著者
生形 貴重
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.4, pp.29-40, 1987

「平家物語」の叙述構造は、可視的世界(顕界)と不可視的世界(冥界)との両者に光をあててこそ、その姿を正しくとらえることが出来る。その観点から物語を分析すると、「平家物語」には、清盛→重盛→頼朝という「日本国の大将軍」の移行という構想がうかがえ、それは、生命力の衰弱したこの世界(末法世界)を、冥界からアラブル神の龍神が侵犯し、再生させる過程として顕界に表現される。その構造を明らかにすることは、またこの物語のモノガタリたる性質を、作品論として解明する手がかりとなるであろうと思われる。
著者
近藤 信義
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.44, no.5, pp.10-18, 1995

本稿の目的は古代和歌に見られる枕詞・序詞といった修辞的表現の中の<音>の要素の発掘にある。万葉集の表現の中でも<音>は一首の歌の中で次第に方法化され、音楽性が見出されようとしている。<音>喩という装置も、枕詞・序詞の表現から見出してきたものであるが、本稿では、こうした表現方法が生み出されてくる背景を、古代の<音>の表出された、散文世界から論じてみたい。
著者
中川 裕
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.32-41, 1993

アイヌ文学中の「散文説話」と呼ばれるジャンルはさらに四つに分けられ、その中心となるのは「人間の散文説話」であるが、日本をふくむ他民族の伝承と関係づけられるものは「和人の散文説話」と「パナンペ・ペナンペ譚」に集中する。これは、前者において主人公の人称が四人称であるのに対し、後者が三人称であることと密接に関係する。それを立証する過程で、アイヌ文学における「一人称叙述体」という定説化した概念を再検討する。
著者
佐藤 勝明
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学
巻号頁・発行日
vol.61, no.10, pp.47-56, 2012

<p>芭蕉が「幻住庵記」を書いていた元禄三年、門人らに宛てた書簡には「誹文」「俳文集」といった文言が何度か使われている。去来・凡兆を指導しながら『猿蓑』の編集にいそしんでいた当時、芭蕉は発句・連句のほかに俳文でも一格を立てようとし、『猿蓑』には文章編をも企図していたことが知られている。しかし、その俳文がどのようなものをさすかについて、まとまった発言はないため、なかなか核心に迫れない憾みがある。しかも、『去来抄』に録された言辞によれば、「西鶴」を「俳諧の文章」と認めていたことも知られるため、問題はいっそうぼやけてくる。そうした現状を踏まえ、本稿では、芭蕉が「誹文」として書いたことが確実な「幻住庵記」を取り上げ、その推敲過程を通じて、その趣意が変化していったことを確認する。次に、凡兆の原案に基づき、芭蕉が俳文とすべく改稿したと見られる「烏之賦」、芭蕉が俳文と認めていたらしい嵐蘭の「焼蚊辞」を取り上げ、ここに俳文の基本的な性格のあることも確認する。これらを合わせることから見えてくるのは、人間の内面をとらえようとして、芭蕉が苦心惨憺していた姿であり、また、割り切れない問題の前で迷う姿そのものを、文芸的な趣意として発見していく様相である。そして、これが『おくのほそ道』の執筆につながっていくこと、同書は紀行文であると同時に俳文の集でもあって、やはり曖昧性を趣意としている条が見られること、その際に西鶴の書く草子が一つの先達でもあったであろうこと、などを論じていく。さらに、仮名草子と俳文の関係をどう見るかという問題にも言及し、近世前期の俳文を考えるには、芭蕉の考えに沿いながら慎重に見極めていくしかない、ということを結語とする。</p>

1 0 0 0 OA 宗養の付句

著者
松本 麻子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.25-34, 2013-01-10 (Released:2018-01-31)

連歌会には、上手な作者だけでなく初心者や、ただ「読み・書き」の能力があるだけで、古典の知識の少ない作者も参加していたと推測される。そのような人々に対して、一六世紀を代表する連歌師宗養は、平易な句や、今までの流れを一転させるような鮮やかな句、また滑稽な内容の句などを詠み、参加者を飽きさせないよう心がけていた。古典の知識が必要な句の場合は、『伊勢物語』や『源氏物語』などの有名な場面を多く用いた。こういった詠み様は、近世の俳諧に見られる特徴と類似したものである。
著者
森田 雅也
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.10, pp.22-30, 1996

文化年間刊行の『文苑玉露』は、国学者の交友ぶり、作歌態度などの自照性に富んだもの、消息文などの資料的価値があるもの、未見の序文など文献学的価値の高いもの等、まさに種々混交している和文集である。この作品は学統世界を越境した、一般の読者の期待にも応えるものであった。この世界は四十数年のちの嘉永年間刊行の『遺文集覧』に受け継がれるが、学際的な面白みはあっても、もはや学究的な挑発を楽しむ、越境の期待は充足されないものであった。
著者
森田 雅也
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.21-29, 2003

