著者
中谷 いずみ
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.9, pp.36-46, 2004-09-10 (Released:2017-08-01)

従来、大正自由主義的な運動として、あるいは「児童中心主義」と評されてきた『赤い鳥』の綴方教育は、文学者による文章教育と学校教育現場における文章教育という二つの流れが合流した地点でもあった。本稿は、文章教育であったはずの綴方を創作的、文学的活動の成果と見なす言説空間の成立を追うと共に、『赤い鳥』に集った教師たちにとっても、綴方教育が創作的、文学的活動として存在していた点に注目し、考察したものである。
著者
岡部 隆志
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.1-10, 1999-05-10 (Released:2017-08-01)

記紀や風土記には、神婚の物語が多数含まれる。それらの神婚譚は、人々の幻想が生み出したものにせよ、神の妻として世間から認知される巫女の憑依体験が内在されていると考えられる。神の憑依にはレギュラーとイレギュラーとがある。イレギュラーの憑依体験は人間に「畏れ」を抱かせるが、その意味では、イレギュラーの憑依体験が、一般的な神の子の物語とはならない異類婚姻譚などの、人間の側の「畏れ」を内在させた物語を生み出す契機になっているのではないか。
著者
山崎 誠
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.7, pp.2-10, 2012

<p>「序」が長い歴史を持つのに対して、「跋」は新興の文体である。定義上の区別の曖昧な奥書・識語との混用の歴史を振り返りつつ、宋代に混用から脱して独立した文体の地位を得る題跋の姿を概括し、我が国中世文学へ移入されるさまを観察した。</p><p>古代から中世にかけての書物の末尾に付けられる奥書・識語が、依然「跋」との区別の曖昧な形を持つことを指摘して、文学史の問題点とした。</p>
著者
馬場 光子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.7, pp.23-32, 2007-07-10

朗詠・今様等の歌謡の実態は、残された記録、記録者のまなざしによっているといえる。本稿では、今様歌初出の『紫式部日記』とその後の官僚日記に今様と朗詠との関わりの差異をさぐる。ついで院政期承安四年九月今様合せの十三日の御遊を『吉記』『吉野吉水院楽書』『たまきはる』等に読み、とりわけ『玉葉』に書かれなかった記事に琵琶をこそ重んじる反「今様合せ」の意識をよみとる。そしてこの平安朝末期院政期の意識が逆に『梁塵秘抄口伝集』をこの世に残すことになったあやにくな流れをたどる。
著者
伊藤 佐枝
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.19-30, 2004-02-10 (Released:2017-08-01)

有島武郎『石にひしがれた雑草』は、<愛>という最も私秘的な感情が、既にその愛する相手自身との関係性によって介入され構築される場合を、<誘惑>というモデルケースで追究した作品である。この小説は三角関係を扱ったものとして「欲望の三角形」図式やホモソーシャリティと関連づけて論じられるが、男主人公「僕」は実はどの男に嫉妬するよりも自分を<誘惑>した女主人公M子自身に嫉妬しており、彼女をめぐってホモソーシャリティや「世間」に執着するのも<誘惑>の結果としてである。本稿は改めて「欲望の三角形」図式にこの事態を位置づけ直す一方、<誘惑される主体>というキーワードを用い、<誘惑>が個人の独立した行為というよりも関係性を表す概念であり、しかし或る行為を<誘惑>と決定するのは受け手個人の主観であるという<誘惑>のパラドックスから、『石にひしがれた雑草』の特質の一端を読み解く事を目指した。
著者
江藤 茂博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.12-19, 1989

