著者
大河内 朋子 OKOCHI Tomoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.34, pp.109-114, 2017

W.G.ゼーバルト(1944-2001)は、発表した文学作品のすべてに図像を挿入している。拙稿では、図像の中でもゼーバルトによる利用度の高いメディアである写真を取り上げて、次の3点から考察した。まず、ゼーバルトが写真という媒体をどのように捉えているのかについて、ゼーバルト自身の言説を手がかりに考察した。ゼーバルトは、写真には被写体という「現実的な細胞核」があり、この細胞核の周りを取り巻いて「無の巨大な中庭」があると述べている。写真を観る者は、写真から聞こえてくる「物語りなさいという途轍もない呼びかけ」に応えて、この「無の中庭」を想像上の物語で埋めることになる。つまりゼーバルトにとって写真とは、過去を物語るための原動力であった。次に、言語テクストと写真の「開かれた」関係について考察した。写真に内包された「無の中庭」を埋める物語は、写真を観る者の想像力次第で、さまざまな内容の物語として紡ぎ出されてくる。この意味において、写真は多様な言語テクストの産出に対して「開かれて」いる。言語テクストと写真の間には、もう一つの「開かれた」関係がある。両者が交わす間メディア的な「対話」は、紡ぎ出された物語の信憑性や事実性を高めているようにも、また逆に物語の虚構性を暴露しているようにも見える。つまり、ゼーバルトの間メディア的テクストは、「事実性と虚構性の緊張関係」の中に「開かれた」対話を交わしているのである。3点目として、挿入された白黒写真の不鮮明な画質に着目した。画像の不明瞭さや暗さは、人の記憶の中の像にも似ていて、無常や忘却のアレゴリーである。ゼーバルトは、ぼんやりと写っている被写体を暗やみの地下世界に永遠に葬ってしまうのではなく、闇を追い払う光(過去を観察し思索する眼差し)の力と、その力で紡ぎ出された物語によって、読者に対して過去を想起せよと警告しているのである。
著者
塚本 明 Tsukamoto Akira
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.15-34, 2010-03-28

「神仏分離」の歴史的前提として、近世の伊勢神宮門前町、宇治・山田における神と仏との関係を分析した。仏教を厳しく排除する原則を取る伊勢神宮であるが、その禁忌規定において僧侶自体を嫌忌する条文は少ない。近世前期には山伏ら寺院に属する者が御師として伊勢神宮の神札を諸国に配賦したり、神官が落髪する事例があった。神宮が「寺院御師」を非難したのは山伏らの活動が御師と競合するためで、仏教思想故のことではない。だが、寺院御師も神官の出家も、幕府や朝廷によって禁止された。宇治・山田の地では、寺檀制度に基づき多くの寺院が存在し、神宮領特有の葬送制度「速懸」の執行など、触穢体系の維持に不可欠な役割を果たしていた。近世の伊勢神宮領における仏教禁忌は、その理念や実態ではなく、外観が仏教的であることが問題視された。僧侶であっても「附髪」を着けて一時的に僧形を避ければ参宮も容認され、公卿勅使参向時に石塔や寺院を隠すことが行われたのはそのためである。諸国からの旅人も、西国巡礼に赴く者たちは、伊勢参宮後に装束を替えて精進を行い、一時的に仏教信仰の装いを取った。神と仏が区別されつつ併存していた江戸時代のあり方は、明治維新後の「神仏分離」では明確に否定された。神仏分離政策は、江戸時代の本来の神社勢力から出たものではなかった。
著者
武笠 俊一 Mukasa Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.45-58, 2010-03-28

