著者
井出 靖夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.111-130, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
53

古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
著者
伊藤 武士
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.127-137, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
13

秋田県秋田市に所在する秋田城跡は,古代日本最北の城柵官衙遺跡である。律令国家により天平五年(733)に出羽柵として創建され,その後秋田城と改称された。8世紀前半から10世紀にかけて律令国家体制下における出羽国の行政及び軍事の拠点として蝦夷や移民の支配と統治を行った。奈良時代には出羽国府が置かれていたとされ,また近年は,日本海を通じた大陸の渤海国や北方地域との外交と交流の拠点としての役割も注目されている。秋田城跡では1972年以降秋田市教育委員会による継続調査が実施され,外郭区画施設及び政庁などの主要施設や実務官衙などの所在と変遷が確認され,城内外の利用状況も明らかになりつつある。近年の調査では,外交交流,行政,軍事などの面において,秋田城が城柵として果たした役割やその特質に関わる重要な成果があがっている。第63次調査では,鵜ノ木地区から上屋と優れた施設を伴う8世紀後半の水洗便所遺構が検出されている。便所遺構の寄生虫卵の分析から,ブタを常食とする大陸からの外来者が使用した可能性が指摘され,奈良時代に出羽に来航した渤海使や,外交拠点として秋田城が果たした役割との関連性が注目されている。第72次調査では,画期的内容の行政文書が漆紙文書として多数出土している。それらは,移民や蝦夷などの住民の把握と律令的支配を行うための死亡帳,戸籍,計帳様文書などであり,古代律令国家の城柵設置地域における地方行政制度や住民の構成と生活実態を知るうえで重要な成果となっている。また,第72次調査では,9世紀前半の非鉄製小札甲も出土している。平安時代前期の非鉄製小札甲の出土例や伝世品はなく,日本古代の甲の変遷を考えるうえで重要な成果となっている。漆紙文書や小札甲の出土は,秋田城が平安時代に行政と軍事の枢要機関として果たした役割を示唆している。秋田城跡の調査においては,今後も行政や軍事といった城柵としての基本的機能や役割を追究すると共に,最北の城柵としての特質についても解明していく必要がある。
著者
池 ミン周
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.115-127, 2005

朝鮮半島の公州丹芝里横穴墓遺跡では,23基の横穴墓が群集して発見された。残存状態が非常に良好で構造が明確であり,副葬遺物と被葬者の人骨などが完全に残っている。これは朝鮮半島の横穴墓の構造的特徴と築造時期はもちろん,日本考古学界でこれまで模索されてきた日本列島の横穴墓の起源問題をはじめとする古代韓日関係研究に画期的な資料となる。<BR>横穴墓の築造時期は副葬された土器類の型式的特徴を通して大まかな年代幅を把握することができるが,蓋杯や三足器などの遺物型式をみると,横穴墓はおよそ百済熊津期前半(5世紀後半)にわたって造営されたものと把握される。<BR>一方,公州丹芝里横穴墓の構造的特徴は日本列島の初期横穴墓である福岡県行橋市竹並・大分県上ノ原などの北部九州一円に集中して分布している横穴墓と類似する。その時期は5世紀後半~6世紀前半頃とされており,今まで知られる日本列島の横穴墓の中では朝鮮半島系遺物が副葬される例が少なくない。このような事実はこれまでベールに包まれていた日本列島の横穴墓の起源問題を解明することができる極めて重要な資料となり,今回の丹芝里横穴墓群の存在とともに,横穴墓の百済地域起源の可能性を積極的に検討する契機となるものである。
著者
谷井 彪 細田 勝
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.37-67, 1995-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
102

