著者
上野 邦一
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文報告集 (ISSN:09108017)
巻号頁・発行日
vol.389, pp.125-135, 1988-07-30 (Released:2017-12-25)
被引用文献数
1

There are two drawings of great fires at 1832 in Takayama local museum. In two drawings, I can get many informations on Takayama at 1832, for example, a shape of the town, a site of house, a distribution of "Kashiya" (houses of rent) and its owners. Three south-north roads were main streets and there were some esat-west paths that connected them. Along even three main street, there were "Kashiya" s over fifty percent, and "Kashiya" s made a row in both sides of east-west paths. There were fields on the west side of Katahara-machi, however they were not found in the map at 1873. There were seven merchants who had more than ten "Kashiya"s. There were some "Kashiya" owners who lived outside of Takayama. Some "Kashiya" owners employed "Yamori", the person who managed lands and building instead of the owner. I can not find "Yamori" in two drawings, however, I can find "Yamori" in a kinds of cencus register contemporary with drawings. After the great fire, it is often found the case that the renter rebuilt the houses. The big fire was the opportunity that owners disposed of lands and houses. Almost part of Takayama was destroyed again by the great fire at 1876. After twice great fires, Takayama kept the former road pattern and the former shape of house. This had maken Takayama into the traditional town. I think that Takayama kept the shape of the town till the end of the second War.
著者
田中 淡 周 達生 宮本 長二郎 上野 邦一 浅川 滋男 郭 湖生 楊 昌鳴
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住宅総合研究財団研究年報 (ISSN:09161864)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.223-239, 1990 (Released:2018-05-01)

東アジアから東南アジアにかけて集中的に分布する高床住居は,主として近年の発掘成果により,新石器時代の華南にその起源を求められつつある。そして,最近の研究によれば,先奏時代の華南に蟠踞した百越という1群の南方系諸民族が,初期における高床住居の担い手であった。本研究の対象となる貴州のトン族は,この百越の一地方集団であった駱越の末裔と考えられている。たしかにトン族は,雲南のタイ族や海南島のリー族とともに,高床住居を保有する代表的な民族であるが,これまでその高床住居に関する研究はほとんどされていない。したがって,百越の末裔たるトン族の高床住居を研究対象にすること自体に大きな意味があるといえるだろう。しかし,問題はそれだけではない。調査対象地である黔東南苗族とう族自治州には,トン族以外にもミャオ族,プイ族,スイ族,漢族など多数の民族が居住しているからだ。われわれの研究がめざすもう1つの目標は,このような多民族地域における文化の重層性と固有性を,住居という物質文化を媒介にして解明することである。これは,文化人類学における「文化の受容とエスニシティの維持」というテーマに直結する,重要な問題といえるだろう。今年度の調査は,次年度以降,継続的になされるであろう集中的な調査の予備的役割を担うものであり,自治州を広域的に踏査し,できうるかぎり多くの家屋を観察・実測することに主眼をおいた。その結果,トン族,ミヤオ族,プイ族,漢族の家屋を,合わせて50棟実測することができた。本稿では,以上の諸例を民族別・類型別に報告するとともに,民族相互の比較から,平面と架構について,トン族本来の形式と漢文化受容以後の形式の差異を論じ,また住居に現れた「漢化」の諸側面についても指摘している。来年度以隆は,調査対象を1か所に限定し,住み込みによる集中的な調査を行なう予想である。
著者
田中 淡 周 達生 宮本 長二郎 上野 邦一 浅川 滋男 島田 敏男 羅 徳啓 黄 才貴 郭 湖生 楊 昌鳴
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住宅総合研究財団研究年報 (ISSN:09161864)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.405-420, 1992 (Released:2018-05-01)

88年度に行なった貴州省黔東南苗族トン族自治州での広域的な調査をふまえ,90年度には対象村落を1か所に限定して,トン族の集落に関する集中的調査を行なった。(天安門事件の影響で調査・研究のプログラムが丸1年延期された)。調査地は,第2次調査で最も斬新な知見をもたらした巨洞と同じ都柳江沿岸に位置する蘇洞上寨(住居散35・世帯数44・人口218)である。蘇洞は,従江県下江区の中心地である下江鎮に近接するため,巨洞などの僻地集落に比べるといくぶん漢化の様相が著しい。しかし,漢化もまた,トン族の文化を理解するうえでの重要なキーワードである。調査は建築班2班と民族学班1班に分かれ,建築班は集落内の主要家屋全戸の平面・断面の実測,民族学班は全世帯の家族構成・血縁および婚姻関係の把握を最低のノルマとし,余裕ができた段階で,村大工からの聞き取り,部材呼称の音声表記,通過儀礼・祭祀・禁忌に関する聞き取り,スケッチ・マップ調査などを相互協力のもとに進めた。本稿では,とくに龍脈に統制された集落の空間構造と,住居の平面・構造に映し出された漢化の様相に焦点をしぼって,蘇洞の住空間を素描してみた。
著者
片桐 正夫 石澤 良昭 上野 邦一 藁谷 哲也 畔柳 昭雄 重枝 豊 清水 五郎 伊東 孝 坪井 善道 重枝 豊 伊東 孝 畔柳 昭雄 坪井 善道 藁谷 哲也 石澤 良昭 上野 邦一 伊豆原 月絵 大山 亜紀子 小島 陽子 チェン ラター 加藤 久美子 長澤 紘人 木下 洋道 勝原 基貴 有川 慎一郎 ロス ボラット ブリュノ ダジャンス ブリーノ ブルギエ イム ソックリティ 三輪 悟
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2005

