著者
近藤 瑞木
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.19-28, 2006

近世の儒家思想は「怪異」の存在を否定していたわけではなく、むしろそれを論理化し、コントロールしようとしていた。儒家の思想に於いては、「徳」が「妖」に優越し、論理性をはみ出そうとする余剰な力は制御され、怪異が封建秩序を揺るがすことはなくなる。そのような思想を通俗的に普及していたのが「妖は徳に勝たず」の諺や、儒者の妖怪退治譚であった。本稿はこのような、儒家思想が近世怪談を抑圧する構造を検証するものである。
著者
清水 潤
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.9, pp.32-41, 2005-09-10 (Released:2017-08-01)

泉鏡花「龍胆と撫子」は「黒髪」と題して雑誌連載が始まったが、連載誌の変更や連載中断を経た後、前半部分のみが『りんだうとなでしこ』と題して単行本化された。この未完に終わった大作について、本論では複雑な成立過程も考慮に入れた上での作品読解の可能性を探る。成立過程での作品世界の変質や作中人物の役回りの問題(例えば、重要人物であるべき毛利が冒頭部分にしか登場しないこと)も検討しつつ、後期の鏡花文学の中での本作の存在意義を巡って再考察を試みた。
著者
山本 ひろ子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.5, pp.19-30, 1985-05-10

天皇制イデオロギーの一思想源流とみなされる北畠親房の三種の神器観念の生成過程を、研究ノート的な『元々集』から歴史叙述の書『神皇正統記』への展開の内に考察する。出発は中世神話的世界にありながらも、神器の問題を天祖-天孫の伝受の絶対的関係に限定することで麹房は三種の神器を天皇支配の正当性と道徳性の根源として定立した。それは神器がコスモロジーを離脱して国家神話の圏内にとりこまれていく構造を示すものであった。
著者
小助川 元太
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.11-20, 2015-04-10 (Released:2020-05-26)

高校時代に古文が嫌いだったという大学生は多いが、大学受験をしない生徒を含む現役の高校生になると、その数はさらに増えるであろう。その原因は様々であるが、突き詰めていえば、教室で読む「古文」に魅力がない、面白くない、というのが一番の理由であろう。ところが、「古典文学」というコンテンツそのものが今の若者にとって全く魅力のないものかといえば、実はそうでもないようである。たとえば、百人一首をテーマとした漫画『超訳百人一首 うた恋い。』などは高校生や大学生の間でかなりの人気を博している。実際には、現代を生きる若者の心にも響く魅力的な「古典文学」は多く存在しているのだが、教材として教科書に掲載できる(あるいは掲載を求められる)作品には、教育現場における制約(教育的配慮・受験への配慮、分量、配当時間など)があり、その種類が限られてしまうというのが現状である。今後「古典文学」の魅力を若者に伝えていくためには、今や若者たちと「古典文学」との唯一の出会いの場となっている、教科書の「古文」の内容や扱い方を見直していく必要があるのではないか。
著者
中村 格
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.3, pp.13-23, 1996-03-10 (Released:2017-08-01)

『教学聖旨』(明治12年)は天皇の公教育に対する最初の直接介入として注目されるが、楠公父子の物語はこの『聖旨』を忠実に反映した欽定修身書『幼学綱要』(明治15年)に大きく採り上げられ、以後、敗戦までの教科書において「尊王愛国」「忠孝一体」思想のプロパガンダに利用される。しかし、その影像は中世に生きた『太平記』のそれではなく、国教主義に基づく天皇思想から染め直された。"虚像"に過ぎなかった。こうした。"虚像"を幼童の「脳髄」に刻印していくところから天皇制教育は始まり、やがて「忠良」なる天皇の軍隊の思想的基盤を形成していくのである。
著者
櫻井 清華
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.4, pp.43-53, 2009

宇治の大君は薫の求愛を拒み通して死に至る。その死への道筋の解釈は先行研究によって様々になされてきたが、本論は、薫が大君のもとに押し入った際に大君の心内語として語られた「むくつけし」と「ねたし」の二語を鍵語として、大君がどのような思惟と状況にあって薫拒否という生存戦術を貫き通したかについて考察する。
著者
吉田 司雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.11, pp.54-68, 1999-11-10 (Released:2017-08-01)

