著者
仁平 尊明
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.1-13, 2013-03-19 (Released:2013-04-30)
参考文献数
26

北海道における小麦の栽培面積は,日本全体の約6割に達する。北海道は小麦の大産地であるが,現在のように小麦栽培が盛んになったのは,北海道における農業の歴史からみれば最近のことである。また北海道は広いため,すべての地域で小麦が栽培されているわけではない。北海道における小麦生産の発展要因を時間的・空間的な視点で捉えることは,北海道の農業だけでなく,今後の日本における食料生産のあり方を考える上でも重要である。本研究は北海道内における現在の小麦産地を確定した上で,小麦生産が発展するための要因を,品種更新,農業政策,産地の生産基盤に注目して解明することを目的とする。その際,統計・史料の分析を重視しつつ,土地利用調査や農協・農家への聞き取り調査など,フィールドワークの資料も活用した。北海道における小麦産地は,図3に示すように,(1)秋播き小麦に特化する十勝平野,秋播き小麦と春播き小麦の両方を生産する(2)東紋・北見地方,(3)石狩平野,(4)富良野盆地とに分けられる。北海道における小麦産地が今後も発展していくためには,北海道産小麦の商品化と地域ブランド化を進めること,海外の小麦産地の実態を考慮した補助金制度の拡充,大規模化と粗放的な栽培方法に対応した農業機械の導入などが重要であると考えられる。
著者
角 一典
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.72-85, 2011-12-31 (Released:2013-02-14)
参考文献数
17
被引用文献数
1
著者
葛西 光希 木村 圭司
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.37-48, 2014-02-26 (Released:2014-04-30)
参考文献数
18
被引用文献数
1 1

日本でケッペンの気候区分を適用すると,東北から北海道にかけての地域で,温帯から亜寒帯の遷移帯がみられる。本研究では,この遷移帯付近に位置し,かつ比較的小さな範囲である北海道(北方領土は除く) を対象としてケッペンの気候区分を適用した。また,気候の面的な分布を見られるよう,気象台やAMeDAS観測所のデータより詳細な,1kmメッシュデータを用いて区分を行った。この結果,北海道の代表的な気候区とされている亜寒帯のDf(Dfa・Dfb・Dfc) 以外にも,温帯のCfa・Cfb・Cs* や,それにわずかながらDwb,寒帯のETと,さまざまな気候区が存在することが分かった。また,1971~2000年,1981~2010年の2期間について同様の解析を行い,気候区が変化した地域を明らかにした。2期間で生じたすべての気候区変化パターンをクロス集計により明らかにした。さらに,各変化パターンの代表メッシュを抽出し,気温や降水量のデータを用いて,変化が生じた理由を説明した。北海道において,ある気候区が変化するパターンとその逆方向の気候区への変化パターンが混在した地域が見られ,この地域は気候区の遷移帯であると判断できる。遷移帯において気候区が変化したメッシュ数を比較すると,温暖化の傾向を示すメッシュ数が多かった。北海道という比較的小さな地域でもケッペンの気候区分により気候変動の一側面が把握できたことから,小地域におけるケッペンの気候区分が有効性を持つ場合があることが確認された。
著者
永幡 豊
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.6-13, 2013-04-18 (Released:2013-10-31)
参考文献数
24

