著者
青木 淳
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
1995

本論は『像内納入品にみる中世的「結衆」の特質-快慶作例を中心とする結縁交名の総合的研究-』と題して、仏像の像内納入品資料の分析を通じて中世社会を構成した政治・思想・芸術などにかかわる宗教的共同体(「結衆」)の実態とその役割を解明することを目的とする。とくに本研究では、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師快慶の作例をとりあげ、その像内におさめられた夥しい数の納入品資料のうち、結縁文名(信仰者の連署名)の分析から、快慶の造像活動の背後にある勧進組織や職人集団による「結衆」組織の構造的分析を試みた。序章 本章では本論の中心資料となる像内納入品の史料的価値と研究の方向性を示した。従来の美術史や文学史の研究では、美術や文学における想像力を「個」の次元で理解するのが一般的であったが、中世初期に誕生した宗教・美術・文学などの運動においては、作者における「個」の問題もさることながら、いくつかの共同体を中心として形成された文化的・社会的事象が重要な役割を果たしたことを指摘した。 また、中世における「結衆」の祖型を古代の「緒」の組織、あるいは10世紀後半から11世紀前半にかけてのいわゆる摂関期の宮廷サロンやその周辺に発生した勧学会・二十五三味会などの宗教的共同体にもとめ、これらとの比較・対照を通じて中世的な「結衆」の性格について論じた。とくに従来の像内納入品研究の成果、および残された課題について具体的に指摘した上で、本研究により明らかにすべき問題点の所在を指摘した。第一章結縁の諸相 日本仏教における民衆化の歴史をたどるとき、さまざまな「結縁」をめぐる信仰の展開が重要な位置をしめる。 第一節「結縁の祖型」では文献的な基礎資料となる経典・祖師の法話・貴族の日記などより結縁に関する資料の収集を行なった。これらをもとに、人々の結縁の目的や手続きを語彙分析などの方法より事例別に分類し、結縁信仰の諸相を明らかにした。 第二節「金石史料より見た結縁」では、人々が「結縁」の行為を現実の「かたち」として認識する契機となった仏像の造立・写経供養・経塚建立などの際に添えられた銘文(金石文)をもとに、「結縁」の記事を年代を追って抽出し、整理した。ここでは、その記事を解析し「結縁」に纏わるデータベース-項目として年代・所蔵者[出土地]・内容[尊像別・書写経典別・埋納品別]・銘記法・願意・願主[施主]名・勧進僧の有無・結縁者数・公刊史料等をあげる-の構築を行なった。さらに結縁の目的について作例総数二百三十八をいくつかの項目に類別し示した。第二章中世的「結衆」の構図-東大寺僧形八幡神像の結縁文名を中心に- 本章では、治承4年(1180)12月、平重邊衡による焼き討ちで焼失した東大寺の再建にあたり、仏師などの職巧人がどのような役割を果したのか、その動向を像内納入品資料から探ることを主眼とした。とくに建仁元年(1201)東大寺八幡宮の僧形八幡神像の再興造立の場合を一つのモデルとして、その事業に関わった約百五十名にのぼる結縁者たちの「結衆」要因を「血縁的関係」「法線的関係」「地縁的関係」「職業的関係」などに分類し、そこに形成された結縁者相互のネットワークモデルを構築した。 この東大寺僧形八幡神像の場合、仏師の快慶が製作者であると同時に施主として関係していることから、この「結衆」の中心的な役割を果したものと考えられる。また結縁者に皇族をはじめ、東大寺・興福寺・比叡山・高野山などの僧綱に列なるものや、銅細工などの職人や芸能者の名が見えることに着目し、仏師快慶を中心とするさまざまな人間関係のネットワークを多面的に考証した。第三章中世教団の成立と造像信仰の展開 本章では、12世紀後半に成立した源空浄土宗における造像の問題を取り上げ、古代的な作善としての造像起塔を否定する立場をとった源空やその門下が、実際にはなぜ多くの仏像を制作したのか、という問題を中心に検討した。 ここではその背景として、従来の既成教団と異なり、いわゆる寺領荘園などの経済的基盤を持たない新興教団の経済的な問題が関係するのではないか、という仮説を提起している。