著者
山川 淳次郎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.91-98, 1983-03-15

シラーはその『哲学的書簡』の中で愛の哲学を展開する。それによれば、愛とは宇宙におけるあらゆる偉大なもの、美なるもの、卓越するものを表象し、そのことによって、それらをわがものとして同時に実現する能力である。このように解された愛とは、実は想像力に他ならない。というのは、想像こそあらゆる表象を目ざめさせ、多様なものとし、それらを高め、神性の理想に近づくことができるからである。そして「各人がすべての人間を愛するならば、各人は世界を所有し、神性に近づく。」想像力豊かな詩人は愛するものであり、全宇宙を愛し乍ら所有する可能性をもっている。このような愛を客観的愛とよぶならば、主観的愛は感覚的魅力において作用し、心の感受性を意味し、血の情熱を意味する。したがって主観的愛は、肉体的、性的脅威をもつ。それゆえ、シラーはこの主観的愛を Elysium にまで高め、愛を安全なものとして永遠化しようとする。以上のような「愛」についてのシラーの見解を、かれの戯曲作品を通じて跡づけてみる。『フィェスコ』では愛と権勢欲が対比され、両者が同一人においては共存、合一し得ず、破局に導かれる。『ルイーゼ・ミレーリン』では個体的な愛を目ざすものの悲劇、階級の対立を超越して、自らの独特の人格性の根抵のうえに新らたなる愛の世界を創造せんとしたものの破局がとかれる。さらに『ヴァレンシュタイン』において、本来、この世のものではない高次の愛を、この世において実現しようとしたものの悲劇がとかれている。
著者
梅宮 創造
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.83-104, 1993-03-20

本稿では若きサッカレイの生活模様に主眼を置く。チャータハウス校を出てケンブリッジ大学に入り、その後の精神放浪、結婚、家庭、妻の発狂、等々、サッカレイのくぐり抜けた甘い苦い経験を凝視してみたい。そこから何が生れるか。作家誕生の過程が、作品制作の秘密が、そして何よりも、サッカレイなる人物の体温が直かに感じられるものなら喜ばしい。たび重なる苦難の日々に悲哀となり夢となり、陰に陽に現れている彼の素顔、それを明らかにすることが当面の仕事である。サッカレイ文学の深い理解のためにも、欠かすべからざる仕事であろう。大作『虚栄の市』に至るまでの道程は生易しいものではない。サッカレイは一とき画家を志し、新聞記事を書き、小説を試みては批評文を物すなどした。その下積みは何年も続いた。剰え、サッカレイには生活の不如意が、家庭の悩みが絶えなかった。それやこれやが彼を鍛え、文章に磨きをかけ、結果としてはその作品が類稀なる光芒を放つに至った。しかし、これが彼自身にとって仕合せな結果であったか否か、判らない。後世の我々は遺された作品を読み、手紙や日記を検め、さらに夥しい証言や伝記の類に眼を通すばかりである。そうして一作家の像を心中にふかく刻み、末永く、個人の大切な所有物として蔵って置こうとする。それで良いのだろうと思う。もとより文学は他人に押付けるものではない。他人を説得するものでもない。文学研究上の「新発見」などにせよ、多くは既に発見された真実の「再発見」であろう。何故なら、文学における真実とは、幾度も幾度も重ねて発見されるべきものであり、一個の動かぬ力を揮って人を黙らせる代物ではない筈だから。
著者
町田 栄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.53-66, 1991-03-20