本稿は,北海道における開拓移民母集団(東北6県,北陸4県,そして東京・徳島・香川・岐阜県の開拓移民戸を1つの大移民集団とした)と系統別の寺院構成比の関係を考察したものである。北海道の開拓ピーク期は,明治19(1886)年から昭和11(1936)年までであるが,開拓を多く出したのは東北6県(289,217戸,41.4%),北陸4県(184,064戸,26.3%),東京都・徳島・香川・岐阜県(66,065戸,9.9%)である。東北は禅宗の卓越する地域であり,北陸は浄土真宗系の卓越する地域であることから,北海道に浄土真宗(特に大谷派)・禅宗(特に曹洞宗)系寺院が多く建立されることになったと推測できる。真宗本願寺(西本願寺)派寺院総数は,真宗大谷派より148寺少ないが,これは北海道における真宗大谷派と江戸時代における松前藩との結び付きがあったからである。禅宗は(松前家時代)曹洞宗だけが布教を許され,明治以前に開基した寺院数は40寺で,真宗大谷派より7寺多い。明治元(1868)年から20(1887)年までに41増えて真宗大谷派より2寺多いが,明治21(1888)年から30年までに66寺しか増えなかった。真宗大谷派はこの時期に127寺増えている。この原因を考えると,まず第1に明治29(1896)年までに継続した内紛のため他派よりも布教が遅れたこと,第2にこの時期の開拓者の出身地は,富山を筆頭に北陸出身者が多かった(曹洞宗の卓越する地域東北出身者の増加は,明治38(1905)年以降)ことが挙げられる。従って明治32(1899)年以後,布教は進まず,本格化するのは明治40(1907)年以降で明治31(1898)年から45(1912)年までには98寺増加し(真宗大谷派151寺),合計245寺となった(真宗大谷派の合計は355寺)。浄土真宗系卓越地域の北陸からの移民は(明治19(1886)年から大正11(1922)年まで),全移民の26.3%を占め,曹洞宗が卓越する地域の東北からの移民者は41.4%を占めている。このことは北海道における曹洞宗寺院の優位性を生む要因となるべきものであったが,上記した理由により真宗大谷派などの浄土真宗の宗勢に及ばなかったと考えられる。
著者
祖田 亮次
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.16-31, 2015-12-24 (Released:2016-01-29)
参考文献数
140
被引用文献数
3 1

本稿は,英語圏の地理学,とくに人文地理学における近年の災害研究の動向を概観するものである。具体的には,2000年以降の英語圏における主要な地理学系雑誌から災害に関係する論文を抽出・吟味し,地理学とその周辺で行われてきた災害研究に関わる議論を振り返りながら,今後の災害研究の方向性について展望する。過去十数年の災害研究を概観してみると,災害研究という領域が比較的新しいものであり,そこで議論される内容も多岐にわたって混沌とした状況である一方,その研究の動向は,空間論としての災害研究,人間-環境関係論としての災害研究,および学際性と社会性を意識する災害研究という,いくつかの主要な関心が存在することが分かる。いずれも,地理学という学問分野の本質に関わる議論であり,新領域でありながら,地理学的研究の原点に立ち返る契機を含んでいる。ただ,現状では,各地の個別の災害に対する現場レベルの具体的分析が先行し,また社会貢献を意識した実践研究の優先度が高くなっているため,災害研究の抽象化や理論化という方向性は,十分に深化しているとは言えない。災害の基礎研究や理論研究の進展が,より本質的な意味で防災や減災,復興などに貢献しうるような仕組みを構築することも,災害研究の重要な学問的・社会的責務であると思われる。
著者
平井 松午
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.26-37, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
20
被引用文献数
1

幕末の開国政策を背景に,第二次幕領期(1855 ~1868 年)に東北6 藩および松前藩が江戸幕府より蝦夷地の分担警衛を命じられた。これら諸藩は,蝦夷地ならびに国後・択捉・樺太の合計22 ヵ所に軍事拠点となる陣屋を建設するとともに,数十~数百人単位で藩兵を各地の陣屋に派遣した。その一方で,蝦夷地支配の中核機関であった箱館奉行所も,1857(安政4)年には箱館市街地の守衛に備えて市街地郊外に五稜郭の建設を開始した。 五稜郭や陣屋遺構の一部については国史跡などに指定され,それらについては今日でも空中写真や地図で確認できるが,一部の陣屋については市街地化や施設建設に伴って遺構が消滅し,五稜郭も建設当時とはその様相を大きく変えている。そこで本稿では,箱館近在に建設された五稜郭,遺構が確認できない弘前藩元陣屋(千代ヶ台陣屋)・盛岡藩元陣屋(水元陣屋)を取り上げ,建設時に作成された絵図面などを用いて,GIS ソフト上で建設当時におけるこれら防御的施設の復原作業を行った。 その結果,建設当時の五稜郭の形状や元陣屋の位置・縄張りを示した実測絵図「箱館亀田 一円切図〔人〕」(函館市中央図書館蔵)・「箱舘表之図 一」(盛岡市中央公民館旧蔵)をもとに,元陣屋の位置を比定することができた。また,絵図面に記載された地理空間情報をGIS データ化することで,五稜郭や元陣屋における建設当時の三次元景観復原や,さらにはデータソースが異なる絵図情報の一元化が可能となった。このことは,古地図・絵図のGIS 分析が,歴史地理学的命題の解決に向けてより有効な手段となりうることを示すとともに,他の陣屋の復原に際してもそうした手法が援用できるものと考える。
著者
土平 博
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.38-44, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
17

