著者
村上 寛
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.669-691, 2011-12-30

本稿は、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete)及びその著作『単純な魂の鏡(Mirover des Simples Ames)』に対する異端審問における思想的問題について考察している。異端判決では一五箇所が異端箇所として列挙されたが、その内現在までその内容が伝わるものは三箇所であり、それぞれ徳理解、自然本性理解、神を巡る意図についての理解が問題視されている。その徳理解について問題となるのは、自由権(licentia)を巡る徳と魂の師弟関係の逆転、それに実践(usus)に関する理解である。自然本性理解については、身体と必要性という観点が考慮されるべきである。そして神を巡る意図については、慰めと賜物に関する理解及び「一切の意図が神を巡るものである」ことの意味が考察された。以上の考察によって、それらの概念に関するポレート自身の理解が明らかになったものと思われる。
著者
木村 晶子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.345-368, 2003-09-30

平和の実現には、真の対話が必要である。フィリピンの状況においては、まずカトリック信者の間にあるイスラムに対する偏見や誤解、さらに強者の論理を取り除くことが必要である。また、これまでの対話はいまだキリスト教優位の姿勢が強いことを反省し、相互に聞き合い、ともにパートナーとして成長し、回心の道を歩むことが求められる。そして、単に理論的な対話ではなく、互いの信仰生活における霊的な交流を深め、ともに兄弟姉妹であるという意識を浸透させてゆくことが最も大切である。このためには、指導者レベルの対話とともに、イスラム教とキリスト教の信徒間の草の根運動やNGOなどによる民衆の意識改革、平和教育が必要不可欠である。このような運動の実践は根気と忍耐が要求されるが、このプロセスを経て相互に理解と受容が可能となるのではないだろうか。
著者
高橋 典史
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.953-974, 2009-12-30

近代以降、多くの日系宗教が海外布教を行ってきた。そこでは現地社会への定着だけでなく、出自国である日本との関係性をいかに定義していくのかも、重要な問題であったと考えられる。その一事例を提供するために、本稿では、一九世紀末から第二次世界大戦後の復興期までのハワイの日系仏教関係者の言説を取り上げて、ハワイ社会への定着過程にみられる故国と日系仏教をめぐるメンタリティの変遷を考察する。キリスト教勢力への対抗のため、一九世紀末からハワイ布教を開始した日系仏教は、二〇世紀前半の日米関係と排日論の悪化のなかで、日米の二つの国家に状況適合的に対応しながらハワイに定着していくことを志向していった。しかし、第二次世界大戦後は、日系アメリカ人のエスニシティと結びついたエスニック・チャーチとして存続していき、故国に関わる言説は減少していった。こうした定着のプロセスは、アメリカにおける他の移民たちの宗教と共通してはいるものの、故国との関係における日系仏教特有の性格も看過できない。
著者
落合 仁司
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.555-579, 2007-12-30

宗教の根本的な対象である神あるいは仏は伝統的に無限なるものと捉えられて来た。この神あるいは仏の無限を数学的な集合論における無限と捉え直すことによる帰結を解析する、それが宗教解析である。宗教解析において清沢満之の宗教哲学は避けて通れない。清沢は神あるいは仏を無限、われわれ人間を有限と捉えることにより、自力と他力の宗教の差異を鮮やかに浮び上がらせた。本論は清沢の無限、自力、他力等の概念を再構成し、それらを集合論における超限順序数、極限順序数、有限順序数の補集合等によって表現し、その帰結を解析する。結果として神あるいは仏の完備性(completeness)及び自力と他力の等濃性(equipotency)が導かれる。

1 0 0 0 OA 笑いと宗教

著者
柏木 哲夫 釈 徹宗
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.Suppl, pp.9-16, 2022-03-30 (Released:2022-06-30)
著者
上村 静
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.29-53, 2022-09-30 (Released:2022-12-30)

福音書のイエスはしばしば病人と接触しており、その中には当時のユダヤ社会において「穢れ」とされたツァラアト/レプラの人も含まれていた。本稿では、彼らとの接触を切り口に、イエスが「穢れ」と「聖性」についてどのような態度をとったのかを考察する。ヘブライ語聖書において、「聖性」は神の属性であり、それゆえユダヤ人は「聖なる民族」として「穢れ」を避け、「浄い」状態で生きることが求められた。ツァラアトの人は「穢れたもの」の象徴とされ、その病は神罰と解されていた。イエスは「穢れ」の問題を無視してツァラアト/レプラの人と接触した。イエスにとって神は「いのちを生かすはたらき」なのであり、律法規定が「いのちを殺すこと」になるならば、「穢れ」も「聖性」も無視すべき観念なのである。
著者
角田 佑一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.51-74, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