東日本の縄文時代中期終末から後期にかけては,関東での急激な集落規模の縮小,柄鏡型住居(敷石住居を含む),東北での複式炉をもつ住居の出現,住居数の増加など,縄文時代でも最も栄えたとされる中期的社会から後期的社会へと大きく変貌を遂げる。土器群も隆帯が文様描出の基本であった中期的な土器から,磨消縄文が卓越する後期的土器へと変っていく。しかし,関東と東北では大木式,加曽利E式などのように共通的文様要素がありながら,その構成で異なった土器が分布する。これは住居跡形態でみられたような差と同じような差ともいえる。後期への土器の変化もそれぞれ独自な展開をしているため,両地域土器群の平行関係は関東,東北の研究者間にずれがあり,共通した認識が得られていない。この原因は,編年的研究の方法及び型式理解の混乱に起因している。我々の編年的研究の目的はまず型式学的細分があるのではなく,住居跡出土土器を基本単位として,それぞれ重ね合わせ,さらに型式学的検討を加えて有意な時間差を見出そうとするものである。本稿では関東,東北で異系統とされる土器を鍵として,両地域の土器群の平行関係を検討した。その結果,従来関東の中期末の確固とした位置にあるとされた加曽利EIV式が段階として存在せず,加曽利EIII式後半と称名寺式段階へと振り分けて考えた方が,合理的に解釈できることを明らかにした。また,東北で加曽利EIII式後半に平行する土器群として関東の吉井城山類の影響を受けた,いわゆるびわ首沢(高松他1980)類の出現段階が挙げられ,多くの研究者が大木10式とする横展開のアルファベット文の段階は,後期称名寺式出現期に平行するとした。また,本稿で取り上げた類が決して固定的でないことを明らかにするため,吉井城山類,岩坪類について,各種の変形を受けて生成された土器群を紹介し,相互の関係,時間的展開を通して土器群の実態を検討した。関東と東北の関係でみれば,全く異なるようにみえる土器でも,相互に共通した要素がうかがえ,交流の激しさ,それぞれの地域の独自性を知ることができる。また,関東地域での地域性についても同様なことがあり,このような地域間の差異こそ縄文人の独自性と創造性,人々の交流の結果であり,そこにこそ縄文人の生き生きとした姿を垣間みることができる。
著者
西川 寿勝
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.25-39, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
40

弥生時代中期,わが国に漢式鏡が舶載されはじめる。舶載鏡の大半は異体字銘帯鏡と呼ばれる前漢後期の鏡である。この鏡は北部九州の限られた甕棺墓から大量に発見されることもある。卓越した副葬鏡をもつ甕棺墓の被葬者は地域を統率した王と考えられている。しかし,その根拠となる副葬鏡の製作・流通時期や価値観については詳細に評価が定まっていない。また,大陸の前漢式鏡中に位置づけた研究も深化していない。著者は,これまでに中国・日本で発見された700面以上の異体字銘帯鏡を再検討し,外縁形態と書体をそれぞれ3区分し,その組み合わせで都合7型式を設定,編年を試みた。あわせて,各型式における鏡の価値観の違いを格付けし,もっとも上位に位置づけられる大型鏡は前漢帝国の王侯・太守階級の墳墓から発見される特別なものであることを確認した。大陸での異体字銘帯鏡の様相にもとづき,わが国発見の異体字銘帯鏡を概観した結果,今から約2000年前にあたる紀元前後(弥生時代中期末~後期初頭)に,型式と分布の画期をもとめることができた。その意義について,中期に発展した玄界灘沿岸の勢力が後期になって斜陽となり,西日本各地に新勢力が萌芽する様相がうつしだされたものと考えた。
著者
会下 和宏
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.19-39, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
129

弥生時代における鉄刀剣は,様々な法量,形態があり,日本列島のなかで時期ごとに偏在性をもって分布している。本稿では,資料が増加した朝鮮半島南部と弥生時代の鉄刀剣とを比較して,生産と流通の様相や墳墓副葬における消費の様相を検討し,その意義を考察した。まず,日本列島における弥生後期中葉頃~終末期の長茎・細茎の長剣等は舶載品,短剣は日本列島製が含まれている可能性を追認した。また,分布状況では,弥生後期中葉頃~終末期の長茎・細茎の長剣・鉄刀は,本州島日本海側に多く分布し,大型墓壙,ガラス製管玉副葬の分布とも重複する。東日本にも長剣が分布するが,短茎で平面梯形状をなすものが多いという地域性があり,中継地を介した流通過程に消費地側の需要が強く反映されていることが窺えた。墳墓副葬における消費の様相では,棺内副葬の際は被葬者が成年以上男性の場合が多く,弥生終末期の一部の墳墓では幼小児埋葬にもみられるが,稀有な事例である。また,今後の実証研究が必要であるが,鉄刀剣副葬の基本理念の一つとして,「辟邪」が意識されている可能性を考えた。大型墓壙の埋葬墓には鉄刀剣副葬が多く,内訳をみると,舶載の長剣・大刀等がはいるものがある反面,短剣や切先のみの場合もある。日本列島・朝鮮半島南部の一部上位階層に副葬される長剣・鉄刀等が,日本海を介して日本列島に流通する背後には,環日本海諸地域をめぐる社会状況の情報や集団相互の「政治」関係等も,製品に付帯していたことを示唆している。今後の課題の1つは,鉄刀剣以外の石製武器・武器形青銅器等も含めて,近接武器ないし武器形製品が,諸地域においてどのように使用され,その背景にどのような歴史的脈絡や意義があったのか比較検討することである。
著者
北野 信彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.9, pp.71-96, 2000-05-15 (Released:2009-02-16)
参考文献数
22