瀬戸内晴美氏 (法名は寂聴師)、その文学と大納言久我雅忠の女、すなわち後深草院二条、その自伝『とはすかたり』との交渉は深く、長く、篤い。宿緑に結ばれているようだ。たんに、『中世炎上』と原典との関連ではすまない。また、その現代語訳者にとどまらぬ。何んと、十年も集注して固執し、やがて卒業して行く。おりから、氏自身が次のように回顧した、その時期にあたる。昭和四十一年に「一つの心理的転機」をきたして、「流行作家的生活を清算」 (自筆『年譜』)したいとの願いにそそられ、歳末、京都に転居してみる。東京との往復、二重生活を試みているのだ。なぜかについて説明はない。以来、ひそかに「私の文学変革」、「脱皮」はすすみ、昭和四十三年度には、それが「本格的」(『わが文学の履歴』、いずれも『昭和文学全集25深沢七郎・水上勉・瀬戸内晴美・曾野綾子・有吉佐和子集』昭六三・四・一刊小学館に収載) になったという自覚を持つ。さらに延長線上には、昭和四十八年十一月十四日の得度、出離がある。自然な、ひとつの帰趨であろう。一念発起とか、翻然として悟るとかの挙ではない。いま、瀬戸内文学の昭和四十年代を眺めわたして、転換期を設定するとき、推力の枢要部に『とはすかたり』を置かなければなるまい。後深草院二条に、氏は等身大の、血脈たる自己を見出したのだ。劇的ですらある。時代性を別してふたりの資質、性行、嗜好はあまりに酷似している。ほとんど寸分の狂いなく、重ね合わせられよう。両者の遭遇は、約七百年を隔てた骨肉の呼応と称しても、過言ではあるまい。この至純な邂逅によって好伴侶を得るが、同時に自己凝視、自己啓発をもたらす。いや、かえって、それを強いられたかも知れない。多年にわたって、『とはすかたり』に固執するゆえんである。氏の心酔、長い同行と追随のうちに触発され、促進され、督励され、そして自得されたものは何か。それらが、ゆるやかな転換へといざない、おのずから転換期を形成する。内実を明らめなければならぬ。瀬戸内氏と『とはずがたり』との交渉の生きた現場に立ち会って、検証する必要がある。具体的に、。『とはすかたり』との出会い 。受容-自己凝視と発露、出家出離 。残された問題の体験的自得などによって、考察を試みたい。『とはすかたり』という作品の特質も立ち現われて来よう。
著者
町田 榮
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.13-36, 2001-03-15

本稿は、直接には、青山、志賀家墓所の空想と夢想 (三)-『城の崎にて』と『佐々木の場合』(一)-『跡見学園女子大学紀要』第三十三号 (二〇〇〇年三月十五日発行) 青山、志賀家墓所の空想と夢想 (三)-『城の崎にて』と『佐々木の場合』(二)-『跡見学園女子大学国文学科報』第二十八号 (平成十二年三月十八日発行) に掲載に続く。なお、一連の志賀文学の考察に、青山、志賀家墓所の空想と夢想 (一)-墓参史の意味-『跡見学園女子大学紀要』第三十二号 (一九九九年三月十五日発行) に掲載青山、志賀家墓所の空想と夢想 (二)-慧子の誕生、死、その埋葬-『跡見学園女子大学国文学科報』第二十七号 (平成十一年三月十八日発行) に掲載がある。
著者
藤田 経世
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.五九-六三, 1976-03-15
著者
岩本 憲司
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.61-113, 1990-03-20

本稿は、何休『春秋公羊經傳解詁』の日本語譯である。譯出作業はかなり進んでいるが、紙面の都合で、今囘はとりあえず、隠公の部分〔全體の約十二分の一〕を掲載する。以後、數年にわたって連載する豫定である。なお、本稿は、一九八九年度跡見學園特別研究助成費による研究成果の一部である。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.1-12, 2002-03-15

