著者
横尾 実
出版者
北海道地理学会
雑誌
北海道地理 (ISSN:02852071)
巻号頁・発行日
vol.1997, no.71, pp.13-21, 1997-04-30 (Released:2012-08-27)
参考文献数
42

As a result of the growth of modern industries since 1937, Hachinohe's population expanded rapidly and Hachinohe became one of the leading concentrations of population in Aomori Prefecture. Hachinohe is now, in addition to its manufacturing position, the largest service center for the southern part of the prefecture. In 1990, the population was about 241,000. This paper is concerned with the changes of urban land use pattern of Hachinohe from 1937 to 1993, and gives particular attention to the process through which a whole urban pattern develops.Hachinohe has five historic cores: old Hachinohe founded as a small castle town during the Edo period, other four such cores as Konakano, Minato, Shirogane and Same, which were the fishing and trading ports at distances of one to five kilometers east of old Hachinohe. After 1937, two modern industrial districts developed along the northern coastal lowland. Beyond the old built-up area the zone characterized by shopping, warehouses and small-scale industries expanded on the lowlands and the residential land uses mainly spread over the southern uplands. Some industrial estates, distribution centers and city housing projects isolated on the urban fringe were established.Based upon the process of urban development we can understand that Hachinohe is made up of three counterparts, each of which has grown from old Hachinohe, four port towns and two modern industrial districts respectively. It is identified that old Hachinohe has been occupied with the most important position for extensive new urban development. The urban area of Hachinohe, multi-nuclear though it seems to be, can be virtually represented as the zonal growth with old Hachinohe as a single urban core. Two industrial districts and four port towns merely modify this zonal expansion together with topography and the main transportation routes.
著者
塩﨑 大輔 橋本 雄一
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.1-6, 2021-05-12 (Released:2021-05-21)
参考文献数
9

本研究はスキーリゾート開発が著しい北海道倶知安町のひらふ地区を対象とし,開発の経緯を施設建設によって概観した後,各施設に関する土砂災害の危険性を空間的に検討することで,スキーリゾート開発と災害リスクとの関係を明らかにした。 そのために建築確認申請計画概要書から作成したデータベースで開発を年代別に分析し,当該地区の土砂災害リスクを国土数値情報の災害関連情報とあわせて検討した。ひらふ地区の開発はバブル崩壊前後と2000 年代後半に拡大した。特に海外からの不動産投資が急増した2000 年代後半からの開発では,スキー場に近接した施設建設の適地が不足したことにより,バブル期の開発に比べ,その開発範囲は河川沿いの急傾斜地にきわめて近い場所まで広がっていた。ここには高級コンドミニアムなど比較的規模の大きい建築物が複数立地しており,近年の観光施設集積地の縁辺部における大型開発が,土砂災害の危険性を高めていた。これらの結果から,対象地域では好景気の時期に開発が進んでいることや,開発の時期が新しいほど土砂災害の危険性が高い場所で施設建設が行われていることが明らかになった。
著者
平川 一臣 澤柿 教伸
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.4-12, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
4

本研究では,幕末期の蝦夷地陣屋の立地について,Google Earth をはじめとするいくつかの衛星画像および空中写真から範囲や方 位,視点高度などを適宜変えて,地形の3D 画像を作成し,蝦夷地陣屋の地形環境,地形的立地条件を読み解く試みをおこなった。 とりわけ,陣屋の配置,設営に当たって現地見分した報告書,盛岡藩『松前持場見分帳』の記載と対照・検討が可能な室蘭,長万部,砂原,白老の陣屋について自然地理的・地形学的解釈をおこなった。
著者
和田 郁奈
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.88-98, 2009-07-31 (Released:2012-11-15)
参考文献数
26
著者
渡辺 英郎
出版者
北海道地理学会
雑誌
北海道地理 (ISSN:02852071)
巻号頁・発行日
vol.1993, no.67, pp.27-31, 1993-04-30 (Released:2012-08-27)
参考文献数
1
著者
王 婷 渡辺 悌二
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.13-31, 2020-09-24 (Released:2020-10-05)
参考文献数
39
被引用文献数
1 1

