著者
正木 友則
出版者
全国大学国語教育学会
雑誌
国語科教育 (ISSN:02870479)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.33-41, 2017

<p>本稿では、多様化・高次化した説明的文章の学力や学習指導内容を学習者に獲得させる上で、授業者による「教授行為(指導)」の中でも「ゆさぶり発問」に着目し、説明的文章の学習指導の場における展開について検討した。</p><p>例えば、授業者は筆者の説明内容や論理、主張に対して学習者が「分かっているつもり(理解不足)」であることを、事前に予想できる時、もしくは、授業内で察知した時、「ゆさぶり発問」(主要発問/授業内における即時的応答)を用いて、学習者の理解不足を補うことになる。また、筆者の説明内容や論理・主張などに対する学習者の吟味・評価を促す時には、主要発問で、学習者による「限定・比較・否定」を通して、説明的文章の学力や学習指導内容の獲得につなげようとするのである。</p><p>以上のことから、説明的文章の批判的読みでは、教材(文章)を介した「学習者(読者)」と「筆者」との相互作用を機能させるために、授業者の教授行為(指導=「ゆさぶり発問」)が重要であるといえよう。</p>
著者
河上 裕太
出版者
全国大学国語教育学会
雑誌
国語科教育 (ISSN:02870479)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.3-11, 2021-03-30 (Released:2021-04-01)
参考文献数
21
被引用文献数
1

本論文の目的は、学習者の主観的体験と解離性障害の診断を受けた患者のエピソードを比較し、文学の教室における「解離」を明らかにすることである。解離性障害の患者の個別的なエピソードには、自己の内部に複数のパースペクティブが統合されずに並列する様相が見られる。学習者Tの『山月記』論でも自身の読みとして授業の読みを提示しながら、初読の際の問題意識に触れるという形で、統合されない二つのパースペクティブが表現されていた。教室で文学を扱う場合、学習者は教師と作品に引き裂かれ「解離」する可能性がある。また『山月記』に特有の作品構造も学習者の「解離」を刺激する可能性がある。学習者が「解離」し、授業の読み(=自己)を自分の読み(=自己)として流通させる構造には解離の病理がある。一方で学習者が「解離」することは、文学がそれ自体で学習者に対話を仕掛けているという文学の教材としての可能性も示唆している。