基礎史料として仁治4年(1242)浄土宗西山派の開祖證空や後鳥羽上皇の子で天台座主道覺法親王が中心となって造立された京都府・大念寺阿弥陀如来立像、文暦2年(1235)澄憲・聖覚ら安居院流唱導の祖師たちの結縁した滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来立像の結縁交名を用い、初期浄土宗教団の組織と布教の背後に形成された勧進組織と信仰者たちのネットワークを明らかにした。第四章像内納入品にみる中世の祖霊信仰 本章ではに中世前期、すなわち源平の争乱と前後して造立された東大寺南大門金剛力士像京都市・遣迎院阿弥陀如来立像などの像内納入品の分析を通じて、中世の造像信仰とそこにあらわれた祖霊追善の問題について検討した。とくに前者からは歴代の村上源氏の名が発見され、この造像と時をほぼ同じくして頭角をあらわした源通親のクーデター(建久七年の政変)との関係を示唆した。また後者からは壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門二名の名が確認され、これら一連の快慶による造像が当時の社会状況と密接な関係にあったことを指摘した。さらにここでは建礼門院の出家に際して戒師を勤めた大原上人湛〓や、南都において斬首された平重衡の首を高野山に納めた重源らが結縁しており、中世の勧進聖たちがその募縁手段として各地で造像結縁をすすめる一方で、『平家物語』などの創作に関係したことをこれらの像内納入品資料より明らかにした。結章 以上全四章にわたる論証を通じて本研究では以下四つのネットワークモデルを構築し、その実態を明らかにするとともに中世における「結衆」の文化についての提言を試みた。1)鎌倉時代の東大寺復興造営においては、重源を中心とする大勧進細織が独自の職巧人集団などを含む共同体を形成し、その組織下に東大寺に関係の深い皇族・貴族(村上源氏など)や鎌倉幕府、あるいは東大寺・醍醐寺・仁和寺・神護寺などの僧侶と、彼らの血縁関係や法縁関係にある人々を含めた「結衆」の組織が協調関係を結ぶことによって、その経済的な基盤を支えた。また勧進集団は東大寺内の再興造営における造像起塔の多くを、特定の武家や公家などの権力者に奉行させることにより、資財・資金の調達の円滑化をはかった。(パターン1:「東大寺復興と共同体モデル」)2)重源による播磨・周防・伊賀などの別所経営では、在地からの造営料を東大寺に集中する一方、各地方の別所では大念仏の興行や迎講などの信仰儀礼、あるいは施湯などの結縁儀礼や社会事業を通じて教化し、勧進活動を活化させた。また別所における造像活動の多くは地域の人々の結縁によるもの(地縁結合)を中心として、勧進の手段としての造像が行なわれていたことを明らかにした。(パターン2:中世像内納入品にみる「結衆」と勧進の基本 構造 1180-1215)3)重源や明遍が深く関係した東大寺並びに高野山の勧進事業では、仏師の快慶が常に行動をともにしており、快慶のはたした役割の大きさを察することが出来る。また、快慶作の京都市・遣迎院阿弥陀如来立像などからは『平家物語』の成立に間係したと目される藤原通憲の一門や葉室家の一門等の結縁が複数確認されたことにより、『平家物語』の成立に東大寺の勧進組織が深く関与していたことを明らかにした。(パターン3:『平家物語』の成立に間係する「結衆」の捕造1180-1230)4)東大寺復興造営が終束すると、多くの職巧人たちは失業し分散したが、彼らは引き続き、源空浄土宗教団や親鸞の真宗教団などに吸収されたものと考えられ、そこにも彼らをネットワーク化する組織の存在がうかがわれる。こうした実態は快慶工房の作風を示す滋賀・玉桂寺阿弥陀如来立像(源空の追善造像)、京都・大念寺阿弥陀如来立像(證空関係の造像)、奈良・興善寺阿弥陀如来立像、滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来立像(浄土宗諸行本願義系の造像)等の作例から確認された。(パターン4:中世浄上宗教団の成立と勧進組織の関係 1180-1280頃)
著者
阿部 新助
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2001

