著者
柏木 寧子
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.31-51, 2006

『神道集』物語的縁起の一つ「諏方縁起」が語るのは、主人公甲賀三郎諏方が人としての生を経て、諏方大明神として顕れるまでの過程である。この過程は、妻と生別した諏方が妻を恋慕し、夫婦再会を求めて遥かな時空間を渡る流離として具体化される。諏方が神として顕れ得るのは、諏方が仏への途上の存在であることによる。諏方が仏への途上の存在である得るのは、諏方が恋慕する存在であることによる。諏方において、恋慕は仏道修行である。仏道修行としての恋慕を示唆する観点として、第一に、恋慕の苦が仏道修行に入り進むための機縁になる、とする観方がある。第二に、夫婦の関係性を全うすることが自己の宿業の知をもたらす、という観方がある。第三に、これは本文に明示的に言及されているわけではないが、遥かな時空間を渡り恋慕の一念を貫く諏方の在りようと、久劫に及ぶ六道輪廻を経て成仏の初志を遂げる菩薩の在りようとの相似性を挙げることができる。遥かな時空間を渡る流離はまた、諏方の一身上、一回的なる経験としての限定性を超え、人々の共有し得る意味を帯びるようになる。諏方は、恋慕する存在の典型と見做されるに至る。「諏方縁起」はその終極において、一方で仏への途上の存在としての諏方像を、他方で恋慕する存在の典型としての諏方像を完成する。諏方はこの時、人々に対し超越的でもあり、内在的・再来的でもある場処を獲得する。即ち、一方で諏方は仏を志して人々に優る歩みを重ね、人々にとって避け難い夫婦の関係性の危機を既に超え得たと解される。他方でまた諏方は、人々の存在の現実相と、その現実相の延長上に到達し得るものとしての真実相をともに身を以て具現し、今に至るまで人々に開示し続けていると解される。ここに諏方が神として顕れる可能性ならびに必然性が成立する。
著者
Sam S Baskegtt
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.31-42, 1989-03

H.G.ウェルズの『海の女』(The Sea Lady)(1902)はエリオットの最初の重要な詩、「J.アルフレッド・プルフロックの恋の歌」("The Love Song of J.Alfred Prufrock")に重大な影響を与えた。『海の女』は英国の礼儀正しい(proper)若い芸術愛好家(ディレッタント)と彼の愛をもとめて海からやってきた人魚とのファンタジーである。優柔不断に苦しんだ後、彼は彼女と共に海に消えていく。プルフロックの葛藤も本質的には同じで、社会的因習のしがらみと人魚に象徴される無意識への渇望との間の逡巡である。ウェルズの主人公、シャタリス(Chatteris)の持つ多くの特長はプルフロックも共有する。さらに、主題や言語表現上の共鳴がみられる。もちろん、その主なものは人魚の比喩である。ウェルズの人魚の魅力は明らかにセクシュアルなものだがそれ以上のものでもある。シャタリスにとって、彼女は自然美、自由、夢(脅威を伴うが)であって、義務、調和の世界からの逃避を表わす。なによりも重要なのは、ウェルズが、シティーとディオニュシオスの間の、因習的秩序と神秘の世界との間の"根源的な闘い"を提供していることで、エリオットがウェルズのこの小品にひかれた理由がこの点にあろう。以上、3つの関連あるモチーフは若い詩人のこころの琴線に触れた。エリオットは、シャタリスのように、セクシャリティに関しては優柔不断であった。さらに広く言えば、シャタリスを苦しめる優柔不断はエリオットが自己診断をした"aboulie"(どのようなレベルにおいても決断する能力がない)と似ている。しかし、もっとも注目すべきことは、「J.アルフレッド・プルフロックの恋の歌」だけでなく、かれのすべての作品に見られる審美的重要性を左右する政治的、哲学的、性的衝動の単純な扱い方をエリオットはウェルズの『海の女』の中に見つけたのである。シャタリスとプルフロックの両者は、またその著者たちも、1980年代の視点からは不徹底とはいえ、今世紀はじめの新しい"性の自由"の問題を扱おうとした。エリオットは、多分自己防衛の偽装として、彼自身が恐れた衝撃的な失敗者の肖像(恐ろしいが魅力ある人魚が彼に歌わないかもしれないということ)をウェルズの材料の「流用」によってつくりだしたといえよう。
著者
高柳 茂
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1957, no.7, pp.55-61, 1957-03-31 (Released:2009-07-23)
参考文献数
27