「三輪山惜別歌」と呼ばれている、額田王の長短歌二首と井戸王の歌一首は、数多い万葉集の中でも難解な歌の代表で、長い論争の歴史がある。問題は額田王の二首よりも、それに「和した」とされる井戸王の歌の難解さにある。額田王の二首は天智天皇の歌を代作したものとされ、遷都の儀式で歌われたという理解がほぼ定説となっている。しかし、井戸王の歌は、この一首だけを取り出して見れば恋の歌以外のなにものでもなく、遷都の儀式での天皇の歌に和した歌と考えることはかなり難しい。そこで、首尾一貫した解釈をもとめて、多くの先学がさまざまな解釈を提出してきた。しかし、額田王が代作したとされる天智の歌と井戸王の歌の間の溝は極めて大きく、先学の解釈がそれを乗り越えたとは言い難い。本稿では、額田王の二首は遷都儀式における呪歌であるという通説、国神であり崇る神でもある三輪山の神に対する鎮魂と惜別の歌であるという通説を批判的に検討し、額田王の歌は「姿を見せてくれたら心をこめて奉仕をします」と神に誓った「誓約の歌」であることを示した。天皇一行の、この誓約によって、神は一度は姿を見せたと思われる。しかし最後の別れを告げて近江の国へゆくべき奈良山の峠において、三輪山は天皇の一行に姿を見せようとはしなかった。そして天皇は意のままにならない神に向かって激しい怒りの歌を投げつけた。神と人が鋭く対立し、破局が不可避と思われた時、井戸王は三輪山の神に語りかけた。井戸王は、神婚譚を前提にして三輪山の神に「わが背」と語りかけ、自分が「神の妻」となることを申し出たのである。井戸王の歌が恋の歌なのはそのためだったのである。これほど美しい女性の献身ならば、神は天智を寛恕されるに違いない・・・・こう考えて、遷都の一行は奈良山を越えて行くことができたのである。額田王と井戸王の歌によって神の心は動かされ、遷都事業の危機は激われた。二人の歌の力に、人々は強い感銘を受けたに違いない。
著者
武笠 俊一
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.31-43, 2012-03-30

日本人の民間信仰の特質の一つに、「神々を欺す風習」がある。こうした風習は、とりわけ、ウブスナ習俗や厄神防除の領域に多い。本稿では、幼児の額に印をつける「アヤツコ」の風習と戸口に護符や絵を貼る「疱瘡神防除」を取り上げ、こうした呪法がどのような論理によって行われてきたかを解明した。神を欺くことによって災厄を回避しようという呪法は、つい最近まで日本社会で広く行われていたものである。しかし、こうした呪法は、一神教の世界にはほとんど見られない。このきわめて特異な呪法がどのような論理に基づいて行われていたかを明らかにすることによって、日本人の神観念の特質が明らかになると思われる。
著者
湯浅 陽子 ユアサ ヨウコ YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.75a-89a, 2001-03-25

蘇軾の文学に及ぼした南宗禅の影響について,唐から五代にかけての禅語の一大集成であり,蘇軾自身が読んでいたと考えられる『景徳博燈録』の記述を踏まえた表現に注目して検討する。蘇軾の詩に見られる禅語を踏まえた表現の持つ傾向の一つに,ユーモアを含むという点があり,このような傾向を持つ表現は若年期から晩年までの作品の中に継続して現れ,各々の表現はそれぞれに戯れの気分を含みつつも,次第に作者の禅に対する知識の広がりと理解の深まりを窺わせるものに変化してゆく。またこれらの詩が総じて気軽な気分を伴っているのは,蘇軾の周囲の士大夫たちの間で禅や禅語の知識が広く共有されており,彼らが随分気軽な,あるいは日常的なものとして禅に接していたことを示している。彼らのなかには,禅により強い関心を示し,禅語の深い意味を求めようとする者もあり,そのような思潮のなかにある蘇軾は,晩年の嶺南への流謫生活の中で,禅的な思考を儒教や道家・道教的な思考と折り合わせ,複合しつつ詩に表現するに至っている。彼にとっての禅的境地は,単独で追求されるべきものではなく,儒・道の二教とともに内面の葛藤を静め,人生に対するより良い姿勢を模索するための拠り所とされていたと考えられる。
著者
相澤 康隆 AIZAWA Yasutaka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-9, 2014-03-30

正しい行為(なすべき行為)とはいかなる行為かを説明することは規範倫理学の諸理論にとって重要な役割の一つである。規範倫理学における一つの理論ないし立場である徳倫理学は、正しい行為を説明することができるのだろうか。この疑間に対して、いわゆる「適格な行為者説」は、次のような仕方で正しい行為の必要十分条件を与える。「ある行為が正しいのは、その行為が、有徳な行為者であれば当該の状況において特徴的に行いそうなことである場合であり、かつその場合に限られる」。有徳な人の行為を正しい行為の規準とするこの定式に対して、主要な反論が二つある。一つは、「有徳な人ならば決して陥らない状況に陥った行為者に対して、この定式は何をなすべきかを教えてくれない」という反論であり、もう一つは、「有徳でない行為者には、まさに有徳ではないがゆえになすべき行為があるにもかかわらず、この定式ではその事実を説明することができない」という反論である。これらの反論を踏まえて、定式に含まれる「有徳な行為者であれば行いそうなこと」を「有徳な人であれば忠告しそうなこと」に修正する試みがあるが、この修正版も固有の難点を抱えている。本稿では、「有徳な人の行為」ではなく、「徳を備えた行為」を中心に据えて定式を作り変えることを提案する。すなわち、「ある行為が正しいのは、その行為が当該の状況において求められる徳を備えた行為である場合であり、かつその場合に限られる」。このように定式化することによって、上記の二つの反論を退けっつ、徳倫理学の立場から正しい行為の説明を与えることができるのである。
著者
菅 利恵
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.93-106, 2012-03-30