本論文は、流星および流星発光後に長時間輝くクラウド(永続痕;persistent trains)の未解明の発光過程について分光学的手法で観測的研究を行い 発光物質、励起温度、発光メカニズムなどについて明らかにした研究である。 「流星」とは、サイズがmmから数cm程度のダストが、秒速数10kmという高速で惑星間空間から地球大気に突入する際に、地球大気との衝突によって発光する現象である。発光高度は約100kmの電離圏(中間圏、熱圏)で、最小ダストの直径は0.1mm、質量にして1μg程度である。流星の中でも特に母天体が彗星や小惑星であるものを群流星と呼び、母天体から放出されたダストが形成するダストチューブの中を地球が通過する際に流星群として多数の流星が観測される。母彗星であるTempel-Tuttle彗星が逆行軌道のため、対地速度が最も速い(~71km/s)惑星間空間ダストの一団として観測されるのが「しし座流星群」である。「しし座流星群」の1時間あたりの流星数をみると、数百から数千、時には数万に達するいわゆる「流星雨」と呼ばれるような出現数も過去に記録されており、母彗星の回帰周期に伴い約33年毎に観測されてきた。私は、「しし座流星群」という希少な現象を確実に捕える目的で、7ヶ国から約30名の研究者達が集ったNASA主催の国際航空機観測ミッション(Leonid MAC)に1999年11月に参加し、主に分光観測を行ってきた。私が用いた分光装置は、370nmから850nmの帯域をカバーした光電子増倍管(I.I.)付のモノクロ・ハイビジョンTVカメラ(II-HDTV)に対物グレーティングを装着したもので、これまで観測が難しかった近紫外域(370-400nm付近)にピーク感度を持ち、更にデジタル10ビットの高いダイナミックレンジも備える全く新しい独創的な観測装置であった。国立天文台には、デジタル・ハイビジョンデー夕のコンバート処理を行う施設がないため、通信総合研究所や、民間の研究所の協力を仰ぎ、解析データの準備段階からかなりの労力を要した。データ解析に際しても、多数の原子分子が折り重なった複雑な流星の輝線スペクトルの同定、物理量の導出の精度を上げる目的で、シンプレックス法を用いた波形処理を流星スペクトルへ適応させるなどの新たな解析手法も確立した。今回、解析に使用したのは、クオリティーの高い「しし座流星群(Leonid)」3イベント、および偶然観測に捕らえられた[おうし座流星群(Taurid)」1イベントの計4イベントのスペクトルである。Leonidスペクトル中のFeとMgの時間変化は、地球大気成分の発光である酸素原子と同様のプロファイルを示すが、Naはこれらの物質よりも高高度で光始め、急速に減衰していくことが分かった。これは、超高速突入のため、より揮発性の高いNaから蒸発したことによる。一方、TauridのNaは、Leonidと異なるプロファイルを示し、FeやMgと同様の変化を示した。これは、地球突入速度の違い、あるいは、惑星間空間を周回する間にNaが減少した事に起因すると思われる。また、Tauridスペクトル中のFe/Mgアバンダンスは、Leonidの約2倍も高いことから、Tauridの母天体であるエンケ彗星は、より岩石質な天体であることが推察できる。エンケ彗星は、周期が3.3年と短いために太陽によって表層の揮発性物質がかなり失われた天体であることが予想される。これまで流星の励起温度は、550nmより短波長の金属輝線を使った温度平衡モデルで説明されてきたが、更に私は、対地速度が速い流星で現れるポテンシャル・エネルギーの高い分子に着目し、金属輝線の少ない長波長側(600~800nm付近)に観測された窒素分子のfirst positiveバンド(B3Πg→A3Σ+u)について、分子モデル計算を介して電子、振動、回転温度を決定した。その結果、電子 - 振動温度はともに、Te,v=4,500K±500Kとなり、鉄輝線で求まる励起温度、T=4,500±300Kと非常に良い一致を示した。この事は、熱平衡モデル近似の妥当性を示している。一方、初めて流星中の回転温度を試みたところ、Tr=2,500±500Kという温度が得られた。これらの振動-回転温度の差異は、化学平衡が十分に達成されず、厳密には温度平衡状態にはないことが示唆される。今後、分解能を上げた観測を行えば、更に詳細な議論が行えるであろう。流星の母天体である彗星は、太陽系が形成された当時の物質を閉じ込めた始原的な天体であると共に、惑星間塵や地上で採取される隕石(炭素質コンドライト)などの供給源とも考えられている。しかしながら人類は未だ、物質分析的にその起源を彗星と証明できる微粒子を持っていない。流星観測は、「地球大気を巨大なダスト検出器」に見たてた「地球に居ながらにしての彗星・小惑星探査」ともいえる。ハレー彗星探査で、C,H,O,Nが豊富に存在している事が明らかになった事から、彗星物質(流星)には耐火性有機炭素が豊富に含まれ、それらが地球に供給されている事が指摘されているが、未だにその証拠な無い。私は、彗星コマ中で近紫外線の非常に強い輝線として観測されるCN分子(B2Σ+→X2Σ+)のモデルスペクトルと、流星スペクトルの近紫外部を比較する事から、CN分子の宇宙起源説の検証を行った。地球突入速度の遅い「おうし座流星群」の“光初め゛に、CN分子と思われる超過が認められたが、鉄輝線などのコンタミもあり更に慎重な議論が必要である。 「流星痕」とは、極めて明るい流星(火球)の流れた後に数分以上も残る輝くガス雲である。常に宇宙空間からエネルギーの供給があり輝いているオーロラなどと異なり、永続痕は一度だけの流星の衝突エネルギーだけで長時間輝き続ける。この長時間輝き続けるメカニズムが未解決であった。出現予測が全くつかない希少な現象にあるため、永続痕がどのような物質で構成されているかでさえ明らかにされていなかった為、私はこの突発天体現象を確実に捕えるための携帯式の分光器システムを製作した。「しし座流星群」は対地速度が大きく、大気との衝突で解放されるエネルギーも大きいため、流星痕が発生する確率が最も高い流星群である。その結果、1998年「しし座流星群」に伴う“流星痕の分光観測に成功し、これまでにない高いクオリティーのスペクトルを得ることができた。解析の結果、初期(流星消滅後約30数秒後まで)の永続痕には、マグネシウム、鉄が最も多く含まれ、次いでナトリウムやカルシウム、アルミニウムなどの金属原子が豊富に含まれている事が明らかになった。原子スペクトルのモデル計算を行い物理量の導出を試みた結果、初期(流星消滅後約20秒後)永続痕の励起温度は2,200Kという高温状態であることが明らかになった。しかし、流星消滅後約30秒後には約1,000Kへと急激にクーリングされ、40秒後にはもはや顕著な原子輝線はなく、600nm付近をピークに持つ分子バンドが支配している事が明らかになった。永続痕本体(0次光)の時間変化の比較から、クーリングが卓越した状況が推定でき、熱エネルギーが光エネルギーに何ら関与しない、化学ルミネッセンスが放射過程に効いていることが推察できる。流星起源のFe、Mg、Naと地球大気起源の酸素原子による反応で、高励起状態の分子(FeO,MgO,NaO)が生成され、長時間の発光に関与しているものと思われる。
著者
青山 宏夫
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
総研大ジャーナル
巻号頁・発行日
pp.12-17, 2001-03-31

