著者
古城 利明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.17, no.3, pp.39-54, 1967-01-30

It seems to be valid that the dispute about community power structure will end in the opposition of the competing conceptual schema of power elite versus pluralism. At the present stage of the dispute, the pluralist approach is getting the main current of those denying the dominance of a single elite and the pyramidical power structure, and perhaps the basis of its method is behavioral science. In this paper, I critically examine this approach from the viewpoint of the class approach. The Pluralistic power theory consists mainly of the following elements: (1) the establishment of political community, (2) the distribution and use of political resources, (3) the concept of power considered through participant behavior in decision-making and (4) the creed of democracy. At the bottom of these elements, the community theory founded on pluralistic social theory lies, and from it, the element (1) and (2) follow. Another crucial theory is the power theory from which (3) follows, and (4) is the political ideology underlying all elements.<br>But, several weak points are contained within this theory. Those are as follows: (1) the lack of consideration about relation between a community and the entire society, (2) the lack of structural analysis of community, (3) the preponderance of public agencies' power, (4) the non-conflict of power function etc. And those are basically result from the lack of class theory. To be exact political dominance in the pluralistic power theory is built on the illusion of voluntary concensus toward the common order among community membership. In view of historical development, there is rich soil today in America for the power-structure theory to be united with the class theory, and this is now developing. And yet, it is the question to be solved in the future.
著者
澤田 唯人
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.460-479, 2015

<p>精神科臨床では近年, 「境界性パーソナリティ障害 (Borderline Personality Disorder)」と診断される人々の急増が指摘され, その高い自殺リスクや支援の難しさが問題視されている (朝日新聞「若年自殺未遂患者の半数超『境界性パーソナリティ障害』 : 都立松沢病院調査」2010年7月27日). 本稿の目的は, こうしたボーダーライン当事者が生きる現代的困難の意味を, インタビュー調査に基づく語りの分析から照らしだすことにある. 見捨てられ不安や不適切な怒りの制御困難による衝動的な自己破壊的行為を, 個人の人格の病理とみなす医療言説とは裏腹に, 当事者たちはそれらが他者との今ここの関係性を身体に隠喩化した意味行為であることを語りだしていく. この語りを社会学はどのように受けとめることができるだろうか. 本稿では, これら衝動的な暴力や自己破壊的行為が比喩的な意味の中で生きられるという事態を探るうえで, 個人に身体化された複数のハビトゥスと, 現在の文脈との出逢いにおいて生じる「実践的類推 (<i>analogie pratique</i>)」 (B. ライール) に手がかりを求めている. そこに浮かび上がるのは, 流動化する現代社会にあって, 自己をめぐる認知的な水準の再帰性 (A. ギデンズ) よりも一層深い, ハビトゥスの移調可能性を再帰的に問われ続けた, «腫れもの»としての身体を生きる当事者たちの姿である.</p>
著者
芳賀 学
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.205-220, 2007-09-30 (Released:2010-04-01)
参考文献数
33
被引用文献数
1
著者
千田 有紀
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.91-104, 1999-06-30
被引用文献数
2

本論文では, 日本の家族社会学の問題構制をあきらかにする。家族社会学そのものをふり返ることは, アメリカにおいては, ロナルド・ハワードのような歴史家の試みが存在しないわけでもない。しかし日本の家族社会学自体が, どのような視座にもとづいて, 何が語られてきたのかという視点から, その知のあり方自体がかえりみられたことは, あまりなかったのではないかと思われる。<BR>日本の社会科学において, 家族社会学は特異な位置をしめている。なぜなら, 家族研究は, 戦前・戦後を通じて, 特に戦前において, 日本社会を知るためのてがかりを提供すると考えられ, 生産的に日本独自の理論形成が行われてきた領域だからである。したがって, 日本の家族社会学の知識社会学的検討は, 家族社会学自体をふり返るといった意味を持つだけではなく, ひろく学問知のありかた, 日本の社会科学を再検討することになる。さらに, 家族社会学は, その業績の蓄積にもかかわらず, 通史的な学説史が描かれることが, ほとんど皆無にちかかった領域である。そのことの持つ意味を考えながら, ある視角からではあるが, 家族社会学の理論・学説の布置連関を検討する。
著者
大野 光明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.415-431, 2016 (Released:2018-03-31)
参考文献数
50