本稿では近世初頭~江戸時代にかけての近世期(17世紀初頭~19世紀中期)の出土漆器資料を題材として取り上げる。近年,江戸遺跡をはじめとする近世消費地遺跡の発掘調査では,漆器資料が大量に一括で出土することがある。出土漆器は,木胎・下地・漆塗膜面という異なる素材からなる脆弱な複合遺物であるため,個々の残存状況は土中の埋没環境によって大きく異なり,発掘調査時の検出・実測図作成等の遺物観察・保管管理・保存処理等の取り扱いにも苦慮する場合が多い。加えて漆器は,陶磁器類の古窯跡に対応するような生産地遺跡もほとんど検出されない。そのため,当該分野ではこれまで代表的な一部の資料の表面記載にとどまる場合が多かった。本稿では,これら漆器資料を生産技術面(材質・技法)から調査することを目的として,全国135遺跡,総点数16,578点の近世出土漆器資料(一部箱書き等により年代観がある程度確定される伝世の民具資料も含む)を用いて,(1)樹種,(2)木取り方法,(3)漆塗り技法,(4)色漆の使用顔料や蒔絵材料,の項目に分けた機器分析調査を網羅的におこなった。また文献史料や口承資料を用いて江戸時代の漆器生産技術の復元調査を並行しておこない,機器分析による出土漆器資料の材質・製法の分析結果を正当に評価できるような基礎資料を作成した。その結果,生産技術面から近世出土漆器を調査することは,個々の資料の品質を正当に評価して,渾然とした一括資料を組成別にグルーピングする上で有効な方法であることがわかった。また,これらは(1)トチノキ材やブナ材を用い,(2)炭粉下地に1~2層の簡易な塗り構造を施し,(3)赤色系漆にはベンガラ,(4)蒔絵材料には金を用いず銀・錫・石黄などを使用する,等の日常生活に極めて密着した量産型漆器が大半であることも確認された。その生産技術は,少なくとも4つの画期があり,北海道・東北・日本海側・大平洋および瀬戸内側に大分類される地域的特徴が同時に存在することがわかった。本稿では,以上の分析調査の結果をふまえて,生産技術面からみた近世漆器の生産・流通・消費の諸問題についても概観し,今後当該分野研究の基礎資料となるよう努めた。
著者
高橋 工
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.139-160, 1995-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
110

本稿では5世紀以前の東アジアで出土した甲冑を検討対象とする。その目的は大きく分けて2つある。第1は,当時の東アジアの各民族・国家がもっていた甲冑にどのような特性が認められるかを明らかにすることである。第2は,わが国の古墳時代前・中期の甲冑が,年代的に,技術的に,あるいは政治的に,東アジアの甲冑の体系の中でどのように位置づけられるかを明らかにすることである。検討の手法としては,東アジアで出土する多様な甲冑をその基本設計の違いから,小札綴・小札縅・地板綴の3つの系統に大別する。そして,小札綴系統が漢民族と,小札縅系統が北燕や高句麗等の騎馬民族と,地板綴系統が朝鮮半島南部・日本の民族と,それぞれ深い係わりを有していたことを述べる。その後,甲冑の基本設計を規定する製作技術の検討から,各種甲冑の変遷,各系統間相互の影響と伝播を考える。その結果,特に3~5世紀代の甲冑の伝播において,騎馬民族国家が果たした役割が大きいことを指摘する。また,地板綴系統として一括される朝鮮半島南部と日本で出土する甲冑が,技術的に別系統として分離可能であり,日本から半島南部へもたらされた可能性が強いことを指摘する。日本では独自の様式の甲冑が生産され続けたが,同時に,甲冑製作技術が海外からうけた影響も大きい。その影響は,4世紀代には中国から完成品が輸入され,5世紀代には朝鮮半島南部から甲冑工人が渡来するといったように,時期によって内容に違いが見られる。そして,このような状況は当時の東アジアの政治情勢と密接に関係していたと考えられるのである。
著者
城ヶ谷 和広
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.83-100, 1996-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
96

