著者
黒田 浩司
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.44-64, 2017 (Released:2020-07-20)
被引用文献数
1

本論文はSCT(Sentence Completion Test)の臨床的な活用についてまとめたものである。SCTは臨床家であれば誰もが知っている投映法であり、利用している臨床家も多いが解説書・実用書は少なく、研修会も少ない。SCT には多様なものがあるが最も多く活用されているのは精研式SCT であることや、投映法心理検査の中でSCT の有する特徴を論じている。さらに、SCT を施行する際に留意しなければならないことをまとめ、SCT を解釈する具体的な方法・視点について紹介した。最後に臨床例を1例示し、SCT を中心に理解を進める場合と、ロールシャッハ法や描画法と組み合わせたテスト・バッテリーを組んで理解する場合の実例を示した。
著者
西村 徹
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.50-43, 1997-12-10 (Released:2020-07-20)

企業内の研究所では、新技術・新製品開発が日夜進められている。この開発過程の中で発生する科学技術情報は、機密情報として、厳重な情報管理がなされており、簡単には社外に発表はできない仕組みになっている。そのために、企業では、いち早く科学技術情報を入手するために、「公開特許公報」を情報誌として重視し活用している。また、学会の年会等で配付される「講演要旨集」は、開催当初は情報価値が高いが、時間の経過と共に情報価値は落ちる。企業内技術情報が、オリジナルな、まとまった学術論文として、学協会等の学術雑誌に発表されるのは、長い時間を経過した後であり、情報としては古くなってからである。着想から発表までのタイムラグは、早くても数年を要しているであろう。
著者
劉 楠
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.13-29, 2021 (Released:2021-04-01)

研究目的は、1960~1970年代生まれの父親を対象に、稼ぎ主責任とケアする男性性から父親像を掴むことと、男性性による男性問題を明かにすることである。中国山西省出身の父親13名を対象にインタビュー調査を行った。結果、以下の点が明かにされた。(1)父親役割は、子どもの「方向性を示す灯台のような存在」であること。中国現代社会の情勢、例えば、コネを使い地位向上を果たすこと、社会の両面性(プラス面とマイナス面「腐敗」)について、父親は子どもと冷静かつ客観的に議論することによって、子どもにより客観的な世界観を持たせることができた。父親が方向性を示す役割を持ち、母親は生活面での世話を担うという棲み分けがはっきりしている。(2)稼ぎ主責任は子どもの数が多いほどその思いが強い傾向にあること。長男の結婚などにより高額なお金が必要となるような時には親戚などから借りることが多い。なかには、生活費稼ぎのためギャンブル等に手を染める父親の事例もあった。よって、男性問題の解決を目指すには、女性、子どもがよりよい暮らしをするためにも、男性を含めたコンクルージョンサポート体制の構築が急務と示唆される。
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.27-39, 1994-12-10 (Released:2020-07-20)

『心中宵庚申』の主題は中之巻・下之巻に表現されている。中之巻は平石衛門の家で、平右衛門の父親としての我が娘を思う諦観と意地更に願いが入り混じった複雑な親心を巧みに書いている。半兵衛は養父母の孝行・義理に自害しようとするが、ちよとの夫婦愛に生きようとする。中之巻の半兵衛ちよの夫婦の愛は下之巻において高められていく。下之巻は八百屋伊右衛門の家であり、姑・半兵衛・ちよの関係が語られている。姑とちよとは性格が違っており、理由なしに合わない。近松は姑と嫁ちよとの人間的本質性を問題にしている。半兵衛は姑に対して孝行するか、ちよと離婚するか姑に責められる。半兵衛はちよと離婚すると言う。しかし半兵衛はちよを愛しているので庚申の夜心中するのである。半兵衛は時代のモラルに生きようとするが、それ以上に愛に生きようとするのであり、愛の死が主題である。背後に仏教の信仰があり、封建制度に対する抗議がある。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.13-27, 2000