断片に終わったシラーの戯曲『マルタ騎士団』では、ともに戦う騎士たちによる恋愛が描かれている。シラーによってこの愛は作品の要としての位置づけが与えられているにもかかわらず、従来の研究においてこのモチーフは軽視されてきた。シラーはこの作品以外でも男性同士の情熱的な友愛をしばしば描いている。本稿では、まずシラーの作品一般において「男同士の愛」が持った意義を探り、そのうえで、『マルタ騎士団』の中で騎士同士の恋愛がどのような機能を果たしているかを明らかにする。愛をめぐるシラーの言説は、啓蒙時代の「文芸公共圏」に見られた構造に刻印されている。すなわち、私的な「愛」のなかに「自由と平等」という市民的なイデオロギーを込め、この「愛」の言説を市民的な自己主張の基盤にする、という構造である。男同士の友情は、さまざまな愛の関係性の中でも市民的なイデオロギーをもっとも純粋に追究できるものであり、だからこそシラーはこのモチーフを繰り返し描いたのだと思われる。『マルタ騎士団』は、「普遍的人間的なもの」の理念とその内実たる「自由と平等」の観念を、「犠牲的ヒロイズム」のドラマを通して顕現させる、という矛盾に満ちた課題を試みた作品である。この試みにおいて、シラーは「犠牲」を強制や権力から完全に「自由な」行為として描こうとした。男同士の恋愛のモチーフも、結局は実らなかったこの試みに取り組む中でこそ浮上したのだと思われる。すなわちここでは男同士の愛が、集団への自発的な自己溶解をうながすための動力として機能しているのである。シラーにおける男同士の愛は、あくまでも自由な関係性であるからこそ、「自由と平等」を掲げる空間のなかに、「支配と隷属」の構造が入り込むことをゆるす契機ともなっている。シラーによる「人間的な」犠牲のドラマの試みは、理想主義的な男同士の関係性をめぐる逆説を明らかにしている。
著者
川口 敦子 KAWAGUCHI Atsuko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = JINBUN RONSO : BULLETIN OF THE FACULTY OF HUMANITIES, LAW AND ECONOMICS (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.79-87, 2018-03-31

本稿は、拙稿「旧トレド管区イエズス会文書館および旧パストラーナ文書館の日本関係文書のカタログ番号について」(『人文論叢:三重大学人文学部文化学科研究紀要』34、2017年3月)の内容を補うものである。松田毅一『在南欧日本関係文書採訪録』(養徳社、1964)のカタログに記載されている日本関係資料について、前回の現地調査時に確認できなかった資料のうち、2017年9月の現地調査によって確認できた資料の新番号と追加情報を報告する。
著者
山崎 明日香 YAMAZAKI Asuka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.85-93, 2015-03-30

本稿は19世紀のなかばに活躍した演劇評論家ハインリヒ・テオドール・レッチャー(HeinrichTheodorR・tscher,1803-1871)の著書『劇的演技術(DieKunstderdramatischenDarstellung)』(1841-46)において提唱された俳優のための音声論を、18世紀以降のドイツの標準語形成運動と俳優の語り言葉についての問題に関連づけて考察するものである。レッチャーは、同時代の演劇界で広範な影響力を及ぼした著名な人物であり、1844年以降プロイセン政府の委託を受けて公的に演劇評論活動を行った。本稿で取り扱うレッチャーの『劇的演技術』は、演劇、俳優、そして演技術全般について包括的に論じた理論書であり、国民の道徳機関としての劇場機能の強化も併せて説いている。本稿の第一章は、18世紀以降のドイツの標準語形成運動と、それに並行して議論されてきた俳優の語り言葉に関する問題を取り扱った。その際に、レッチャーの音声論が、ドイツの標準語形成運動において、俳優の語り言葉の統一化と純粋言語への模範化に際して理論的な後ろ盾となったことを指摘した。そして第二章は、レッチャーの標準語と方言をめぐる考察をいくつか抜粋し、それを言語ナショナリズムに関連付けて論じた。レッチャーの音声論は、ドイツの標準語形成運動におけるナショナルかつ言語教育的な芸術言語の認知の流れを強めた一つの理論書であった。
著者
大河内 朋子 OKOCHI Tomoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.71-78, 2018

