著者
染谷 智幸
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2013

博士論文
著者
久葉 智代 クバ トモヨ Tomoyo KUBA
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2023

総研大甲第2382号
著者
瀬川 拓郎
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2006

identifier:総研大乙第154号
著者
森田 理仁
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2013-04-01

適応度に最も強く影響を与える出生率の自発的な低下を伴う少子化は,ヒトの行動や生態を理解する上で大きな課題である.以下,特別研究員研究報告書に記載した内容をもとに,主要な成果を中心に報告する.研究1:子どもの数をめぐる父母間(夫妻間)の性的対立ヒトにおいても,出産や子育てに伴うコストは男性よりも女性の方が大きいため,父母間で性的対立が生じていると予測される.そして,配偶者の変更が可能な配偶システムのもとでは,欲しい子どもの数は男性よりも女性の方が少なくなると予測される.これらのことから,「女性の社会進出により,少ない子どもを望む女性の意思決定が男性より大きな影響力をもつようになれば,出生率は低下するのではないか」という仮説を立て,アンケート調査を子育て支援施設において行い検証した.その結果は,予測に反して,多くの場合,父母間で欲しい子どもの数は一致していた.また,子どもをもつことに対して,両親の希望が等しく重視された夫婦が最も多かった.これらの結果から,現在の社会では養育費の負担などによって,配偶者の変更に伴う男性のコストが非常に大きいことが考えられる.研究2:出産の起こりやすさに影響を与える要因生活史戦略の理論からは,子育てにとって好条件になった時に出産が多く生じていると予測される.本研究では,『消費生活に関するパネル調査』のソースデータを用いて,この予測を検証した.分析の結果,こちらも予測に反して,子育てにとって好条件になった時に出産が多く生じていることはなかった.さらに,子どもがすでに二人居ると,その後の出産が急激に起こりにくくなることがわかった.二人という子どもの数は,進化的には非適応的なレベルに少数であるため,今後はこの背景をさらに探求する.その他,数理モデルを用いて,子どもの質をめぐる競争的社会環境や,繁殖以外の選択肢の魅力が出生率に与える影響を研究した.
著者
伊東 章子 イトウ アキコ Akiko ITO
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2003-09-30

本稿は、両大戦間期以降の科学・技術に関する諸言説を文化的・社会的文脈に即して分析する作業を通じて、戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティのあり方について考察することを主な目的としている。日本社会には歴史的にみて、いくつかの特徴的ともいえる科学・技術をめぐる言説が流布されてきた。古くは明治期以来の「和魂洋才」から、近年の「メイド.イン.ジャパン」まで、科学・技術をめぐる言説は時代の推移とともに変遷を遂げてきた。そしてこれらの言説は、ある時は直接的に、またある時は間接的に、「日本文化」や「日本人」の枠組みを描き出してきたと考える。また同様に、日本という国家や「日本人」にとっての他者に対する認識や表象のあり方にも、科学・技術を軸にして揺れ動いてきた面がある。科学・技術をめぐる言説を詳細に検討することを通じて、戦後日本社会においてナショナル・アイデンティティがどのように構成されてきたのかを明らかにしたい。 その際に課題の一つとしたいのが、科学・技術をめぐる言説に戦中期と戦後を通じて保たれている、連続性に焦点を当てることである。科学・技術についての様々な議論が活発化したのは、総力戦体制へと向かうなかで科学・技術振興の重要性が認識されてきた時からだった。この時期には、科学者や技術官僚を中心にして、科学・技術の「日本的性格」をいかに確立するかについて、盛んに意見が戦わされた。これらの議論の多くは、「日本精神」と呼ばれるような精神性や道徳性に依拠していたために、戦後においてはほとんど省みられることがなかった。しかし極端な国粋主義や日本主義が過ぎ去ったはずの戦後においても、科学・技術をめぐる言説には総力戦体制期に見られたものを、そのまま引き継いでいるところがある。このような連続性が見られる以上、戦後日本のナショナル・アイデンティティの構成を問うためには、総力戦体制期の諸言説についても詳細な分析が必要であると考える。 本稿では、ナショナル・アイデンティティは大衆社会の想像力と大きな関わりを有しているとの立場にたっている。そのため科学・技術に関する諸言説を抽出する際に、いわゆる専門家の議論へ偏らず、戦後の考察については大衆社会の科学・技術認識が反映されやすい、新聞広告を主な資料として用いる。また総力戦体制期の考察についても、上述した科学者や技術官僚らによる議論ばかりではなく、同じ時期に大衆メディアにおいて広まりを見せていた「科学戦」ブームについても着目する。 以上の点を踏まえて、本稿の構成は以下のようになっている。まず第1章では、1920年代後半から30年代にかけての、「科学戦」に対する社会的な関心の高まりと大衆メディアにおけるイメージの広がりについて考察を行う。「科学戦」人気は、次の戦争がすぐそこまで近づいており、科学・技術の優劣が戦争の行方を決めてしまうことを強く印象づけた。第1節においては、「科学戦」のイメージが具体的にどのようなものであったのかについて、ラジオドラマ、科学読本、科学雑誌、軍事読本など幅広い分野を横断的に検討することで明らかにする。これらの出版物などは新兵器や空襲などの「科学戦」に関する知識を普及させたのはもちろん、科学振興の重要性についても訴えていた。つづく第2節と第3節では、当時少年達を中心に人気の高かった平田晋策、海野十三という二人の作家の未来戦記物を取りあげる。これらの作品を通して、日本と主に敵国とされたアメリカの科学・技術の比較や、科学・技術が戦争や社会に果たす役割がどのようなものとして考えられていたのかを分析する。 第2章では総力戦体制下における科学・技術をめぐる言説について、主に科学者や技術官僚などの視点から考察する。科学・技術をめぐる言説において、「日本文化」や「日本人像」が語られていたのは戦後的な現象ではなく、総力戦体制期から続く潮流である。この章は戦後のナショナル・アイデンティティを論じるうえでの前史にあたる。第1節では、科学・技術をめぐる言説の背景として、総力戦体制へと向かう科学動員の過程と、科学・技術の必要性や有用性が国家危急の事態においていかに認識されていたのかを概観する。続く第2節では、日本の精神性や道徳性を損なわないようにして、「西洋の所産」である科学・技術の振興を唱える、その訴え方のありようを、「物質文明と精神文化」という基本的な対立軸に基づいて考察する。第3節では、第2節で示した科学・技術を振興する必要性を説く議論からさらに進んだ、「西洋」とは異なる科学・技術の「日本的性格」を確立させようとする言説を分析する。これは「物質文明と精神文化」を単に対立させるのではなく、科学・技術の基底に「日本精神」や民族性を位置づけようとする試みだった。その際にあみだされた論法が、戦後における科学・技術をめぐる言説のひとつの雛型になったと考える。 第3章は、敗戦から1950年代初め頃までの短い時期を取り扱う。この時期は第2章と第4章のちょうど谷間にあたる。第1節では、総力戦体制期にその必要性が叫ばれた科学・技術の欠如が、敗戦直後に保守主義・自由主義・左翼陣営のそれぞれの思惑から「敗因」とされたことを論じる。陣営間の対立を越えて「科学・技術立国」というスローガンが、総力戦体制から引き継がれていった点を指摘する。第2節では、女性と科学・技術の関係性を「主婦」や「化粧品」をとりまく諸言説から考察する。戦前戦時にもう一度遡り、女性と科学・技術を取り巻く環境がどのように変化していったのか、科学・技術の振興一関して女性はとのような役割を求められていたのかについて論じたい。さらにはそのような役割がこの章で取り扱う敗戦とともに、いかに変化を遂げたのかについて考えてみることとする。 第4章では、1950年代から1960年代までの新聞広告を資料に用い、時計やカメラ、家電製品などの広告における科学・技術をめぐる言説について分析する。第1節においては、次節以降で新聞広告の言説分析をおこなう準備として、この時期の科学・技術行政および技術開発状況を概観することと、科学・技術にとって新聞広告という言説空間が持つ意味合いについて考察をおこなう。