著者
出村 みや子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.135-161, 2019-09-30 (Released:2020-01-07)

教父のジェンダー理解を知る上で、教父文書が構成において高度に文学的かつ修辞学的であることを示したエリザベス・クラークの視点が有効である。本稿では正統信仰確立の過程でどのようにジェンダーバイアスが生じたかを三位一体論や反異端論争の事例を通じて考察し、次に創世記一六章の解釈に焦点を当てて考察した。教父たちは聖書解釈を様々な論争に効果的に利用したが、特に結婚と禁欲の価値をめぐる論争では、貞節な結婚は当時のローマ社会の男らしさの表明であり、厳格な性的禁欲主義はキリスト教の修道制が提示した新たな男らしさの定義であったゆえに、夫であれ、教会指導者であれ、女性が男性の指導下のもとに置かれることに変わりはない。他方でアレクサンドリアのクレメンスは、宗教教育における徳の追求には本性的に男女の差を認めておらず、こうした男女平等主義がローマ帝国におけるキリスト教の急速な拡大や女性の地位の向上につながったと考えられる。
著者
高橋 駿仁
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.105-129, 2018

<p>本稿の目的は、フランスの思想家ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルの神話論を検討し、その特異な理論が可能となった文脈を明らかにすることである。彼が自らの思想を大きく展開した十七世紀末においては、神話はただの誤謬とみられることが多く、学問の対象となることはあまりなかった。そのような時代において、彼は神話を哲学の産物だとし、積極的解釈をした。フォントネルは常に進歩し続ける「人間精神」とそれが拠り所とする「人間本性」とを想定し、既知のものから未知のものを想像するという本性を人間に想定し、神話もその原理に従って作られたと考えた。フォントネルがこのように神話を研究対象としたのは、それが人間についての理解を深めてくれると考えたからであった。フォントネルの思想からは神が追い出されており、神がすでに創造した世界における人間精神の活動を、彼は生涯一貫して追求していた。フォントネルの思想は人間のための思想であり、それは十七世紀のリベルタン的な思想と十八世紀の啓蒙思想をつなぐ重要な役割を果たしていた。</p>
著者
堀江 宗正
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.229-254, 2017

<p>二〇〇〇年代に入ってから主に英語圏の経営学で「職場スピリチュアリティ」をめぐって活発な議論が交わされている。本稿はその理論的展開と歴史的意義を明らかにするサーヴェイ論文である。この概念は経営者や従業員を対象とする調査から構築された多次元的概念であり、同時にコミュニタリアン的な徳倫理学の価値観のセットとしても提示される。その構成要素はコミュニティ感覚、従業員の疎外の改善、従業員の多様性の尊重、企業の不正への不寛容などである。だが批判者は企業中心主義、スピリチュアリティの道具化、従業員のコントロールの強化、カルトとの類似、訴訟の増大の危険を指摘する。一連の議論は経済活動と宗教を両立させようとする歴史的な試行錯誤のパターンを反映している。世俗化や近代化を生き延びつつ経済活動を支えてきたスピリチュアル資本の現代的な育成の形とも見られる。最後に日本で研究するべきいくつかの関連テーマについて展望を示したい。</p>
著者
大田 俊寛
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.603-625, 2007-12-30 (Released:2017-07-14)

ユングの思想と古代グノーシス主義の関係性は、これまで様々な仕方で論じられてきたにもかかわらず、未だ不分明なものに留まっている。その大きな原因は、グノーシス主義に関するユングの言及がきわめて曖昧であり、妥当性を欠いている一方、「自己の実現」という目的論や「善悪二元論」という世界観において、両者の思想がある種の共鳴を見せているからである。そこでこの論文では、ロマン主義の宗教論、具体的にはシュライエルマッハーとシェリングのそれを取り上げ、それがどのような点でユング思想の基礎と見なされ得るのか、また近代のロマン主義的パースペクティブを古代グノーシス主義へと適用することがどのような問題を発生させるのかについて考察してみたい。
著者
太田 裕信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.53-78, 2012

西田幾多郎は自身の哲学を「宗教」と密接に関わるものとして考えていたが、その「宗教」に本質的な契機として「罪悪」の問題がある。西田はその問題を初期から晩年に至るまで、親鶯やキリスト教の思想に触れながら度々論じている。本稿では、西田がこの「罪悪」の問題を「場所の論理」という存在論においてどのように考えていたかを論じる。西田は『哲学論文集第四』(一九四一年)において、キェルケゴールの『死に至る病』に書かれた「罪」の思想に共感しているから、本稿はキェルケゴールの思想との関係を論究の手がかりとする。西田は「罪悪」を単に道徳的な局面のものとしてではなく、「作られたものから作るものへ」と言われる自己の存在論的構造において考えている。より詳しく言えば「罪悪」を「対象的自己意識」と「意志」という二つの契機から考えている。そして、この問題は「逆対応」などの根本概念において表現されている西田の「宗教」思想の本質的な契機となっているのである。
著者
徳野 崇行
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.81-105, 2016 (Released:2017-09-15)