本論の主題は、曽我量深(一八七五―一九七一)の「日蓮論」における日蓮本仏論の構造を解明することである。曽我は近代日本を代表する浄土真宗の教学者である。彼は二〇歳代の頃、日蓮研究を行い、同時代の日蓮主義から影響を受けて、自らの日蓮理解を深めていった。曽我の「日蓮論」(一九〇四年)において、彼の日蓮理解はさまざまに変化するが、最終的に彼は「日蓮本仏・釈尊迹仏」の見解を示す。筆者の解釈では、曽我の述べる「日蓮本仏・釈尊迹仏」の基盤には以下のような構造があると考えられる。すなわち、日蓮が自らの罪悪と無力を自覚して題目を受持するとき、久遠実成の如来を自らの主体として認識し、「本仏」としての自覚に至る。そのうえで、日蓮は久遠実成の釈尊を客体として認識し、釈尊を「迹仏」であるとみなす。曽我の日蓮本仏論の特色は、日蓮の罪悪と無力の自覚、題目受持、「本仏」としての自覚が相互に深く結びついている点である。
著者
増田 友哉
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.27-49, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

本稿は平田篤胤(一七七六―一八四三・安永五―天保十四)の思想における、ウブスナ神という存在に注目し、篤胤の思想においてウブスナ神が担った役割を捉えなおす事を目的とする。その際、篤胤が近世社会におけるウブスナ神の受容から発展させた逸脱を捉える。また、篤胤のウブスナ神に関する語りを民俗や怪異の探求という視点のみで捉えるのではなく、篤胤が神話の解釈を基に創造したコスモロジーにおける、ウブスナ神の位置や役割を明らかにすることに本稿の目的がある。篤胤は世界生成の根源神であるムスビ二神の意志に基づき、オホクニヌシが人間の死後を掌り、そしてその役割をウブスナ神に委譲したと考えたのである。本稿の結論は、篤胤が近世人の日常生活に身近なウブスナ神を媒介として、自らを含む民衆一人一人の生死を、『古史伝』で創造したコスモロジーへと架橋することを可能としたということである。
著者
清田 政秋
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.1-26, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

従来本居宣長は仏教批判者とされ、また宣長自身が自らの学問への仏教の影響を語らないために、宣長研究は仏教を考慮外に置いてきた。それに対し漢学との関係は、宣長が京都で医学修行の基礎として学んだ関係からよく研究された。しかし宣長の学問は仏教と深く関連し、それを追究すれば宣長について従来とは異なる新たな知見が得られる。それは宣長にとって仏教とは何であったかの追究でもある。本稿は宣長の学問の出発点である「物のあはれ」説を取り上げる。「物のあはれ」説には膨大な先行研究があるが、まだ十分明らかになっていない問題がある。宣長は、その説は藤原俊成の「恋せずは人は心もなからまし物のあはれも是よりぞ知る」の歌がきっかけになったと語る。だが研究史では俊成の歌からいかにして「物のあはれ」説が成立したかは十分解明されていない。本稿はその成立に『摩訶止観』の心の有り様と感情をめぐる仏教の哲学的思考が関わることを明らかにする。
著者
陳 継東
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.862-888, 2011-03-30 (Released:2017-07-14)

一八九〇年代以降、中国では、仏教は近代国家の形成に欠かせない「宗教」として認識されるようになり、その社会的位置づけが大きく変動したことは注目に値する。多くの改革志向を持つ知識人は仏教を利用して、近代国家の樹立を目指した。これと同時に、仏教界からの社会変革への発信も強まっていったのである。本稿はこうした動きに焦点をあわせ、仏教がいかに再認識され、近代社会への転換に積極的に関わったかを明らかにする。具体的には、まず「宗教」という概念の形成過程を考察する。つぎに、近代国家の実現に求められる自立的な個人の確立と仏教との関係、それから文明と野蛮に峻別された国際秩序に抵抗し打破するために、仏教は果たした役割、さらに、清末中国のナショナリズムの形成と仏教の関係を明らかにする。