著者
小林 奈央子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.57-78, 2019-09-30 (Released:2020-01-07)

日本の社会において、女性が行者の道を選ぶということは、さまざまな困難や苦労が伴う。五障や血の穢れといった女性を聖なる領域から遠ざける教えや慣習に伴う問題はもちろんのこと、その女性に家庭があれば、直ちに家庭生活、そしてそれに伴う女性に課されてきた性役割との両立の問題を生じ、修行生活の大きな障壁となる。その一方で、男性行者の場合は、同様に家庭があっても、その限りではない。つまり、そこには性別にかかわる差異や非対称性が存在する。そのことを明示的にしてくれるのがジェンダーの視点である。本稿では、女性行者を含む女性宗教者に関する研究の、中心的な担い手となってきた民俗学およびその研究手法に依拠した民俗宗教研究が、今日までそうした女性たちをどのように描いてきたかを批判的に検討する。そして、研究者や宗教者のジェンダーに対する意識改革の必要性と宗教教団が真にジェンダー平等を実現できる方途について論ずる。
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.69-91, 2007-06-30 (Released:2017-07-14)

本論は、近世の仏教思想家であった普寂の思想から、近世から近代にかけての大きな問題であった大乗非仏説の問題を考察する。普寂の大乗論を通して、近世仏教の思想的意義を示すと共に、近世から近代への思想史的水脈の一つを明らかにする。普寂の大乗論は、華厳の教相判釈にもとつく実践論である。普寂にとっての教相判釈は概念的な理論ではなく、自らが生きて実行すべき修行の道程であり、魂が何生もかけて上昇していく階梯である。普寂は、華厳の教理を理論的基盤として、教判を実践することによって、自らの内部においては大乗非仏説を大乗仏説へと転換させた。思想史的に言えぼ、富永仲基に代表されるような合理的思惟方法は、教判を生きる普寂の宗教性を生んだ。近世仏教における両者のダイナミックな連関は、思想史深部の水脈として近代仏教へと流れ込み、村上専精をはじめとする近代仏者の精神的基盤の一つとなった。
著者
津曲 真一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.127-148, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

何かに触れることは日常的な行為であるが、それが宗教的な文脈の中で行われると特別な意味を持つことがある。チベット仏教徒にとって接触という行為は、悪果の因となり得る行為であり、また好ましい結果を生み出す行為ともなり得る。彼らは行者の持物や賢者の舎利に触れること、或いは加持された事物に触れることで、様々な願望を成就することができると信じており、また観想実践を通じて意識の中に顕れた対象との接触を通じて、宗教的価値を実現することができると考えている。しかし一方で、チベット仏教の教義に於いては、接触行為および接触体験の虚妄性が強調されることもある。本稿はチベットの宗教文献に広くあたり、接触体験の教理上の位置付けや、宗教実践の中で行われる多様な接触行為について紹介しつつ、チベット仏教における接触の意義とその特殊性について考察を行うものである。
著者
松尾 剛次
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.169-193, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

本稿では、光明皇后垢すり伝説の変容とその背後にある叡尊・忍性らを代表とする叡尊教団による身体的接触をともなうライ者救済活動に光を当てた。また、叡尊教団によるライ者救済活動が文殊信仰に基づいていることを論じた。まず、鎌倉期から南北朝期に、光明皇后垢すり伝説において、垢すりの場が阿閦寺(の前身)から法華寺へと変化し、また、皇后の慈愛を試す仏が阿閦仏から文殊菩薩へと変化した伝承があることを指摘した。そうした変化はまさに、その時期にライ者救済活動を担い、法華寺をも末寺化し、光明皇后ライ者垢すり伝説を広めた主体であった叡尊教団による、と考えられる。また、古代・中世日本において浄・不浄観は重要な社会的な意味を有していた。ライ者は穢れた存在とされていた。それゆえ、ライ者との身体的な接触は穢れに触れる不浄な行為と考えられていたが、忍性らは、自分たちは厳格な戒律護持を行っており、穢れることはないと考えていた。
著者
松山 大
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.53-77, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