準備号編集担当:白石厚郎
著者
李 偉 リ イ Wei Li
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2008-03-19

江戸時代前期の大名庭園に関しては、後の時代に比べて必ずしも必要十分な史料がない<br />場合が多く、庭園史研究を十全に行う上で史料的制約があることは否めない。ゆえに、大<br />名庭園に関して歴史的にも空間的にも不明瞭な点が多いことから、未だに歴史的、造園史<br />的な価値や評価が定まっていないのが現状である。<br /> 日本庭園研究における空間構成の解釈に目を向けると、従来の日本庭園の空間様式に関<br />する研究は、庭園内部の景観と利用の面に論点が集中してきたといえる。それゆえ、園景<br />の細部まで詳細な分析がなされたものの、庭園の景観構成に含まれる藩主の理想といった<br />個人性の影響や、さらには庭園内外の景観を調和するために工夫されたということについ<br />てはそれほど注目されてこなかった。つまり、大名庭園の空間構成を「眺望」という視点<br />から評価する研究はほとんどなかったといえる。<br />本論文では、大名庭園の空間様式をそれに伴う自然や建築空間、人間の心理的空間にま<br />で広げて総合的な考察を試みた。従来もっぱら庭園内部の景観に向けられていた研究の視<br />点を、外部空間へと転換させ、大名庭園の眺望景観に注目し、大名庭園における眺望景観<br />の特徴および変遷を検討することによって、それを導いた社会的、文化的要因にまで考察<br />を進めた。<br /> まず江戸時代における眺望の特質を浮き彫りにするために、庭園の眺望に関する研究史<br />をたどってみた。その結果、各時代の建築様式や、庭園空間の利用法の違いにしたがって、<br />庭園と外部空間とのつながりの姿勢も変貌を遂げていたことが判明できた。庭園の眺望は<br />常に変化発展する過程として認識すべきだと考える。<br />大名庭園における眺望を歴史的に位置付けるために本論文では、庭園の眺望を以下のよ<br />うな3つのカテゴリーに分けて考察を進めることとした。<br /><br />&#9312;たんなる眺望一園外景観を観賞の対象として認識しない、背景である。<br />&#9313;意識的な眺望一園外景観を観賞の対象として認識する。<br />&#9314;借景一園外景観と園内景観を調和させ、一体化した園景として表現する。<br /><br /> そして、江戸時代の大名庭園における「眺望」の特徴を代表的大名庭園の景観構成の考<br />察によって検証を試みた。<br /> 草創期の大名庭園の「眺望」に関しては、江戸初期の代表的造園家である小堀遠州の造<br />園思想を考察した。その結果、今まで指摘された江戸中後期から盛んになってゆく眺望の<br />手法は、すでに江戸初期の遠州の造園主張にその成立の基盤ができていたことがわかった。<br />遠州好みの眺望景観は高い楼からの眺めではなく、木々の間を通して見る眺望、「見え隠<br />れの眺望」の手法が好んで行われたと見られる。<br /> 大名庭園の空間構成は、前時代の庭園様式を受け継ぎながらも、新たな特徴を創造した。<br />江戸で代表的な大名庭園の空間構成について、水戸藩の小石川後楽園、紀伊藩の西園、尾<br />張藩の戸山荘を選出して考察を行った結果、いくつかの特色ある眺望への姿勢が見出だせ<br />る。<br /> 小石川後楽園については、初代藩主頼房との親交が厚かった儒者たちによる漢文史料に<br />注目し、その解読によって初期の景観復元を試みたところ、眺望に関する意外に多くの記<br />述が見られた。初期の後楽園は閉鎖的空間構成に加えて、周囲の景観の眺望も造園上に重<br />要な役割を果たしたことが指摘できる。そして、第一の眺望地点が小廬山であったことが<br />文献より推定された。江戸中期以後、眺望行為が強く現れるのは既往研究の解釈である。<br />だが中期を待たずに初期後楽園に眺望景観を意識的に愛でる意図がすでにあったことを指<br />摘した。後楽園の眺望は園内から直接遠景を観賞するのではなく、松の葉を通して、「見<br />え隠れの眺望」が好んで用いられたことが指摘できる。<br /> 西園の空間構成にも「眺望」の意匠が強く込められていたことが明らかになった。「眺<br />望」行為が園内の複数の地点で行なわれ、特に「望嶽亭」からの富士山の遠望は西園を特<br />徴付ける景観であった。額縁のような表現を用いる人工の「窓」を通しての眺望手法は<br />「窓含西嶺千秋雪」という、いにしえの中国の詩の意境を反映する一方、窓という「額<br />縁」を通して富士山を観賞することは、富士山を突出させる表現である。後楽園の松の葉<br />を通して眺める富士山より一層明白に眺望を意識した景観操作といえよう。西園からの眺<br />望は大名の日常生活に溶け込んで、彼らの豊かな庭園の理想像の一端を反映していたと考<br />えられる。<br /> 尾張藩の戸山荘では、建設された当初から眺望の要素が備わっていたと見られる。戸山<br />荘の中心的建物である餘慶堂に焦点を絞り、そこからの眺望景観の特徴を考察した。その<br />結果・餘慶堂が建てられる当初から富士遠望が庭園の構成要素として考慮されたことが明<br />らかになった。餘慶堂からの遠望特徴は、富士山を観賞するために、ちょうど富士山の見<br />える部分だけ、樹の上を平らに刈り揃え、いわば緑の額縁で富士山を絡めとった形にして<br />いる手法である。しかもその人為性を隠そうとはしていない。むしろそのような作為がお<br />もしろいと見られていたのである。<br /> 園内景観の松の形へのこだわりは、園外の対象物である富士山と同質的に、園内の松を<br />観賞するという、庭園内外景観の一体化が図られていたことの表れである。戸山荘での眺<br />望は後楽園における「見え隠れの眺望」や、西園における「いにしえの意境」への追及よ<br />り、庭園内外景観の一体化が一層明白になったものといえる。眺望が庭園の景観構成の欠<br />かせない一環として認識され、借景に成り立っていたことを検証した。<br /><br /> 大名庭園における眺望景観の形成に関しては、造園の当初からすでに意識されはじめ、<br />徐々に手法が固められていったというプロセスを読みとることができる。江戸の大名庭園<br />において眺望は無視できない要素であり、形式が異なることにせよ、意識的な眺望行為が<br />江戸の前期からすでに発生していたと見るべきである。<br />初期の大名庭園に強く見られたのは漢詩文などを通した中国文化へのあこがれであり、<br />そこから生まれる「眺望」は、見たことがない観念的景観、象徴的景観、心の中の風景と<br />言うべきものであった。しかし、大名庭園全体としては、主に象徴的景観・観念的風景の<br />中から実際の庭園享受を通して現実の景観、園外に広がる風景への眺望がより一層意識化<br />されるようになってきた。<br /> 従来、その空間構成に眺望を見出そうという考えが極めて乏しかった大名庭園の各所に<br />「眺望」が見出された。しかもそれは江戸の時代が進むにつれて、遠方の眺望までも園内<br />に取り込もうとする高度な操作性も含む手法にまで成長していたのである。このような操<br />作された園景の見せ方こそ大名庭園の眺望の特徴であり、園外景観の発見につながる重要<br />な手段である。江戸時代の眺望は徐々に絵画的構成や象徴的景観から外部の自然にも目を<br />向けるようになった。内向きに洗練されてきたといえる日本庭園の伝統的様式に新たな外<br />向きの特色が加えられたといえよう。<br />
著者
阿部 新助 アベ シンスケ Shinsuke ABE
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2001-03-23

