著者
永谷 健 Nagatani Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-39, 2022-03-31

所得や富の格差が拡大した局面を示している点で、昭和戦前期は現代日本のゆくえを考察するヒントを提供してくれる。格差の拡大に関わる当時の社会変化でとくに注目すべきは、経済主体が自由に営利活動を行える状況が一変し、国益至上主義を具現化する総動員体制が急速に構築されていった点である。この変化がなぜ比較的スムーズに実現したのかを説明するには、営利主義の代表的な実践者であった経済エリートを取り巻く当時の社会状況を検討する必要がある。彼らが明治以来の営利主義のポリシーを手放して、抵抗しつつも経済統制を受け容れたことは、軍閥・右翼の圧力や当時の国益至上主義による思想的感化などによってこれまで説明されてきた。ただ、これらの説明は営利主義から国益至上主義への反転を十分に説明するものではない。この劇的な変化については、次の諸点を含む説明が必要であろう。(1)当時は営利活動を行う経済エリートへの批判が著しく、それは温情主義批判や三井のドル買い批判に見られるように、反エリート主義を内容とするものであった。(2)同じ反エリート主義は血盟団員の供述からも確認できる。(3)三井財閥が行った「転向」の初期のポリシーは反エリート主義に対する「宥め」であり、それはエリートと大衆のボーダーレス化を狙うものであった。(4)諸財閥が「転向」に同調するなか、そのポリシーは国益主義へと傾斜していった。(5)こうした傾斜は、明治以来の観念的な「国家的貢献」の実質化として理解することができ、国益至上主義の拡大を促す結果となった。
著者
田中 綾乃 TANAKA Ayano
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.34, pp.49-57, 2017

「アートの公共性」とはどのようなことを意味するのであろうか。一般的にアートとは、アーティストが自由に表現した個人的な産物であり、それが公共性を持ちうるかどうかは無縁である、と考えることができる。いわゆる「芸術のための芸術(Artforart・ssake)」という考え方は、現代の私たちには根強く支持されている。しかし、現在、私たちが考える「芸術」という概念そのものは、18世紀半ばのヨーロッパの思想において確立した概念である。そして、それとともに、アーティストと呼ばれる「芸術家」も登場することになる。もっとも、近代以前から古今東西、様々な芸術作品が存在し、その作品の作者がいることは自明のことであるように思える。だが、もしかしたら、そのような見方は、近代ヨーロッパで確立された芸術観を私たちが過去に投げ入れているのかもしれない。芸術の自律性を説く「芸術のための芸術」とは、芸術が宗教のため、あるいは一部の貴族や権力のためだけにあるのではなく、まさに芸術の自己目的を主張するものである。そして、そのことによって、アートは誰にでも等しく開かれた存在となるのである。本稿では、この近代的な芸術観によってこそ、アートは公共性を持ちうることになるという点をヨーロッパの近代思想、特に18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの美学理論を概観しながら論じていく。また、「アートの公共性」について具体的に考えるために、20世紀後半に登場した「アートマネージメント」という概念に着目する。本稿では、現在、様々な芸術作品や表現方法がある中で、「アートマネージメント」の必要性を考え、さらにはこの「アートマネージメント」という概念がアートと社会とを媒介する機能を果たすことを論証しながら、「アートの公共性」について一考察を行うものである。
著者
廣岡 義隆 ヒロオカ ヨシタカ HIROWOKA Yoshitaka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A39-A51, 2003-03-25

額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。
著者
吉丸 雄哉 Yoshimaru Katsuya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.37, pp.17-26, 2020-03-31

公益財団法人石水博物館に現在収蔵されている一四代当主川喜田政明(号は石水)が安政の大地震について記した『はなしの種』という写本を紹介する。嘉永七年(安政元年)から一連の安政の大地震が発生するが、このうち嘉永七年六月一三日に発生した伊賀上野地震および同年一一月四日の安政東海地震と五日の安政南海地震について書き残したのが『はなしの種』である。『はなしの種』はまず記された地震の状況が地震史料として大きな価値がある。また、射和の竹川家、伊豆にいた松浦武四郎、江戸店と往還の使用人などから政明のもとに地震の情報が入っている状況を確認することで、川喜田家が構築していた情報網を知ることができる。さらに、地震にまつわる狂歌を収録することで、災害に対して人々がどのような心情を抱いたかという地震文学としての考察ができることに価値がある。本稿は資料の書誌情報、構成、翻字を紹介し、解説を加えたものである。
著者
田中 綾乃 TANAKA Ayano
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = JINBUN RONSO : BULLETIN OF THE FACULTY OF HUMANITIES, LAW AND ECONOMICS (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.49-57, 2017-03-31