本論は、真宗の開祖、親鸞が二双四重の教相判釈において竪超を「大乗真実の教」と記述する事由の検討とその考察を主題とする。親鸞による経の領解方法は二双四重の教相判釈と呼慣わされているが、なかでも、『仏説無量寿経』から導き出される横超が真実であり重要であるとされる。それ以外の経は方便との位置付けが宗派内外で半ば常識である。だが、親鸞自身は『教行信証』「信巻」のいわゆる「横超断四流釈」において、聖道門に於ける頓教である竪超の経文について「大乗真実の教なり」と記述している。この記述さえも方便であるという、矛盾する理解がこれまで続いてきた。そこで本論において、一、菩提心釈と横超断四流釈での記述、二、『愚禿鈔』での記述、三、「化身土巻」真仮分判釈での記述、四、横超断四流釈後の便同弥勒の文における記述、以上の箇所での親鸞による教相判釈を吟味し、これまでとは異なる解釈の可能性を提示している。
著者
吉野 斉志
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.3, pp.27-51, 2022-12-30 (Released:2023-03-30)

本論では近年翻刻・公刊された西田幾多郎の「宗教学講義ノート」(一九一三~一四年講義)に基づき、時期の近い公刊著作『善の研究』(一九一一年)とも照応して、初期西田の宗教哲学の解明を目指す。西田によれば、一方には純粋経験の統一があり、他方にはその分化発展と自己限定により個物が成立する。そして究極の統一にこそ「神」あるいは「宗教的なもの」が求められる。この思想は「宗教学講義ノート」でも共通しており、西田が同時代の様々な宗教論や思想史に関する著作を参照しながら宗教思想に判断を下す論に、はっきりとその立場が現れている。また、『善の研究』の宗教論は「汎神論」を主張しているが、この論の背景も「宗教学講義ノート」を参照することにより、仏教が汎神論であるという理解と、その仏教を擁護する意図があったことが判明する。西洋の文献を渉猟し、その内在的な批判から独自の論を立てようとした「西洋哲学者」としての西田の姿が、この読解から明らかになるはずである。
著者
永岡 崇
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.143-166, 2008-06-30 (Released:2017-07-14)

天理教をめぐる従来の歴史的研究では、一八八七年に教祖の中山みきが"現身を隠す″と、親神への信仰によって結びつけられた共同体は合法的な宗教活動の道を探り、その過程で、国家権力への妥協・迎合が露骨に行われるようになったといわれてきた。こうした見方は一面では正しいが、国家協力の事例が強調される一方で、そうしたものの基盤となる、日常的な信仰の営みが見過ごされてきたのではないだろうか。本稿は、みきに代わって親神のことば=「おさしづ」を語り、信徒たちを指導した本席・飯降伊蔵を取り上げ、彼が「おさしづ」を語るにいたるプロセスを跡づけるとともに、信徒たちに注視される彼の心身や語りがどのように共同体を再構築し、信仰を再生産していったのかを明らかにする。伊蔵の「おさしづ」は、親神の意思として観念的に認められただけではなく伊蔵の身ぶりや声、病、語りのことば遣いなどが絶えずみきの記憶を喚起し、さらにそれらを変化させながら信徒たちの信仰を獲得していったのである。
著者
何 燕生
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.2, pp.81-108, 2020 (Released:2020-12-30)

「人間仏教」は太虚によって提唱された中国仏教復興のための指導理念であり、二〇世紀以来、中国本土はもちろん、海外の中国人社会における仏教の共通の思想である。本稿は、太虚およびその弟子の印順の主張を通して、「人間仏教」の思想とは何かについて、具体的に確認するとともに、「人間仏教」という理念の下に行われている台湾の仏光山や慈済会および東南アジアの中国人社会における実践活動を取り上げて考察することを目的とする。「人間仏教」の主張は仏教思想の近代的再解釈であり、その理念のもとに行われている活動は、いわゆる「社会参加仏教」に近い要素をもっている。しかし、「近代仏教」およびEngaged Buddhismなどの分析枠で捉えるには限界がある。本稿はそれらについて問題を提起し、中国語圏における歴史的社会的政治的文脈を重視する視点が必要であることを指摘した。
著者
村上 寛
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.669-691, 2011-12-30 (Released:2017-07-14)

本稿は、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete)及びその著作『単純な魂の鏡(Mirover des Simples Ames)』に対する異端審問における思想的問題について考察している。異端判決では一五箇所が異端箇所として列挙されたが、その内現在までその内容が伝わるものは三箇所であり、それぞれ徳理解、自然本性理解、神を巡る意図についての理解が問題視されている。その徳理解について問題となるのは、自由権(licentia)を巡る徳と魂の師弟関係の逆転、それに実践(usus)に関する理解である。自然本性理解については、身体と必要性という観点が考慮されるべきである。そして神を巡る意図については、慰めと賜物に関する理解及び「一切の意図が神を巡るものである」ことの意味が考察された。以上の考察によって、それらの概念に関するポレート自身の理解が明らかになったものと思われる。