著者
高田 美一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.99-128, 1983-03-15

明治十五年五月十四日、龍池会主催、上野公園、教育博物館、観書室におけるフェノロサ講演『美術真説』は明治文化史の展開に重要な影響をおよぼした。しかし、原英文遺稿を欠き、大森惟中の筆記としてのみ残存し、奇妙な片仮名まじりの簡潔・生硬な漢文調の文語体のため、フェノロサの真意を理解することが困難である。筆者はフェノロサが意図した深遠な「構造美学」はこれまで理解されていないと考える。「初編」、「本稿」における筆者の主題は『美術真説』を構造的に英文で再構成し、深遠ですばらしいフェノロサ芸術論を紹介するのが目的である。「初稿」とは、日本フェノロサ学会機関誌『ロウタス』第三号に寄稿した同名表題の拙論である。
著者
柴田 光彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.39-56, 1999-03-15

近世の墓碑銘において、文集掲載の碑銘と実際の墓の碑銘とは多くの場合、若干の異同があるのが普通であるが、しかし一般には、気づかぬままに文集と墓のそれとを同一のものとされている場合が多い。本稿では異同の多い例として「伊能忠敬」、実地検分してもなお間違えやすい程に異同の少ない例として「澁江抽齋」を例に取りあげて検証を試みた。
著者
山田 徹雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p1-10, 1988-03

「経済的必然性」をもたない国有化とエンゲルスによって規定が与えられた「ビスマルク的国有」なる概念は, ドイツ資本主義或いは日本資本主義の研究に, 重要な視角を与えてきたが, 逆に, その概念への固執によって「ビスマルクによる鉄道の国有」を多面的かつ, 広く全ドイツ的にみる視野が失われてきた。本稿においては, 「ドイツ帝国」と「プロイセン邦」という複眼を持って, この問題にアプローチする。
著者
川平 ひとし
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.33, pp.43-57, 2000-03

鎌倉末期を目処として成立したと考えられる歌論書 (あるいは歌学書) である『和歌淵底秘抄』(「和歌淵底抄」とも) の、奥書中に見える「定家卿懐中書相傳次第」という語句、ことに「定家卿懐中書」という名辞に着目する。当該の書は藤原定家その人の著作とは認められない。しかし、右の名辞が伝えているのは、同書は定家に関わる書に他ならないことを示唆しさらに当の書を授受・継承してきたという事実を証示しようとする主体の意志の現れである。本稿では、この名辞に含まれている意味と意義を解きほぐすことによって、テキストを制作し、さらに制作された当のテキストを受容し取り扱う中世の人々の<テキスト意識>や、定家に仮託されたテキストの生成と展開の問題との結びつきを検討する。そこから仮託書類のテキストに働く力としての<テキスト幻想>を抽出して、その再措定と命題化を試みる。定家仮託書を追究するための一観点を設定してみたい。
著者
福田 立明
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.31, pp.13-26, 1998-03