律令体制の形成という大きな政治的ながれは,当然,須恵器生産にも様々な影響を及ぼすこととなる。逆に言えば,須恵器生産の変化の中から,その政策の一端を復元することも可能となる。この時期の須恵器生産の変化の鍵を握るのが,瓦陶兼業窯であると考え,具体的には,尾張の瓦と須恵器生産を例にとって,律令体制の形成と地方における生産との関わりについて検討した。まず,7世紀前半代においては,推古朝の新しい産業政策の実施などにより,北陸地方などで一郡一窯体制といった新しい生産体制がとられるが,国造勢力の強かった尾張猿投窯では,ほとんど変化がみられず,新しい政策に対して,反応が比較的薄かった。ところが,7世紀後半になると,政治的な制度の整備に加えて,仏教政策,産業政策などが一体となって,中央の地方浸透政策はさらに強力なものとなる。中央権力は尾張国造勢力の支配に楔を打ち込むため,支配下に入った在地豪族へのテコ入れを行い,東畑廃寺を造営させる。そして,この寺院へ瓦を供給する窯として,篠岡2号窯が構築される。篠岡2号窯開窯にあたっては,おそらく工人を伴う形で奥山久米寺の瓦の笵型がもたらされるが,須恵器工人は国造勢力のおさえていた猿投窯から割きとる形で動員され,新たな丘陵を開発している。その後も,尾北窯では中央から瓦の技術が継続的に導入されるとともに,焼成された須恵器が,飛鳥石神遺跡など畿内中枢部へもたらされた。その意味では7世紀後半は仏教政策と産業政策を一体としてとらえることができ,その象徴が瓦陶兼業窯であった。このような7世紀後半の動きは富山県小杉丸山窯,福島県善光寺窯や滋賀県木瓜原遺跡など各地で見られるが,これらの窯の多くが,後に製鉄技術も扶植され,生産コンビナート的な生産地となっていく。大きくみれば,これらの生産地は同じ施策のもとに生み出されたもので,「新規開発型」(篠岡窯,木瓜原遺跡など)と「在地再編成型」(善光寺窯,小杉丸山窯など)に分けられる。しかし,8世紀半ばになると,これらの産地は衰退し,再編成の波が押し寄せる。尾張では尾北窯が衰退する一方,猿投窯が律令制下に組み込まれ,安定した生産を続けるようになる。
著者
小林 正史 久世 建二 北野 博司
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.45-69, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
24

一連の野焼き実験と土器作り民族誌の比較研究により焼成浪跡の形成過程を解明し、それをもとに弥生土器の黒斑を観察した。その結果、野焼き方法について以下の点が明らかになった。1.弥生土器の覆い型野焼きは、(1)主熱源の薪を地面全体に敷かず、土器の周囲のみに並べる、(2)土器の内面に薪を差し入れない、(3)弥生中・後期では側面・上面・接地面付近に薪を置かない、などの点で薪燃料節約型といえる。ただし、弥生早・前期土器やそのルーツである韓国無文土器は、弥生中・後期土器よりも薪燃料を多用する。2.薪燃料節約型の覆い型野焼きでは地面側の火回りを良くするために、「横倒しにした時の接地面積が大きい土器ほど、支えなどを用いて立ち気味に置く」という工夫をしている。一方、(1)球胴に近いため横倒しに置いても下側の火回りが十分確保できる土器、(2)台付き土器(高杯を含む)、(3)側面・上面・接地面付近に多くの薪燃料が置かれる土器(弥生早・前期や箱清水式)、では支えを用いず横倒しか「やや立ち気味」に置かれる。3.弥生早・前期土器は、弥生中・後期土器に比べて、(1)側面・上面や接地面付近により多くの薪を置く点で薪燃料多用志向である、(2)接地面付近により多くの薪が置かれるため、甕では「横倒し」に置かれる頻度がより高い、(3)甕は口の開きが大きいため、口縁に薪を立て掛ける頻度が低い、という特徴を示す。これらの特徴は韓国の中期無文土器と共通することから、弥生早・前期から中・後期へと弥生土器の独自性が強まるといえる。4.弥生時代になると東北地方を除いて開放型から覆い型に野焼き方法が変化した理由として(1)集落立地の変化に伴い薪燃料が貴重になった、(2)彩色手法が「黒色(褐色)化した器面に焼成後赤彩する方法」から「均等で良好な火回りが必要なスリップ赤彩」に変化した、(3)縄文から弥生へと素地の砂含有量が少ない貯蔵用・盛りつけ用土器の比率が増加した、の3点があげられる。これら3点は各々、(1)薪燃料節約型である、(2)イネ科草燃料の覆いのため火回りが均等で良好である、(3)覆いの密閉度(イネ科草燃料の上にかける被覆材の種類と関連)を調整することにより昇温速度と焼成時間を自由にコントロールできる、という弥生土器の覆い型野焼きの特徴と対応している。
著者
山田 康弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.1-39, 1997-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
247