本論では、曹洞宗における「食」と修行との関わりを道元の説いた食時作法(じきじさほう)の伝統が受け継がれているとされる永平寺を例に検討する。食に関わる語彙を日常のそれと比較し、応量器を用いた僧堂飯台(そうどうはんだい)における儀礼や偈文、禁忌を取り上げつつ、料理を準備し、給仕する浄人(じょうにん)の所作に焦点を当てる。そして食時作法と呼ばれる一連の儀礼が食べ物や食器を聖化する役割を果たし、伽藍のもつ仏・菩薩—僧侶—鬼神という仏教的なパンテオンを身体化する営みとなっていることを明かにする。本論後半では、菜食と粗食という二つの意味を包含する「精進料理」という言葉の歴史を辿り、「精進料理」なる語が「他者表象」として用いられることで、食べ物と食べ方が一体化した仏教的な「食」のあり方から世界観や儀礼の多くを濾過して「料理」を抽出する役割を果たしたこと、近代以降は「日本料理の源流」の一つとされることでナショナリズムの文脈を帯びてゆくことを論じる。
著者
宮下 聡子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.67-89, 2006

ユングは古来の難問、「悪の問題」に、神義論とは異なる立場から答えようとした。ユングは「キリスト、自己の象徴」(『アイオーン』第V章)で、彼の見るところ「悪の問題」へのキリスト教の答えである「善の欠如」の教説を批判している。ユングによれば、この教説は「最高善」である神の被造物の中に悪は存在しないと説いているが、それは誤りである。神は「最高善」ではないし、そのような神の被造物として人間にも悪は具わっている。ユングはまた『ヨブへの答え』で、神を「対立の一致」にして「無意識」と規定し、「人間化」を欲しているとする。ユングによれば、神は「対立の一致」として善だけでなく悪も含んでおり、しかも「無意識」で自己反省を欠くため、悪の面が現れ出ることがあり得る。そして神は「人間化」を欲し人間に宿ろうとするため、悪は神と人間の関係において解決されるべき問題となる。ユングはこのようにして「悪の問題」に答えようとする。ここに、人間悪を徹底的に見詰め、しかも神との関連においてその解決策を探ろうとした、ユングの思想的格闘の成果を見ることができるのである。
著者
引野 亨輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.1-26, 2016

<p>明治期の日本社会に活版印刷をはじめとする西洋流印刷術が伝播すると、江戸時代以来の伝統的な印刷術は急速に衰退したとされる。しかし、仏教書のように専門性の高い本の場合、江戸時代から続く老舗出版社が、熱心な講読層をがっちり掌握していた。売れる部数だけ出版するという戦略にのっとる限り、老舗出版社が急いで活版印刷を導入し、大量複製や高速印刷の技術を身につける必要はなかった。もっとも、東京の仏教系出版社に注目すると、明治二〇年代にはいち早く西洋流印刷術を導入していく。それは、明治期の啓蒙思想家たちが自ら出版社を創業し、広く一般人にまで仏教教理を説き聞かせようとしたためである。他方、京都の仏教系出版社は、修行中の僧侶に向けて仏教経典の註釈書などを販売する必要があったため、木版印刷や和装製本を根強く使用し続けた。しかし、活版印刷や洋装製本によって大部の著作が縮刷印刷され始めると、その利便性が認められ、明治三〇年代を境として日本の伝統的な印刷術は衰退していった。</p>
著者
星川 啓慈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.377-401, 2013-09-30 (Released:2017-07-14)

神経生理学者ベンジャミン・リベット(1916-2007)たちは、手首を曲げるなどの随意運動における「自由意志」は脳内に準備電位が蓄積されてから約五五〇ミリ秒後で発現する、という一連の実験結果を発表した。この「自由意志は無意識的な脳活動の後から生じる」という衝撃的な実験結果は、多くの分野の研究者の耳目を集め、従来の決定論や自由意志論の解釈に大きな波紋を投げかけた。自然主義的傾向が強い研究者たちは、これを「自由意志の否定」と結びつけた。しかし、リベット自身は自由意志の存在を否定するのではなく、行為を「拒否/中断する」という特殊な形態においてではあるが、自由意志の存在を一貫して肯定した。その裏には、ユダヤ教信者としての彼の「自由意志を死守するという信念」が存在していた。さらに、彼は自らの実験結果と結びつけて「倫理体系としてのユダヤ教はキリスト教よりも優れている」とみなした。彼の神経生理学上の実験解釈や思索を決定づけたものは、ユダヤ教であった。