江戸時代後期から幕末にかけて,幕府による蝦夷地警備と経営のため奥羽諸藩に割り当てられた領地は,本領に対して飛地領に相当する。諸藩はこの飛地領の要所に陣屋を構築したが,その場所については領域内の諸条件を考慮に入れつつ選定していた。本稿では,盛岡藩と仙台藩が構築した陣屋をとりあげて,その形態や構造について検討した。両藩が蝦夷地領内に構築した元陣屋と出張陣屋・屯の間には規模の違いがみられた。しかし,盛岡藩の場合,元陣屋と出張陣屋・屯所は規模の違いがみられるものの,その設計にあたって統一的なプランのもとで構築されていたと考えられる。一方,仙台藩の元陣屋は盛岡藩の場合と大きく異なる形態をとっており,仙台領内の「要害」・「所」・「在所」をふまえたプランが編み出されたようにも考えられる。
著者
山田 佳奈子
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.82, pp.9-22, 2007-07-31 (Released:2012-08-27)
参考文献数
14
被引用文献数
1
著者
塩﨑 大輔 橋本 雄一
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.1-6, 2021-05-12 (Released:2021-05-21)
参考文献数
9

本研究はスキーリゾート開発が著しい北海道倶知安町のひらふ地区を対象とし,開発の経緯を施設建設によって概観した後,各施設に関する土砂災害の危険性を空間的に検討することで,スキーリゾート開発と災害リスクとの関係を明らかにした。 そのために建築確認申請計画概要書から作成したデータベースで開発を年代別に分析し,当該地区の土砂災害リスクを国土数値情報の災害関連情報とあわせて検討した。ひらふ地区の開発はバブル崩壊前後と2000 年代後半に拡大した。特に海外からの不動産投資が急増した2000 年代後半からの開発では,スキー場に近接した施設建設の適地が不足したことにより,バブル期の開発に比べ,その開発範囲は河川沿いの急傾斜地にきわめて近い場所まで広がっていた。ここには高級コンドミニアムなど比較的規模の大きい建築物が複数立地しており,近年の観光施設集積地の縁辺部における大型開発が,土砂災害の危険性を高めていた。これらの結果から,対象地域では好景気の時期に開発が進んでいることや,開発の時期が新しいほど土砂災害の危険性が高い場所で施設建設が行われていることが明らかになった。
著者
平川 一臣 澤柿 教伸
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.4-12, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
4

本研究では,幕末期の蝦夷地陣屋の立地について,Google Earth をはじめとするいくつかの衛星画像および空中写真から範囲や方 位,視点高度などを適宜変えて,地形の3D 画像を作成し,蝦夷地陣屋の地形環境,地形的立地条件を読み解く試みをおこなった。 とりわけ,陣屋の配置,設営に当たって現地見分した報告書,盛岡藩『松前持場見分帳』の記載と対照・検討が可能な室蘭,長万部,砂原,白老の陣屋について自然地理的・地形学的解釈をおこなった。
著者
和田 郁奈
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.88-98, 2009-07-31 (Released:2012-11-15)
参考文献数
26
著者
王 婷 渡辺 悌二
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.13-31, 2020-09-24 (Released:2020-10-05)
参考文献数
39
被引用文献数
1 1