本稿は縄文時代の子供の埋葬例を集成・検討することによって,当時の人々の生活史の一端を明らかにすることを目的としたものである。まず,初めに集成した子供の埋葬例を年齢段階順に新生児期・乳児期・幼児期・小児期・思春期の5段階に区分し,埋葬形態を施設・単独葬か合葬か・合葬の場合の相手の性別・単葬か複葬かというように分類したうえで,各地域・時期別にそれぞれの埋葬形態を把握した。その結果,子供の埋葬形態は,大人のそれと同じように単独単葬例が最も多く,土器棺葬例は幼児期以前に,多数合葬例は幼児期以降に多いという傾向性が明らかになった。また,埋葬時に付加された様々な属性,埋葬姿勢・位置・赤色顔料の散布・土器棺内の人骨の週齢・合葬人骨の性別・装身具の着用などを検討し,次の点を指摘した。埋葬姿勢は大人とあまり変わらない。埋葬位置は住居跡に絡んで検出される場合が多い。赤色顔料の散布は新生児期からされるが,地域性がある。土器棺内から出土した新生児期の人骨は週齢38週以上のものが多く,新生児早期死亡例と考えられる。また,土壙などに埋葬されたものは38週以下のものが多い。大人と子供の合葬例では,乳児期以前は女性と合葬されることが多く,幼児期以降には男性と合葬されるようにもなる。これは子供の行動範囲が幼児期を境に変化したことを意味する。装身具の本格的な着用は幼児期以降に行なわれるが,玉類・貝輪を中心とした首飾りや腕飾りに限られ,頭飾りや腰飾りなどは存在しない。これは装身具の着用原理が大人と子供で異なっていたためと考えられる。次に大人と子供の埋葬例が検出された6遺跡の事例を検討し,埋葬時に付加された属性の差異について具体的に明らかにした。これらの諸点を総合して,当時の子供の立場が年齢によって変化することを述べ,子供が大人になるまでの生活史モデルを提示した。
著者
高島 英之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.9, pp.53-70, 2000-05-15 (Released:2009-02-16)
参考文献数
20

集落遺跡出土の墨書・刻書土器は,村落の内部における祭祀・儀礼等の行為に伴って使用されたものである。土器に墨書する行為は,日常什器とは異なるという非日常の標識を施すことであり,祭祀用に用いる土器を日常什器と区別し,疫神・祟り神・悪霊・鬼等を含んだ意味においての「神仏」に属する器であることを明記したものであると言える。墨書土器は,集落全体,もしくは集落内の1単位集団内,或いはより狭く単位集団内におけるところの1住居単位内といった非常に限定された空間・人的関係の中における祭祀や儀礼行為に伴って使用されたものであり,記された文字の有する意味は,おそらくそれぞれの限定された空間や集団内において共通する祭儀方式の中でのみ通用するものであり,個々が多様な時間的・空間的広がりの中で機能したと考えられる。文字を呪術的なものとして受容したところに,古代の在地社会の特質があるわけであり,祭具として東国を中心とする在地社会に浸透していったと見られるのである。
著者
青山 博樹
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.73-92, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
250

