著者
大澤 真幸
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.25-39, 2006

「オタク」と呼ばれる若者たちが、日本社会に登場したのは、1980年代の初頭であった。本稿の目的は、オタクが、いかに謎に満ちた現象であるかを示すことにある。オタクとは何か?オタクは、それぞれが関心を有する主題領域についての「意味の重みと情報の密度の著しいギャップ」によって、伝統的な趣味人や専門家からは明確に区別される。われわれは、オタクについての通念に反する4つの逆説を提示する。(1)オタクは、それぞれがコミットするきわめて特殊な主題にしか興味をもたない、と言われる。これは、事実だが、オタクの生成過程・発展過程の観察から、われわれは次のような仮説を導出する。すなわち、オタクが特殊な領域にしか興味をもたないのは、まさにその特殊な領域に普遍的世界が圧縮されて表現されているからである、と。(2)オタクは、現実をも虚構と本質的には異ならない意味的な構築物と見なすような、アイロニカルな相対主義者である。オタクは、意識のレベルでは、虚構の対象に対して、このようにアイロニカルな距離を保ちながら、反対に、行動のレベルでは、その同じ対象に徹底して没入してもいる。こうした意識と行動の間の逆立が、またオタクを特徴づける。(3)オタクは、他者との接触を回避する非社会性によって特徴づけられる。が、同時に、オタクは、他者を希求し、連帯を求めてもいる。オタクの主題領域に見出された逆説(普遍性の特殊性への反転)に対応した両義性が、対他関係にも見出されるのだ。すなわち、オタクにあっては、他者性への欲求が、他者性の否定(類似性への欲求)へと裏返るのである。(4)他者性への関心は、身体への関心としばしば並行している。身体の活動性の低下は、オタクの特徴である。だが、他方で、身体の活動性を上げることへの、つまり身体の直接性への関心もまた、現在の若者たちの特徴である。身体に関しても、背反するベクトルが共存している。以上のような逆説が、なぜ出現するのか。オタクを視野に収めた、社会学的な若者論は、これを説明できなくてはならない。

16 0 0 0 OA オタクという謎

著者
大澤 真幸
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.25-39, 2006-05-27 (Released:2017-09-22)

「オタク」と呼ばれる若者たちが、日本社会に登場したのは、1980年代の初頭であった。本稿の目的は、オタクが、いかに謎に満ちた現象であるかを示すことにある。オタクとは何か?オタクは、それぞれが関心を有する主題領域についての「意味の重みと情報の密度の著しいギャップ」によって、伝統的な趣味人や専門家からは明確に区別される。われわれは、オタクについての通念に反する4つの逆説を提示する。(1)オタクは、それぞれがコミットするきわめて特殊な主題にしか興味をもたない、と言われる。これは、事実だが、オタクの生成過程・発展過程の観察から、われわれは次のような仮説を導出する。すなわち、オタクが特殊な領域にしか興味をもたないのは、まさにその特殊な領域に普遍的世界が圧縮されて表現されているからである、と。(2)オタクは、現実をも虚構と本質的には異ならない意味的な構築物と見なすような、アイロニカルな相対主義者である。オタクは、意識のレベルでは、虚構の対象に対して、このようにアイロニカルな距離を保ちながら、反対に、行動のレベルでは、その同じ対象に徹底して没入してもいる。こうした意識と行動の間の逆立が、またオタクを特徴づける。(3)オタクは、他者との接触を回避する非社会性によって特徴づけられる。が、同時に、オタクは、他者を希求し、連帯を求めてもいる。オタクの主題領域に見出された逆説(普遍性の特殊性への反転)に対応した両義性が、対他関係にも見出されるのだ。すなわち、オタクにあっては、他者性への欲求が、他者性の否定(類似性への欲求)へと裏返るのである。(4)他者性への関心は、身体への関心としばしば並行している。身体の活動性の低下は、オタクの特徴である。だが、他方で、身体の活動性を上げることへの、つまり身体の直接性への関心もまた、現在の若者たちの特徴である。身体に関しても、背反するベクトルが共存している。以上のような逆説が、なぜ出現するのか。オタクを視野に収めた、社会学的な若者論は、これを説明できなくてはならない。
著者
大澤 真幸
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.21-36, 2000-06-30 (Released:2016-09-30)
参考文献数
18

人間を人間たらしめている条件は何か? われわれは、それを「原的な否定性」の成立に見ることができる。「原的な否定性」とは、始発的な禁止、根拠を問うことができない禁止のことである。それぞれの原的な否定性がその妥当な効力を発揮しうる範囲が、社会システムの境界を定めている。それゆえ、原的な否定性の起源を問うことは、人間的な社会性の起源を解明することでもある。本稿は、そうした探究のための準備作業である。社会生物学は、「利己的な遺伝子」の理論によって、動物個体の間に、原始的な社会性が一般に成立しうる、ということを論証してきた。人間に固有な〈社会性〉は、こうした原始的な社会性との差分によって定義することができる。ここでは、二つの供儀的な殺害行為を対照させることで、すなわちチンパンジーの子殺し行動とキリストの殺害とを対照させことで、完全に人間に固有な〈社会性〉が、第三者の審級を超越的な準位へと分離することの成功によって画される、という仮説を導き出す。チンパンジーの子殺し行動は、―これと機能的に等価な代替関係にあるボノボの特殊な性行動の機能を考慮に入れてみるならば―第三者の審級の投射に反復的に挫折する営みとして解釈することができる。それに対して、キリストの磔刑は、第三者の審級を投射する機制を「脱構築」するものである。両者は、事前と事後の両側から、第三者の審級を投射する機制の実態を照らし出す。
著者
大澤 真幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.20-32, 2007-03-10 (Released:2017-08-01)