第2節では、1950年代の新聞広告において外国の技術と日本の技術がいかに比較・対置されていたかについて分析する。欧米諸国との比較を通じて、日本の科学・枝術についてどのような認識がなされていたのかについて考える。つづく第3節では、1960年代を境に頻出するようになった「日本の誇り」という言説を中心に、1960年代の新聞広告を考察する。日本の科学・技術が「日本の誇り」として語られるようになると、次第に「日本文化・日本人・日本民族」と結びつけられるようになった。その際、いかに日本という国家や「日本人」像が新聞広告において表象されていたかを論じる。最後、第4節では、日本製品や日本の科学・技術が「国境」を越えるという現象を、広告がどのように描いていたのかを中心に考察する。他者=世界が日本製品をいかに受け入れ、「愛用」していると広告が伝えていたのか、そしてそのような他者の存在が「日本の誇り」をさらに高めていった点について論じる。 第5章では、前章に続いて1970年代の広告を分析する。またこの章は新聞広告を資料として考察を行う最後の章でもある。1970年代の広告文には、今までには見られなかった変化が現れていた。第1節においては、公害問題を契機にした反科学的思想の興隆が、新聞広告の言説にどのような変化を及ぼしたのかについて考察する。科学・技術の進歩や経済成長の追求に対して批判が高まったことによって、今までの「日本人」や日本という国家のあり方に反省を迫る言説が増えた点に注目する。第2節は、1970年代後半になると、戦後一貫して科学・技術を介して「日本人」像や国家像を描いてきた新聞広告が、ナショナル・アイデンティティ表象の場として機能しなくなったことに着目する。強固な編成を保っていた新聞広告という言説空間に何が起こったのかを、新聞広告の媒体上の変化と、広告言説に起こった変化の二つから論じる。 最後、終章ではまず、新聞広告からは探ることができなくなっていた1980年代の科学・技術に関する言説を他の領域から抽出し、そこへ補足的に考察を加えることから始める。1980年代初頭に、戦後日本の科学・技術行政は従来の民間企業による技術導入や技術開発を主体とする方針から転換し、「科学・技術立国」を明確な国家戦略に位置づけるようになった。そのため80年代には言説の担い手として、政府や国家が急浮上するようになった。また80年代から90年代にかけては、技術開発を扱うルポルタージュが量産されてもいた。ルポルタージュの多くは日本製品や技術者の優秀さを文化的特殊性などと結びつけて論じており、その語り口に第4章で考察した新聞広告における言説の構図がそのまま継承されていた。そして、これら80年代以降の動向も踏まえて、今までの議論をもう一度振り返りながら、現在の私たちの科学・技術に対する認識の枠組は戦争を契機に培われたのであり、戦後日本のナショナル・アイデンティティもその枠組みの上で形成され続けてきた点を論じ、全体のまとめとする。
著者
塚原 直樹 Naoki TSUKAHARA ツカハラ ナオキ
出版者
総合研究大学院大学

カラスの鳴き声と言えば、「カー」ですよね。でもカラスの鳴き声をよく聞いてみてください。「アオア」「アッアッアッ」「ガー」など、実は色々な声を持ち、それらを使ってカラス達は発達したコミュニケーションを行っていると考えられています。今回は、カラスがどんな鳴き声を持っているか、色々な鳴き声を出せる秘密、鳴き声を使ってカラスを追い払う方法など、私が行ってきたカラスの鳴き声に関する研究についてお話します。
著者
青木 武信 アオキ タケノブ Takenobu AOKI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2001-03-23

本研究の目的はインドネシアの大衆芸能、クトプラ(kethoprak)について、現地調査から得られたデータをもとに、その公演形態、公演内容、および芸人と彼らの社会生活について民族誌的記述を行い、1990年代半ば、スハルト政権最末期のインドネシアにおけるクトプラについて考察するものである。事例としてはジョクジャカルタを中心に活発な公演活動を行っているクトプラ劇団、ペーエス・バユ(PS Bayu)をとりあげる。 クトプラはインドネシア、中部ジャワの大衆芸能であり、笑いとアクションを中心としたドタバタ喜劇である。クトプラは中部ジャワー帯で人気が高く、ジョクジャカルタを中心に各地で公演が行われているが、最近ではテレビでの放映も行われている。 クトプラで演じられる物語の主要なテーマは女性、領土、財物の奪い合いである。クトプラの人気を支えているのは、人々の情動に直に訴えかける通俗性である。この通俗性は自身の欲望に忠実な登場人物の姿に由来する。つまり、クトプラでは誰もが少ながらず持ってはいるが、日常的には抑圧されている欲望が舞台の上で鮮明に提示されるのである。そのために、観客は深い共感をもって観劇を楽しむことになる。 クトプラのもうひとつの特徴は、必ずしも単純ではない物語の筋を簡略化し、格闘シーンや笑いのシーンを適宜挿入しながら、柔軟に舞台を構成してゆくやり方にある。クトプラの芸人たちは、公演地における観客の嗜好を考慮し、かつ観客の反応をみながら、公演内容を臨機応変に組み立ててゆく。格闘シーンは舞台の進行にアクセントをっけ、弛緩した観客の注意を舞台に引き戻す効果をもっている。また、クトプラは笑いのシーンをふんだんに挿入することで、深刻さをさけ、観客に気晴らしの娯楽を提供している。理想と現実との垂離に日常的に直面し、緊張を強いられている観客は、笑いのシーンで、このズレを提示されて、それを笑うのである。 このように、人々の心に潜む欲望を的確にとらえて表現する技術や、観客の舞台に対する反応を鋭敏に感じとり、舞台を柔軟に構成してゆく技術にたけていることが人気クトプラ芸人の条件となっている。こうした能力は彼らの豊富な社会経験に由来する。クトプラの公演が行われる地理的範囲は広く、公演をおこなう機会も多様である。そのために、芸人たちはジョクジャカルタを中心に、中部ジャワの各地を訪れ、さまざまな人々と接触し、見聞を広め、広範な人的なネットワークを構築する。これらのことがクトプラ芸人の演技者や演出者としての能力を培っているのである。 こうした能力は舞台の外でもきわめて重要な役割を果たしている。このことを示す端的な例はペーエス゜バユの座長であるギトとガテイである。彼らは舞台の上で卑猥で低劣なジョークを連発し、ドタバタ喜劇を演じる。だが、舞台の外では強い倫理観を持った好人物とみなされている。こうした舞台の上でのパフォーマンスと非常にかけ離れた人物像は舞台外での芸人の「演技」から作られるところが大きい。彼らは、人に何を期待され、何が求められているかを鋭敏に感じとり、それを舞台の外においても自身の「演技」に生かしているのである。 そして実際に、ギトとガティは地域社会において名士やリーダーとしての役割を期待され、そうした期待にこたえている。また、ガティは集落長という公職についている。ギトとガティが居を構えている集落にすむ村人の大多数はあまり裕福とはいえない農民である。彼らは、何らかの事情で、まとまった額の現金を必要とする場合、ギトやガティのもとを訪れることが多い。あるときは、手持ちの装飾品などを質草にして現金を借り、またあるときは、所有する農地や水田を彼らに買ってもらう。これに加え、集落が共同で使用する水場の新設や整備、共同墓地の拡張、道路の舗装、青年団の活動などに際しても、ギトとガティは経済的援助を求められる。 こうした期待と要求に応えることは、とかくマイナスのイメージを付与されがちな芸人という存在が地域社会で生活していく上で、必要に迫られて行っている戦術ともいえる。たしかに、仮設の小屋掛けでおこなう巡回公演を中心とするクリリガンと呼ばれるクトプラ劇団の芸人の生活は、売春まがいの行為をおこなう等の理由から、ジャワ人の一般的倫理観から大きくずれている。そうしたこともあり、ギトとガティは自己の社会的イメージを大変重視している。それは人気クトプラ劇団のリーダーであり、ジャワ芸能界の人気者にして重鎮、かつ温厚で、人当たりのよい人物というイメージである。彼らはジャワ社会における期待されている人物像を舞台の外で演じているといってよい。 以上のように、ギトとガティがになう役割と彼らの行為を見てくると、彼らは地域社会(村)とその外にあるジャワ社会を結びつけ、情報、金銭、人的コネクションを地域社会にもちこむ存在だということである。ジャワ社会でトコ・マシャラ力(tokoh masyarakat)と呼ばれる地域社会における名士あるいはリーダー的存在にはさまざまな種類の人物がいる。それは篤農家であったり、宗教的指導者であったり、富裕な商人であったりする。ギトとガティはこうした多様なトコ・マシャラカの一例なのである。 