著者
横田 理博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.789-811, 2009-12-30

西田幾多郎の『善の研究』がウィリアム・ジェイムズからの大きな影響のもとに成立したことは周知である。これまでの研究では、両者の「純粋経験」概念の共通性と異質性とが問題とされてきた。しかし、本稿は、従来の研究が「純粋経験」に関心を向けてきたがゆえに、西田とジェイムズとの本当の関係が見失われてきたのではないかという疑念のもとに、次の二点に光をあてる。第一に、両者は「神人合一」の「宗教的経験」という状態を宗教論の中心に置いた。とはいえ、ジェイムズの考察が経験科学的な宗教心理学の立場であるのに対して、西田は独自の宗教哲学を語ろうとした。第二に、科学の抽象性よりも現実そのままの豊かな光景を本質的なものとするフェヒナーの思想に両者は共感している。しかし、ジェイムズが「多元論」的立場をとるのに対して、西田は「一元論」的な立場をとる。
著者
杉本 隆司
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.51-74, 2010-06-30

「フェティシズム」概念の創始者ド・ブロスは、宗教の起源を論じた『フェティシュ神』(一七六〇年)の著者であると同時に、一八世紀に流行した言語起源論の論者でもあった。その書『言語形成論』の刊行は『フェティシュ神』の五年後であり、言語起源論への関心は宗教起源論よりも後にみえるが、実際は逆であり、彼の本来の主題は言語起源論にあった。本稿では、まずド・ブロスの宗教起源論を分析し、フェティシズムという概念が、一七世紀末からはじまる啓蒙思想の内部で開花した生得観念批判や、その時代の唯物論的・経験論的思考の文脈で形成された点を確認する。つづいて『言語形成論』の分析へすすみ、そこで主張された語源学の役割と、それの神話学への応用という主張を、彼の宗教起源論と突き合わせ、偶像崇拝ではなくフェティシズムという概念をド・ブロスに要請させるに至った、彼の語源学固有のロジックを明らかにし、この概念がもつ新たな射程を示す。
著者
黒川 知文
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.475-498, 2005-09-30

十字軍、レコンキスタ、フス戦争と近代以後に起きた諸宗教戦争は、宗派対立型、教派対立型、政治対立型に類型化することができる。その本質構造は、社会的危機、経済的危機、政治的危機、宗教的危機等の危機状態になった時に、宗教に民族主義が結合して、排他的教説が採用されると、排他的戦争へと変容するということにある。排他的教説とは、二項対立論と悪魔との「聖戦」論と終末における戦争論であり、キリスト教においては、その救済論と人間論と終末論から生起したと考えられる。民族紛争における宗教の要素は宗教戦争のそれとはかなり異なっていると推定される。
著者
大宮司 信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.339-354, 2006-09-30

本論文では、精神医学の領域でかつてもちいられ、今はまったく捨てられたロボトミーという治療技術の盛衰を通して、医療技術の忌避の要因について考えた。第一にあげられる点は、心や精神という人間それ自体と同義に考えられる対象に対する医療の適用への嫌悪感・拒否感である。第二は治療手法の非可逆性である。ロボトミーが捨てられた最大の原因は、取り返しのつかない後遺症をもたらした点である。第三は、医療技術の開発は目的に対応する計画的な準備だけでは不十分で、多彩でしかもまったく偶然的な要素の出現が、アミダくじ的に組み合わさって可能になるという、「医療のアミダくじ的な展開」という村岡の指摘である。抗精神病薬の登場は、ロボトミーをのこすか捨てるかという当時の議論をとびこして、必要としなくてよいとする決定因のひとつとなった。このアミダくじの一部を担いうるものとして、宗教は医療や倫理とはまた違った仕方で、視座を与えうると筆者は考える。
著者
浅見 洋
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.479-504, 2006

石川県能登地区で訪問看護師を対象に、在宅における終末期高齢者が表出した死生観に関する聞き取り調査を実施した。表出された死生観を含む言語はデータとしてコード化し、それらを質的に分析、分類した。分析結果を宗教学的視点から考察した結論として、(1)訪問看護師等の研修に死生観教育を取り入れることの意義、(2)地域における宗教文化の継承が死の準備教育としての機能を担っていること、の二点が示唆された。在宅での終末期療養は、病院・施設とは異なって、日常生活の延長上にある死への過程(生の過程)であり、ほぼ高齢者のそれまでの生活習慣や環境が持続されている。特に、能登のような地域では、伝統的な宗教的伝統や儀礼などを身近に意識しながら、在宅療養者は自然な死への過程を辿っていく。そこでは在宅医療関係者の献身的な努力とともに、現在も伝統的な宗教的・習俗的な死生観が高齢者の望む終末期を演出する一つの装置として機能している。