本稿では, 「沖縄問題」がどのような力学のもと構成され, 変化するのか, そして, 人びとによって経験されてきたのかという問いをたてる. 具体的には, 沖縄の日本復帰直前の1970年代前半から復帰後の70年代後半の時期に焦点をあて, 宇井純 (1932-2006) が中心となり取り組まれた自主講座運動が, 日本本土と沖縄, そしてアジアの反公害住民運動をつなげ, 「沖縄問題」を提起した意味を検討する.復帰後の沖縄社会は, 「沖縄問題」をめぐる関心の減少, 沖縄振興開発計画に伴う開発の促進と観光地化, そして基地問題の非争点化という特徴をもつ. だが, 復帰後, 「沖縄問題」への関心を持続させ, 国家と資本, さらには両者の開発主義を受容する革新県政を批判したのが反公害住民運動であった. その特徴は, (1)沖縄への日本資本の進出を公害問題の実態に基づき批判したこと, (2)「沖縄問題」を日本本土との加害/被害や支配/被支配といった枠組みだけではなく, 遍在する公害問題をつなぐ形で再構成した点にある. 本稿は, 金武湾闘争を通じて反公害住民運動が, 国家と資本, そして革新県政による沖縄の問題化に対し, 別の政治の回路を開いたことを明らかにする.
著者
出口 剛司
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.422-439, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
28

これまで精神分析は,社会批判のための有力な理論装置として社会学に導入されてきた.しかし現在,社会の心理学化や心理学主義に対する批判的論調が強まる中で,心理学の1つである精神分析も,その有効性およびイデオロギー性に対する再審要求にさらされている.それに対し本稿は,批判理論における精神分析受容を再構成することによって,社会批判に対し精神分析がもつ可能性を明らかにすることをめざす.一方,現代社会学では個人化論や新しい個人主義に関する議論に注目が集まっている.しかしその場合,個人の内部で働く心理的メカニズムや,それに対する批判的分析の方法については必ずしも明らかにされていない.そうした中で,受容史という一種の歴史的アプローチをとる本稿は,精神分析に対する再審要求に応えつつ,また社会と個人の緊張関係に留意しつつ,個人の側から社会批判を展開する精神分析の可能性を具体的な歴史的過程の中で展望することを可能にする.具体的に批判理論の精神分析受容時期は,1930年代のナチズム台頭期(個人の危機),50年代,60年代以降の大衆社会状況(個人の終焉),90年代から2000年代以降のネオリベラリズムの時代(新しい個人主義)という3つに分けられるが,本稿もこの分類にしたがって精神分析の批判的潜勢力を明らかにしていく.その際,とくにA. ホネットの対象関係論による精神分析の刷新とその成果に注目する.
著者
竹中 均
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.386-403, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
29

従来,社会学と精神分析は対立関係にあると思われてきた.その理由の1つは,社会学が社会に関心をもつのに対して,精神分析は個人に関心をもつと思われてきたからである.だが,社会学と精神分析の本質的違いは,社会学がおもに構造の現状に関心をもつのに対して,精神分析は構造の始まりに関心をもつという違いにある.よって,社会学が構造の始まりに関心を向ける際に,精神分析の知見は役立つであろう.今後,社会学と精神分析が協力できうる主題の一例が,自閉症をめぐる諸問題である.自閉症は個人の脳の機能障害なので,社会学とは無関係のように見える.しかし自閉症の中心的な障害の1つは社会性の障害であり,社会学と無縁ではない.ところが従来の社会学を用いて自閉症を論じることは難しい.そこで,役立つ可能性があるのがジャック・ラカンの精神分析である.ラカン精神分析の基本用語の1つに「隠喩と換喩」がある.とくに隠喩は個人の社会性成立に深く関わる機能である.ラカン精神分析から見れば,自閉症とは隠喩の成立の不調である.じっさい,自閉症者は隠喩を用いるのが得意ではない.隠喩という視点を採用することによって,自閉症をラカン精神分析さらには社会学と結びつけることができる.このような試みは,今後,社会問題として自閉症を考えるうえで重要な役割を果たすであろう.