「アートの公共性」とはどのようなことを意味するのであろうか。一般的にアートとは、アーティストが自由に表現した個人的な産物であり、それが公共性を持ちうるかどうかは無縁である、と考えることができる。いわゆる「芸術のための芸術(Artforart・ssake)」という考え方は、現代の私たちには根強く支持されている。しかし、現在、私たちが考える「芸術」という概念そのものは、18世紀半ばのヨーロッパの思想において確立した概念である。そして、それとともに、アーティストと呼ばれる「芸術家」も登場することになる。もっとも、近代以前から古今東西、様々な芸術作品が存在し、その作品の作者がいることは自明のことであるように思える。だが、もしかしたら、そのような見方は、近代ヨーロッパで確立された芸術観を私たちが過去に投げ入れているのかもしれない。芸術の自律性を説く「芸術のための芸術」とは、芸術が宗教のため、あるいは一部の貴族や権力のためだけにあるのではなく、まさに芸術の自己目的を主張するものである。そして、そのことによって、アートは誰にでも等しく開かれた存在となるのである。本稿では、この近代的な芸術観によってこそ、アートは公共性を持ちうることになるという点をヨーロッパの近代思想、特に18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの美学理論を概観しながら論じていく。また、「アートの公共性」について具体的に考えるために、20世紀後半に登場した「アートマネージメント」という概念に着目する。本稿では、現在、様々な芸術作品や表現方法がある中で、「アートマネージメント」の必要性を考え、さらにはこの「アートマネージメント」という概念がアートと社会とを媒介する機能を果たすことを論証しながら、「アートの公共性」について一考察を行うものである。
著者
宇京 頼三 ウキョウ ライゾウ UKYO Raizo
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.A1-A15, 2004-03-25

パウル・ツェランはルーマニア生れのユダヤ人で、二十世紀後半のドイツ語表記の最大の詩人として後半生をパリで送った。マルティン・ハイデガーは二十世紀の哲学・思想を代表する哲学者の一人である。詩「トートナウベルク」はツェランが南西ドイツのシュヴァルツヴァルトにあるハイデガーの山荘を訪れたあと、ハイデガーのナチズム加担をめぐって書かれたものである。本稿では、この詩「トートナウベルク」が二人にとって如何なる意味をもっていたかを主として、新資料である、ツェランと夫人のジゼル・ツェラン=レストランジュが交わした膨大な『書簡集』(フランス語版)に基づいて考察している。
著者
安食 和宏 Ajiki Kazuhiro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, 2010-03-28

本稿では、我が国の国有林野事業の戦後の推移について具体的に把握するとともに、特に1980年代以後の「縮小」段階の国有林野事業に見られる地域性を明らかにすることを試みた。その結果、以下のような諸点が明らかになった。全国的な特徴のみを挙げると、まず伐採事業・造林事業のいずれにおいても、1980年頃より明確な減少傾向が継続し、事業量は大きく減少した。ただし、最近(2002ないし2003年度以後)では、両者とも増加傾向に転じている。そして、伐採においては間伐が主体となっており、造林では天然更新から人工更新への回帰がみられるなど、事業の内容にも変化が生じている。もっとも、いずれの事業でも直傭部分はほぼ消滅しており、実際の作業を担っているのは民間事業体である。次に、職員数の変化についてみると、定員内職員については1970年代後半から、定員外職員(その中心となる基幹作業職員)については80年代前半から、一貫して減少が続いてきた。そして、常勤の作業員の過剰な減少の結果、現場作業においては臨時労働力への依存を強めるという、数十年前に回帰するような現象が生じている。以上のように、この20~30年間に国有林野事業に生じた変化はあまりに大きく、それはすでに、「林業経営」から実質的に撤退しているわけであり、今や国有林野事業の中心は「森林管理」であるという新たな局面に移行している。
著者
山岡 悦郎 YAMAOKA Etsuro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.30, pp.107-122, 2013

慶応2年1月の薩長盟約における龍馬周旋説と龍馬立役者説は共に、それに対する対抗仮説が成立しうる仮説であり、真偽不明の伝説である。しかしこれらの伝説についての考察は歴史学における幾つかの問題に改めて目を開かせてくれるという側面を持つ。
著者
早野 香代 HAYANO Kayo
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.27-41, 2018

