著者
デラコルダ川島 ティンカ
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.125-145, 2019 (Released:2019-09-30)

中・東欧の旧社会主義国では、かつて宗教統制がおこなわれていたものの、現在は宗教の多様化が進んでいる。ミサ参列率の低さにあらわれているように、組織宗教は独占的な立場ではなく、宗教の個人化傾向もみられる。聖地巡礼の盛行はこうした傾向を示しているものといえよう。本論では、ボスニア・ヘルツェゴビナの聖地メジュゴリエをとりあげ、巡礼における民衆宗教性について考察する。分析対象となるのは、スロベニアからのバス巡礼に参加した巡礼者たち、ツアー・リーダー、巡礼の経験者などである。巡礼者の動機や行動の観察を通じて明らかになったのは、巡礼者らが教会組織からの束縛を忌避し、自発的な宗教的体験を求める傾向を持っていることである。カトリックの公式な聖地ではないメジュゴリエの宗教的自由が、そのような巡礼者を惹きつけているといえる。絶対的な宗教的権威からはなれた個人的な宗教経験を求める姿は、スロベニアの民衆宗教性を示していると考えられる。
著者
柴田 大輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.269-295, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

現在のイラク北部を中心に繁栄した古代の領域国家アッシリアの王宮と国家神アッシュルの神殿は異なる組織によって運営されたが、両者は統治において一種の共犯関係にあった。王宮を中心とする行政機構によって統治された国土は、理念上国家神の所有とされた。その国家神は神殿において祀られていた(「扶養」されていた)が、この神の祭祀に必要な物資は、規定供物の制度を通じ、アッシリアを構成する全行政州によって共同で賄われた。さらに、規定供物の制度は、理念上で国家神の祭司を兼任した王の直属の人員によって統括された可能性が高い。
著者
脇坂 真弥
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.403-430, 2013-09-30 (Released:2017-07-14)

本稿はヴェイユの「科学と知覚」論文を検討し、後の「盲目的メカニズム」としての世界観やそこでの神と人間の関係を読み解くための準備とする。この論文で自らデカルト的懐疑を試みるヴェイユは、《力》を根源的な現象とし、人間と事物を《力》の結節点として理解する。人間は「想像力」においてこの《力》を自覚的に用い(=労働)それによって自分を世界の一部として見出す。ヴェイユによれば、「真の科学」は個人のこのような「知覚する労働」の延長線上にある《人類の知覚》である。人間をこのように《力》の網目の中に位置する存在として理解する一方で、自分を含むその世界をありのままに捉え、想像力を正しく用いて「労働」することにヴェイユは人間の役割を見る。このような理解は、必然性の冷酷なメカニズムに捉えられつつも、人間がこの必然性に自ら同意し「従順」であることによって世界の一部となるヴェイユの後の思想の萌芽だと言えるだろう。
著者
鎌田 東二
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.429-456, 2011

「ワザ(技・業・術)」とは人間が編み出し、伝承し、改変を加えてきたさまざまな技法・技術であるが、その中に呼吸法や瞑想法などを含む身体技法や各種の芸能・芸術の技法やコミュニケーション技術、また物体を用いる技法・身体を用いる技法・意識に改変を加える技法などがある。ワザは心とモノとをつなぐ媒介者であり、身体を用いた心の表現法でもある。「滝行」を含む諸種の「ボディワーク(身体技法)」は、「ある目的(解脱・霊験・法力・活力を得る・悩みの解除など)を達成するために、心身を鍛錬し有効に用いるワザ・作法・技法である」。宗教的「身体知」も、宗教的観念や宗教思想に裏打ちされながら、さまざまなワザを持っている。その宗教的ワザの一つとしての「滝行」に着目することにより、日本の宗教的身体知の独自性とそこに宿る「生態智」を掘り起こす。
著者
華園 聰麿
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.915-946,ii, 2005-03-30 (Released:2017-07-14)

日本における宗教研究の百年の歩みを、比較宗教学および宗教現象学の分野に限って見る場合、欧米の研究に触発されて、その基本的な概念や方法を吸収し、応用してきたというのが、大筋の展開である。研究の内容では、学説や概念並びに方法などに関する理論的研究や批評が目立ち、比較研究においては、研究の環境あるいは条件の特殊性にも制約されて、分類論や類型論を目指すものよりも、宗教現象に着目した比較研究に特色が認められる。このことは宗教現象学の分野においても同様で、豊富な宗教史の資料をもとに宗教の普遍的理解を追究するよりも、個別の宗教現象の意味や構造を解明する研究に独自のものが見られた。
著者
上田 閑照
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.1171-1199,xi, 2005-03-30 (Released:2017-07-14)

禅と西洋哲学との出会いから成立した日本の哲学として西田幾多郎と西谷啓治の哲学をとりあげ、どのような哲学が生まれ、その哲学において宗教がどのように理解されたか、そしてそのような哲学と宗教理解の特色と現代世界に対してもちうる意義を解明考究することを課題とする。元来禅と西洋哲学は単純に並べられるものではない。非思量の行である禅と高次の反省として西洋思想の動脈をなしてきた哲学との間には、質的な断絶がある。その裂け目に身を置いた西田と西谷において西洋哲学とは思索の性質を異にする哲学が成立した。西田で言えば、「実体」に代わって「場所」、「同一律」の基礎に「矛盾的自己同一」、「主観・客観」図式に代わって「主客相反するものの主客未分のところからの統一」、理性と感性の峻別ではなく、感性の中に働く理性、「神」の底に「絶対無」、近代的な「絶対的自我」ではなく「自己ならざる自己」。禅に触れたところからこのような哲学が成立する過程において、世界への禅の道を「禅思想」として開いた鈴木大拙の同道があった。以上のことは具体的な詳論を要する。
著者
浦井 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.79-104, 2018 (Released:2018-09-30)

田辺元(一八八五―一九六二)は、一九四四年夏の救済の体験を転機に、宗教哲学を中心とする思索を展開した。田辺は自身の宗教的救済を語る一方で、自分のことを無宗教者と表現する。本稿は、田辺が提示した「無宗教者の宗教的救済」という一見矛盾した見解に注目し、とりわけそれが「なぜ起こり得るか」について明らかにした。田辺が宗教的救済と呼ぶものは、特定の神や仏による救済ではなく、「絶対無即愛」という田辺独自の絶対者理解による救済である。その救済の内容は、個人が理性の二律背反に直面し、自身の無力を自覚することによって可能となる知と行為の性質の変化である。このような救済は、特定の神や仏に対する信仰を持っていなくとも起こり得るとされ、田辺は人から人へと「絶対無即愛」のはたらきが伝播すること(絶対媒介)によって可能となるとした。本稿では、田辺の絶対媒介についての見解が孕む問題点を指摘しつつ、「無宗教者の宗教的救済」の根本的契機を、社会における当為の二律背反に見出した。