山岳国立公園のおもなレクリエーション活動には登山と野営があり,登山者に提供される宿泊施設として野営場と山小屋が設置されていることが多い。野営場の適切な管理は,自然環境の保護・保全をすすめるために必要であると同時に,登山者に質の高い野営体験を提供するために重要である。本研究では,大雪山国立公園の高山帯に分布する,管理の行われていない野営場(正式呼称は「野営指定地」)に適切な管理を導入するために,野営場の予約制の管理制度が確立されている台湾の3 つの山岳国立公園を事例として,野営場の特徴を明らかにし,予約制管理の取り組みとその効果について調査を行った。 対象とした台湾の国立公園(国家公園)は,玉山,雪覇および太魯閣の3 つの国立公園で,まず,文献調査およびインターネット調査によって,これらの国立公園の野営場ならびに山小屋に関する情報を収集し,ArcGIS を使ってそれらの分布図を作成した。 次に,それぞれの国立公園の代表的な登山道沿いの宿泊施設(野営場および山小屋)の設置密度を計算した。その結果,登山道区間の長さ1 km あたりに設置された山小屋の数が少ないほど,野営場がたくさん設置されている特徴が見いだされた。また,玉山国立公園の登山道区間・八通関越嶺線では,登山道長1 km あたりの宿泊施設の設置密度が一番小さく(0.19 カ所/km),逆に山小屋の少ない太魯閣国立公園の登山道区間・奇萊東稜線で設置密度が一番大きかった(0.86 カ所/km)。台湾の山岳国立公園では,非公式野営場とオンライン予約の可能な野営場を組み合わせて配置することで,隣接する野営場の設置間隔を小さくし,個々の野営場面積を小さくすることに成功している。 さらに,これら3 つの国立公園で公園管理者に対して聞き取り調査を行った結果,それぞれの国立公園で異なる人数制限と予約制度が導入されていることが明らかになった。また,雪覇国立公園の宿泊施設利用者に対してアンケート調査を実施した。これらの調査の結果,予約制の管理制度の導入が野営場の混雑問題の軽減と野営体験の質の改善に役立っていることが明らかになった。しかし,無許可入園者の幕営による混雑がいくつかの野営場で問題となっているなど改善の余地が残されていることも明らかになった。 大雪山国立公園の高山帯には,土壌侵食と過剰利用が問題となっている野営指定地があり,こうした野営指定地では予約制度の導入が問題解決・軽減に有効であると考えられる。その際,太魯閣国立公園のように,今後,オンライン予約を必要とする野営指定地と予約のいらない野営指定地を組み合わせた緩やかな予約制度の導入が議論されるべきである。さらに,黒岳野営指定地のように利用者が多く土壌侵食の著しい野営指定地においては,テントパッドの設置のような能動的管理の導入が期待される。
著者
小林 和夫
出版者
北海道地理学会
雑誌
北海道地理 (ISSN:02852071)
巻号頁・発行日
vol.1979, no.53, pp.27-39, 1979-01-30 (Released:2012-08-27)
参考文献数
43
著者
大場 与志男 守屋 以智雄
出版者
北海道地理学会
雑誌
北海道地理 (ISSN:02852071)
巻号頁・発行日
vol.1978, no.52, pp.9-14, 1978-01-30 (Released:2012-08-27)
参考文献数
6
著者
沼田 尚也
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.83, pp.40-43, 2008-07-31 (Released:2012-08-27)
参考文献数
5
著者
泉山 茂之 アナルバエフ マクサト 渡辺 悌二
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.14-21, 2009
被引用文献数
6

キルギス共和国南部のアライ谷地域で,地元ハンターへの聞き取りと住民へのアンケート調査を中心に,現存する大型野生動物のリストを作成し,この地域にみられる問題点を明らかにした。その結果,13種の動物をリストアップした。この中には,ソ連邦崩壊後に増加したオオカミと,絶滅の危機に瀕しているマルコポーロ・シープ,現在も続く狩猟によって個体数が激減していると考えられるアイベックスが含まれている。オオカミの群れはいわゆる「里オオカミ」として集落付近で定着するようになっている。これは,ソ連邦時代には国家がオオカミを害獣として組織的に捕殺していたのに,現在では地域の住民が自ら対応しなければならなくなった結果である。オオカミの駆除は必ずしも好ましいとは言えないが,少なくとも人間の居住地域からの排除は必要である。また,マルコポーロ・シープについては,タジキスタン国境に近い,住民の立ち入りが困難なザ・アライ山脈のある地域を除いてすでに絶滅が進行してしまっている。アイベックスについては,新型の銃器による違法狩猟が続いており,食肉用に捕獲されるため,狩猟された個体がトラックの荷台に満載されていたという目撃情報も複数存在している。こうした現状から,実効性のある対策が急務であるが,この地域の生物資源保全を有効に進める一つの貢献として,現在,議論が進んでいる,パミール・アライ国際自然保護地域の設立(PATCAプロジェクト)が期待される。しかしながらアンケート調査によれば,このプロジェクトの計画の存在を知っていた住民はわずか16.9% (331人中56人)に過ぎなかった。
著者
井黒 弥太郎
出版者
北海道地理学会
雑誌
北海道地理学会会報 (ISSN:21865418)
巻号頁・発行日
vol.1954, no.20, pp.87-94, 1954 (Released:2012-08-27)