三重大学の教育目標である「4つの力」のうちの「コミュニケーション力」の育成のため、2017年前期「日本語コミュニケーションA」の授業で、知識構成型ジグソー法を試みた。本稿ではそのジグソー法の実践を紹介し、履修者の振り返りから協働学習の効果と問題点を考察する。このジグソー法は、「日本語コミュニケーション」という大きな課題を6つの専門のテーマから多角的に学ぶ日本人学生と留学生の協働学習である。実施後の学生の振り返りから、「おもしろい・楽しい」という感想とともに、「多様性・異文化理解」、「新しい知識の習得」、「コミュニケーション能力」、「効率性」、「深い学習」などにプラスの評価が得られ、多様な他者との協力的な活動ができた喜びやおもしろさの発見があったとのコメントが得られた。そして、この意識の変容から、自らの学びの質や効率をも見直し、今回のジグソー法の問題点の改善策を提案する学生も現れた。これは、学生主体の「協調」路線の協働学習になったと同時に、E.アロンソンの志向を継承する協力的なものへ変えてゆくジグソー法にもなったと評価できる。このジグソー法は、今後も留学生と日本人学生が共存する大学の様々な分野で生かされるべきであり、それを生かす学習法を異なる分野間で共有し、大学全体における「コミュニケーション能力」の向上、引いては「生きる力」の養成に繋げるべきであろう。留学生と日本人学生との日本語力の差というものは、多様性を受容する観点においては利点となるが、全ての学生が深い理解を得るという到達目標においては課題が残る。言語能力の差がある中での有効な協働学習の方法や方略の研究は今後の課題となる。
著者
吉丸 雄哉 Yoshimaru Katsuya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.38, pp.1-14, 2021-03-31

公益財団法人石水博物館に現在収蔵されている一四代当主川喜田政明(号は石水)の文事のなかから、教訓・道徳を短歌形式で記した教訓歌をとりあげる。川喜田石水の文事は多岐にわたっているが、教訓歌はその筆頭と石水がみなしていた重要な文芸である。石水は出版ができる状態の稿本である『教訓歌選』(館蔵番号一二七ー一三)を編纂しておきながら、実際には出版の意図はなかった。これはほかの出版可能な稿本を同じで、本人は出費を避け、後代に上梓は任せたものと思われる。収録された道歌はもともとは童蒙の手引きを意図したもので、なにかの本を引き写したのではなく、石水が日頃耳慣れていた歌を書き留めたと思われる。『教訓歌選』は近世後期の伊勢商人がどのようなモラルをもっていたかをうかがうことができる重要な資料であり、実際に『教訓歌選』に示された道徳は石水の妻政子を通じて、孫の半泥子に受け継がれたことが確認できる。
著者
森 正人
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.29, pp.45-55, 2012

本稿は一九〇五年に大阪毎日新聞社が開催した「西国三十三所順礼競争」に注目し、それが日本の近代化のプロセスに埋め込まれる様態を検討する。ここではギデンズの近代性の三つの側面、すなわち、時間と空間の切り離しと再編成、象徴的通標(貨幣)や専門化システムをとおした信頼に基づく社会関係の切り離し、思考や行為を吟味する再帰性が、順礼競争においてどのように現れていたのかを考える。競争という言葉が表すように、それは札所寺院間の空間的隔たりを交通機関を用いることで乗り越え、巡礼空間を圧縮し、それにより巡礼に要する時間を短縮しようとした。また、空間的に隔たった場所の地理的情報を、電信システムを用いながらできるだけ早く読者に発信したのである。順礼競争において巡礼の事物や行為の吟味も行なわれた。すなわち、慣習として巡礼に携帯してきた物品や衣装は取捨選択され、動きやすさを重視するために洋装も取り入れられた。情報伝達のための時間と空間を圧縮する近代的な装置の新聞社は、巡礼を宗教的な文脈からいったん切り離し、娯楽、観光、学問の文脈へと位置づけ直していった。とりわけ巡礼中に記される記事は、各地の地理的データの収集にも寄与した。その中で、巡礼空間の風景もまた、前近代的な風景観や身体感覚に根ざした宗教的な風景観とは異なり、風景を風景として対象化する近代的な風景観によって描写された。
著者
武笠 俊一 MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.11-24, 2013-03-30