ゼーバルトの物語世界は「間テクスト性」を特徴とし、主副二つの声が響き合う多声音楽的な物語として捉えることができる。拙論においては、「引用・剽窃・暗示」されたテクスト断片が、ゼーバルトの物語世界を読み解くためのサブテクストであることを、『土星の輪』第7章の分析をとおして考察する。 第7章では、人生における「親和性と照応」という思想が展開されるが、挿入された引用テクストは、各人物相互の「親和性と照応」の根底に、「故郷の不在・喪失」や「中間地帯でのとどまり」というゼーバルト固有の問題圏が隠されていることを明かしている。
著者
永谷 健 NAGATANI Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.1-12, 2018

日本で企業経営者や起業家が啓蒙家や教育者の一面を持つのは、明治以降の産業化で当時の実業家たちが社会的なプレゼンスを著しく高めたことに始まる。その直接的な契機は、明治30年代半ばの成功ブームであろう。明治期をつうじて、彼らには「奸商」や「御用商人」といった悪評がついてまわったが、成功ブーム以降、彼らは模範的な成功者として扱われ始めた。成功ブーム自体は、日清戦争の戦勝ブーム後に到来した恐慌や時事新報が掲載した資産家一覧がもたらしたセンセーションなどを背景として生じた。その初期においては、書籍や雑誌で海外の富豪の伝記や言行録が積極的に紹介されていた。また、『実業之日本』は成功雑誌へと誌面を改めることで成功ブームの中心的な媒体となり、日本の「成功実業家」の事績を数多く紹介した。さらに、明治38年ごろから、同誌や一部の総合雑誌で、彼ら自身が語る論説やエッセイが大量に掲載され始めた。これには、「高等遊民」の増加が社会問題となった当時の社会状況が深く関係している。メディアの要請に応えて、成功実業家は若者の学歴志向や俸給生活志向を矯正し、彼らを「独立自営」へと導く啓蒙家として振る舞い始めた。そのなかで彼らは、自己の経歴や事績を正当化していった。
著者
坂本 つや子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.75-91, 2012-03-30

クリストファー・マーロウの戯曲に頻出する衣装と宝飾品の意味について、1.TheTragedyofDido,QueenofCarthageでは女王ダイドー、2.TamburlainetheGreat,PartsOneandTwoではタンバレンおよびゼノクレィティ、3.EdwardtheSecondではエドワード2世と王妃イザベル、寵臣ギャヴスタン、貴族たち、聖職者たち、4.DoctorFaustusではフォースタスについて考察する。全ての作品において、衣装と宝飾品は権力権威の表象となり、それが登場人物たちの支配への欲望、あるいは自分を中心にした秩序構築への欲望を満たすための手段として機能していることが明らかである。
著者
太田 伸広 Ohta Nobuhiro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.27, pp.59-95, 2010

鬼には角や牙、爪があったりするが、 Teufel にはない。馬の足が Teufel の印である。鬼の色は赤が基本で、青、黒、白だが、 Teufel は黒色しかいない。鬼は女の鬼がいるが、 Teufel に女はいない。鬼は大きく力強い大人(鬼女は年寄りも)であるが、 Teufel は大男はおらず、年寄りで小人のイメージが強い。鬼は腕力が強く、頭が弱いが、 Teufel には超人的な知識を持つものも数々いる。鬼は打出の小槌や万里車、飛び蓑、隠れ蓑、生き鞭、死に鞭、宝物など夢ある物を持ち、それらが人間の手に渡り、人々に幸福をもたらすが、 Teufel の持ち物はお金しかない。鬼は人間の生活圏に現れることが多いが、 Teufel が人家に現れることはない。鬼の住処は山、鬼が島、鬼の家、穴、天井、地獄などであるが、 Teufel はほぼすべて地獄に住む。 Teufel は金をちらつかせ、貧しい者に接近し、契約を結び、魂を奪おうとする。こんな鬼は一匹もいない。 Teufel は悪人の魂を奪い、地獄に落とすことで、善人を救い、悪人を罰す神の役割をも果たしている。こんな鬼もいない。鬼は女を浚い、妻にし、子をもうけたりするが、そんな Teufel はいない。鬼は人を食うし、食う場面もあるが、 Teufel は人を食うと想像させるものが一匹いるだけで、原則人を食わない。 Teufel は神の対概念で、神に反対し神と闘うが、鬼が神や仏の対概念であることはない。総じて、鬼は人間的で地上的で非宗教的であるが、 Teufel は超人間的、地下的、来世的、キリスト教的な存在である。
著者
川口 敦子 KAWAGUCHI Atsuko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.61-71, 2011-03-30