本論文は、流星および流星発光後に長時間輝くクラウド(永続痕;persistent trains)の未解明の発光過程について分光学的手法で観測的研究を行い 発光物質、励起温度、発光メカニズムなどについて明らかにした研究である。<br /> 「流星」とは、サイズがmmから数cm程度のダストが、秒速数10kmという高速で惑星間空間から地球大気に突入する際に、地球大気との衝突によって発光する現象である。発光高度は約100kmの電離圏(中間圏、熱圏)で、最小ダストの直径は0.1mm、質量にして1μg程度である。流星の中でも特に母天体が彗星や小惑星であるものを群流星と呼び、母天体から放出されたダストが形成するダストチューブの中を地球が通過する際に流星群として多数の流星が観測される。母彗星であるTempel-Tuttle彗星が逆行軌道のため、対地速度が最も速い(~71km/s)惑星間空間ダストの一団として観測されるのが「しし座流星群」である。「しし座流星群」の1時間あたりの流星数をみると、数百から数千、時には数万に達するいわゆる「流星雨」と呼ばれるような出現数も過去に記録されており、母彗星の回帰周期に伴い約33年毎に観測されてきた。私は、「しし座流星群」という希少な現象を確実に捕える目的で、7ヶ国から約30名の研究者達が集ったNASA主催の国際航空機観測ミッション(Leonid MAC)に1999年11月に参加し、主に分光観測を行ってきた。私が用いた分光装置は、370nmから850nmの帯域をカバーした光電子増倍管(I.I.)付のモノクロ・ハイビジョンTVカメラ(II-HDTV)に対物グレーティングを装着したもので、これまで観測が難しかった近紫外域(370-400nm付近)にピーク感度を持ち、更にデジタル10ビットの高いダイナミックレンジも備える全く新しい独創的な観測装置であった。国立天文台には、デジタル・ハイビジョンデー夕のコンバート処理を行う施設がないため、通信総合研究所や、民間の研究所の協力を仰ぎ、解析データの準備段階からかなりの労力を要した。データ解析に際しても、多数の原子分子が折り重なった複雑な流星の輝線スペクトルの同定、物理量の導出の精度を上げる目的で、シンプレックス法を用いた波形処理を流星スペクトルへ適応させるなどの新たな解析手法も確立した。今回、解析に使用したのは、クオリティーの高い「しし座流星群(Leonid)」3イベント、および偶然観測に捕らえられた[おうし座流星群(Taurid)」1イベントの計4イベントのスペクトルである。Leonidスペクトル中のFeとMgの時間変化は、地球大気成分の発光である酸素原子と同様のプロファイルを示すが、Naはこれらの物質よりも高高度で光始め、急速に減衰していくことが分かった。これは、超高速突入のため、より揮発性の高いNaから蒸発したことによる。一方、TauridのNaは、Leonidと異なるプロファイルを示し、FeやMgと同様の変化を示した。これは、地球突入速度の違い、あるいは、惑星間空間を周回する間にNaが減少した事に起因すると思われる。また、Tauridスペクトル中のFe/Mgアバンダンスは、Leonidの約2倍も高いことから、Tauridの母天体であるエンケ彗星は、より岩石質な天体であることが推察できる。エンケ彗星は、周期が3.3年と短いために太陽によって表層の揮発性物質がかなり失われた天体であることが予想される。これまで流星の励起温度は、550nmより短波長の金属輝線を使った温度平衡モデルで説明されてきたが、更に私は、対地速度が速い流星で現れるポテンシャル・エネルギーの高い分子に着目し、金属輝線の少ない長波長側(600~800nm付近)に観測された窒素分子のfirst positiveバンド(B3Πg→A3Σ+u)について、分子モデル計算を介して電子、振動、回転温度を決定した。その結果、電子 - 振動温度はともに、Te,v=4,500K±500Kとなり、鉄輝線で求まる励起温度、T=4,500±300Kと非常に良い一致を示した。この事は、熱平衡モデル近似の妥当性を示している。一方、初めて流星中の回転温度を試みたところ、Tr=2,500±500Kという温度が得られた。これらの振動-回転温度の差異は、化学平衡が十分に達成されず、厳密には温度平衡状態にはないことが示唆される。今後、分解能を上げた観測を行えば、更に詳細な議論が行えるであろう。流星の母天体である彗星は、太陽系が形成された当時の物質を閉じ込めた始原的な天体であると共に、惑星間塵や地上で採取される隕石(炭素質コンドライト)などの供給源とも考えられている。しかしながら人類は未だ、物質分析的にその起源を彗星と証明できる微粒子を持っていない。流星観測は、「地球大気を巨大なダスト検出器」に見たてた「地球に居ながらにしての彗星・小惑星探査」ともいえる。ハレー彗星探査で、C,H,O,Nが豊富に存在している事が明らかになった事から、彗星物質(流星)には耐火性有機炭素が豊富に含まれ、それらが地球に供給されている事が指摘されているが、未だにその証拠な無い。私は、彗星コマ中で近紫外線の非常に強い輝線として観測されるCN分子(B2Σ+→X2Σ+)のモデルスペクトルと、流星スペクトルの近紫外部を比較する事から、CN分子の宇宙起源説の検証を行った。地球突入速度の遅い「おうし座流星群」の“光初め゛に、CN分子と思われる超過が認められたが、鉄輝線などのコンタミもあり更に慎重な議論が必要である。<br /> 「流星痕」とは、極めて明るい流星(火球)の流れた後に数分以上も残る輝くガス雲である。常に宇宙空間からエネルギーの供給があり輝いているオーロラなどと異なり、永続痕は一度だけの流星の衝突エネルギーだけで長時間輝き続ける。この長時間輝き続けるメカニズムが未解決であった。出現予測が全くつかない希少な現象にあるため、永続痕がどのような物質で構成されているかでさえ明らかにされていなかった為、私はこの突発天体現象を確実に捕えるための携帯式の分光器システムを製作した。「しし座流星群」は対地速度が大きく、大気との衝突で解放されるエネルギーも大きいため、流星痕が発生する確率が最も高い流星群である。その結果、1998年「しし座流星群」に伴う“流星痕の分光観測に成功し、これまでにない高いクオリティーのスペクトルを得ることができた。解析の結果、初期(流星消滅後約30数秒後まで)の永続痕には、マグネシウム、鉄が最も多く含まれ、次いでナトリウムやカルシウム、アルミニウムなどの金属原子が豊富に含まれている事が明らかになった。原子スペクトルのモデル計算を行い物理量の導出を試みた結果、初期(流星消滅後約20秒後)永続痕の励起温度は2,200Kという高温状態であることが明らかになった。しかし、流星消滅後約30秒後には約1,000Kへと急激にクーリングされ、40秒後にはもはや顕著な原子輝線はなく、600nm付近をピークに持つ分子バンドが支配している事が明らかになった。永続痕本体(0次光)の時間変化の比較から、クーリングが卓越した状況が推定でき、熱エネルギーが光エネルギーに何ら関与しない、化学ルミネッセンスが放射過程に効いていることが推察できる。流星起源のFe、Mg、Naと地球大気起源の酸素原子による反応で、高励起状態の分子(FeO,MgO,NaO)が生成され、長時間の発光に関与しているものと思われる。
著者
染谷 智幸 ソメヤ トモユキ Tomoyuki SOMEYA
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2013-03-22