さきに北海道開拓図 (昭25) と石狩平野のフロンティヤーライン (昭26) を報告したが、今囘さらに大谷地 (東米里) を例として、開拓の一面を述べてみたい。この地域は北海道地理学界にとっても、ゆかりの深いところであり、かつ刊行物に登載されることの多い土地の1つである。この母村白石は明治4年に成立したが、原野の「川下」に小池嘉一郎が造田を目的として入地したのが明治18年のことである。厚別川の流下した沃土が湿原の中に自然堤防を形成していたからである。以来周辺の開拓は駸々として進んだが、この湿原は容易に人を近ずけず、ようよう昭和27年に至って一応開拓を完了した。1896年図では「川下」水田地の外は一帯原始の面影を残しているが、1916年図ではようやく四周より水田化が進み、殊に明治39年山本厚三氏の計画村が延長1里にわたって楔入し、石狩湿原開拓の範を示した。1935年図では更に耕境の北進が著しい。この頃より石狩川の治水工事が着々進行し浸水の憂は去り、地下水位は低下してでい炭地は乾燥しはじめた。昭和21年この地を踏査したときは (開拓線図参照) 広い草原に道もなく、足もとの湿地に少からぬ危険を感じたが、草小屋が点々し鍬持つ人々も散見して開拓の気運が満ちていた。この頃から国の力がかつてない勢を以て、この近く札幌のビルディングを指呼する好位置に集中された。昭和27年にはその名も東米里となって区画整然とし、わずかの草地を残して生気に満ちた好農村となった。昭和20年以降のいわゆる開拓地に属する部分は約1050町歩で、内可耕地は840町歩、昭和27年まで約650町歩が耕成され、160戸860人が定着し、この年電燈も点じ、軌道客土も進行している。さらに北海道総合開発計画による豊平川河水統制が実現すれば全部開田する予定である。開拓は自然景観が文化景観に移行し終る過程をいう。これを明らかにするためには、原始景観を復原し、その地域の各年次景観 (その時代の地理的断面) をあつめて、総合観察することが基本的な仕事である。ここでは1896、1916、1935の3図を示した。昭和21、27は測図し得ないので、特に掲げることができなかつた。ここでは総合の1例として開拓線Frontier Lineを描いてみた。開拓は社会条件 (開拓営力) が自然条件を統制して居住圏を拡大することであるので、この地の最も重要な条件たる壌と洪水の図 (自然条件図) を示した, 他の諸図と対比せられて、その密関性を観察されたい。社会条件については、ところどころに若干触れておいた。この地域は全道的にみて、もとより狭小な面積に過ぎないにしても、80年にわたる住民努力のあとは決して簡単ではない。他日詳しく論ずるの機を得たいと思う。
著者
木村 圭司 財城 真寿美 戸祭 由美夫
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.13-19, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
5

現在の気象データを用いて,幕末期に北海道島内で東北6 藩が経営していた16 か所の蝦夷地陣屋周辺の冬季の気候の特徴を明ら かにした。冬季の気温については,道南部と東北地方北部との間に大きな違いはみられなかった。これに対して道東部の気温は,東北地方南部と比較して,平均気温でも最低気温でも5~10℃低い傾向が見られた。このことから,東北地方北部に本城をもつ津軽藩と南部盛岡藩が経営した道南の陣屋では,本城とほぼ変わらない気温のもとで越冬できた一方で,東北地方南部に本城をもつ会津藩や仙台藩が経営した道東の陣屋では,本城よりも低温下での厳しい越冬を強いられていたといえる。陣屋がおかれた場での冬型気圧配置時の北西季節風の風向風速に着目すると,日本海側の陣屋と道東の陣屋では冬型気圧配置による北西季節風(暴風雪)が直撃していた可能性が高い。建物周辺が尾根の風背側に位置する秋田藩の宗谷陣屋と南部盛岡藩の室蘭陣屋,北西季節風吹走時でも弱風になる地域に位置する仙台藩の白老陣屋はこうした暴風雪へ配慮した立地の陣屋であろう。