西鶴の『本朝桜陰比事』(元禄二)巻三の七「銀遣へとは各別の書置」は、従来より目録副題などから、二十五歳までは自由に銀を遣えと遺言した親父の粋な計らいと、その親父の遺言が正しかったことを判じた御前の名裁判官ぶりがこの章の眼目として扱われてきた。しかし、裁判物という趣向をはずし、町人を素材とした、いわゆる町人物として読んだとき、違った新しい読みが提示できるのではなかろうか。本稿では、それを「相続制度」という視点から読み解いていく。
著者
鎌倉 芳信
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.12-21, 1990-04-10 (Released:2017-08-01)

泡鳴が北海道放浪から帰って知り合い、同棲、結婚する遠藤清子は、同棲直後、青踏運動に参加する。泡鳴は清子の手前、彼女の行動を理解し、青踏運動も支援するが、実際には泡鳴は、「新しい女」達の考えにはほど遠い旧思想の持ち主であった。そのため、この時書かれた「毒薬を飲む女」は、表面を新しい思想で装った自己に遠慮して、本当の自分の姿を明らかにしない、いわゆる<追求不尽>の作品として終わっている。
著者
吉田 修作
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.1-10, 2011-02-10 (Released:2017-08-01)

天岩戸と天孫降臨神話に記述されたアメノウズメの所作である<神がかり>、<わざをき>に焦点を当てると、天岩戸でのウズメの所作は書紀の<神がかり>の表記やアマテラスとの問答などから、ことばによる<神がかり>が内包されており、天孫降臨のウズメの所作はサルタヒコの「神名顕し」を促し、天岩戸でのアマテラスの「神顕し」と対応する。ウズメの所作は天岩戸では一方で<わざをき>とも記されているが、<わざをき>は本質的には制度化されない混沌性を抱え込んでおり、それが<神がかり>と通じる点である。
著者
難波 博孝
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.57-67, 2013-01-10 (Released:2018-01-31)

リテラシーは、「場」という空間性と「歴史」という時間性と「集団」という人間性(じんかんせい)によって構成された文脈に依存する。したがって、リテラシーは、人を排除する。それを防ぐために、私たちは、私の持つリテラシーを、超えていくリテラシーを持たなくてはならない。他者に対して自己を批評しつつ対等に立つ「戦略的同化」と自己のリテラシーを批評しつつ他者のそれを流用する「自己批評的流用」が必要である。
著者
米田 利昭
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学
巻号頁・発行日
vol.27, no.8, pp.92-93, 1978
著者
小川 豊生
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.7, pp.43-55, 2006

十三世紀の日本が体験した危機として蒙古襲来をあつかうことは、あまりに新味に欠けるというべきかもしれない。しかし、この国家的危機がひきおこした諸言説の根本的な変化については、それほど詳細に分析されているとは思えない。たとえば、北畠親房がその歴史叙述『神皇正統記』を超越神としての「国常立尊」から書き起こしていること、またその親房がその思想を度会家行をはじめとする伊勢神道にもとづいて形成していたことについては知られているものの、それまで言説化されることのなかった「超絶神」あるいは「世界を建立する神」が、いかなるプロセスで出現してくるのか、といった問題に関してはいまだ明らかにされていない。危機のなかでこそ惹起する、思考のある決定的な飛躍、この問題を十三世紀のテキストをもとに探究してみたい。
著者
津田 博幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.11-20, 1999

六国史に歴史叙述の一環として描かれたシャーマニックな出来事と、歴史叙述の担い手たる古代の史官たちの知の世界との関わりについての考察。具体的には、前兆と結果を記述しつつ展開する歴史叙述の方法を取り上げて分析する。前兆を知り結果を予期することはシャーマニックな知に属するが、その知を史官たちの知と分断してとらえず、両者を地続きのものと考え、そこから歴史叙述が生成するダイナミズムを描くことを目指した。
著者
内田 順子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.21-31, 1999

憑依によって発せられた不完全な神託が、次第に固定化・様式化されたものが共同体で伝承される神歌である、という文芸史観がある。そのために、神歌前史として「憑依の神託」が常に想定され、現在伝承されている神歌の諸表現は、いにしえの憑依表現の残存としてとらえられることになる。しかしわれわれが前提とできるのは、演唱されることによってのみ現存する神歌だけである。憑依はそれに先駆けては現存しない。われわれはここから出発し、神歌と憑依との関係を根底から探求しなおすことを試みる。