ギトとガティは政治的、宗教的に特定の勢力と深く関係することなく、中立的な立場を保持してきた。そうすることが多方面からの公演依頼を可能にすると判断したためである。だが、クトプラ芸人のなかには公演依頼を増やすために、積極的に特定の政治団体、特にスハルト政権下の与党、ゴルカル党に参加し、活動を行う者もいた。ギトとガティの場合にもいえることだが、芸人たちは生き残りをかけて、ときには利用できるものは何でも利用するしたたかさを顕わにする。そのとき、芸人は豊富な経験に裏打ちされた彼ら独特の「嗅覚」あるいは現実的感覚を大いに働かせているのである。こうした生々しい現実的感覚をもつからこそ、クトプラ芸人はジャワ社会の変化に巧みに適応しながら、クトプラの人気を長きにわたり保持しつづけることができたのだと考えられる。 そして、1990年代、テレビの普及と並行してジャワ社会は大きく変化してきている。ペーエス・バユの公演活動から、こうした変化へ適応していく様子を窺うことができる。公演は儀礼的な要素が小さくなり、娯楽としての要素が中心となってきた。公演機会も村清めのようなジャワ固有の信仰に基づくものは少なく、インドネシアの独立記念日を祝う催しやムスリムが断食月明けを祝うサワラン儀礼が多くなっている。公演日の選択にあたっても、ジャワ暦よりも土日を優先するようになっている。舞台の内容も笑いとアクションの要素を強調する傾向にあり、漫才のみの公演も増えている。公演機会や公演内容はよりいっそう世俗化し、インドネシア化しつつある。その一方でテレビを通じてクトプラはジャワ王朝時代劇としてイメージを鮮明にしている。また、ムスリムにとって聖なる月である断食月と儀礼には適さないとされているジャワ暦のポソ月は、公演機会として現在でも避けられている。このように完全に世俗化し、ジャワ的なものがインドネシア的なものに置き換わってしまっているわけではない。1990年代の現代インドネシアにおいて、ジャワとインドネシアの間でクトプラ芸人は巧みに両者の要素を取り入れ、使い分け、生き残ろうと努めている。
著者
宮本 愛喜子
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2012

生後発達期、中枢神経系では大規模な神経回路形成・編成が生じる。神経回路網の変化としては神経間の情報伝達部位であるシナプスの除去や新生があげられるが、近年、ミクログリアがシナプス除去に対して役割を持っていることが明らかとなってきた。申請者は未解明である生後1-2週目のマウスにおけるミクログリアの役割、特に神経回路発達の指標となるシナプス動態に対するミクログリアの関与について明らかにするためにin vivo 2光子イメージングを用いたミクログリアの接触とスパイン形成または消失について検討を行った。生後8-10日齢の子宮内電気穿孔法によって大脳皮質興奮性神経細胞に赤色蛍光タンパク質を発現させたlbal-EGFPマウス(ミクログリア特異的にEGFPを発現)を用いて、タイムラプスin vivo 2光子イメージングを行ったところ、ミクログリアが接触した部位に新たなフィロポディア状の突起(スパインの前駆体であると考えられている)が形成される様子が観察された。また、ミクログリアの活性を抑えるミノサイクリンを腹腔内投与したマウスのスパイン密度を調べたところ有意な減少が見られ、ミクログリア選択的に除去したマウスでも同様の結果が得られたことから、ミクログリアによるフィロポディア形成は発達期におけるスパイン形成に寄与していると考えられる。さらに、ミクログリアを除去したマウスから作成した急性スライス標本を用いて微小興奮性シナプス後電位の頻度を確認したところ対照群と比較して優位に減少していた。したがって、ミクログリアにより形成されたフィロポディアは機能的シナプスの形成に寄与していると考えられる。以上の結果から大脳皮質体性感覚野の発達期において、時期特異的にミクログリアがフィロポディアの形成を介して機能的シナプスの形成に寄与していることが示され、発達期の回路形成に対するミクログリアの新たな役割を示唆する結果が得られた。
著者
平田 光司 出口 正之 関本 美知子 柴崎 文一 安倍 尚紀 高岩 義信 伊藤 憲二 湯川 哲之 横山 広美 高岩 義信 湯川 哲之 伊藤 憲二 柴崎 文一 安倍 尚紀 瀧川 裕貴 横山 広美 加藤 直子
出版者
総合研究大学院大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

個人情報や第三者に関する情報も含むオーラルヒストリー記録を多数収集し、共有資産として研究者に提供するシステムについて検討し、方法を確立した。実際に高エネルギー加速器研究機構における巨大科学プロジェクト関係者に対してインタビューを実施し、記録をアーカイブし、公開した。
著者
申 昌浩
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2000

本博士論文は、現在の韓国政治、文化の枠組を支える「韓国的ナショナリズム」の形成過程に、いかに宗教が大きな役割を果たしているかについて考察したものである。その宗教は、特に、日本という近代国家によって開国を迫られ、近代化の課題に直面していた朝鮮半島において、東学、親日仏教、プロテスタント(改新教)の三つが新たに成立したのである。そして、それらの成立の背景としては、東アジアを取り巻く国際情勢、とりわけ日本と韓国との政治的ダイナミズムが深い関わりをもっている。それゆえ、本論文では三つの宗教のそれぞれの成立と展開を、政治的な背景と関連させつつ、考察する。<br /> 第一に東学について。東学は19世紀後半、朝鮮半島で初めて成立した自生宗教であり、朝鮮王朝の封建的な儒教中心の既存の政治体制と両班による政治政権の掌握と運用に新たな変革を求めたものである。それは民族の宗教としての始まりと、民衆の真意を反映した民族主義と民族運動を成立させる役割を果たした。そして、特権身分階級として政治的・経済的な支配者である両班とその儒教体制による封建的な社会構造に対して挑戦を挑んだ民衆レベルの宗教であった。この東学の誕生は、間接的な原因ではあるが19世紀の朝鮮王朝の支配を突き崩すほどの力を発揮したといえるだろう。民衆運動と宗教運動を基盤にして形成された東学は、開国以後、日本帝国の経済的な進出に対しても積極的に対抗し、民族の自主と自立の精神を培養しようとした。この東学の民族主義は、宗教の問題であると同時に、政治的な問題であるといった方がよいだろう。東学が唱えていた思想は、朝鮮末期の政治問題や経済問題に民衆を結集させ、宗教的な内容よりもむしろ自由民権の宗教的哲学根拠を提供し、近代的な改革や社会変革を求める政治的な内容がより強く表出するものであった。この時期に形成され始めた民族主義は、国家ナショナリズムというよりも、民衆レベルでの民族の危機意識と開化精神の始まりといえよう。東学思想は19世紀後半期において、封建体制の対外的危機に対応する、農民や商人、賎民、没落両班の階級的利害、欲望、要求を反映した民衆運動として登場し、韓国の民族主義形成に大きく関わりを持っている政治的なものであった。しかし、日韓併合後の東学は日本帝国の政治的な力の前に内部分裂を繰り返し、民族宗教としての存在感が薄くなってしまった。その結果、解放後においても民族を支える宗教としての役割や政治舞台の中心に立つことはできなかったのである。<br /> 第二に親日仏教について。これまで仏教は幾度も民族的な危機に際して民衆を支えてきた伝統宗教であった。しかし、朝鮮時代の儒教的な政治体制から排除されることによって、町からその姿を消し、山に閉じこもるようになった。政治政権を掌握している儒者たち、いわゆる両班からの政治的な抑圧と蔑視と差別によって、朝鮮の仏教は非政治的な宗教集団となっていた。この仏教が、1876年の開国と共に朝鮮半島に進出してきた日本の僧侶によって復活し、政治的にも再生されるようになった。朝鮮仏教の宗教活動が解禁されたのは、日本帝国の経済的な進出が活発な時期であり、朝鮮王朝の儒教思想にも民衆を統制する力がなく、国運が傾き始めた頃のことでもあった。開国以来、日本の経済的な進出と1895年の日本の僧侶による嘆願によって、解禁されたため近代韓国仏教の始まりを「親日」仏教の始まりであるともいっている。朝鮮仏教は日韓併合後も政治的性格が日本の政治的支配や宗教政策に対して大きな反発を示す宗教運動や政治的な活動や動きも少なかった。また、解放後の成立した新政府による仏教浄化政策よって、親日仏教というレッテルを貼られるようになった。<br /> 第三はプロテスタント。1880年代に入ってきたキリスト教は、いわゆるプロテスタントのことであるが、儒教社会に迫害を受けたカトリックとは違い、封建的な社会であった朝鮮に近代的な先進文物や教育をもたらした宗教である。