山岳国立公園のおもなレクリエーション活動には登山と野営があり,登山者に提供される宿泊施設として野営場と山小屋が設置されていることが多い。野営場の適切な管理は,自然環境の保護・保全をすすめるために必要であると同時に,登山者に質の高い野営体験を提供するために重要である。本研究では,大雪山国立公園の高山帯に分布する,管理の行われていない野営場(正式呼称は「野営指定地」)に適切な管理を導入するために,野営場の予約制の管理制度が確立されている台湾の3 つの山岳国立公園を事例として,野営場の特徴を明らかにし,予約制管理の取り組みとその効果について調査を行った。 対象とした台湾の国立公園(国家公園)は,玉山,雪覇および太魯閣の3 つの国立公園で,まず,文献調査およびインターネット調査によって,これらの国立公園の野営場ならびに山小屋に関する情報を収集し,ArcGIS を使ってそれらの分布図を作成した。 次に,それぞれの国立公園の代表的な登山道沿いの宿泊施設(野営場および山小屋)の設置密度を計算した。その結果,登山道区間の長さ1 km あたりに設置された山小屋の数が少ないほど,野営場がたくさん設置されている特徴が見いだされた。また,玉山国立公園の登山道区間・八通関越嶺線では,登山道長1 km あたりの宿泊施設の設置密度が一番小さく(0.19 カ所/km),逆に山小屋の少ない太魯閣国立公園の登山道区間・奇萊東稜線で設置密度が一番大きかった(0.86 カ所/km)。台湾の山岳国立公園では,非公式野営場とオンライン予約の可能な野営場を組み合わせて配置することで,隣接する野営場の設置間隔を小さくし,個々の野営場面積を小さくすることに成功している。 さらに,これら3 つの国立公園で公園管理者に対して聞き取り調査を行った結果,それぞれの国立公園で異なる人数制限と予約制度が導入されていることが明らかになった。また,雪覇国立公園の宿泊施設利用者に対してアンケート調査を実施した。これらの調査の結果,予約制の管理制度の導入が野営場の混雑問題の軽減と野営体験の質の改善に役立っていることが明らかになった。しかし,無許可入園者の幕営による混雑がいくつかの野営場で問題となっているなど改善の余地が残されていることも明らかになった。 大雪山国立公園の高山帯には,土壌侵食と過剰利用が問題となっている野営指定地があり,こうした野営指定地では予約制度の導入が問題解決・軽減に有効であると考えられる。その際,太魯閣国立公園のように,今後,オンライン予約を必要とする野営指定地と予約のいらない野営指定地を組み合わせた緩やかな予約制度の導入が議論されるべきである。さらに,黒岳野営指定地のように利用者が多く土壌侵食の著しい野営指定地においては,テントパッドの設置のような能動的管理の導入が期待される。
著者
沼田 尚也
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.83, pp.40-43, 2008-07-31 (Released:2012-08-27)
参考文献数
5
著者
泉山 茂之 アナルバエフ マクサト 渡辺 悌二
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.14-21, 2009
被引用文献数
6

キルギス共和国南部のアライ谷地域で,地元ハンターへの聞き取りと住民へのアンケート調査を中心に,現存する大型野生動物のリストを作成し,この地域にみられる問題点を明らかにした。その結果,13種の動物をリストアップした。この中には,ソ連邦崩壊後に増加したオオカミと,絶滅の危機に瀕しているマルコポーロ・シープ,現在も続く狩猟によって個体数が激減していると考えられるアイベックスが含まれている。オオカミの群れはいわゆる「里オオカミ」として集落付近で定着するようになっている。これは,ソ連邦時代には国家がオオカミを害獣として組織的に捕殺していたのに,現在では地域の住民が自ら対応しなければならなくなった結果である。オオカミの駆除は必ずしも好ましいとは言えないが,少なくとも人間の居住地域からの排除は必要である。また,マルコポーロ・シープについては,タジキスタン国境に近い,住民の立ち入りが困難なザ・アライ山脈のある地域を除いてすでに絶滅が進行してしまっている。アイベックスについては,新型の銃器による違法狩猟が続いており,食肉用に捕獲されるため,狩猟された個体がトラックの荷台に満載されていたという目撃情報も複数存在している。こうした現状から,実効性のある対策が急務であるが,この地域の生物資源保全を有効に進める一つの貢献として,現在,議論が進んでいる,パミール・アライ国際自然保護地域の設立(PATCAプロジェクト)が期待される。しかしながらアンケート調査によれば,このプロジェクトの計画の存在を知っていた住民はわずか16.9% (331人中56人)に過ぎなかった。
著者
木村 圭司 財城 真寿美 戸祭 由美夫
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.13-19, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
5

現在の気象データを用いて,幕末期に北海道島内で東北6 藩が経営していた16 か所の蝦夷地陣屋周辺の冬季の気候の特徴を明ら かにした。冬季の気温については,道南部と東北地方北部との間に大きな違いはみられなかった。これに対して道東部の気温は,東北地方南部と比較して,平均気温でも最低気温でも5~10℃低い傾向が見られた。このことから,東北地方北部に本城をもつ津軽藩と南部盛岡藩が経営した道南の陣屋では,本城とほぼ変わらない気温のもとで越冬できた一方で,東北地方南部に本城をもつ会津藩や仙台藩が経営した道東の陣屋では,本城よりも低温下での厳しい越冬を強いられていたといえる。陣屋がおかれた場での冬型気圧配置時の北西季節風の風向風速に着目すると,日本海側の陣屋と道東の陣屋では冬型気圧配置による北西季節風(暴風雪)が直撃していた可能性が高い。建物周辺が尾根の風背側に位置する秋田藩の宗谷陣屋と南部盛岡藩の室蘭陣屋,北西季節風吹走時でも弱風になる地域に位置する仙台藩の白老陣屋はこうした暴風雪へ配慮した立地の陣屋であろう。
著者
葛西 光希 木村 圭司
出版者
The Hokkaido Geographical Society
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.37-48, 2014
被引用文献数
1