(一)で、「表現文化」と「ギリシアの演劇」とを関連づける課題を示す。(二)では、(1)「表現」は実体としてあるのではなく、人間の主体的享受過程を媒介にした現象として成立すること、(2)「文化」の「表現」には直示・共示が重層していることを例示する。(三)では、「表現」・「文化」を軸にして何らかの現象を扱う場合、(1)「表現文化」はその対象の大きさゆえに原理的に基礎論や方法論が整備され得ないため、「ディシプリン」として研究・教育が不可能だろうという問題点が予想されること。しかしその反面で、とくに(2)「表現」という概念は、研究の伽になっているような不要な概念を再検討するため、また従来の専門の枠を超えて自由に対象にアプローチするため、有効に機能する可能性があること。この二点を論じた。(四)において、ポリス・アテナイの「民主政につよく規定された文化」のなかに、ドラマ上演という「表現=行為」を位置づけるというアプローチが、ドラマのもつ文化=政治的アスペクトの理解において有効であること管見する。(五)には、いささか主観的な考えを述べた。
著者
鈴木 武晴
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-12, 1994

本稿は、萬葉集巻第十八に収められている大伴家持の「史生尾張小咋(ししやうをはりのをくひ)を教へ喰(さと)す歌」(前文・四一〇六〜四一〇九番歌)の長歌四一〇六番歌の「波居弖」の本文と訓について考察したものである。四一〇六番歌の本文は、伝来の途上損傷を受け平安時代に補修された蓋然性が高く、問題を持つ。「波居豊」も問題箇所の一つである。この「波居弖」の本文についての諸説のうち、「波」と「居弖」の間に「奈礼」の脱落があると見て「波奈礼居弖」(離(はな)れ居(ゐ)て)を萬葉集原本の本文と捉える説と、「波」は「放」の誤写であると捉 (ゐ)えて「放居弖」(放(さか)り居(ゐ)て)を原本の本文とする説の二つの説が有力候補として残る。そこで、その二つの本文のうちいずれが妥当か、「はなる」と「さかる」の語義・用法、文脈への適応、原文表記等の観点から詳細に検討した。その結果、誤写説の本文「放居弖」(放(さか)り居(ゐ)て)を原本の本文と推断した。この「放居弖(さかりゐて)」は反歌の表現の形成に作用しており、反歌第一首四一〇七番歌の歌い起こしの「あをによし奈良にある」の表現は、この「放居弖(さかりゐて)」を具体化した表現と考えられる。
著者
杉山 崇
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-15, 2005

近年、中流層が解体し始め、社会階層の分断化が進むことが予想され、その背景に労働市場の変化が指摘されている。分断化が進むことによって、新たな富裕層が誕生することも予想されるが、同時に新たに失業者、フリーターといった正規雇用職につけない階層が生じることも予想される。本稿ではこのような社会変動の影響で無力感、アイデンティティの拡散、自己批判、被害的な妄想観念などの問題が浮上してくる可能性を指摘し、これらの問題への予防的な対応としてキャリア発達カウンセリングの視点の重要性を強調した。
著者
山本 明歩
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-14, 2018

我々が言語を用いる際には一定数の言い間違えが生じる。これらの言い間違えは我々が言葉を創出する過程についてのなんらかのヒントを与えてくれる可能性があると考えられ、研究の対象となってきた(寺尾 2006)。例えば、寺尾が幼児の言い間違えに多く見られる要素として挙げている音位転倒は、幼児が一度に処理できる音韻要素の容量について多くの示唆を与えてくれるものである。しかしながら、文法などのより一般的な言語運用能力について考察する上では、また新たなアプローチが必要になると考えられる。そこで、本稿では発話に見られる「言い間違い」ではなく、映画の原稿に見られる非文を分析し、それによって文法構造の背景となる人間の認知パターンについての分析を試みた。その結果、様々な非文の中では主語の省略が最も多く見られたが、特に、主語が図ではなく地として機能する場合に省略が生じる傾向が見られた。つまり、本来の文章の一部を省略すること自体が、「その文章の中のどの部分に話し手の注意を引き付けたいのか」という話し手の意図を反映するものであり、例えば命令文に見られる主語の省略も、同様の機能を果たしているのではないかということが示唆された。
著者
深津 容伸
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-7, 2013