キリスト教は国を失った人々に、独立に対する熱望と組織的な体制を与え、近代韓国に本格的な民族的アイデンティティをもたらし、自覚することを可能にしたといえる。キリスト教教会は信者を中心に一般民衆が独立運動や民衆運動に積極的に参加する基盤を提供する役割を果たすと共に成長した。この韓国的キリスト教は、いわば純粋な聖書を土台にした信仰の基礎を作り上げることによって形成されたものではなく、愛国啓蒙運動や抗日民族運動の拠点を築く際に形成されたのである。それが日本帝国の植民地下での反日民族独立運動に参加し、韓国特有の民族イデオロギーを形成し、成長させることに結びつくことになる。その後、日本植民地からの解放されたキリスト教は、政治的・宗教的な苦難に対抗したことを様々な民族的な苦難を乗り越えてきた信仰的伝統にも結びつけるのである。そして、多くのキリスト教者は解放に伴って成立した新国家建設に参与し、教会の再建を図るために、儒教的な権威主義を背景にもつ西洋キリスト教者と結びつくようになったのである。<br /> 以上、三つの宗教を取り上げ、韓国的な民族主義宗教の形成と展開を近代韓国における、いわゆる政治と宗教の状況について論じてきた。封建的な儒教体制に挑戦するために民衆を結集させた力を持つ東学、親日的政治的な性格が付けられている韓国の近代仏教、日本帝国に立ち向かい愛国啓蒙運動や民族主義運動の立て役者となり、解放後は南北に分断された国土で共産主義に対抗し、大きく成長、定着したキリスト教に要約されよう。要するに、韓国的ナショナリズムの形成は、とりわけ宗教が同時に政治思想を帯びていたことを特徴とするのである。
著者
間野 肇 マノ ハジメ Hajime MANO
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
1994-03-24

ポアソン過程の時間変更で記述される個体群の確率モデルについて極限定理の理論と計<br />算機実験をおこなった。<br /> Lotka・Volterra以来生物の個体群を生存競争系として扱い研究がされてきた。また、<br /.>Volkonskii以来時間変更で記述される連続時間マルコフモデルが研究されてきた。そこ<br />で、集団の描像を記述するためポアソン過程の時間変更で記述される個体群の連続時間マ<br />ルコフモデルを導入し、研究を行った。<br /> 確率過程の理論では、マルチンゲール法を用いて、Liptser・Shiryayev等は、到着順処<br />理という規則に従う待ち行列のモデルで、特定の確率構造が仮定されているものについて<br />弱大勢の法則を適用して常微分方程式を導き、さらに中心極限定理を適用してガウス拡散<br />過程の確率微分方程式を導いた。ここでは、待ち行列のモデルを扱うため、各成分のマル<br />チンゲールが直交しているモデルが初めから仮定されていた。<br /> そこで、強弱関係のある多種からなる集団において個体と個体の相互関係により弱い方<br />の種の個体が強い方の個体に変化しその相互作用がポアソン過程の時間変更により記<br />述される生存競争系のモデルについて、マルチンゲール法を用いて同じように常微分方程<br />式と確率微分方程式を導くことを試みた。<br /> 確率構造を調べる必要があるので、モデルのセミマルチンゲール分解を導出した。ここ<br />では、生存競争系のモデルが扱われているため多次元の各成分のマルチンゲールが必ずし<br />も直交していないということがわかった。マルチンゲールが必ずしも直交していない一般<br />的な確率構造をもつモデルの弱大勢の法則と中心極限定理は容易に得られるので、そこか<br />ら常微分方程式とガウス拡散過程の確率微分方程式を導き出した。そして、ポアソン過程<br />の時間変更で記述される生存競争を行う現実の確率モデルについて応用し、大数の法則か<br />ら常微分方程式を導き、中心極限定理を適用してガウス拡散過程の確率微分方程式を導い<br />た。<br /> また、最尤推定法を用いて、遺伝学における離散マルコフ過程である太田・木村モデル<br />とポアソン過程の時間変更で記述される突然変異だけを含んだ確率モデルを計算機実験を<br />おこなって、比較した。
著者
大西 秀之 オオニシ ヒデユキ Hideyuki ONISHI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2005-03-24

本論文が対象とするトビニタイ文化とは、異なる生計戦略に立脚するとともに形質的・遺伝的にも系統を違える集団によって担われたオホーツク文化と擦文文化が、北海道東部地域において接触・融合する過程で生起したとされる先史文化である。本論文は、トビニタイ文化という歴史事象を主体的に担った人々の系譜を明らかにした上で、周辺地域の広範な歴史的コンテクストに位置づけるなかから、同文化の成立から終末に至るプロセスや要因の解明を試みたものである。 まず第一章では、現在までの課題を明らかにすべく、先行研究のレビューをおこなった。その結果、オホーツク文化集団と擦文文化集団が接触・融合する具体的な状況やプロセスを解明するとともに、生計戦略を始めとする同文化の基本的な性格を把握する必要性を確認した。さらには、文献史学や第四紀学・環境科学などのデータや成果を参照するなかから、トビニタイ文化として顕在化する歴史事象を、生態環境から政治社会的要因までを含めた歴史的コンテクストから読み解く必要性を指摘した。 以上を踏まえ第二章では、トビニタイ土器分布圏の6遺跡から出土した「擦文式土器」を対象として13の技術的属性を抽出し、共伴して得られたトビニタイ土器や同時期の擦文文化圏の資料と比較した結果、そのなかにはオホーツク文化の末裔であるトビニタイ土器製作集団によって製作された模倣品が含まれていることを明らかにした。また、模倣品の時間位置や空間分布を検討すると、知床半島沿岸部や根釧原野などでは模倣品が製作される時期はトビニタイ後期(A.D.11世紀以降)に多くが偏り、その製作にはトビニタイ土器の技術が使用されている一方、斜里平野ではトビニタイ前期(A.D.10世紀以前)から擦文文化集団が持つ技術を導入して模倣品が製作され、トビニタイ後期になるとオリジナルの擦文式土器そのものと見分けがつかなくなる様相を捉えた。そして、この地域差を擦文文化集団との交流頻度の反映と想定することによって、知床半島沿岸部から根釧原野側の集団は擦文文化集団との接触が限られていたのに対し、斜里平野側の集団は擦文文化集団と非常に緊密で頻繁な交流を維持し、擦文文化集団の一部が同地域の集落に来訪し居住する状況が生起していた可能性を指摘した。 そこで、トビニタイ文化の集落に存在していた擦文文化集団の具体的な規模と、両集団間に取り結ばれていた社会関係を解明するために、同文化の住居址の属性分析をおこなった。この分析により、住居址に関わる属性の多くは、オホーツク文化の系譜に位置づけうるものであり、また擦文文化に典型的とされる属性もトビニタイ土器製作集団の側が段階的・部分的に受容したものであるという結論を得た。ここから、トビニタイ文化の主要な担い手は、オホーツク文化の末裔であると想定され、住居址から推察される居住形態に依拠するならば、接触・融合の一次地帯であっても、常態として擦文文化集団は単独で世帯を形成することなく、「婚入」などを通じてトビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたとの仮説を導いた。以上から、トビニタイ文化は、オホーツク文化の末裔が主体的に担っていたことを提示した。 次いで第三章では、トビニタイ文化の遺跡立地、遺物組成、動物遺存体を対象として、オホーツク文化や擦文文化との比較検討を試みた。その結果、同文化には、地域的・時期的な多様性が認められる反面、同文化を担った集団は共通基盤としてサケ漁に特化した生計戦略を保持していたことを指摘した。さらに、そうした生計戦略は、基本的にオホーツク文化の系譜に位置づけうるものであり、擦文文化の積極的な関与は認め難いことを確認する一方、同文化の成立以降、存続期間を通じて変容することなく、安定的に維持・経営されていたことを明らかにした。 いっぽう、トビニタイ文化には、擦文文化から受容されたと想定される資料が認められるが、それらは地域的に偏差をしめしつつも、時期を経るなかで増加する傾向を捉えた。だが、鉄器のみは、前段階のオホーツク文化の鉄器が大陸産であるのに対し、地域・時期に関係なく、一貫してすべてが擦文文化を仲介して入手された本州産であることを明らかにした。ここから、トビニタイ文化は、生計戦略を始めとして、基本的な要素をオホーツク文化から受け継いでいる反面、擦文文化との接触・融合が引き起こされた背景には、大陸産から本州産への鉄器入手ルートの転換があるとの想定を提起した。