おもに前期古墳から出土する底部穿孔壺は,何を目的に古墳上におかれ,どのような祭祀が行われたのか。小論は底部穿孔壺を用いた古墳祭祀を俎上にあげ,その意味の解釈を試みる。まず底部穿孔壷祭式の変遷をあとづけ,その原形が底部の打ち欠かれた少数の装飾壺が古墳上におかれるというものであることを明らかにする。次に,東アジアの稲作地帯に分布する農耕儀礼のあり方に着目し,種籾を貯蔵する壺に穀霊が宿るという信仰がさまざまな形で広く分布していることを確認する。そしてこれと同様の思想が弥生時代以降の日本列島にも存在していた可能性を考え,壺が穀霊信仰にもとづく農耕儀礼と密接な関係にある遺物であることを推測する。壺が用いられた葬送祭祀は,これを破砕もしくは穿孔することで壺に宿ると観念された穀霊を後継者へ継承することを目的とし,その被葬者は農耕司祭者としての性格をもっていたのではないかということを指摘する。
著者
戸田 哲也 舘 弘子
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.133-144, 2001-05-18 (Released:2009-02-16)
参考文献数
6

羽根尾貝塚と泥炭層遺跡は,神奈川県小田原市羽根尾において発見された縄文時代前期中葉の遺跡であり,1998年から1999年にかけて筆者等により発掘調査が行われた。遺跡はJR東海道線二宮駅西方約2.5kmに位置し,現相模湾より内陸に約1km入った地区にあたる。貝塚及び泥炭質包含層は地表下2~4mという深さに遺存しており,低位の幅狭い丘陵突端部の両側斜面と近接する同一地形の斜面計3カ所から発見されている。これらの斜面部には小規模な貝塚の形成のみならず,往時の汀線ラインに寄り着いたと考えられる多くの樹木類と木製櫂が点在している状況を加え,縄文前期海進により湾入した海水面汀線に沿った地点であったと考えられる。この汀線ラインには多くの人工遺物,自然遺物が廃棄されており,遺跡が埋没する中で低湿地化が進み,厚い堆積土の下に貝塚をも包み込むように泥炭層が形成されたのである。標高22~24mを測る斜面部には当初前期関山II式から黒浜式の古段階にかけて貝塚が形成された。この全く撹乱を受けていない貝層中には,土器・石器類そして多くの獣・魚骨と骨角器が良好な保存状態で遺存しており,当時の相模湾において船を用いたイルカ・カツオ・メカジキ・サメ・イシナギなどの外洋性漁労が活発に行われたことが知られる。さらに貝塚の端部には屈葬と考えられる埋葬人骨1体も遺されていた。貝層形成時及び直後の黒浜期に至ると貝塚こそ形成されなくなるが,貝層下端から斜面下方に残された泥炭質包含層中からは大量な廃棄された遺物類が出土した。多くの遺物が検出されたが,中でもシカ・イノシシの獣骨類とイルカ・カツオの魚骨類は足の踏み場もないほどのおびただしい量が出土しており,水辺の動物解体場を考えさせる状況であった。このように羽根尾貝塚と泥炭層遺跡からは縄文前期の相模湾岸で行われた陸上での動・植物採集活動と海浜での漁労という両面からの生活実態を知ることができる。また,その他の廃棄された漆器類,木製品類の豊かな木工技術を示す遺物を含めた文化遺物とともにまさに縄文前期のタイムカプセルといえる貴重な調査資料を得ることができた。
著者
坂本 嘉弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.21, pp.125-138, 2006-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
23