「かんかん虫」の<私>は、文盲でないということで、他の虫たちとの差異性を示していた。それは、当時アメリカの移民制限の方法としての識字テスト実施と重ねても、有島武郎には大きな差異をイメージするものだった。そして、<私>と虫たちとのその違いを辿っていくと、一つには視線のあり方の差が顕在化する。虫たちのそれは「見据え」「見返す」ものであるのに対し、「私」の視線は虫たちのようなそれを与えはしない。この<私>と虫たちとの差異がもっとも明らかになるのは、ペトニコフが倒される場面であった。ここでは、物語時間の流れをゆがませ、<私>が事件そのものを視ることを回避させたのである。この、現実感覚とは異なった時間構成を生んだのは、作者有島にこの虫たちの「法律的制裁」を許容する論理がなかったからだ。この虫たちの暴力行為は、明治四十年七月のティルダ宛書簡などで示されているように、それを肯定できなかったのが当時の有島だったのである。その為に「かんかん虫」は、作品の内側では時間のゆがみをはらみながら、<私>の気分的な高揚で終わるしかなかったのである。
著者
高山 裕行
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.12, pp.70-75, 1985

太宰治「走れメロス」は、シラーの"Die Burgschaft"を下敷きとして書かれている。相馬正一氏をはじめ研究者諸氏がとり上げているその訳文は、木村謹治訳又は手塚富雄訳であるが、いずれも主人公は「ダーモン」である。では、太宰はどの翻訳を読んで作品化したのだろうか。それは小栗孝則訳「人質」(『新編シラー詩抄』所収)である。この訳文は主人公が「メロス」であり、本稿では小栗訳「人質」と「走れメロス」との関係を分析した。
著者
菊地 仁
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.9-17, 1996

古代末期から中世初頭にかけて、歌人がハレの場で時に失笑を買いつつも苦労しながら当座で名歌を即吟した、という説話が散見されるようになってくる。それらの和歌説話は、事実に基づくものであったにせよ、まったく事実無根のものであったにせよ、その即興的性格の強調だけは共通する。この種の説話は、構造的には神人問答譚というような話型と関わる一方、文学史的には「後悔」という歌病に対する再評価によって支えられている。
著者
青柳 隆志
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.7, pp.32-41, 2004-07-10

後崇光院伏見宮貞成(一三七二〜一四五六)は、さまざまな技芸に通じたが、「朗詠」もその一つである。松岡心平氏の指摘するように、貞成は「徳是」を中心に自ら朗詠を行ったが、貞成の郢曲の師綾小路信俊は老齢と後継者難のゆえをもって、貞成に源家朗詠の稀曲を教習し、家伝の『朗詠九十首抄』を書写せしめ、「朗詠秘曲伝受」を行った。その過程が克明に記される『看聞日記』の記述に拠って、中世における音曲の伝受過程と貞成の「朗詠」史における位置を探る。
著者
百川 敬仁
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.64-71, 1987

「文学における虚構」という問題を考えるためには、虚構という歴史的概念から吟味してかからねばならない。いま、人間の社会的共同性こそ根源的な虚構であるという観点を採るなら、日本では近世に至って虚構が虚構として露出するという事態がおとずれた。しかし近代天皇制という巨大な虚構の成立がこの危機を隠蔽し、今日に及んでいる。このことを問題としないかぎり、文学的虚構についてもはや語れない段階に私達は来ているのではないだろうか。
著者
勝原 晴希
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.40, no.10, pp.47-57, 1991

本稿は、一七〜二十世紀の言説空間を基本的に同質のものとみなす論証の一端として、自己自身との一致のために絶えず自己を超脱する運動と定義されたロマンティシズムを視点に採用し、白秋・朔太郎などの言説を鏡として、一八・一九世紀の歌論を扱った。真淵は仮構された原型を古代に見出し、宣長はこの原型を現在に据える道を開いたのであり、蘆庵・景樹・言道は超脱の運動を現在における時間的・空間的な差異に求めたのである。
著者
山本 啓介
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.9, pp.25-37, 2013-09-10 (Released:2018-09-11)

後柏原天皇時代の文亀二年(一五〇二)より、参会・披講を伴う晴儀の御会始が行われている。ただし、後年の御会始には、不参の者も少なくなかった。それは貴族達の困窮が一因であったとみられる。そうしたなか、内裏では参会・披講は行わずに、懐紙・短冊のみを詠進する形式の月次和歌も行われた。これは、比較的流動的な方法で懐紙・短冊に和歌を書いて提出するものであり、動乱期の状況下でも少ない負担で和歌活動を継続することが可能な形式であったと見なすことができる。