キリシタン資料のバレト写本(1591写)には、カラタチを意味するゲズという語が見え、これが文献上での最古の用例と考えられる。文献からは、18世紀以来、ゲズはカラタチの九州方言であったことがわかる。バレト写本以外に近世より前の用例を見出すことはできないが、現在、「枳殻」「枳」をゲズ等と読む地名や姓が九州を中心に偏って分布しており、他の地域に名残も見あたらないことから、ゲズはかなり特定の地域に偏った語であることが窺える。『日本国語大辞典』第二版ではゲズをカラタチの古名とするが、むしろバレト写本の時代から方言であったと見るのが妥当であろう。バレト写本に現れるゲズの例は、方言に対して意識的であったはずのキリシタン宣教師が、それと気付かずに使用した方言の例と考えられる。
著者
村上 直樹 MURAKAMI Naoki
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.33, pp.99-120, 2016

ある制度論の論者は、「社会を記述するとは制度を記述することである。社会を説明することは、制度を説明することである」(志田・永田1991:69)と主張する。我々はこの主張に同意する。人々が社会と考えるものの中核にあるのは制度である。デュルケムも言うように、社会の学としての社会学は基本的に「諸制度およびその発生と機能にかんする科学」(Durkheim1895=1978:43)なのである。(ただし、デュルケムが考える制度と我々が対象としている制度は、必ずしも完全に重なり合うわけではない。)社会学は、制度を最重要の研究対象としなければならない。ただし、制度を説明することがそのまま社会を説明することになると言っても、制度イコール社会なのではない。例えば、財務省という一つの制度体、法廷での審理という一つの制度的相互行為、あるいは商法という一つのルール群が、そのまま一つの社会なのではない。社会は、制度よりも大きなまとまりである。では、この社会というまとまりは実質的にどのようなまとまりなのだろうか。本稿の主な目的は、多元的制度論の立場からこの問いに答えることと、社会の研究はどのような課題に答えなければならないのかを明らかにすることである。また、本稿は、グローバリゼーションと呼ばれている過程が世界社会や国際社会といった「大きな社会」を形成しているわけではないこと、並びにヨーロッパ統合が「社会の交差」という事態をもたらしていることも併せて指摘することになるだろう。
著者
湯浅 陽子 YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.15-29, 2014

北宋中期の欧陽脩ちの世代から蘇賦らの世代にかけての地方官の遊楽をめぐる志向の変化の様相について、おもに記を題材として検討する。慶暦の新政の破綻から至和年間くらいまでの間、「朋黛」として批判を受け地方に左遷されていた人々が制作した官舎庭園や遊楽を記念する記においては、公人の楽のあり方、特に人民との共有というテーマが繰り返し取り上げられ、さらにこのテーマが『孟子』や『讚記』といった経書を踏まえた正当なものであることが強調されており、そこには彼等の士大夫としての自負の強さを見ることができる。また、知定州期の韓埼は、特定の時節に人民に公開するための庭園として「康柴園」を整備しつつ、同時に自分の休息あるいは修養のための場所をも区別して整備している。仁宗嘉祐年間には、欧陽脩らよりもひと世代下の人々の間の「衆楽」をめぐる思考に新たな展開が発生し、孫覺「衆業亭記」。曾撃「清心亭記」は、長官という立場にいるひとりの人物の内面の安定を希求し、君子の修養を国家を治めるための手段として位置づけているが、人民との「築」の共有については言及していない。このような発想は、蘇載が嘉祐八年の「凌虚蔓記」以降、熙寧から元豊年間にかけて多くの記のなかで繰り返し強調する、地方長官の閑居における、外物に煩わされることのない精神的修養の重視に近いものであり、その先駆けとなるものと考えることができる。哲宗熙寧四年に洛陽で引退者となった司馬光は、当地に獨榮園を整備し、自ら「獨楽園記」を制作したが、その記述は、この「獨楽」もまた『孟子』梁恵王下を典拠とし、かつこれ以前に書かれてきた「衆楽」に関する多くの湯浅陽子文章を意識したものであることを示している。すでに退職者となった司馬光には、任地の官舎に附属する庭園ではない自己の退体の地の庭園であるからこそ、「衆楽」と対比される「獨来」をその名とすることが可能だったのだろう。しかし「獨業」は、「衆楽」と対比され、より劣るものとして控えめに提示されており、ここでも知識人のあるべき楽としての「衆業」の持つ規範性は依然として強く意識されている。また、蘇拭がこれに寄せた「司馬君賓獨榮園」詩でヽ司馬光の「獨楽」を、才能と徳とを内に秘めて轄晦するものだと説明し、司馬光が引退者として個人的な閑居に引きこもろうとする態度を批判するのも、「衆柴」を意識することによるものだろう。慶暦の新政の失敗による関係者の左遷のなかで強調された地方官の理想の遊楽としての「衆楽」は、当初は為政者としての自負や理想と強く結びついたものであったが、その後彼等の流れを汲む保守派の官僚たちによって継承されていくなかで次第に変容し、より自由度を高め、個人的な、精神的なものの希求へと変化していったと考えられる。
著者
菅 利恵 SUGA Rie
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.61-72, 2014