井原西鶴は日本を代表する小説家である。しかし同時に西鶴は、東アジアを代表する小説家でもある。西鶴は東アジアの文化史、特に古典文学史や小説史の中でどのような位置にあるのか。本論文は、この点の解明を最終的な目標にして、様々な角度から検討を加えたものである。本論文は、論文全体の概要を論じた総説(第一部)に続き、次の三部から成る。A西鶴小説を「東アジア」「17世紀の時空」の視座から把握したもの(第二部)B西鶴小説を「男色」「武士」の世界から把握したもの(第三部)C西鶴小説の対照的構造を明らかにし、その構造の持つ世界観を把握したもの(第四部) 以下記号順に第二部~第四部の要旨をまとめる。A 西鶴小説を「東アジア」と「17世紀の時空」に置いた場合、どのような新たな特色が浮かび上がって来るのか。第二部ではそれを、(一章)東アジア17世紀における歴史的文化的背景(二章)西鶴の同時代小説、中国『金瓶梅』、朝鮮『九雲夢』との比較(三章)東アジア17世紀における仏教的背景(四章)東アジアにおける性文化の伝播と広がり(五・六・七章)東アジアにおける遊廓とその文化的背景(八・九・十章)東アジア17世紀における、都市と経済の発展と小説から分析した。その結果、13世紀~17世紀の大交流時代、主に重商主義的発展にともない、人間中心で自由闊達な文化が東アジアで産声を上げたものの、それを後代に受け継ぐことが出来たのが主に日本であったこと。その継承こそがアジアにおける日本の逸早い近代化を準備したこと。その継承・発展のラインの中心に西鶴という作家が位置し、同じく人間中心で自由闊達な世界を小説の中に描き出していたこと、が分かった。特に、西鶴が描いた武士と商人の、対照的でありながらも、相互補完して一つの世界を作り上げている姿は、東アジア海域で活躍した武商一体の倭寇勢力や、日本の商人・武士が発展し成長した姿として捉え直すことが可能である。B 西鶴は明治以降の西欧的近代文学の要請から「リアリスト西鶴」と呼称され、リアリズム(現実主義)文学の日本における元祖として位置付けられてきたことは周知のことである。それが江戸時代の中後期に埋没していた西鶴の評価を高め、新しい光を当てたことは言うまでもないが、その「リアリスト西鶴」が西鶴小説の一面を深く理解させたものの、それによって西鶴小説の持つ他の魅力が切り捨てられ、西鶴の全体像が歪んだものになってしまったことは間違いない。第二次世界大戦後、そうして切り捨てられた魅力や全体像の再構築が盛んに行われることになったのだが、それは不徹底に終わった。何故ならば、切り捨てられた中で最も重要なものが『男色大鑑』であったにも関わらず、これを十分に汲み上げてこなかったからである。この『男色大鑑』や他の作品中の男色譚、そして武家物作品を解読することによって、忘れられていた西鶴の精神構造にスポットを当てつつ、従来の歪んだ西鶴像の修正を試みようとしたのが三部の諸論考である。まず、西鶴作品中、最も大部である『男色大鑑』が、(一章)どのような歴史的文化的背景を持って登場してきているか(二章)どのような世界を特徴として描き出しているかを検討するとともに、作品自体に、(三章)長期にわたる成立時期(四章)複雑な成立過程が想定されることを導き出した。また、そこで得られた豊かな武士の世界観は、西鶴の武家物である『武道伝来記』の世界を理解するにも役立つ。従来、西鶴が商人層の出身であることをもって、武家社会への深い理解は不可能という偏見から、西鶴の武家物は低い評価に甘んじて来たが、『武道伝来記』に描かれた、(五章)武士の水平的関係は当事者の武士の意識・常識を超えるほどに深く、武家社会の一面を鋭く抉り出していた可能性があることが分かった。従来、我々が漠然として抱いてきた西鶴へのイメージ、すなわち「町人作家西鶴」は、その根本から見直す必要が生まれてきたとも言ってよい。 なお『男色大鑑』に描かれた男色のルーツを辿れば、それは日本を越えてアジアやメラネシアの文化に行き着く。その男色文化の広がりの一端を、第一章に引き続いて、(六章)東アジアの新出男色文化関係資料で論じた。アジアには男色や武士(武人)を取り上げた文献や文学作品が多く、今後の調査によって、西鶴を始めとする日本の男色、武士の作品群の文化的背景が明らかになるだろう。C 「男色」「武士」に注目したことは、私に、もう一方の極である「女色」「商人」にも目を向けさせることとなった。その結果、西鶴小説の世界には、「女色」と「男色」、「武家」と「商人」の対照的構造があり、それが貞享三年~元禄二年までの西鶴中期の作品群に最もよく表れていることが分かった。そこで、第四部ではまず、(一章)『好色五人女』を取り上げて、この作品における「女色」「男色」から季節や「海」「山」などの地理的感覚に至るまでの対照性を炙り出し、その「女色」「男色」の対照性が、(二章)『好色一代女』と『男色大鑑』において極まっていることを指摘した。またその対照性は「武士」「商人」の対照に受け継がれ、(三章)『武道伝来記』と『日本永代蔵』においてピークを迎える。従来、西鶴小説への高い評価は、前期の『好色一代男』を中心にしたものと、晩年の『世間胸算用』『西鶴置土産』を中心にしたものとがあったが、『好色一代女』『男色大鑑』『武道伝来記』『日本永代蔵』の四作品を中心にした中期の作品こそが、西鶴文学の最も良質な部分が表れたものだと考えなくてはならない。 しかし、西鶴の晩年の作品には、そうした中期の作品群とは全く違った文学的な原理が働き始めていた。それは短篇(掌篇)とも言うべきスタイルを持った小説の、その制約を逆手に取った新たな方法であった。(四章、五章)
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2015