近代的形式論理学の最近の著しい発展に刺戟されたことも一つの原因に数えられようが、唯物弁証法もその歴史的遺産を再検討し、自己の論理形式を一層発展させようとする気運が近頃高まって来たように思われる.唯物弁証法が「思惟及び現実の論理」としての力を喪わない為にも、諸科学の発展に応じた諸原則の展開が常に試みられてゆかねばならない.ところで近代的な弁証法は伝統的形式論理学の内容的空しさから脱却し、その無力を克服する為に、近代的形式論理学の方向とは異ってカテゴリーの論理的価値を重視し、その批判的考察を自らの論理的主題に大きく取り上げた点に一つの著しい論理的特性を持つと考えられよう.唯物弁証法も、このドイツ観念論特にヘーゲルが試みた課題の成果を批判しつつ、又幾多の点で基本的に継承しているが、所謂「量質転化の法則」も受け継がれた主要なものの一つである.この小論は「量質転化の法則」に対するサルトルの批判から出発し、苦干の問題点を取り出した上で二三の弁証法的思想家の見解に対比しつつ検討を加え、質と量のカテゴリーの多義牲に少しでも光を与えることを目的とする.
著者
北野 安寿子
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.59, pp.149-162,L15, 2008-04-01 (Released:2010-07-01)
参考文献数
23

In recent decades, one of the most widely debated questions in the philosophy of mind has been whether consciousness is physical or nonphysical. Jackson's knowledge argument, which argues that there are truths about consciousness that cannot be deduced from physical truths and infers that physicalism is false, has attracted interest since its appearance in 1982. In this paper, I examine the three major physicalist replies to the argument.I first clarify what the argument requires of physicalists: they must show that physicalism is as compatible as property dualism with the following two intuitions: (i) no amount of nonphenomenal knowledge suffices for phenomenal knowledge (empiricism about phenomenal knowledge), and (ii) the object of a piece of empirical knowledge is a fact. I next point out that there are two options a physicalist who accepts (i) and (ii) might take: (A) to refute the knowledge argument and nevertheless satisfy (i) and (ii); (B) to show that physicalism can accept the argument and satisfy (i) and (ii). In the final section, I examine the three major (A)-type responses to the argument: the Non-Propositional-Knowledge View; the Old-Fact/New-Mode View; and the Incomplete-Physical-Knowledge View.The conclusion I draw is this: the first reply fails to establish the invalidity of the argument; the second fails to satisfy intuition (ii); the third succeeds in satisfying both intuitions, but only in a negative way. It therefore appears that (B) is the more preferable option for a physicalist to adopt.

1 0 0 0 OA 現代と宗教

著者
田丸 徳善
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1973, no.23, pp.51-63, 1973-05-01 (Released:2009-07-23)
参考文献数
37
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1995, no.45, pp.101-172, 1995-04-01 (Released:2009-07-23)

1 0 0 0 IR 重力の観念史

著者
奥村 大介
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.129, pp.43-72, 2012-03

投稿論文Dans cet article, nous voudrions tenter de faire une analyse diachronique des idées relatives à des notions telles que la gravitation, la pesanteur et la chute depuis l'Antiquité jusqu'au vingtième siècle. Certes, la gravitation dans le sens scientifique est la fruit du temps moderne, si bien que l'essai de la chercher dans l'Antiquité risque de retomber dans l'anachronisme. Donc, ce que nous voudrions essayer de faire est plutôt de traiter des notions comme "a gravitation", "la pesanteur", "l'attraction", "la chute" etc. dans le contexte extra-scientifique et culturelle pour en donner un relief de l'histoire intellectuelle là-dussus. En un mot, on pourrait qualifier notre effort de "la généalogie philosophique sur la pesanteur". L'idée moderne de la gravitation est le sujet de l'histoire des sciences avec les génies comme Kepler, Newton et Einstein etc. Mais ici, nous recherchons les émergences d'idée de la gravitation ou la pesanteur dans les domaines alentour de l'histoire de la philosophie, la littérature, la penseé religieuse et la penseé sociale comme Platon, Dante, Bossuet, Charles Fourier, Italo Calvino, Simone Weil etc., parallèlement au développement concomittant des idées scientifiques. Et cette histoire culturelle de la pesanteur sera constituée surtout sur les deux axes, à savoir, "la maîtrise de la pesanteur" et "le consentement à la pesanteur".