オーストリア支配下のダルマチア地方は一八六〇年代に「民族再生」と呼ばれるナショナリズムの時代を迎え、それまで明確な国民意識を持たず、しばしばコスモポリタン的態度を示していた住民の間でも、さまざまなタイプの国民形成の試みが見られるようになった。クロアチアおよびセルビアという「本国」の影響を受けつつ、同じスラヴ系住民の分化、すなわちカトリック教徒の「クロアチア人」化と正教徒の「セルビア人」化がほぼ同時に進行した。本稿では、このような時期に勃発したボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起 (一八七五〜一八七八年) を取り上げ、同時代の新聞・雑誌記事および政治的指導層の書簡集等の分析を通じて、この事件がダルマチアにおける国民形成過程に及ぼした影響について再検討した。ボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起はオスマン帝国からの解放を目標とするものであったが、もとより多民族・多宗教が混在する同地の帰属問題をめぐっては、クロアチアとセルビアが自国への併合を求めて争っていた。それまでクロアチアやセルビアほどに住民の国民的帰属意識が明確でなく、共通の「民族派」を組織していたダルマチアのスラヴ系住民も、「本国」のプロパガンダやメディアを通じた論争によって、クロアチア志向の人々とセルビア志向の人々に二分されるようになった。そして、蜂起終結後にセルビアへの併合を支持する正教徒指導者が「民族派」を正式に離脱して「セルビア民族党」を結成したことにより、両者の政治的分裂は決定的なものとなった。それと同時に、ダルマチアのスラヴ系住民は「クロアチア国民」あるいは「セルビア国民」という二つの異なる国民理念の下で、国民形成の新段階に入ったと考えられるのである。
著者
村越 行雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.A1-A41, 1999-03-15

日常的な言語コミュニケーションに広く, しかも深く浸透している比喩的表現は, 言語表現の可能性を考える上で, なくてはならない重要な要素として存在している。その重要性を明らかにする意味で, 本稿では, 比喩の内, とくに隠喩, 換喩, 提喩の三つに焦点を合わせて検討することにする。具体的には, 「1. はじめに」のあとの「2. 言語表現全般の中での隠喩・換喩・提喩の位置付け」では, 「2-1. 字義性と比喩性」として, 転義説, 逸脱説などを調べ, 「2-2. 言われることと含意されること」として, 実際に口に出して言われる部分, それに実際には言葉によって表面に出ない部分に区別した場合, 隠喩, 換喩, 提喩のそれぞれがどちらに属するのかを調べ, 「3. 隠喩・換喩・提喩の存在意義」では, 「3-1. 隠喩の存在意義」と「3-2. 換喩と提喩の存在意義」として, 具体例を挙げながら, 隠喩, 換喩, 提喩のそれぞれの特徴を調べ, 言語表現全般に共通して言える的確さと効率性に基づく表現の経済性が, 比喩にも当てはまることをごく簡単に示し, 「4. 最後に」で終えるという検討順序である。なお, 本稿における狙いは, 説得性, 美的装飾性などの問題としてではなく, 比喩を表現の経済性の問題として捉えていくことである。ただし, 表現の経済性の問題をそれ自体として本格的に検討するのではなく, それへの橋渡し的な検討を行なうことで終えることにする。
著者
横田 恭三
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.83-95, 2000-03-15

一九八一年に發掘された龜山漢墓は、前漢時代の第六代楚の襄王劉注夫妻の墓である。この合葬墓の甬道に隙間なく置かれていた塞石には、朱書文字や配置番號が刻されていたが、これ以外にも先王の遺訓かと見られる長文の刻銘が殘されていた。顧風氏はこれを盗掘防止のための刻銘であると推論した。文字は馬王堆帛書などに共通する書風であり、當時の通行書體といえる。この塞石刻銘の解釋と書風について考察し、あわせて前漢時代における石刻文字の概要をまとめた。
著者
柴田 光彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.37-62, 2001-03-15

滝沢馬琴は寛政十年 (一七九八) に累代の墓を修復建立のために自筆の『滝沢氏墓誌』を記し、その墓の図まで書き残している。また後年著した家譜『吾仏之記』にも墓地改葬の記事があり、これは影印・翻刻共にあって、既に世に知られているものである。ここでは前者を新たに翻刻紹介し、後者の記事を合わせ参照して、東京文京区の茗荷谷の菩提寺、深光寺の墓地に現存する滝沢家の墓碑群の銘文について考察を試みた。