元資料の権利情報 : CC BY-NC-ND
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2015

元資料の権利情報 : CC BY-NC-ND
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2015

元資料の権利情報 : CC BY-NC-ND
著者
横山 輝樹 ヨコヤマ テルキ Teruki YOKOYAMA
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2013-03-22

本論は江戸幕府八代将軍徳川吉宗(在職 一七一六~一七四五)によって実施された武芸奨励を研究対象として、その歴史的意義の解明を課題とするものである。徳川吉宗は後世に「享保改革」と称される幕政改革を実施し、司法・行政・財政改革をはじめとする様々な改革を断行した。吉宗はこうした改革を進めると同時に、当時安逸に流れていた幕臣の気風を引き締めるため武芸を奨励する。吉宗が幕臣の士風刷新の為に武芸を奨励したことは広く知られており、吉宗に関する伝記や概説書の類にあっても言及されるところである。しかし、吉宗による武芸奨励の実態解明を課題に据え、これを正面から取り扱ったものは極めて少ない。歴史学の分野では、吉宗による司法・行政・財政改革などについての研究は盛んであるが、武芸奨励については改革を推進した吉宗の個人像を描く一端として、半ばエピソード的に取り上げられているに過ぎない。他方、武道学の分野では、日本武道の歴史を通史的に述べる際、武道熱の高まった時代として吉宗期が取り上げられている。特に、弓道史にあっては吉宗による歩射儀礼・騎射儀礼の研究と復興についての言及が見られる。こうした武道学に於ける吉宗研究は、今村嘉雄氏の研究によって一定の到達点に達した感があるが、武道学にあっては日本武道の発展を描くという独自の目的によって研究されたものであり、政策としての武芸奨励、即ち武芸奨励策の内実にまで踏み込むというものではない。現状の武道学の成果では、吉宗期を「前時代と比して武芸がより奨励された時代」、「武芸を好む将軍によって武芸が重んじられた時代」という評価に留まらざるを得ず、それは一面で、吉宗による武芸奨励とは、吉宗が将軍である間に限られた、一過性の奨励であったという評価に陥る可能性を含んでいるのである。果たして吉宗期の武芸奨励策とは、その様な評価に留まるものであったのであろうか。本論はこうした武道学に於ける吉宗研究の問題点(及び歴史学に於ける吉宗の武芸奨励に対する等閑視)に対して、実証史学の手法によってその解答のひとつを導き出そうとするものである。そして本論では、将軍拝謁を許された上級の幕臣である旗本で構成された、「五番方」(書院番、小性組、大番、新番、小十人組)と総称される幕府直轄の軍事部隊を取り上げ、これに対する武芸奨励策を分析対象とする。五番方は戦時に於いて幕府の主力部隊としての役割を担う存在であり、太平の世にあって五番方から失われつつある戦闘者としての本分を如何にして維持し、向上させていくかということは、吉宗が将軍になる以前から課題とされながらも未解決のまま吉宗の代に持ち越された問題であった。吉宗の武芸奨励策を俯瞰した時、五番方に対する武芸奨励策こそがその根本を為すものであるということが本論にあって分析対象とする所以である。即ち、旗本の軍事部隊に対する武芸奨励策を研究することの意義は、先行研究の不足点を補うというところに留まるものではない。それは江戸時代に於ける武士というものの存在意義を問うということに他ならないのである。寛永十五年(一六三八)の島原の乱からおよそ百年を経た吉宗期、戦乱から程遠い太平の世にあって武士は次第にその戦闘能力を失いつつあった。その様な時代にあって武芸が奨励されたということは、幕末に至るまで武士から「尚武」の気風が失われなかったこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられたことの要因をなしている。そして、その歴史的意義として、19世紀の国際情勢の下、アジアの諸国が相次いで欧米列強の植民地となっていくなかで、国家の独立を堅持し、軍事の面における日本の近代化を達成していくうえにおいて大きな意義を担うことになった点を指摘する。この様な関心の下、本論では第一章で吉宗期以前に実施された武芸奨励策の限界について取り上げた。武芸奨励策とは吉宗によって始められたものではなく、それ以前から実施されていた。しかし問題は、そうした武芸奨励の掛け声とは裏腹に、五番方にあっては必ずしも実行に移されたとは限らないというところにあった。こうした状況の中にあって始められた吉宗期の武芸奨励策の独自の意義を論じる。第二章では吉宗期に創設された新制度である惣領番入制度を取り上げる。これは旗本の惣領(跡取り)を五番方の一員として召し出すという制度である。本来であれば惣領は家を継いだ後で五番方の一員となる訳であるが、同制度を活用すれば家を継ぐ前に五番方の一員になれた。それは、第一に収入の面で恩恵が存在した。同制度によって惣領が五番方の一員となった旗本家には、当主に与えられる家禄の他に惣領に与えられる役料というふたつの収入源が確保された。第二にそれは昇進の面でも恩恵があった。しかし同制度を通じて五番方の一員となるには、事前に課される武芸吟味を勝ち抜く必要があった。旗本惣領は同制度によってもたらされる恩恵を獲得するために、武芸に励み、武芸吟味に備えたのである。制度的に構成された恩恵を伴った武芸奨励策というべきものであった。第三章では将軍が自ら五番方の武芸の腕前を観閲する武芸上覧と、五番方を率いる番頭(隊長)が部下に対して実施した武芸見分を分析した。武芸上覧と武芸見分は、いずれも吉宗が将軍になる以前から幕府に於いて実施されていたものであるが、武芸見分の実施命令は五番方にあって無視されがちであった。これに対して吉宗は、武芸見分が五番方内部で実施されているかどうかを、武芸上覧を繰り返すことで自らが確認し、武芸見分実施の徹底を図った。武芸上覧に参加するということは子々孫々に至るまで内外に喧伝すべき名誉を得る手段でもあり、半ば強制的ではあるものの武芸に励むことは五番方の面々にとっても有意義なことであった所以を明らかにする。第四章では中絶状態にあった将軍の狩猟を吉宗が再興し、組織的な軍事調練としての意味を持つ次元にまで狩猟を昇華させた過程を論じた。獲物を追い出し、追い込んでいく勢子の役割を、五番方をはじめとする幕府の軍事部隊に担当させるという問題が本章の主題である。狩猟が軍事調練の役割を果たしていたということはこれまでも指摘されているところであるが、本論ではその実態に立ち入り、吉宗が年月をかけて完成させていった狩猟を通じた組織的軍事調練の形成過程を解明する。当初は勢子のやり方すら知らない者がほとんどであったが、吉宗は狩猟を繰り返すことによって徐々に勢子を担当する幕臣を鍛え、最終的には騎乗して獲物を追う騎馬勢子を務めるほどの水準に達し、号令に基づいて組織的に展開し得る大規模かつ高度に統制された旗本軍団の形成に成功する。三十年という長期間にわたって実施された吉宗の旗本五番方への武芸奨励とはこの様なものであり、それは吉宗没後も模範として継承されつつ、幕末の外圧・政情不安の中で国家の独立を堅持し、軍事面に於ける日本の近代化を達成していく上に於いて大きな意義を担うことになったのである。
著者
永山 国昭 Kuniaki NAGAYAMA
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
新分野の開拓
巻号頁・発行日
pp.19-48, 2002-03-01 (Released:2012-01-25)