2 0 0 0 OA 記憶と場所

著者
浜 日出夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.4, pp.465-480, 2010-03-31 (Released:2012-03-01)
参考文献数
31
被引用文献数
1

近代社会は,均質で空虚な空間のなかに位置する社会がやはり均質で空虚な時間のなかを前進していくものとして自らの姿を想像してきた.そして,近代社会の自己認識として成立した社会学もまた社会の像をそのようなものとして描きつづけてきた.本稿では,「水平に流れ去る時間」という近代的な時間の把握に対して,「垂直に積み重なる時間」というもう1つの時間のとらえかたを,E. フッサール・A. シュッツ・M. アルヴァックスらを手がかりとして考察する.フッサール・シュッツ・アルヴァックスによれば,過去は流れ去ってしまうのではなく,現在のうちに積み重なり保持されている.フッサールは,過去を現在のうちに保持する過去把持と想起という作用を見いだした.またシュッツは,この作用が他者経験においても働いていることを明らかにし,社会的世界においても過去が積み重なっていくことを示した.アルヴァックスによれば,過去は空間のうちに痕跡として刻まれ,この痕跡を通して集合的に保持される.この考察を通して,時間が場所と結びつき,また記憶が空間と結びつく,近代的な時間と空間の理解とは異なる,〈記憶と場所〉という時間と空間のありかたが見いだされる.
著者
稲葉 昭英
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.214-229, 2002-09-30
被引用文献数
4

社会的属性とディストレス (抑うつ) の関連, および婚姻上の地位とディストレスとの関連を全国確率標本データから検討した.分析の結果, 若年層, 女性, 無配偶者, 低所得者にディストレスが高い傾向が示され, さらに配偶者の有無は男性のディストレスと大きく関連していた.婚姻上の地位をさらに細分化した分析では, 男性は無配偶者一般に高いディストレスが示されるのに対して, 女性の未婚者のディストレスは総じて低かった.また, 離別経験者を対象にした分析の結果, 男性の再婚者のディストレスが低いのに対して, 女性の再婚者はきわめて高いディストレスを経験していた.全般的には結婚は男性に大きな心理的メリットをもたらしていたが, 女性においてこの傾向は小さかった.この差異は女性によるケアの提供という社会的な性別役割分業によって生じているものと解釈された.
著者
京谷 栄二
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.224-235, 2011-09-30 (Released:2013-11-19)
参考文献数
69
著者
吉田 民人
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.260-280, 2004-12-31
被引用文献数
1

17世紀の「大文字の科学革命」に発する正統的科学論は, 物理学をモデルにして「法則」以外の秩序原理を考えない.この「汎法則主義」に否定的または無関心な一部の人文社会科学も, 「秩序原理」なる発想の全否定を含めて, 明示的な代替提案をしていない.それに対して「大文字の第二次科学革命」とも「知の情報論的転回」とも名づけられた新科学論は, 自然の「秩序原理」が改変不能=違背不能=1種普遍的な物質層の「物理科学法則」にはじまり, 改変可能=違背不能=2種普遍的な生物層のゲノムほかの「シグナル記号で構成されたプログラム」をへて, 改変可能=違背可能=3種普遍的な人間層の規則ほかの「シンボル記号で構成されたプログラム」へ進化してきたと主張する.<BR>この新科学論の立場から人文社会科学の《構築主義》を共感的・批判的に検討すれば, 第1に, 《構築主義》の争点とされる本質と構築の非同位的な2項対立は, 物質層の「物理科学的生成」と生物層の「シグナル型構築」と人間層の「シンボル型構築」という秩序原理の3項的な同位対立として読み解かれる.第2に, 言語による構築を認知 (ときに加えて評価) 的なものに限定して指令的な構築を含まない《構築主義》を「認識論的構築主義」と批判し, 認知・評価・指令的な3モードの構築を統合する「存在論的構築主義」への拡張・展開を訴える.一言でいえば, 《構築主義》は人文社会科学における〈法則主義との訣別〉へと導く理論だという解釈である.