これらの想定を是認するならば、既存の「外圧説」と「内発説」は、トビニタイ文化の一側面のみを捉えたに過ぎず、両者は背反するものではなく相互に補完すべき見解であることを指摘した。 最後に第四章では、これまでの検討から得られた成果を、当時の歴史的コンテクストに位置づけ考察を加えた。その結果、サケ漁に特化したトビニタイ文化の生計戦略は、A.D.10世紀以降に到来する、「中世温暖期」のピーク後の再寒冷化に伴う生態環境の変動に適応するために、道東部のオホーツク文化集団が、海洋資源を中心とする「多品目依存型」から内水面の資源に比重をおいた「備蓄型」に転換したものであるという結論を導いた。他方で、擦文文化集団との接触・融合は、本州産鉄器の獲得を中心に促進されたものであり、その背景には律令体制の崩壊に端を発する、9世紀後半~10世紀の本州・東北北端部における鉄器生産地の出現・急増と中央のコントロールを受けない「化外の地」における物流体制の成立があることを指摘した。 以上から、トビニタイ文化とは、「中世温暖期」を中心とするグローバルな規模での環境変動と、律令国家の崩壊という政治体制の変容のなかで生起した、古代末から中世初頭に継起した社会生態環境のドラスティックな変化に対して、オホーツク文化集団が選択した生存戦略であるという結論を導いた。さらに、こうした生存戦略は、オホーツク文化集団のみに限定される事象ではなく、和人社会を中心とする商品経済・物流体制に巻き込まれてゆくなかで、中世併行期以降の「アイヌ社会」が形成される過程に位置づけうるものであった。このため、本論は、従来一系的に語られがちであった「アイヌ社会」の成立過程に対して、外来の渡来系集団によって担われたオホーツク文化もまた、北海道東部地域における「アイヌ社会」の形成に主要な役割を果たしていた、という新たな視点を提示するものとなった。
著者
高橋 遼平 タカハシ リョウヘイ Ryohei TAKAHASHI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2012-09-28

現在の琉球列島の食文化に家畜ブタは必要不可欠な存在だが、その起源は不明瞭である。文献史実では琉球列島への最古の家畜ブタ導入は14世紀頃とされ、それ以前は琉球列島に固有の野生イノシシであるリュウキュウイノシシが狩猟されていたと考えられてきた。しかし近年では琉球列島や周辺地域を対象とした考古学・動物考古学研究から、12世紀以前の先史時代にイノシシ・もしくは家畜ブタ(以下Sus属と省略)が外部諸地域から導入されていた可能性が指摘されている。本論文では先史時代の琉球列島へ外部地域からSus属が導入された時期や地域・経路を解明するため、琉球列島の現生及び先史時代遺跡から出土したSus属の歯や骨を用いて形態解析とancient DNA (aDNA) 解析を行った。本論文は全6章から構成される。第1章では家畜ブタや様々な家畜動物の起源や拡散に関する動物考古学研究や分子系統学研究を概観した。また本章では琉球列島の形成史や先史時代文化に関する研究も概観した。第2章には解析に使用した遺跡資料と現生資料、そして解析手法を記載した。琉球列島は地質学・考古学的に北部圏、中部圏、南部圏の3つに区分される。本論文ではこれらのうち中部圏と南部圏の先史時代遺跡から出土した資料を解析した。さらに本論文では現生リュウキュウイノシシの遺伝的変異の程度を確認するため、現生個体のmtDNA D-loop領域を解析した。第3章では沖縄本島の野国貝塚群(約7200 - 4400年前)を含む中部圏の遺跡から出土したSus属の歯や骨を用いて形態・aDNA解析を行った。野国貝塚群から出土した下顎第三臼歯 (M3) の計測値を現生リュウキュウイノシシや沖縄諸島の他の遺跡資料(約4800 - 1400年前)と比較した結果、野国貝塚群から出土したSus属のM3のサイズ分布は、現生リュウキュウイノシシや他の遺跡資料とは異なり小さい事が判明した。また野国貝塚群から出土した下顎骨から得られたmtDNA D-loop領域の塩基配列情報をデータベースから取得した世界のSus属と比較した結果、野国貝塚群から現生リュウキュウイノシシと遺伝的に異なる系統に属するSus属の配列タイプを検出した。第4章では琉球列島南部圏に属する石垣島の大田原遺跡(約4100 - 3800年前)と神田貝塚(約1600 - 900年前)、宮古島のアラフ遺跡(約2800 - 800年前)と長墓遺跡(約1900 - 1400年前)から出土したSus属の骨を用いてaDNA解析を実施した。この結果石垣島の遺跡から出土したSus属は全て現生リュウキュウイノシシと遺伝的に近縁であった。一方宮古島のアラフ遺跡と長墓遺跡からは、現生リュウキュウイノシシと遺伝的に異なる系統に属する個体が検出された。第5章では現生リュウキュウイノシシの遺伝的変異の程度を検討した。リュウキュウイノシシの生息する全7島のうち6島由来の113個体を用いたmtDNA解析の結果、これらは全て遺伝的に近縁であり、他のアジアのSus属系統と近縁な配列タイプは現生集団から検出されなかった。第6章では研究結果をまとめ、先史時代の琉球列島を舞台としたSus属の導入について考察した。琉球列島中部圏では約7200 - 4400年前、南部圏でも約2000年前に琉球列島の野生イノシシであるリュウキュウイノシシとは形態・遺伝的に異なる特徴を持つSus属が存在した事が判明した。この結果から1) 先史時代の琉球列島には遺伝的に異なる野生イノシシが複数系統存在した、2) 先史時代の琉球列島へ人類が近隣地域からSus属を導入していた、という2仮説が考えられた。しかし仮説1で示すように先史時代の琉球列島に複数の野生イノシシ系統が混在していた場合、a) 現在は生息地域ごとに異なるイノシシ系統が生き残っている可能性が高いが、113個体の現生リュウキュウイノシシを解析しても遺伝的に異なる系統は確認されなかった。b) また複数のイノシシ系統は、アジア大陸と琉球列島が地続きであった可能性のある約8万年前より古い時期に渡来し、遺跡が形成された時期まで多型を維持していた事になる。しかしシミュレーションによる推定の結果、複数のイノシシ系統がどちらか1系統に固定する事なく約7万5000年間維持される確率は低い(1%以下)。従って本研究では琉球列島にかつて複数系統の野生イノシシがいたという仮説1は支持されなかった。以上の結果から本研究では、先史時代の琉球列島やその周辺地域でSus属を伴う人類の移動が生じていたという仮説2が支持された。野国貝塚群が属する琉球列島中部圏とアラフ遺跡や長墓遺跡が属する南部圏の間では物質文化交流が12世紀頃まで生じていなかったとされるため、中部圏と南部圏では異なるSus属の導入経路があったと考えられる。先史時代の琉球列島中部圏は考古学的に九州との交流が指摘されている。しかし野国貝塚群から出土したSus属は、九州等のニホンイノシシやアジア大陸の野生イノシシよりも小さいM3を持つうえ、リュウキュウイノシシよりもさらに小型であるため、これらの地域の野生イノシシが直接導入されたとは考えにくい。野国貝塚群のSus属は、家畜化の影響を受けて M3が矮小化していた可能性も考えられる。アラフ遺跡や長墓遺跡が属する琉球列島南部圏の先史時代文化は、フィリピンやミクロネシア等を含む海外諸地域に影響されていた可能性がある。島嶼部東南アジアやオセアニアでは、約3300年前以降に人類が家畜ブタを伴って移動や交流をしていた事が知られているため、琉球列島南部圏のSus属の導入はこれらの先史時代人類の移動や交流による可能性も考えられる。 本論文では先史時代の琉球列島に複数のSus属の導入経路が存在した可能性を示した。また本研究成果は先史時代の東アジアや東南アジア、オセアニアにおけるSus属を伴う人類の移動や交流に琉球列島が含まれていた可能性をも示している。 