著者
深澤 英隆
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.205-212, 2022-06-30 (Released:2022-09-30)
著者
藤本 龍児
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.323-350, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

国家と宗教について考える際の基本理念は「政教分離」である、とされる。しかし、日本の「政教分離」は、欧米諸国のそれと比べて特殊な類型に属すと言わねばならない。しかも、欧米ではその理念じたいが見直され始めている。そこで本稿では、とくにアメリカの「政教分離」を中心に論じ、その思想的問題を明らかにすることを試みた。第一章では、まず日本における「政教分離」理解を、判例や学説を通して確認する。また、その特徴を明らかにするために、欧米における国家と宗教の類型を整理する。第二章では、世界で初めて憲法に「政教分離」を謳った、と考えられているアメリカの憲法についてみていく。ここでは、とくに日本の判例や学説に大きな影響を与えた「分離」原則について論じる。第三章では、一九八〇年代以降の変化について論じ、それまでに確認された国家と宗教にまつわる原理や原則、そしてその背後にある思想について整理し、その問題点を明らかにする。
著者
虫賀 幹華
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.1, pp.49-73, 2021 (Released:2021-09-30)

北インドのヒンドゥーの聖地ガヤーで行われる祖霊祭では、「男性・女性たちのための十六」という死者の救済のためのマントラが唱えられる。本論文は『ガヤーマーハートミヤ』(十―十一世紀頃)に掲載される同マントラを和訳した上で、これを池上良正が論じるところの「無主/無遮」の両側面を含む無縁供養であるとみて分析するものである。同マントラで供養の対象となるのは、「まつり手がいない(無主)」ことあるいは異常死を理由として葬儀が執行されないことによる苦しむ死者、生前の悪行が原因で生まれ変わり先で苦しむ死者、親族を超えた非常に広範囲の祭主の「縁者」たる死者である。異常死者や転生先で苦しむ死者と祭主との関係性の不問、輪廻思想による時空を超える対象の広がり、言葉を尽くした祭主との関係性の描写といった、このマントラなりの「一切衆生への平等な(無遮)」供養のあり方にも注目する。
著者
吉永 進一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.579-601, 2010-09-30 (Released:2017-07-14)

本論文では近代日本における神智学思想の歴史を明治から戦後の一九六〇年まで追う。最初に、ハネフラーフのエソテリシズム史やオルバニーズのメタフィジカル宗教史を日本の霊性思想史に適応できるか否かを、島薗進の新霊性運動における系譜論的議論と関係させながら論じた上で、構造的、理論的な定義ではなく、試論として歴史的な霊性思想のジャンルと特徴を抽出する。次に霊術や精神療法などの日本の霊性思想と類似したアメリカのメタフィジカル宗教について瞥見した上で、明治、大正期における日本への神智学の流入、ロッジ活動の失敗、出版での流布を紹介する。最後に三浦関造に焦点をしぼり、翻訳家から霊術家、そしてメタフィジカル教師への変貌の跡を追い、戦後の竜王文庫を通じてのアリス・ベイリーやドーリルといった神智学系グルの紹介と終末論的なオブセッションを論じる。
著者
牧野 静
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.3, pp.75-97, 2020 (Released:2021-03-30)

本論文は、宮沢賢治(一八九六―一九三三)が、妹トシ(一八九八―一九二二)の死に際して、国柱会の典礼をまとめた『妙行正軌』に従って追善を行おうとしたという見通しのもと、考察を行う。賢治はトシの通夜と葬儀に参列していない。これは『妙行正軌』が異教他宗の儀礼への参加を禁じていたためであり、賢治が国柱会会員としてのアイデンティティを強く保持していたことの証左である。次に、賢治がトシの死以前から『日蓮聖人御遺文』を手掛かりに法華経による死者の追善を主題とした創作を行おうとしていたことを確認した。そうして、賢治が『日蓮聖人御遺文』中の転生観に影響を受けつつ、トシの死後の行方を主題とする創作を行うも、トシの行方に確証が持てない過程を概観した。そののち、妹の死を経た兄が「すべてのいきもののほんたうの幸福」を追い求めるべきだとする物語である〔手紙四〕を配ったことも、『妙行正軌』の定める「教書」としての追善を意図したものだったと検証した。
著者
髙橋 秀慧
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.1, pp.127-150, 2021 (Released:2021-09-30)