三輪山の神と倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめの神婚譚は、日本書紀崇神天皇紀の崇神一〇年にある良く知られた物語である。このヒメは箸でホトを突いて死に箸墓に葬られた。この墓の主は誰か、女王卑弥呼かそれとも他の人物か、最近の論争は前にも増して激しい。しかし、箸墓はなぜ作られたかと言う議論は、それほど熱心には行われてこなかった。モモソヒメの神婚譚は、言うまでもなく箸墓の名称起源譚である。だから、この物語は箸墓造営の事情を神話的な歴史記述によって語ろうとしたものだと考えることが可能である。説話研究の視点からモモソヒメの神婚譚を見て行くと、この物語は異類婚姻譚の一つであり、婿入り婚の破局に取材した物語であることが明らかになる。すなわち、この婚姻関係が二人だけの私的了解の段階から双方の家の承認を得た正式なものに移行する時点における破局を語る物語だったのである。この前提に立てば、三輪山の神が白蛇となってその正体を示したことは、天皇家にモモソヒメの正式の婿となる承認を求めたことを意味する。しかし、ヒメは驚きの声を上げてしまい、天皇家から拒絶されたと信じた三輪山の神は永訣の言葉を残して三輪山に帰っていった。つまり、神と天皇家との対立に、モモソヒメの悲劇の真の原因があったのである。ヒメの死を自分の責任と感じた三輪山の神は、巨大な箸墓の造営を企てた。つまり「神の深き悔恨」によって箸墓が作られたのである。そしてその造営に崇神天皇が力を貸したことによって、古代国家の基盤が確立され、統一国家への飛躍が可能になった。日本書紀は崇神天皇の功績をこのように説明していたのである
著者
グットマン ティエリー GUTHMANN Thierry
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.30, pp.39-43, 2013

明治維新、フランス革命、いずれにおいてもかなりの血が流され、革命の前後という時期の差こそあれいずれにも恐怖政治が存在し、その後両革命はともに権威主義政治体制へと展開し、また日本もフランスも、新国民国家統一のために類似した様々な措置や政策を講じている。したがって、思われている以上に、明治維新とフランス革命の間には類似点が数多く存在している。ひるがえせば、日本人論思想において主張されているほど、「革命(維新)」という歴史的な分野の場合においても日本の独自性は認められないと思われる。Pendant la restauration de Meiji comme pendant la Révolution française une quantité nonnégligeable de sang a été versée; avant la restauration pour le Japon, aprés la Révolution pour laFrance, dans les deux cas un régime de terreur a sévi; les deux révolutions ont toutes deux aboutià la mise en place d'un régime autoritaire; enfin, la France comme le Japon ont pris un certainnombre de mesures et mis en place des politiques similaires afin d'assurer l'unité du nouvelEtat-nation. Aussi, dans une proportion plus large qu'on ne le pense généralement, existe-t-il ungrand nombre d'analogies entre la restauration de Meiji et la Révolution française. D'un autre pointde vue, et à l'opposé de ce qui est généralement affirmé dans les nihonjin-ron (ou «Discours sur lesJaponais») - dans ce domaine de l'histoire des révolutions également - il est difficile de souscrire àl'idée de l'exception japonaise.
著者
湯浅 陽子 Yuasa Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.71-86, 2010-03-28

盛唐期の杜甫(七一二~七七〇)の現在伝わっている詩文テクストは、晩唐・五代の時期に一旦かなりの部分が散佚し、北末期に再編集されたものである。杜甫詩はその後、北宋後期の黄庭堅及び江西詩派において詩作の規範となるに至るが、ここでは、杜甫詩の再編集が進められ、評価が確立されていく仁宗期を中心とした時期の受容の様相を検討する。五代後晉期の『舊唐書』文苑傳下所収の杜甫の伝記は、杜甫詩を高く評価した中唐期の元稹「唐故工部員外郎杜君墓係銘」序を引用しており、当時においても杜甫とその詩作への評価は決して低くなかったことを示している。また続く北宋初期には、王兎偁が杜甫詩を高く評価したが、孤立した例にとどまり、未だ大きな流れを形成するには至らない。北宋中期には文人官僚たちの間で杜甫詩が日常的に読まれており、杜甫を古今随一の詩人とする位置づけも、すでにかなり安定している。また、生前の苦労・唐朝への忠誠・人民の福利への関心・天地の機微に迫る詩作と等の、後世にまで継承される杜詩に対する基本的な捉え方もほぼ出揃っていると思われる。杜甫詩を、詩という形式を用いた歴史の記録という意味で「詩史」と呼ぶことがあるが、杜甫詩を唐代の史実を知る資料として用いた例は、仁宗期を中心とした時期の筆記小説などに多く指摘することができ、このような例が増加していくなかで「詩史」という捉え方が次第に固まったと思われ、その背景には、杜甫詩テクストに対する考証の精密化、また読み手の側の歴史への感心の強さが存在している。北宋仁宋期を中心とした時期に王洙らによって杜甫詩のテクストが再編集された際、より精確なテクストを求めて各テクスト間の校勘や表現の典拠等の検討が進められる過程で、その検討の内容や資料の記録が徐々に蓄積され、次第に注釈化していったと考えられる。
著者
塚本 明
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.29, pp.13-29, 2012