Although domestic pigs play an important role in traditional food resources in the Ryukyu Islands, southern Japan, the origin of domestic pigs in the Ryukyu Islands is not clear yet. From historical evidence, the oldest date for the introduction of domestic pigs to the Ryukyu Islands was in the 14th century AD. It has been believed that there were no domestic pigs in Ryukyu before this introduction (earlier than 14th century AD), rather people hunted Ryukyu wild boar, one of the subspecies of wild boar that inhabits the Ryukyu Islands. Recent archaeological and zooarchaeological studies in the Ryukyu Islands and surrounding areas, however, suggest that there is a possibility that wild boar or domestic pigs (Sus) may have been introduced to the Ryukyu Islands in the prehistoric times, which is earlier than the 12th century AD according to archaeological chronology. In this thesis, I analyzed tooth samples and ancient DNA (aDNA) derived from bone of Sus excavated from prehistoric sites in the Ryukyu Islands as well as the modern Ryukyu wild boar samples, and investigated morphologically and molecular phylogenetically whether external introduction of Sus into the Ryukyu Islands took place during prehistoric times.This thesis consists of six chapters.Chapter one describes previous archaeological and molecular phylogenetic studies concerning the origin and dispersal over the world of various domestic animals including domestic pigs. In this chapter, I also reviewed previous studies on the formation of the Ryukyu Islands as well as prehistoric culture of the Ryukyu.Chapter two describes archaeological and modern samples, and methods of analyses used in this thesis. Based on geological and archaeological knowledge, the Ryukyu Islands can be divided into three cultural regions, North, Central, and South regions. Of these three cultural regions, for the following analyses, I used archaeological samples from prehistoric sites in Central and South cultural regions. Furthermore, nucleotide sequences of mtDNA D-loop region of modern Ryukyu wild boar were determined to investigate the extent of genetic variation among present population of Ryukyu wild boar.In Chapter three, I analyzed morphological and molecular phylogenetic characteristics of Sus tooth samples and aDNA from bones excavated from the sites in Central region, including Noguni shell middens (ca.7200 - 4400 years ago) on Okinawa main Island. Measurements of lower third molars from Noguni shell middens were compared with those of Sus remains from later sites in the Okinawa Islands (ca.4800 - 1400 years ago) as well as modern Ryukyu wild boar. Based on measurements of lower third molars, Sus samples from the Noguni shell middens were distinctly smaller than those from modern Ryukyu wild boar and other ancient sites in the Okinawa Islands. In addition to morphological analysis, nucleotide sequences of ancient mtDNA D-loop region from mandibles of the Noguni shell middens were compared with those of Sus in other parts of the world collected from a database. Phylogenetic analysis using aDNA sequence types showed that some sequence types from the Noguni shell middens made a different cluster from modern Ryukyu wild boar, suggesting a presence of the different genetic Sus lineage from modern Ryukyu wild boar at that time.In Chapter four, aDNA analysis was carried out by using Sus bone samples excavated from Ohtabaru site (ca.4100 - 3800 years ago) and Kanda shell midden (ca.1600 - 900 years ago) in Ishigaki Island, Arafu site (ca.2800 - 800 years ago) and Nagabaka site (ca.1900 - 1400 years ago) in Miyako Island, which belonged to South cultural region. All aDNA sequence types from prehistoric sites in Ishigaki Island were genetically close or identical to those of modern Ryukyu wild boar. However, sequence types from Arafu site and Nagabaka site were in different lineages from modern Ryukyu wild boar but had rather close relationship to other Asian Sus lineages: the similar situation was observed as in Noguni samples.In Chapter five, I investigated the extent of genetic variation among present population of Ryukyu wild boar to find out whether the