本稿では、幕末維新期の政局に相対した寺院の動向を「生存戦略」と捉え、妙法院と智積院の陣所化の事例を中心に、西本願寺との比較検討を行い、横断的に考察する。まず、妙法院は、財政難から陣所化を積極的に受け入れたが、智積院は、学問所の機能維持を重視し、陣所化に消極的であった。次に、この事例分析を通じて、諸寺の生存戦略及びその実行プロセスには、近世的社会関係に起因する、寺院(宗派)の性格・機能や内部の「組織力」が強く影響していたことを指摘する。そして妙法院や智積院と比較し、西本願寺は、宗派内で教義的・宗教的権威を補完する独自の制度が整っており、門跡の格式と血統を備えた宗主がリーダーシップを発揮することができたと考えられる。さらに、こうした組織力は、生存戦略を進めるための意志決定や、それを実行に移すプロセスを他宗派よりスムーズなものにしたといえよう。
著者
佐藤 慎太郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.3, pp.701-722, 2005-12-30 (Released:2017-07-14)

本稿は宗教学の問い直し(「宗教学とはいかなる学問か」)の試みの一つとして、M・エリアーデの宗教学を考察の対象とするものである。特に彼はその研究における鍵概念として「聖なるもの」を置いており、この概念との関係からその視点を浮き彫りにすることを試みる。そこには近代西洋世界の救済への切迫した危機意識を看取できる。彼の宗教学においてはヒエロファニー論にしてもhomo religiosus概念であっても、最終的な帰結までもってゆけば、必ず近代西洋の問題に対してポジティブな可能性を開くものとして主張されていた。すなわち彼の宗教学には意味の次元の開示による、客観性や実証性という原理では取りこぼしてしまう、非聖化を迎えた近代西洋社会において果たしうる文化的役割がいわば確信犯的に強調されていることを確認する。
著者
伊達 聖伸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.531-554, 2007-12-30 (Released:2017-07-14)

フランスの政教関係を定めた「ライシテ」の原理は、いわゆる近代社会の基本的原則たる政教分離を最も徹底させたものだとしばしば見なされている。それを裏づけるように、フランスのライシテは、「アメリカの市民宗教」-教会から切り離されたユダヤ=キリスト教の文化的要素が政治の領域に明白に見て取れる-とは構造を異にすると分析されている。だが、この差異から、フランスでは政治の領域に宗教的次元が存在しないという結論が導けるわけではない。事実、研究者のあいだでは、ライシテ(およびこの原理に即した近代的な価値観)を市民宗教などのタームでとらえることの妥当性が問われている。本稿では、彼らの議論の一部を紹介しながら、市民宗教の五類型を提示し、ライシテがいかなる条件において、どのような意味での「市民宗教」に近づきうるのかを、ライシテの歴史の三つの重要な節目-フランス革命期、第三共和政初期、現代-におけるいくつかの具体例を通して検討する。
著者
江島 尚俊
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.3, pp.1-26, 2016-12-30 (Released:2017-09-15)
被引用文献数
1

現代日本において宗務課は、なぜ文化庁の、ひいては文部科学省の組織管轄下に位置づけられているのか。その端緒を明らかにすべく、本稿では文部科学省の前身である文部省が、いつ、どのような状況の中で宗教行政所管のための理論構築を行っていったのかを明らかにしている。最初に焦点をあてたのは明治一〇年代である。まずは、この時期に生じた文部省・内務省間の宗教学校所轄問題が、太政大臣の政治判断によって一応の決着をみたことを論じた。次は、社会・外交状況の変化でその所轄問題が再燃する明治二〇年代に着眼している。そこでは、文部省が内務省とは別に所轄問題の解決を模索した結果、宗教学校のみならず宗教行政をも所管しようとする理論を構築していたことを指摘した。そして最後に、新しく構築された宗教行政所管論の特徴について論じている。この所管論においては、従来の内務省のように社寺行政の延長で宗教行政を捉えるのではなく、美術行政と学校・教育行政の枠組でそれを捉え直し、宗教行政の文部省所管が主張されていたことを明らかにした。