シュレーディンガー70年の夢-波動関数の観測- 永山 国昭[総合研究大学院大学生理科学専攻 教授・岡崎国立共同研究機構統合バイオサイエンスセンター]*所属は当時のものを記載
著者
田中 美栄子 Mieko TANAKA
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
非線形現象の数理
巻号頁・発行日
pp.51-58, 1997-03

田中美栄子[椙山女学園大学生活科学部生活社会科学科]
著者
太田 朋子 Tomoko OHTA
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
非線形現象の数理
巻号頁・発行日
pp.21-28, 1997-03

太田朋子[国立遺伝学研究所]
著者
小川 順子
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2004

博士論文
著者
金 セッピョル
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2012

本年度は、主な調査対象であるNPO法人「葬送の自由をすすめる会」において、初めての会長交替による変化が著しく現れた年であった。その変化を捉えるために、既存のメンバーと新しく加わったメンバーとを分けて、インタビュー調査、各種集まりでの参与観察を行った。新しい会長は、今年61才で、70~80代が中心メンバーになっていた会の中では若い世代に属する。また、いわゆるポスト団塊世代であり、これまでの戦争体験者、団塊世代の会員たちとは異なる方向性を持っているようである。既存の会の方向性が、画一的な葬法や家制度、葬式仏教への反発と脱却だったとしたら、新会長が掲げる方針は、より合理主義に基づいている。このような方針に対して既存のメンバーたちが見せる反応や対応を調べると同時に、新しい方針に賛同して集まってくるメンバーたちに対してインタビューおよび、ライフヒストリー調査を行った。既存の世代の特徴が、①遺骨を「撒く」ことにこだわること、②国家・家・仏教といった既存の葬送を大きく形づける社会関係の拒否、③「個」の追求にあるとしたら、現段階で考えられる新しい世代の特徴は、①遺骨を「撒く」ことにこだわらないこと、②当たり前となった「個」である。彼らは、国家、家制度、仏教などが目に見える形で社会全般を支配していた頃とは違い、「個」という考え方が前提となっている時代に生まれ育った。従って既存の世代のように、ある意味、過激な形でそれまでの社会関係を否定する必要はなく、遺骨を「撒く」ことにこだわらないのではないか、という暫定的な結論が導出された。