菊池寛の『日本競馬読本』は、馬の血統、記録を研究する大切さを語ることで競馬を「ばくち打」の所業と峻別する一方、「情報信ずべし、然も亦信ずべからず」との名言をもって、勝ち負けを不可知的な領域に置いた。『日本競馬読本』刊行と同じ昭和一一年に結成された日本競馬会は、政府の言論統制を受ける形で一六年に機関誌「優駿」を創刊。多くの文学者の言説が競馬の文化的・不可知的側面を補完するようになった時期、中河與一「愛戀無限」や片岡鉄兵「朱と緑」においては、競馬の偶然性が物語の進行を円滑にすすめるための経済的原理として導入されていた。
著者
助川 幸逸郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.5, pp.44-54, 2012

<p>風巻景次郎は、文学作品の政治的・社会的背景に言及することが多く、その論調はときに「外在批評」と評された。そのいっぽうで、自身の「読過の印象」から立論をはじめている場合もあり、研究姿勢にぶれを感じさせる。この疑念を解く鍵は、私小説に対する風巻の激烈な批判である。風巻は、日本に真の近代小説が存在しないと考えていた。そして、真の近代小説が存在しうる社会的条件を解明し、この状況を打破したいと願っていた。じぶんのもとめる真の近代小説の像を克明に胸にいだいておくために、みずからの感性は捨てされない。とはいえ、理想の文学の存在条件にせまるためには、社会的背景に目をむけなければならない。風巻の「矛盾」には、彼なりの一貫性があった。</p><p>理想の文学を創作するのではなく、それが生みだされるための制度設計をすること――風巻にとって、文学研究者が何をなすべきかは明確であった。しかし、「真の近代小説」こそが「理想の文学」だと、現在の文学研究者はナイーヴに信じられなくなっている。こうした状況下にあって、文学研究者の使命はどこにあるのかを考えてみたい。</p>
著者
土屋 有里子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.12, pp.12-20, 2006

『沙石集』の作者無住は、天台密教についても相当な知識を有していたのではないか。無住と交流があったと思われる三河実相寺の住持であった無外爾然は、『阿娑縛抄』を成立後まもなく書写した人物であり、禅寺である実相寺において、『阿娑縛抄』の書写が行われていたこと、円爾弁円から台密栄朝流を伝授された白雲恵暁の灌頂の委細が、無住の天台密教理解の指標となり得ることを指摘した。
著者
石原 千秋
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.2-10, 2015

<p>「言語ゲーム」を、言葉と振る舞いのセットによって成り立っていると考えるなら、あらゆる「研究」は、言葉と祈りという振る舞いのセットで成り立つ宗教のようなものではないか。しかし、「言語ゲーム」を批判しながら「第三項」理論を構築する田中実も須貝千里も決定的な誤解の上に批判を展開している。東ロボが受けた東大模試の英語の試験に見られるように、コンテクストが「正解」をいくらでも作り出すことができる。これが文学を教室で殺さずに教えることではないか。</p>
著者
押野 武志
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.76-85, 2008

ネット社会の到来によって、本来出会う機会のなかった、モノ・コト・ヒトが瞬時に結びつくようになった。文学もまたこうした情報のフラット化と無縁ではいられない。文学の終焉を加速化したのがフラット化であり、サブカルチャーの台頭の要因でもあった。またフラット化と親和性があるのは、本格ミステリというジャンルでもあった。フラット文学は、高度情報化社会における同化と等価の論理の歪みや暴力性も映し出すことにもなった。
著者
山田 俊治
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.1-13, 1991

『書生気質』では様々な戯作の趣向が再生させられている。小町田の来歴を語る第二回や、兄妹再会が言祝がれる大団円などで、会話中に示されるべきストーリーが地の文に転換されて語られる趣向もその一つで、『梅児誉美』に見出せるのである。しかし、その手法に対する認識には、彼我に異質な方法意識を読み取ることができる。両者の差異を、テクスト外の言表行為の主体である<作者>の問題として捉え、具体的に考察しようと思う。