日本でケッペンの気候区分を適用すると,東北から北海道にかけての地域で,温帯から亜寒帯の遷移帯がみられる。本研究では,この遷移帯付近に位置し,かつ比較的小さな範囲である北海道(北方領土は除く) を対象としてケッペンの気候区分を適用した。また,気候の面的な分布を見られるよう,気象台やAMeDAS観測所のデータより詳細な,1kmメッシュデータを用いて区分を行った。この結果,北海道の代表的な気候区とされている亜寒帯のDf(Dfa・Dfb・Dfc) 以外にも,温帯のCfa・Cfb・Cs* や,それにわずかながらDwb,寒帯のETと,さまざまな気候区が存在することが分かった。また,1971~2000年,1981~2010年の2期間について同様の解析を行い,気候区が変化した地域を明らかにした。2期間で生じたすべての気候区変化パターンをクロス集計により明らかにした。さらに,各変化パターンの代表メッシュを抽出し,気温や降水量のデータを用いて,変化が生じた理由を説明した。北海道において,ある気候区が変化するパターンとその逆方向の気候区への変化パターンが混在した地域が見られ,この地域は気候区の遷移帯であると判断できる。遷移帯において気候区が変化したメッシュ数を比較すると,温暖化の傾向を示すメッシュ数が多かった。北海道という比較的小さな地域でもケッペンの気候区分により気候変動の一側面が把握できたことから,小地域におけるケッペンの気候区分が有効性を持つ場合があることが確認された。
著者
佐久間 香子
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.45-55, 2014-06-06 (Released:2014-09-30)
参考文献数
8
被引用文献数
1

生業は,生活を営む地域の地理的,生態環境条件によってのみ決定されるわけではないが,この条件に支えられたり制約されたりする部分がその選択において決定的に重要であることは間違いない。本稿では,マレーシア・サラワク州北部に位置するグヌン・ムル国立公園に隣接するブラワン人を中心とする集落における生業の変化を,特に狩猟活動から分析する。ここで見られるのは,国立公園の設置による生業利用の制限と観光産業による現金経済の浸透にともない衰退に向かう「伝統的」生業活動の中で,狩猟だけがすたれるどころか盛んにおこなわれるようになっている逆説的状況である。このような状況が生じた要因として,本稿では狩猟という自然との付き合い方が含み持つ「楽しみ」に注目する。観光産業を主な収入源とする市場経済化した集落の社会経済的状況において,身体の躍動と不確実性,そして狩猟獣の解体の社会的役割は,他のどの活動よりも「森の民」の生を満たすものとして改めて関心が高まっているのである。そしてそれは,国立公園の隣という立地を最大限に生かした方法でもある。
著者
財城 真寿美 木村 圭司 戸祭 由美夫 塚原 東吾
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.20-25, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
10
被引用文献数
4

小氷期の末期にあたる江戸時代後期には,まだ気象庁による公式の気象観測が開始されていなかったため,気象庁のデータは当時までさかのぼることができない。一方で,幕末期の函館において1859~1862 年の4年間にわたり,ロシア領事館付のロシア人医師アルブレヒトが気象測器を使用した観測記録が残存していることが分かった。この幕末期の気象観測データは,現在の函館地方気象台のデータとは観測地点や観測頻度が異なるため,その差を補正するために気温データについて均質化を実施した。幕末期の函館の気温を20 世紀の函館地方気象台の気温と比較したところ,暖候期の低温と寒候期の高温傾向がみられた。その要因として,幕末期の観測地点が,現在より海洋性の性質を示すことから,海風の影響を受けやすかったと考えられる。また,幕末期の年平均気温は,函館の最近30 年間の平年値よりも約2.0℃低く,その寒冷な傾向は幕末期から20 世紀初頭まで継続していた。