A text of fiction charged with the author's own intense psychic involvement in his fictional character is supposed to evoke in the mind of the reader an equivalent response to him/her. Caddy Compson of The Sound and the Fury (1929) impresses many readers with rich capacity for affection and compassion. As William Faulkner once declared in a class conference that she was his "heart's darling, " so the reader might find himself fascinated by her. Unlike the other Compson children who play the fundamental role of subject and monologist each in the first three sections, only Caddy, deprived of narrative voice, remains an object to be seen, to be missed, and to be hated by her brothers, or in Bleikasten's expression, makes up "an empty center" of the text. In trying to fill the void, the author who had no sister and was destined to lose his first daughter in infancy creates instead a fictional little girl, upon whom he projects his subconscious desires. She is the personification of his own anima. In this essay I try to note the intensity of the authoer's emotional involvement in the created character, and understand the reason why he rejected publication of his "Introduction to The Sound and the Fury" and attempted to conceal all its related draft materials in the closet. I hope to throw light on this question by a brief textual review of the materials which have been published in certain different steps after their discovery. In the meantime, Faulkner's correspondence and biographical evidences enable us to draw conclusions that the author wrote the "Introduction" with reluctance at first, sending the final version to Random House in August 1933 for their proposed limited edition of The Sound and the Fury : that the typescript sent for the finally abortive project had been lost until the publisher found it in 1946 and returned it to the author to rewrite it for the Modern Library combined edition of The Sound and the Fury and As I Lay Dying ; and that Faulkner finally did not agree and offered instead the "Appendix : Compson : 1699-1945" from the recently published The Portable Faulkner (1946). Consequently Faulkner readers got a strange book with the "Appendix" taking the place of "Introduction" in the first pages. The development of the matter clearly shows Faulkner's indomitable will to keep from the public eye the "Introducton" he wrote thirteen years ago working "on it a good deal, like on a poem almost." His poetic inclination betrays itself even in writing an introduction to his own book that is supposed to be done in non-poetic discourse. By comparing the draft papers, one may find the traces of excision that seemed to the writer to be revealing too much about his emotional envolvement as well as the ecstasy he experienced during his creative labor. Caddy, thus portrayed in the ecstasy to be a contemporary negative emblem of the historically lost Southern Lady, expatriates herself to be a Paris courtesan and, just like the anima to be exorcised from the author's psyche by artistic projection, must be lost forever to the South. The texts of "Introduction, " which the author supposes threaten to reveal too much about the secret of his artistic creation, were once believed to have been hidden safely in the closet. But a text addressed to the reader and paid for its circulation, is in the end to be recovered by the addressee.
著者
川平 ひとし
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-23, 1990-03-20

藤沢の時宗総本山清浄光寺 (遊行寺) に蔵される標記の一本を紹介する。同本は著者冷泉為和の自筆になるものと目され、依拠すべき本文であることはもとより、為和の和歌活動、ことに時宗の人々との繋がりを伝える資料として貴重だと思われる。同本をめぐる書誌を吟味しながら、関連してもたらされる問題点-書名・構成・記載内容 (系譜意識、家の説の提示、和歌の会の場の意義など) の含みもつ問題、惣じて室町後期数多く作成され享受された和歌作法書類を捉えるための視点にかかわる問題-を検討し、論末に本文翻刻を付す。
著者
渡部 武
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.115-126, 1990-03-20

石田梅岩著『都鄙問答』における学問の性格を、本稿では学問の功用と、正統と異端の区別についての梅岩の見解に、『翁問答』と『童子問』との見解を対比して解明しようと試みるものである。梅岩は学問によって、五倫が立ち、士農工商が身を立てることが出来ると主張して、学問は現実的で、プラグマティックな功用を有する点で有用であり信頼できるとした。この点で、藤樹が身を立てることのみでなく心の安心に、仁斎が世俗の人倫的世界とそれとの一体性における立身の実現に学問の功用をみたのとは、異なっている。次に、梅岩は正統と異端の区別を立てはいるが、学問の世俗の功用とその実際の結果を重視したために、両者の区別は相対化され、異端もまたその功用によって認知されることになる。藤樹にあっては両者の区別を厳しく立てながらも、その主体的な日新の学問的態度によって、その厳しさが緩和され、他方仁斎にあってはその区別は明確な基準に従って厳格を極めた点で、梅岩はこれら両者とは異なっている。
著者
山崎 一穎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.49-71, 2002-03-15

鴎外史伝の特異性は、読者が参加をすることである。書き手である鴎外の手元に読者から寄せられる情報、書き手が読み手へ情報の提供を呼び掛けるという双方向性が機能して、書き手と読み手との間にネットワークが成立し、伝記文学が誕生する。このようなネットワークを解明する資料で今日残されているのは、天理大学の天理図書館所蔵の「『伊澤蘭軒』森鴎外自筆増訂稿本」と、その補訂の論拠となった資料の一部が、東京大学総合図書館所蔵の鴎外の手沢資料集に収録されている。本稿では従来等閑に付されてきたこの両資料の関連を検討する。このことは初出稿と定稿との異同を探るだけでなく、鴎外が補訂した根拠資料を顕現化することになる。さらに情報ネットワークの実態を解明することは、『伊澤蘭軒』の本文の生成過程を明らかにすることになる。それのみならず、『伊澤蘭軒』に於ける資料の扱い方から、鴎外史伝の方法を解明することにもなる。本稿は補訂稿とその根拠資料を通して、本文の生成過程の一端を復元する。
著者
梅宮 創造
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.77-98, 1989-03-20