different lineage detected from ancient samples still exist among the present populations. Ryukyu wild boar inhabits seven islands in the Ryukyu Islands. Phylogenetic studies based on the mtDNA analysis of 113 Individuals from six of the seven islands show all individuals are genetically close to each other, and no sequence type is either identical or similar to other Asian Sus lineages. Chapter six discusses the possibility of the external introduction of Sus into the prehistoric Ryukyu Islands. In the present study, some Sus samples from prehistoric sites in the Central (ca.7200 - 800 years ago) and South cultural regions (ca.2000 years ago) had different morphological / genetic characteristics from modern Ryukyu wild boar. Concerning the origin of these Sus population from the prehistoric sites in Ryukyu, I propose two possible hypotheses: first, there were at least two genetic lineages of wild boar inhabited the prehistoric Ryukyu Islands; second, introduction of Sus to the Ryukyu Islands by human took place during prehistoric times. I distinguish these hypotheses as follows.In the case of former hypothesis, a) It is very likely that some surviving population has different genetic characteristic from those of other habitats (islands). However, multiple lineages of wild boar were not found in 113 individuals from present populations. b) Furthermore, if multiple lineages of wild boar really existed in the prehistoric Ryukyu Islands, they must have migrated from Asian Continent to Ryukyu at the time when land bridge connected these regions, which is earlier than 80,000 years ago. Based on estimation using simulation, probability for coexistence of multiple Sus lineages for the period of 75,000 years was calculated and it reveals to be lower than 1%. These results indicate that it is unlikely that multiple lineages of wild boar coexisted in the prehistoric Ryukyu Islands. Thus, the latter hypothesis that prehistoric introduction of Sus into the Ryukyu Islands by human was supported by my study. It has been suggested that the South cultural region had no archaeological links with North and Central regions until historic time, ca. 12th century AD. This archaeological evidence infers a possibility of more than one introduction pathways of Sus from outside of the Ryukyu directly to the Central or South Cultural regions during prehistoric times. In the case of Noguni shell middens, some cultural factors of prehistoric Central regions were considered to be related to Jomon culture in Kyushu. This archaeological evidence suggests that Sus population was introduced from main land Japan or from the Asian Continent via Kyushu region. In this case the transported Sus cannot be hunted wild boar because the size of wild boar in both mainland Japan and Asian Continent is much larger than those of Noguni shell middens. There is a possibility that lower third molars of Sus from Noguni shell middens were reduced in size as the consequence of domestication. In contrast, prehistoric culture of South cultural region including Arafu and Nagabaka sites were considered to be related to those of Island Southeast Asia such as the Philippines as well as Micronesia. Since it is revealed that prehistoric human dispersal and peopling in Island Southeast Asia and Oceania was accompanied by domestic pigs and other animals, introduction of Sus population to South cultural region of Ryukyu might be involved in such prehistoric interaction of humans. In this thesis I conclude multiple pathways of Sus introduction to the Ryukyu Islands existed during prehistoric times. Furthermore, present study indicates the possibility that cultural interaction and movement of prehistoric human took place between the Ryukyu Islands and surrounding areas, accompanied by Sus.