1730年代に演劇改革をとなえたゴットシェ,卜は、演劇に徹底したテクスト中心主義を導入しようとした。本稿では、このテクスト中心主義が18世紀後半においてどのように受け継がれ、また演劇的なフィクションの形成にどのような変化をもたらしたかを明らかにする。18世紀後半を通して、演劇的なフィクション世界のあり方は大きく変化し、その期待される役割やフィクション世界との向き合い方が変わった。本稿はこれを示した上で、その変化と当時の演技法との関わりを考察し、アドリプを否定された役者が、フィクション世界の構築にどのように関与することになったのかを追う。とりわけ、役者とテクストとの関係性が時代とともにどう変わったのかという点に注目し、18世紀後半においては、テクストの意味作用を純粋なものに保つために役者のフィクション世界形成への関与が極力狭められていたことを示す。つまり役者には、フィクション世界の外面的な記号に自らを還元させることがもっばら要求されたのである。本稿では、そのような「記号としての身体」という役者像を乗り越える方向性を示した人物として、当時の代表的な役者であり、ベルリン王立劇場の監督であり、また人気劇作家でもあったA.W.イフラントに注目する。「役者とフィクション世界との関係性」という観点から見たとき、彼の演技論は重要な意義を有している。すなわち彼は、フィクション世界にもっぱら「記号」として関わる同時代の役者像に対して、これに「読者」として関わる役者像を提示している。彼の演技論においては、単なる「記号」ではなくテクストを読み解く主体としての役者像が示されており、それは、役者がテクスト重視の流れを受け継ぎつつもより能動的にフィクション世界の構築に関与するための道を示すものとなっている。
著者
川口 敦子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.29, pp.67-74, 2012

ドミニコ会士ディエゴ・コリャードによる『羅西日辞書』(1632年ローマ刊)について、2011年のローマおよびヴァチカンでの調査を中心に、諸本の異同を検討する。『羅西日辞書』の日本語訳は未だ公刊されていないが、翻訳のためにも、文献研究の基礎とも言うべき諸本の比較と最善本の選定は重要である。『羅西日辞書』はイエズス会のキリシタン版に比べると現存する数が多く、一部の諸本の異同については既に大塚光信氏による研究があるが、本稿はこれに加えて、アレッサンドリナ図書館、ウルバノ大学図書館、ヴァチカン図書館、ヴァリチェリアナ図書館、ライデン大学図書館、東京大学総合図書館が所蔵する本の異同について検討し、諸本の成立過程について考察した。正誤表に基づいて異同箇所を検討したところ、版の先後関係はやや複雑で、単純に一方向を示してはいなかった。中には、改版前の古い折丁が改版後の製本段階で紛れ込んだかと推測される例もある。また、『羅西日辞書』は正篇(補遺を含む)と続篇で構成されているが、異同の状態から、正篇と続篇は別々に印刷されたものであることが推定できる。現存する諸本は「正篇のみ」「正篇と続篇の合冊」「正篇と続篇の分冊」のいずれかの形で製本されているが、これは別々に印刷した正篇と続篇を組み合わせて製本した結果と言える。こうした複雑な異同の状態を踏まえて、『羅西日辞書』を日本語資料として活用するためにも、ヨーロッパ各地に多く現存する諸本の調査と研究が今後の課題である。