これまで日本人とキリスト教の主題について、キリスト教に焦点を当て、キリスト教が日本人にどう関わってきたか、今後どう関わるべきかを論じてきた。本論文においては日本人に焦点を当て、日本人の宗教観、宗教意識を探り、それらに対し、キリスト教はどのように関わりえるかを考察したい。日本人は古来から大陸からの影響を多大に受けてきたが、政治的に支配を受けることはなかった。そのためかどうかは定かではないが、原始宗教であるアニミズム・シャーマニズムの宗教意識を、今日に至るまで持ち続けている(外来の宗教である仏教もこれらと同化することにより土着することができた)。その結果、日本人は宗教意識の中には、呪いや汚れに対する恐れが潜在的に存在する。こうした日本人の宗教意識に対し、キリスト教はどのように関わってきたか、また関わりえるかを論じたい。
著者
山田 吉郎
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.33-43, 1998-12-10 (Released:2020-07-20)

立原道造は、詩人として本格的な出発を果たす以前の昭和六年、前田夕暮主宰の短歌結社白日社(機関誌『詩歌』)に入会し、一年ほど自由律短歌の創作を試みている。こののち立原は、短歌から身を引くのと踵を接する形で詩作に専念し、周知のように昭和詩史の上に清らかな独自の航跡を残してゆくのであるが、小稿は、立原の文学的生涯の中で初期の『詩歌』時代がいかなる意味を有するのか検討を加えたものである。当時の立原は、前田夕暮の散文集『線草心理』を耽読したと想像される。その『緑草心理』の感覚の美しさが若き立原にいかなる影響を与えたのかという点に焦点を据えて考察し、それをふまえた上で立原の自由律短歌作品の特質を分析した。死と虚無感の揺曳、夢と現(うつつ)のあわいを縁どる少年性といったモチーフをはらむ立原の文学世界を、現実的社会的側面を重視しがちな当時の短歌界の潮流や、さらにモダニズムの大きなうねりと対比させつつ考察を進めた。
著者
奥村 弥生
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.A59-A68, 2011 (Released:2020-07-20)

本研究では,情動の抑制と統制可能感という二つの次元から捉えた表出統制モデルを提示し,情動への評価との関連を通して検討を行った。大学生186名に質問紙調査を行った。分析の結果,怒りの場合は,統制可能感が高いと情動への否定的評価が低く,肯定的評価が高いことが示された。悲しみの場合は,男性の場合に抑制と統制可能感の交互作用が認められた。抑制が高い場合に,統制可能感が低い方(出せない)が高い方(出さない)よりも否定的評価が高いことなどが示された。これについて,各情動の特徴や性役割期待の影響という視点から考察を行った。以上の結果から,抑制と統制可能感による二次元表出統制モデルの有用性と,各スタイルにおける情動への評価の違いが示された。
著者
越沢 浩
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.156-139, 1995-12-10 (Released:2020-07-20)

The Longest Journey(1907)は、その作品としての評価が劣っていることは作者自身認めているのだが、書いたことを最も嬉しく思っている作品であるとも言っている。一つには作者の伝記的要素が非常に多いことがその理由であろう。この作品の英語は現代英語ではあるが、非常に分かりにくく、また、プロットが把握できない程に、人物の心理や情景の描写が詳細である。女性の描写が余りはっきりしないのは、作者のhomosexualityに起因しているかもしれない。とにかく非常に理解しにくい作品である。最初に梗概を述べ、次に主人公のRickieの友達であるAnsellの視点を追ってみた。哲学を専攻しているAnsellがHegelを読み過ぎたために、特別研究員の選考に失敗したことから、彼の物の考え方には当然その影響があると言えよう。「使徒会」の支配的な思想はG.E.Mooreの哲学であって、 MooreがHegelの哲学に反対していたことは当時の常識と思われるので、Ansellに関しての説明は思いつきではないだろう。 Rickieの運命に対するAnsellの見方はその立場から理解すると納得出来ると思う。少なくとも、自分にとって現在考えられる範囲において、この作品の意味が解明できる視点であると言える。
著者
渡辺 信二
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-28, 2020 (Released:2020-12-01)

