

宣長の「物のあはれ」説は、近代の<源氏的なもの>を作り出した重要な言説である。しかし、その源氏注釈は、『古事記伝』における「ムスヒ神学」と密接に繋がっていた。そのとき「物のあはれ」説は、中世以来の神道言説と源氏注釈の相関関係の系譜のなかに位置づけなおすことが必要となる。<源氏的なもの>に内在する<非源氏的なもの>の系譜を明らかにした。
著者
大澤 真幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.20-32, 2007

かつてジャック・デリダは、形而上学における「音声言語中心主義」を批判した。だが、この批判は、日本語による思考には直接にはあてはまらない。日本語の思考は、文字(エクリチュール)に深く規定されているからである。このことは、日本語が、独特の書字体系、つまり「漢字かな混じり文」をもっていることと深く関連している。デリダは、彼が「脱構築」と名づけた強靱な思索を通じて、音声言語に対する文字の優越を何とか回復しようとしたのだが、日本語においては、こうした条件は、最初から整っていたのだ。この発表では、こうした特徴を有する日本語に基づく思考の「強さ」と「弱さ」について論ずる。また、この特徴が、日本社会の歴史的構造と相関していることを示す。さらに、議論は、この特徴が、明治以降の西洋文化の導入にどのように反響したかという問いへと移るだろう。この問いへの探究は、日本の思想、とりわけ日本の近代思想において、文学が中心的な影響力をもったのはなぜなのかということを解き明かすことにもなる。「近代文学(小説)の終焉」は、日本語にとって流行の盛衰以上のものだ。それは、日本語に基づく思考そのものの危機かもしれないからだ。
著者
山根 由美恵
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.50, no.9, pp.40-49, 2001-09-10 (Released:2017-08-01)

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーラント」は、『世界の終り』と『ハードボイルド・ワンダーランド』という二つの異なる世界が、パラレルの位置のまま並行して進み、結末において統合されていくと考えられてきた。しかし、二つの世界は展開するにつれ相対する世界の性質へと変化している。本稿では、この性質の変化を<ウロボロス>という円環構造で捉え、自我と外界が対立しない近代自我神話の終結という世界観を読みとった。
著者
山本 ひろ子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.5, pp.19-30, 1985-05-10 (Released:2017-08-01)

天皇制イデオロギーの一思想源流とみなされる北畠親房の三種の神器観念の生成過程を、研究ノート的な『元々集』から歴史叙述の書『神皇正統記』への展開の内に考察する。出発は中世神話的世界にありながらも、神器の問題を天祖-天孫の伝受の絶対的関係に限定することで麹房は三種の神器を天皇支配の正当性と道徳性の根源として定立した。それは神器がコスモロジーを離脱して国家神話の圏内にとりこまれていく構造を示すものであった。
著者
島内 景二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.41-50, 2006-01-10 (Released:2017-08-01)

『絹と明察』は、三島由紀夫の「小説の作り方」を解明する手がかりとなる。というのは、笛吹川芸術文庫に、三島が『絹と明察』を書くに当たって参照した種本が所蔵されているからである。種本と小説を比較すれば、三島が資料に依拠した部分と、そうではない三島文学の本質部分とが区別される。後者は少年時代の読書体験によって完成し、晩年まで一貫して影響を及ぼしている。三島だけでなく、文学者の旧蔵書の調査は、文学研究に新しい地平を切り開くものであろう。
著者
西條 勉
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.38, no.5, pp.1-10, 1989-05-10 (Released:2017-08-01)

歌謡の源初形態である<ウタ-マヒ>は、身体表現を本質とする。ことばの次元を超えて、身体の表現性からウタの始源に迫っていくと、自他未分の原初的共生があらわれてくる。巫謡・歌垣・歌舞劇などを貫くメタモルフォーゼの構造は、すべてが身体の表現性にかかわっており、<ウタ-マヒ>表現は、日常的なものに覆い隠されている身体感覚を発露して、そこに、無人称的な「われ」の世界をつくり出していく。
著者
内田 賢徳
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.5, pp.18-26, 2000-05-10 (Released:2017-08-01)

修辞の出発には、ものと人、或いはものごと相互の同一性が身体的に感受されるということがある。それは語の語源的な層において、身体の体制こそが語源であるというあり方に言語としての基礎をもち、そして地名の語源のようなミュトスに広がる。身体はまた律動の場でもある。生の脈動がことばの音律に現れる時に歌は生まれる。歌謡から定型歌へと様式化したそれぞれで、同一性の感受は修辞として歌のことばへと組織される。

1 0 0 0 OA 「扇の的」考

著者
今井 正之助
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.63, no.5, pp.54-64, 2014-05-10 (Released:2019-05-31)

中学校2年国語「扇の的」は、与一の技量および敵味方が称賛するすばらしさ((『平家物語』巻一一「那須与一」)から、与一を称賛して舞い出た平家方の「老武者」を射殺する場面(「弓流」)を加え、戦の非情さを考えさせることに力点がうつり、その方向に各教科書会社の足並みが揃いつつある。しかし、「老武者」は扇の的を立てた船に乗り組み、義経狙撃を企む一員であった可能性が高い。善良な老人を冷酷に射殺したと受けとめることは誤っている。また、義経は、敵は一人でも生かしておくわけにはいかない、と考え、与一に射殺を命じた、とみなされている。しかし、『平家物語』の義経の行動原理からはそのような理解は成り立たない。「老武者」が扇が立ててあった場所を占拠して舞を舞い、主役の座を奪うかの行為をしたことに対して、義経は激しく怒り、与一も同じ思いで矢を放った。