著者
髙野瀬 惠子 タカノセ ケイコ Keiko TAKANOSE
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2009-03-24

院政前期において注目すべき人物に令子内親王(1078〜1144)がいる。令子内<br />親王は白河天皇の第三皇女として生まれ、賀茂斎院を勤めた後に鳥羽天皇の准母として皇<br />后となった。院号こそ受けなかったが、院政前期に未婚の皇女が立后して皇室を支えた事<br />例として、その存在の意義は小さくない。そして内親王家で行われた文芸活動もまた考究<br />すべき面を持つ。<br />令子内親王は、母・賢子の養父である藤原師実とその室麗子によって、摂関家で養育さ<br />れた。従って斎院時代(1089〜99)には師実・師通親子の手厚い後見を受けており、<br />摂関家の文化的豊かさを象徴する存在であった。その華やかな内親王家の和歌活動を伝え<br />るのが『摂津集』であり、同じ時期の摂関家の和歌活動を伝えるものに『肥後集』がある。<br />この二集には、摂関家の盛儀歌合や廷臣を率いた花見など、伝統的美意識を継承した催事<br />に関わる和歌が多く収められているが、そこには摂関家の伝統と権威を守り文化的主導権<br />を保ち続けようとする師実・師通親子の意識の反映がある。この時期の令子内親王家は「摂<br />関家文化圏」にあったと言ってよく、それは先行研究において指摘されていた。しかし、<br />令子内親王斎院期には、紫野の斎院御所に於いて神楽が年二回(夏神楽と相嘗祭後朝神楽)<br />催行されていたことや、音楽との関わりも多い廷臣と女房の交流などに、芸能流行の時代<br />の貴族社会の一面を具体的に知ることが出来る。<br />令子内親王が斎院を退下した康和元(1109)年六月、関白師通が三十六歳で薨去し<br />た。これにより摂関家が大きな痛手を被り、自河院政が進行する。内親王は退下後も師実<br />夫妻との関係が深かったが、康和三(1101)年二月、師実もまた薨去した。その翌年、<br />令子内親王は同母弟の堀河天皇に寄り添うように内裏に入り、弘徽殿に住むようになった。<br />この時期の『殿暦』『中右記』の記事からは、令子の内裏入りに、堀河天皇と摂関家(忠<br />実)との結合、天皇と白河院との紐帯をそれぞれ強めるという政治的事情もあつたことが<br />察知される。天皇が大切にする姉令子内親王とその女房たちは、今度は天皇を中核とした<br />文芸活動の中に身を置いた。それは『堀河百首』が作られた時期である。内親王自身は歌<br />人ではなかったが、少なからぬ歌詠み女房を擁する前斎院令子方では、中宮篤子方と同様<br />に、天皇側近の歌人らとの盛んな交流が行われた。『大弐集』はこの時期の令子家の生活<br />を具体的に伝えている。ここでは、百首歌と関連する題詠歌、隠し題などの技巧的・遊戯<br />的な歌、漢詩文の影響を受けた物語的な連作等が見られるが、それらにこの時期の天皇と<br />廷臣らの嗜好と新風の模索が表れている。令子家は、堀河天皇を中心とした文化活動の中<br />にあってその特色を体現するものであり、いわゆる「堀河歌壇」の持つ明るく活動的な雰<br />囲気をよく反映していた。<br /> 嘉承二(1107)年、堀河天皇が崩じると、新帝鳥羽が幼少であったことから令子内<br />親王が准母となって立后し,皇后宮となった。これによって令子内親王とその女房らは、<br />今度は「鳥羽天皇後宮文化圏」とでも言うべきものに属することになった。この時期の令<br />子家の具体的な姿を伝える女房歌集はないが、『金葉和歌集』等に皇后宮令子周辺の和歌<br />を拾うことが出来る。遺された断片的な資料から、令子家の和歌活動は小規模で即興性が<br />あり、小弓・蹴鞠・管絃、或いは今様や神楽歌などと場を同じくすることも多かったこと<br />が窺われる。その背景に、内裏や摂関家での大規模な歌合や物合がなくなり、文化活動が<br />「家」レベルや仲間同士で行われる傾向が強まったことがある。令子家の和歌は、総じて<br />個性的なものとも斬新なものとも言い難い、伝統的な詠みぶりである。しかしながら、皇<br />后宮令子が歌詠み女房を多く抱え、また音楽や物語を愛好する「風雅な宮」(『今鏡』)<br />として存したことは、後宮の中心としての必要性に沿ったことでもあった。史料に散見する<br />皇后宮の行事等からも、後宮の伝統を継承し維持することが期待されていたことが窺われ<br />るのである。<br /> このように令子内親王の人生がそのまま内親王家の文芸活動のあり方に影響したため<br />に、その活動は一貫性やオリジナリティーのないものと見なされがちで、文芸の場や内容<br />の詳細と特質に対する研究は十分には行われてこなかった。しかし、強い個性を持たず、<br />貴族社会の状況が色濃く反映したものであつたこと自体に、令子内親王家の特色と存在意<br />義があると言うべきである。白河・鳥羽両院の時代、すなわち院政の開始から確立に至る<br />時代、貴族社会が激しく変貌する中で生きた令子内親王は、斎院、前斎院、皇后宮、太皇<br />太后宮と、呼称の異なる各期において、環境も少しずつ異なる所に身を置いた。その結果<br />として、各時期の皇室と貴族社会の具体的状況と変化の様相を、内親王家のありようにも<br /> 文芸活動にも反映し続けることになったからである。貴族社会の状況を反映したという点<br />では、令子の同母姉妹(郁芳門院媞子、土御門斎院禎子)や堀河天皇中宮篤子の各内親王<br />家の文芸活動にも見ることが出来るが、とりわけ令子内親王は、六十六年の生涯において<br />長期間重い立場にあった点が重要である。<br /> 白河院政から鳥羽院政に至る時代は、いま、歴史学において中世社会の出発期として注<br/ >目される。この時代の文学の研究には『堀河百首』や『金葉和歌集』等、主要作品を読み<br />解くことが重要であるが、それらの精確な読解のためには、周辺の文芸の場のあり方と人々<br />の意識、貴族の生活実態を探ることが不可欠である。令子内親王家及びその周辺の文芸活<br />動を精査し特質を考察することは、この時代の文学の研究のために必要であり、延いては<br />和歌史の研究にも寄与するものである。