中世大友城下町跡は戦国時代「府内」と呼ばれた瀬戸内海の西端部の別府湾に注ぐ大分川の左岸の自然堤防上に立地する中世都市である。近年この「府内」が大分駅周辺総合整備事業に伴い大規模な発掘調査が実施されている。その結果,これまで古絵図からの復元や,文献史料で知られていた「府内」について,さらに都市構造や変遷・性格などが明らかになりつつあることを報告した。発掘調査にあたっては,考古学的な時間軸を明確にするために,「府内」から出土する土師質土器の編年作業を行った。その結果,14世紀初頭から16世紀末まで約300年間にわたる大まかな編年案を提示することが出来,「府内」各所での遺構の時期の並行関係をとらえることが可能になった。また,古絵図には「府内」を南北に貫く街路が四本描かれているが,これを東から,第1南北街路・第2南北街路と順に名づけ発掘調査した。大分川沿いにある第1南北街路は上市町・下市町・工座町の名称が示すように,発掘調査でも街路に沿って短冊形の地割が確認され,商工業者が居住する地域であることが裏付けられた。第2南北街路は,大友館や萬寿寺沿いに「府内」を貫く最主要街路である。この街路の大友館東側や萬寿寺西側については,町屋の状況を示す古文書も残されている。発掘調査では,その町屋の実像だけでなく,成立までの経過も明らかにすることが出来た。第4南北街路は,「府内」の西端の街路であるが,古絵図には街路西側にダイウス堂と記載された場所があり,キリシタン施設が想定されていた。発掘調査の結果,小児墓やキリシタン墓を含む13基の墓が検出され,宣教師たちが報告した墓地の南端にあたる可能性が強いと想定している。「府内」からは,多量の貿易陶磁器が出土する。特に,第1南北街路と第2南北街路を結ぶ横小路町で検出された遺構からは,中国・朝鮮のみでなく,タイ・ミャンマー・ベトナムなど東南アジアの陶磁器が集中的に出土し,中国南部と直接関わる人物の存在が指摘されている。また,キリシタンの活動に関連する遺物としてメダイがある。ヴェロニカのメダイ以外は,「府内」の第2南北街路と名ヶ小路との交差点部で検出された礎石建物付近で,分銅と共に製作された可能性が強いと考えられる。このように,16世紀後半の「府内」は海外との結びつきの強い特異な中世都市として存在する。残された史料も,古絵図,古文書,宣教師たちの報告など多彩であるが,これに考古資料が加わり,「府内」の実像がより立体的に明らかにされようとしている。
著者
及川 良彦 山本 孝司
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.1-26, 2001-05-18 (Released:2009-02-16)
参考文献数
102

縄文土器の製作についての研究は,考古学的手法,理化学的手法,民族学的手法,実験考古学的手法などの長い研究史がある。しかし,主に製作技法や器形,施文技法や胎土からのアプローチがはかられてきたが,土器の母材となる粘土の採掘場所や採掘方法,土器作りの場所やそのムラ,粘土採掘場とムラの関係についての研究は,民族調査の一部を除き,あまり進展されずに今日に至っている。多摩ニュータウンNo.248遺跡は,縄文時代中期から後期にかけて連綿と粘土採掘が行われ,推定面積で5,500m2に及ぶ全国最大規模の粘土採掘場であることが明らかとなった。隣接する同時期の集落であるNo.245遺跡では,粘土塊,焼成粘土塊,未焼成土器の出土から集落内で土器作りを行っていたことが明らかとなった。しかも,両遺跡間で浅鉢形土器と打製石斧という異なる素材の遺物がそれぞれ接合した。これは,土器作りのムラの人々が粘土採掘場を行き来していることを考古学的に証明したものである。土器作りの根拠となる遺構・遺物の提示と粘土採掘坑の認定方法の提示から,両遺跡は今後の土器作り研究の一つのモデルケースとなることを示した。さらに,粘土採掘坑から採掘された粘土の量を試算し,これを土器に換算し,住居軒数や採掘期間等様々なケースを想定した。その結果,No.248遺跡の粘土は最低でも,No.248遺跡を中心とした5~10km程の範囲における,中期から後期にかけての1,000年間に及ぶ境川上流域の集落の土器量を十分賄うものであり,最低限この範囲が粘土の消費範囲と考えた。さらにNo.245遺跡は土器作りのムラであるだけでなく,粘土採掘を管理したムラであることを予察し,今後の土器生産や消費モデルの復元へのステップとした。以上は多摩ニュータウン遺跡群研究の一つの成果である。
著者
外山 秀一 中山 誠二
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.27-60, 2001-05-18 (Released:2009-02-16)
参考文献数
64

