著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.65-98, 2023-03-25

本稿は、北海道の公立動物園でこれまでに飼育されてきた海外産オオカミ(Canis lupus)の記録を整理し、その動向と特徴を確認することを目的とする。調査の結果、道内の公立動物園が1956年から2022年現在までの66年間で5亜種128頭のオオカミを飼育してきたことを明らかにできた。また、公立動物園で飼育されるオオカミには、過去には海外から「親善」のための使節として来園するなど特定の都市や地域と結びつけられる傾向がみられたが、2000年代以降は絶滅した在来種であるエゾオオカミと関連づけて飼育・展示されていることを確認した。道内の公立動物園におけるオオカミの飼育形態は、かつては単独あるいはペアを基本とする形を主流としていたが、1980年代以降は群れを飼育・展示することが目指されていた。 こうした変化は、オオカミに関わる知見の更新や議論の蓄積を反映して起きたものと考えられる。飼育史の解明を進めることで、在来種が絶滅した後の北海道におけるオオカミに対する理解のありかたやイメージの変遷過程を把握するための一助とすることができる。
著者
坂口 諒
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.123-134, 2021-03-25

本稿の目的は、『アイヌ語ロシア語辞典』(Dobrotvorskij 1875)の中のアイヌ語話者の居住地や経歴を明らかにすることである。アイヌ語話者に関するドブロトヴォルスキーの記述は断片的であり、大半の話者の居住地は明らかではない。同時代の史料と突き合わせることで、話者の居住地やその移動を明らかにできるだけでなく、アイヌ語資料としての辞書の可能性を高めることができる。ドブロトヴォルスキーと親しかったカシトゥルというアイヌ男性を例にすれば、同時代の他の史料から、1870 年代に至っても久春内の近くコミシラロポ(小茂白)で家族と暮らしていたことが確認できるが、カシトゥルの長女と長男は、1860 年頃のウショロ(鵜城)場所の人別帳に現れている。そのほか、他の資料と比較して辞典のアイヌ語が正確であることは、ロシア側、日本側の人名記録を修正する一助になると思われる。
著者
田中 佑実
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.43-61, 2022-03-25

フィンランドのサヴォ地方では、かつて死者のカルシッコと呼ばれる樹木が知られていた。死者のカルシッコは、家から墓場へと通じる道の途中に立つ木々の中から選ばれ、枝が切り落とされたり、死者のイニシャルや生没年が幹に刻まれることで作られた。それらの樹木は死者の帰還を防ぐものとして、17世紀以降、主にルーテル派教会に属するサヴォ地方の人々の間で機能していた。死者のカルシッコは人々の生活を守り、畏敬の念を集める対象であったが、19世紀後半以降の近代化によって、その認識は塗り替えられていった。 これまでの死者のカルシッコに関する先行研究では、その形式や起源、機能、分布、ヨーロッパやバルト地域との関係等について考察がなされてきた。死者のカルシッコに関する研究は1880年代から1990年代まで連綿と行われており、起源や機能、死者と生者のつながりに関する議論が中心である。しかし2018年以降、筆者が死者のカルシッコの風習を続ける家族のもとで行ってきたフィールドワークにおいて、風習に関して家族の口から頻繁に語られたことは、死者についてのものよりも、樹木と彼ら自身についてであった。 本論文では、まず死者のカルシッコを取り扱う土台として、フィンランドの宗教的文化的歴史背景を紹介し、先行研究をもとに死者のカルシッコの形成や変化について記述する。その後フィールドワークの情報を参照しながら、衰退の一途を辿る風習の現状を示し、死者のカルシッコの木と、ある家族の繋がりについて「エラマelämä」という言葉に着目し考察する。
著者
上田 哲司
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.99-118, 2022-03-25

近代の名望家に関する従来の研究では、彼らを近世の豪農層から連続する存在と理解する傾向が強かった。しかし近年では、近代になって新たに勃興した名望家がいることが確認され、改めて近代的な存在として名望家を把握しなおすことが提起されている。 近代的な存在として名望家の把握を試みた時、北海道は非常に重要なフィールドである。なぜなら、北海道の、特に内陸部においては、明治になって大挙して押し寄せた移民たちによって新村落の形成が相次いで行われたのであり、ここに登場した名望家たちには、近世以来の地縁的な連続性は一切ないからである。しかし、現在、北海道の名望家研究は量的に乏しい。それは、彼らが名望家としてよりも、北海道の開拓者として把握されてきたことが一因と思われる。 以上の研究史的背景を踏まえ、筆者は、北海道における名望家研究の事例を積み上げる必要を痛感した。しかし、そのためには、なによりもまず、名望家に関する史料を発掘しなければならない。そこで筆者は、北海道大学の関係者たちとともに、北広島市エコミュージアムセンターが収蔵する阿部仁太郎関係資料の調査に取り組んできた。仁太郎は、明治時代に豊平村(現在の札幌市豊平区)に入植し、近代的な名望家へと立身した人物である。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大のため、調査の中断が余儀ないものとなった。 そこで今回は、仁太郎の豊平入植以前の動向について、北海道立図書館・国立公文書館などの収蔵資料を用いて明らかにしていこうと思う。本稿においては特に、近代的な名望家となった仁太郎が、貧困層の出身であったことを明らかにする。この成果は、名望家と豪農は必ずしも連続しないことを、間接的に示すであろう。
著者
スクーチナ イリーナ
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.23-42, 2022-03-25

本研究は、17世紀にカムチャツカ半島を訪れたロシア側の探検家がまとめた資料を歴史的な背景を配慮しながらエスノグラフィーとして読むことによって、ロシア人は当時、カムチャツカ半島南端とカムチャツカに近い千島列島の島に居住していたクリル民族をどのように捉え、どのように表象したかということに焦点を当て、その意味と理由を考察することを目的とする。カムチャツカ半島は、17世紀の半ばにロシア帝国のコサックにより「発見」され、1697年にアトラソフの探検隊によってロシア領とされた。ロシアの一部となった他のシベリア地域のように、カムチャツカもあらゆる側面から調査の対象となった。もちろん、ロシア人はカムチャツカの先住民族にも興味をひかれたので、その身体的な特徴や言語、生活様式についても記述している。その先住民族の中の1つが、カムチャツカ南端と、半島から南に延びる千島列島の島々に住む「クリル人」とロシア人に呼ばれていた民族であった。19世紀の初めにその民族の姿がカムチャツカから消滅したが、カムチャツカを探検した人からの記述が少々残されている。その内の1つがコッサックのウラジーミル・アトラソフの『第一の話』、『第二の話』として知られている報告がある。本研究では特に『第二の話』を中心に、先住民族とロシア人との関係性、また先住民族に対するロシア人の姿勢を見ていく。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.19-38, 2021-03-25

本論は、1939(昭和14)年に始まった樺太庁の文化政策についてまとめた。樺太庁長官が主導していることから、政策化と事業を推進する組織作りは早く、研究活動の支援が行われている。この時期の樺太は、長期の拓殖計画が実施され、現地出身の青年層が社会を担いつつあり、独自の郷土文化を確立させようとする政策は住民の意思と合致し、それまでの郷土研究での成果が事業の展開を可能とした。本論はこの文化政策の経緯と、その成果からみる郷土像の形成について考察する。