高村光太郎の初版『智惠子抄』は、日本で最も多くの部数を売り上げた愛の詩集であると高い評価を受けているが、この論文は、『智惠子抄』が詩作品だけではなくて、短歌や思い出の記に当たるエッセイを含むことに着目して、『智惠子抄』を単なる詩集というよりは、むしろ、全体を「光太郎」と「智惠子」の愛の生活に関する一創作作品とみなす。その上で、そこに収録された殆どの詩作品が、日記圧縮版か、熱情の戯れ言、「心的衝動」や「エネルギー放出」の排出物であり、たかだか、詩もどきにすぎないけれども、唯一「レモン哀歌」のみが一人称と二人称を使い分け、作品中の時間を2重化することによって、作品構成上、及び、時間構成上、虚構となり得ており、その点で、高く評価に値することを示そうとする。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.121-146, 2017 (Released:2020-07-21)

E. M. フォスターの小説『眺めのいい部屋』(1908年)に、フィレンツェのサンタ・クローチェ寺院で、ジョットの壁画を前に、イギリス人牧師が同じ国から来た観光客に次のように語る場面がある。「この教会が、ルネサンスの汚染が現れる以前、中世のまことに篤き信仰心から建てられたことを思い出してください。このジョットのフレスコ画は、あいにく今では修復によって損なわれてしまってはおりますが、これらがいかに解剖学や遠近法の罠にとらわれずにいるか、ご覧ください」。当時のフォスター(を読むほどの階級)の読者には、この牧師の言葉が、中世美術礼讃者で(ありオックスフォード大学スレイド美術講座教授でも)あったジョン・ラスキンの『フィレンツェの朝:イギリス人旅行者のための手短なキリスト教美術研究』(1875-77 年)の安直な受け売りであることが分かったのではないだろうか。ジョットの壁画を、ルネサンス美術の嚆矢とすべきか中世美術最後の達成とすべきか、あるいは、それ以外の把握の仕方があるのか、私は知らない。しかし、ルターの神学が、 宗教改革という「汚染が現れる以前」の「中世のまことに篤き信仰心から建てられた」ものであり、 今私たちが当たり前だとするルター像は、もしかすると、プロテスタント(とくにルター派)の神学や教理史による「修復によって損なわれてしまって」いるのではないか、という疑問は当然あり得るだろう。『眺めのいい部屋』の牧師は悪役であるが、この疑問について、彼と同じように先学の著作の受け売りをするという悪役をつとめ、さらに、宗教改革に帰結したルターの「神学的突破」をもたらした「中世」的背景を、もう少し大きな窓から眺めるというのが、附論2での私の課題である。 受け売りなので引用が多く読みにくく、かつ講座参加者とのティータイムのトークで与えられた課題に長めの注で対応したりしたのでくどいエッセイではなってしまったのではないかと危惧するが、キリスト教の現状や人間の文化の来し方行く末について思いを廻らせる一助となればと念う。
著者
深津 容伸
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-7, 2009

筆者は先に「日本人とキリスト教」(「山梨英和大学紀要」第5号、2006年)において、日本におけるキリスト教のあり方の問題点について論じた。本稿では、山梨に視点を移し、さらに具体的に考察していく。山梨では、C.S.イビーが宣教師として初めて山梨入りをし、精力的にキリスト教伝道を展開した。そしてわずか三年という期間ではあったが、彼が山梨のキリスト教の基礎を築いたと言える。彼は、かつてジョン・ウェスレーが行ったサーキット・システムという巡回伝道の方策を独自に取り、山梨の各地に説教場を造り、それらの多くが現在、教会として成り立っている。県内唯一のキリスト教主義学校である山梨英和学院創立の原動力となったキリスト者たちも、それらの教会の一つである甲府教会の信徒たちだった。以上のように、彼は、山梨のキリスト教にとっては最重要の人物であるが、本国カナダでは必ずしも理解が得られず、山梨の伝道も、彼の思惑通りとはいかなかったと言える。本稿では、彼の苦闘や問題点を探ると共に、先の論文で提示した、日本人にとってのキリスト教のあり方について提起する。