山梨と新潟の11遺跡から出土した縄文時代晩期~弥生時代中期初頭の土器76点を整理して資料化し,このうちの55点を対象としてプラント・オパール分析を行った。土器胎土の定性分析と簡易定量分析の結果,8遺跡の14試料からイネの機動細胞プラント・オパールが検出された。このうちの4試料は弥生時代前期前葉に,5試料は前期中葉に並行する浮線文土器に比定される。また,山梨の宮ノ前遺跡では前期中~後葉の水田址が発掘されている。山梨と新潟では,かかる浮線文土器の段階にイネ資料が増加し水稲作が開始されている。中部日本の稲作の開始と波及を検討する上で,浮線文期は,稲情報の波及や水稲農耕技術の受容という生業の変換期となっており,その重要性が指摘される。当時は,地形や地層,標高などの地形環境に適応した多様な稲作形態であったとみられ,遺跡立地の多様化現象が認められる。さらに,地形分析に基づいて遺跡の時期的・地形的な動向を検討すると,両地域に遺跡立地の低地化傾向がみられ,弥生時代中期以降において水稲農耕の定着化が進む。また,山梨ではネザサ節型,新潟ではクマザサ属型のプラント・オパールが多数検出され,両地域間のササ類にみられる植生環境に違いがみられる。さらに,定性分析や簡易定量分析の結果は,胎土の供給源の違いとともに,土器製作時およびそれ以前の植生環境の違いや,植物質の混入または混和材の可能性を示唆している。
著者
古屋 紀之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.1-20, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
97

弥生時代~古墳時代の墳墓から出土する土器・埴輪類の出土状況をテーマとした研究は,幅広い時期・地域において行われている。しかし,墳墓研究における重要なテーマであるにもかかわらず,相互に連絡が無く,方法論においても未発達な部分を残している。本稿ではこの分野の総合的な研究の一環として,弥生時代後期~古墳時代前期の墳墓における土器・埴輪配置を,墓制の種類や土器・埴輪の区別を問わずに分析し,両時代間の社会変化の様子を葬送祭祀という側面から描き出そうとするものである。方法論の整備にも挑み,「配置位置」・「器種構成」・「使用土器系譜」・「出土時の状態」・「墓の階層性との関係」の五つの項目にわたって検討を加えた。そして,ある程度類例があり,志向性を読み取れるものについては「葬送祭祀」として認定する作業を行い,各祭祀の系譜関係を追及した。分析の結果,およそ次のような変遷をたどることができた。(1)弥生時代後期における地域性豊かな共同体的飲食儀礼の盛行。四国北東部地域・吉備地域・山陰地域・近畿北部地域で主体部上に土器配置を行う祭祀が共通して見られたが,土器配置と墓の階層との関係は地域によって様々であった。(2)祭祀の再編期。庄内式~布留式古段階併行期に各地で儀器の象徴化が進行し,地域限定型の囲繞配列が出現したが,これらの囲繞配列に使用された祭器は前代の在地の祭器の影響が濃く,地域色が濃厚である。(3)古墳における葬送祭祀の完成期。前期後半段階に円筒埴輪の普及に伴い囲繞配列を行う地域が増える。また,飲食儀礼が衰退し,供献儀礼へ移行していく。今回の分析の成果のうち重要なことは,弥生墓制における葬送祭祀と墓の階層性との関係が各地域で異なるということである。おそらく,各地域社会における葬送祭祀の社会的役割の違いがこの要因であり,このことが,次代の前方後円墳の葬送祭祀への影響の濃淡として表れると考えられる。
著者
吉本 洋子 渡辺 誠
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.73-94, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
64

筆者達は1994年刊行の本誌第1号,および1999年の第8号において,人面・土偶装飾付深鉢形土器について集成と追補を行い,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。さらに今回追補2としてその後の増加資料を検討した。人面・土偶装飾付深鉢形土器は,1994年までは443例であったが,1999年では601例となり,今回では750例となつた。平均して毎年約30例ずつ増加しているのであるが,1999年と今回の内容を検討すると,増加傾向には大きな変化はみられず,基礎的研究は終了できるようになったと考えられる。分布においては北海道西南部から岐阜県までという範囲に変化はみられないが,その間の秋田県・富山県などの空白地帯が埋まり,落葉広葉樹林帯の分布と一致していることが一段と明確になった。時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,前期の例が増加している。後氷期の温暖化が進み,日本列島の現状の森林帯が回復した時期もまた縄文前期である。四季の移り変わりのもっとも顕著な落葉広葉樹林帯と,人面・土偶装飾付土器の分布が一致することは,その機能を考える上できわめて重要である。冬期に弱まった自然の力の回復を,死の代償として豊かさを求める女神像に重ね合わせる,縄文宗教の形成を強く示唆している。基礎的研究の上にこれらの研究を本格化させる段階に入ったと言えるであろう。