近世の伊勢神宮直轄領に存在する被差別民について、その起源や役務、村内での位置、宇治・山田の被差別民との異同、周辺藩領の被差別民との関係等について考察を加えた。門前町の宇治・山田及び周辺農村は、宇治会合・三方会合が山田奉行の下で行政機能を持ち、神宮領としての実質はない。一方、地理的には離れる多気郡に、伊勢神宮が経済的基盤とする神宮直轄領たる五か村があり、住民らは神宮に年貢や諸役を負担し、また神宮特有の触穢観念も共有していた。これらの村々には、斃牛馬処理権を持つ「穢多」身分、村の警備役を担う非人番、竹製の簡素な楽器を用いて説教節を謡う雑種賤民「ささら」が存在した。彼らは身分に応じ、行き倒れ死体や死牛馬の片付け、神宮領特有の葬送儀礼「速懸」において最終的に埋葬する役を負うなど死穢を忌避する役割を持ち、同時に、周辺藩領の同一身分の者たちと領主関係を越えた身分集団を形成し、通婚や情報の共有、役負担などにおいて、密な関係を有した。ただし江戸時代後期には、斃牛馬処理権と役務負担、ささら身分を統括する三井寺近松寺の支配などを巡り、身分集団の頭支配から脱し、本村の意向に従っていく動きが見られる。参宮街道沿いに位置し賃稼ぎが盛んな当地では、農耕作の奉公人需要が高く、「穢多」身分の者が少なからぬ田畑を耕作していた。そしてそのことを、伊勢神宮も認識していた。文政六(一八二三)年に山田奉行が、「穢多」身分の者が納める年貢米の「穢れ」について神宮神官に問い合わせるが、神宮側は敢えてあいまいな形での収束を図る。総じて神宮領における被差別民は、生業や身分存在、役務などについて、周辺他藩領の被差別民と多くを共有し、差別の実態に関しても本質的な違いは認められない。
著者
早野 香代 HAYANO Kayo
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = JINBUN RONSO : BULLETIN OF THE FACULTY OF HUMANITIES, LAW AND ECONOMICS (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.27-41, 2018-03-31

三重大学の教育目標である「4つの力」のうちの「コミュニケーション力」の育成のため、2017年前期「日本語コミュニケーションA」の授業で、知識構成型ジグソー法を試みた。本稿ではそのジグソー法の実践を紹介し、履修者の振り返りから協働学習の効果と問題点を考察する。このジグソー法は、「日本語コミュニケーション」という大きな課題を6つの専門のテーマから多角的に学ぶ日本人学生と留学生の協働学習である。実施後の学生の振り返りから、「おもしろい・楽しい」という感想とともに、「多様性・異文化理解」、「新しい知識の習得」、「コミュニケーション能力」、「効率性」、「深い学習」などにプラスの評価が得られ、多様な他者との協力的な活動ができた喜びやおもしろさの発見があったとのコメントが得られた。そして、この意識の変容から、自らの学びの質や効率をも見直し、今回のジグソー法の問題点の改善策を提案する学生も現れた。これは、学生主体の「協調」路線の協働学習になったと同時に、E.アロンソンの志向を継承する協力的なものへ変えてゆくジグソー法にもなったと評価できる。このジグソー法は、今後も留学生と日本人学生が共存する大学の様々な分野で生かされるべきであり、それを生かす学習法を異なる分野間で共有し、大学全体における「コミュニケーション能力」の向上、引いては「生きる力」の養成に繋げるべきであろう。留学生と日本人学生との日本語力の差というものは、多様性を受容する観点においては利点となるが、全ての学生が深い理解を得るという到達目標においては課題が残る。言語能力の差がある中での有効な協働学習の方法や方略の研究は今後の課題となる。