サッカレイが書いた様々な作品のうちでも、とりわけ『虚栄の市』を読めば、彼の抱えていたいろいろな問題に突き当る。ガンジス河のほとりに幼年時代を送り、その後イギリス本国へ戻って学校に入り、少年から青年に成長する。サッカレイは多感で神経質で、そのうえ母親にべったりなところがあったから、明るく楽しい思い出というような類は少ない。更に、成人して一家を構えるようになると、生活の重圧がもろに彼の肩に掛る。幼女の死、妻の精神異常、家庭崩壊、正しく悲運が悲運を呼ぶという具合だが、そんな生活の裡側でサッカレイの文学はゆっくりと熟していった。『虚栄の市』に彼の過去が揺曳していることは云うまでもない。サッカレイは自分の過去を凝視した人である。そこから人生を空と見る態度や、諷刺とか皮肉とか愛の精神、或は人物や事象の表裏を読む眼が鍛えられたものと思われる。『虚栄の市』ではそれらが作品を操る意図となり技法となって強く働いている。本稿ではそのあたりを出来るだけ作品から離れないで述べてみることにした。資料の勢いに流されることなく、作品の具体的な生命に触れるにはどうすれば良いか。そうなるとやはり、立返ってゆく所は作品そのものを措いて他にない。これは文学作品を扱う場合に常に重要な問題である。
著者
渡部 武
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.25, pp.p171-195, 1992-03

本稿は石門心学の祖石田梅岩 (一六八五-一七四四) の主著『都鄙問答』における「都」と「鄙」の実質的内容を解明し、かつ両者がどのように関連しあって彼の思想形成を可能にしたかを追求する試みである。その結論は以下の通りである。「都」と「鄙」とは問答の当事者ではなく、両者は梅岩の二つの異質な生活体験である。「問答」とはそれぞれの生活体験を沈潜させた梅岩の内なる二つの自己の間の問答である。梅岩の思想は「都」と「鄙」の相互浸透による総合の過程としての問答の成果である。そしてその総合を可能にしたのが「都」と「鄙」の中間者としての梅岩であった。
著者
高田 美一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.105-115, 1986-03-15

一八八六年七月三日、ヘンリー・アダムズと画家ジョン・ラ・ファージが日本を訪れ、フェノロサ一家とともに日光にて夏を過ごし、その後、フェノロサとともに鎌倉、京都、奈良、岐阜へと旅行し、日本古美術品を蒐集した。文部省派遣のヨーロッパ美術教育調査に出発するフェノロサと天心は、十月二日横浜出航のシティ・オヴ・ペキン号でアダムズ、ラ・ファージと同船し親交を結んだ。一九四〇年、パウンドは「アダムズ・キャントウズ」を出したが、それはアダムズ家のアメリカ建国の父祖第二代大統領ジョン・アダムズの功績と人格を顕揚したもので、その資料はヘンリーの父チャールズ・フランシス・アダムズ編の『ジョン・アダムズ著作集』からえた。ヘンリーも、ジェファーソンに焦点をあてたアメリカ建国時代の歴史の大著を出し、パウンドもまたジェファーソンの功績と人格を賞揚した。
著者
村越 行雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.A37-A83, 1995-03-15