かつてジャック・デリダは、形而上学における「音声言語中心主義」を批判した。だが、この批判は、日本語による思考には直接にはあてはまらない。日本語の思考は、文字(エクリチュール)に深く規定されているからである。このことは、日本語が、独特の書字体系、つまり「漢字かな混じり文」をもっていることと深く関連している。デリダは、彼が「脱構築」と名づけた強靱な思索を通じて、音声言語に対する文字の優越を何とか回復しようとしたのだが、日本語においては、こうした条件は、最初から整っていたのだ。この発表では、こうした特徴を有する日本語に基づく思考の「強さ」と「弱さ」について論ずる。また、この特徴が、日本社会の歴史的構造と相関していることを示す。さらに、議論は、この特徴が、明治以降の西洋文化の導入にどのように反響したかという問いへと移るだろう。この問いへの探究は、日本の思想、とりわけ日本の近代思想において、文学が中心的な影響力をもったのはなぜなのかということを解き明かすことにもなる。「近代文学(小説)の終焉」は、日本語にとって流行の盛衰以上のものだ。それは、日本語に基づく思考そのものの危機かもしれないからだ。
著者
大澤 真幸
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.23-42, 1990-04-01 (Released:2009-03-31)
参考文献数
16
被引用文献数
3

我々にとっては、任意の事物・事象は「意味」を帯びたものとして現象する。(1)最初に、我々は、意味についての現象学的な規定から出発し、意味に対する志向性が、一種の選択の操作として記述できることを示す。選択の操作は、異なる可能性の排除と保存によって特徴づけられる。すなわち、ある特定の「意味」において対象の同一性が規定されたとき、対象の他なる同一性は排除されると同時に、可能なるものとして保存されてもいるのだ。(2)ついで、我々は、意味の概念と情報の概念を区別することによって、意味に向けられた選択の操作が、自己準拠的な構成を取らざるをえないということを明らかにする。このことは、対象の同一性が意味を通じて決定されるとき、同時にその対象が所属する世界の同一性が指し示されていることを含意している。しかし、世界と自己準拠的な選択の操作は、その根本的な単一性(孤立性)のゆえに、同定不可能なものにみえる。というのも、我々は、選択の操作や世界がまさにそこからの区別において存在するような「外部」を、積極的に主題化することができないからだ。(3)そこで、我々は、分析哲学が提起した、「志向的態度(信念)についてのパラドックス」を検討する。志向的態度についての言明は、意味を規定する選択の操作を言語的に表示するものである。我々の解釈では、パラドックスは、他者が存在するときそしてそのときのみ、世界や選択の操作の同定を可能ならしめる「外部」が、構成される、ということを含意している。したがって、意味は、ただ、他者の存在を根源的な事実として認める理論の中でのみ、正当に論ずることができるのだ。言い換えれば、意味は、本質的に社会的な現象なのである。
著者
大澤 真幸
出版者
The Robotics Society of Japan
雑誌
日本ロボット学会誌 (ISSN:02891824)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.485-489, 1996-05-15
被引用文献数
2
著者
岡本 仁宏 荒木 勝 菊池 理夫 木部 尚志 古賀 敬太 杉田 敦 千葉 眞 寺島 俊穂 富沢 克 的射場 敬一 丸山 正次 山崎 望 山田 竜作 大澤 真幸 岡部 一明 遠藤 比呂通 ありむら 潜 大竹 弘二 立岩 真也 石井 良規 天野 晴華
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

冷戦後の世界において、多くの人びとは我々の政治理論・社会理論が動揺する世界秩序を把握する言葉や構想を持ちえていないことを感じているという現状認識のもとに、近代政治理論における政治主体の基本用語の可能性と限界を追求した。「人間、国民、市民」(ヒューマニティ、ナショナリティ、シティズンシップ)という基幹的主体用語を中心に、「市民社会、ナショナリズム、グローバリズム」という三つの政治思想との関連において、その妥当性を検証し、既存概念の限界を指摘すると同時に、それらに代わる政治主体の可能性を検討した。
著者
大澤 真幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.20-32, 2007

かつてジャック・デリダは、形而上学における「音声言語中心主義」を批判した。だが、この批判は、日本語による思考には直接にはあてはまらない。日本語の思考は、文字(エクリチュール)に深く規定されているからである。このことは、日本語が、独特の書字体系、つまり「漢字かな混じり文」をもっていることと深く関連している。デリダは、彼が「脱構築」と名づけた強靱な思索を通じて、音声言語に対する文字の優越を何とか回復しようとしたのだが、日本語においては、こうした条件は、最初から整っていたのだ。この発表では、こうした特徴を有する日本語に基づく思考の「強さ」と「弱さ」について論ずる。また、この特徴が、日本社会の歴史的構造と相関していることを示す。さらに、議論は、この特徴が、明治以降の西洋文化の導入にどのように反響したかという問いへと移るだろう。この問いへの探究は、日本の思想、とりわけ日本の近代思想において、文学が中心的な影響力をもったのはなぜなのかということを解き明かすことにもなる。「近代文学(小説)の終焉」は、日本語にとって流行の盛衰以上のものだ。それは、日本語に基づく思考そのものの危機かもしれないからだ。