言語哲学において重要な研究領域として位置付けられている指示研究には, フレーゲ的研究方法と反フレーゲ的研究方法 (いわゆる指示の新理論家の研究方法) の対立が全般にわたって見られる。本稿では, 特に指標詞と指示詞を取り上げて, その対立点を検討するのが目的であり, 具体的には指標詞と指示詞に対するフレーゲ本人の説明, そしてそれに対立するペリーとウェットスタインの説明を比較・検討することになる。なお, 一般的に解釈されているフレーゲ像が, 必ずしもフレーゲの真意を反映しているものとは言いがたく, 従って擁護するにしても, また批判するにしても, フレーゲの主張をより正確に解釈する必要があり, その意味で指標詞と指示詞に対するフレーゲの説明を多少詳細に検討し, それに続いてフレーゲの主張を批判するペリーとウェットスタインの主張を明確にする為に, 指標詞と指示詞に対するペリーとウェットスタインの説明を比較・検討することにする。指標詞と指示詞に対する説明の相違は, 単純な言い方をすれば, 指標詞と指示詞の指示 (指示物) が意味によって決定されるとするのか, それとも言語的意味と文脈的要素によって決定されるとするのかの対立によるもので, その点を具体的に検討していくことになる。
著者
浪本 澤一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-20, 1983-03-15

本稿は、わが国の南北朝時代に活動した臨済宗の高僧寂室元光 (一二九〇〜一三六七) の偈頌の中から二十四首を挙げて、その解説を試みたものである。坊間、寂室の偈頌を取上げたものは、日本古典文学大系の『五山文学集 江戸漢詩集』(山岸徳平校注) に六首を収載しているに過ぎない。寂室は、三十一歳のとき渡海入元し、杭州 (浙江省) 西天目山の中峰明本の禅に参じて尽大な感化を享けた。中峰は、定居なく草庵に住し船中に起臥し、標するに「幻住」を以てした。寂室は、中峰の道に参じたあと、南方中国の聖山禅匠を歴訪し、在元七年を経て帰国したが、京・鎌倉の大寺叢林に寄らず、中峰の家訓を体して林下の禅者としての道を貫徹した。世寿七十八歳、坐夏六十六年。世間の名利を超越したまことに純潔な高僧であった。愚のごとき門外の徒が何故寂室の禅道に関心を抱いたかに就いては多少の理由がある。芭蕉の名高い「幻住庵記」における「幻住」の根源は寂室の謁した中峰の「幻住」に発している。芭蕉は『奥の細道』の吟旅のあと幻住庵に寓止して、此処もまた仮りの宿り、「幻住」であるという生涯の観想を書き綴った。尤も芭蕉の遺語には寂室の名は見えないが、高足其角の手に成る「芭蕉翁終焉記」の文中「遺骨を湖上の月にてらす」の語には寂室の偈頌の薫染が感受されるのである。即ち、同門の支考が、寂室の「死在巌根骨也清」の一句を挙げてその傍証をしている。加うるに芭蕉をはじめ其角・嵐雪・丈草・支考等々、文人として禅法を修しており、蕉風の俳諧は禅法を除外しては理会しがたいものを内在している。愚が、仏心宗における禅とは何か、という問題とともに禅の公案を詩として表象した偈頌に就いて、年来関心を寄せてきたのは大凡以上のごとき理由に因る。もとより禅はただ机上の読書だけで片付くような生易しいものではない。然し乍ら、ありがたいことに禅には宗派心がない。古来禅は僧俗を問わず個の日常生活裡に原点を持っている。禅は中国の唐朝中期に広大な揚子江の流域において目覚ましい進展を遂げるが、その時代の古徳は、官人から禅とは何ぞやという質問を受けたとき、即座に「汝、日々の心」と答えたという。禅には宗派心がないし、隠している何ものもないのである。門は有つて門はないのである。宋の詩人蘇東坡は夜中に渓川の声を聞いて悟道したという。その詩偈に曰はく、「谿声便是広長舌。山色無非清浄心。夜来八万四千偈。他日如何挙似人」。
著者
岩本 憲司
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.105-170, 1992-03-20

本稿は、何休『春秋公羊經傳解詁』の日本語譯である。譯出作業はかなり進んでいるが、紙面の都合で、今囘はとりあえず、(三) として、莊公十一年から僖公四年までを掲載する。以後、數年にわたって連載する豫定である。なお、本稿は、一九九一年度跡見學園特別研究助成費、及び三島海雲記念財團學術奬励金による研究成果の一部である。