王道(幹線古道)の踏査、および沿道遺構の実測を含むデータの収集により、(1) 王道及び遺構の建築的編年指標から建造年代の確定、技術的特徴の解明、これによる地域別の差異、技術者集団の存在について、(2) 各道の整備の編年、役割についての考察(Bルートでは現タイピマーイへ、Cルートではプリア・ヴィヘア、現ラオスワット・プーなどへの聖地巡礼、Dルートでは鉄資源の確保や生産地を結ぶなど)が可能となった。
著者
肥塚 隆 淺湫 毅 橋本 康子 深見 純生 小野 邦彦 上野 邦一 榎本 文雄 渡辺 佳成 丸井 雅子
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2009

クメール王国の刻文に頻出する devaraja の語は、 「神のような王」を意味し、王の没後にその墓廟として寺院が造営され、神仏と一体化した王像が安置されたと考えられてきた。また東部ジャワでも、同様な信仰があったとされてきた。しかしインドではこの語は「神々の王」の意味で用いられるのが一般的で、王を神格化する信仰が盛行した形跡はない。南インドでは王像が神像と並べて寺院に安置されることは珍しくないが、むしろ王権の神聖さの明示にあったと考えられる。
著者
石澤 良昭 VELIATH Cyril 片桐 正大 上野 邦一 菱田 哲郎 後藤 章 青柳 洋治 村井 吉敬 中尾 芳治 荒樋 久雄
出版者
上智大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2002

ミャンマー・マンダレー管区パガン地域およびマンダレー地域の調査研究旅行経路:成田(関空)-バンコック-ヤンゴン-パガン-ヤンゴン-バンコック-成田(関空)<国内における準備活動>(1)ミャンマーに関する水利灌漑関連の文献資料、農業関係資料(特にJETROアジア経済研究所図書館)の調査、収集、(2)パガン遺跡調査、エーヤーワディ川に関するビルマ語文献、英領時代のチャウセー地方の灌漑調査報告書、農機具調査報告書、灌漑水路による乾季作調査などに基づき調査方法の確定、など。<現地における調査・研究活動>1)ミャンマー文化省を表敬訪問、考古局長U Nyun Han氏と打ち合わせ会議:担当官の同行による現地調査地点の確認と調査地の事前通告の再確認。マンダレー・チャウセー灌漑局と打ち合わせ。2)ビルマ語の灌漑地図:地図および報告書の収集と同時に検分。チャウセー農業報告書の主要部分の英訳作成。3)マンダレー、チャウセーおよびパガン調査:(1)乾燥地帯と在地灌漑技術の痕跡調査。(2)シャン高原に源を持つ水量豊かな複数の河川とチャウセーとの複合扇状地調査。(3)古い形の集住社会(カヤイン)単位の検証と灌漑稲作の関係調査。(4)パガン王朝諸王の灌漑施設建設、大人口の集中と寺院建設の検証(5)当時の河川交通による交易とコスモポリタン的パガン文化の調査。(6)寺院仏塔のレンガ材と水利構造物の建築方法調査(建築班、考古班):一部オーガによるボーリング(7)チャウセー地方の河川取水による古水利網調査(灌漑工学班):往時の生産高と村落配置の考察(8)パガン都城と内陸交易物産と村落経済調査(社会経済班)(9)修復中の仏塔・寺院調査(歴史・考古班)4)研究協力者:U Nyun Han(ミャンマー文化省・考古局長)パガン保存修復担当
著者
石澤 良昭 上野 邦一 菱田 哲郎 一島 正真 VERIATH Cyiril 丸井 雅子
出版者
上智大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

上智大学アンコール遺跡国際調査団は、2001年3月と8月に仏教遺跡バンテアイ・クデイから274体の廃仏と千体仏石柱を発掘した。歴史上初めての大量廃仏発掘であった。この大発見は国内外の各紙に報じられた。仏像の大きさは大きいもので1.8mほど、小さいもので20cmほどの大中小があった。仏像は砂岩製で,青銅製の小物2体も見つかった。これら仏像は蛇神ナーガの上に結跏跌座したブッダ坐像であり、仏陀を守っている彫像(以下ナーガ坐像と略す)である。時代は11世紀から13世紀である。<インドからヒンドウ教と仏教が到来>カンボジアには1~2世紀頃インドから海のシルクロードを通じてヒンドゥー教と仏教が入ってきたが,カンボジアで土着した大乗仏教は、観世音菩薩のナーガ坐仏を信仰していた。<政治抗争と廃仏事件>これら廃仏はほとんどが首を切られていた。13世紀半ば頃ヒンドゥー教を信奉するジャヤバルマン8世(1243-1295)が命じて全国の仏教寺院に安置されていた仏像を引っ張り出し、首を切断して埋納抗に埋めたのであった。本研究は、この274体の廃仏事件から始まるものである。<バンテアイ・クデイ遺跡周辺調査>バンテアイ・クデイ遺跡発掘を再開し、アンコール遺跡群および地方の仏教系遺跡(バンテアイ・チュマール、コンポンスヴァイ、プリヤ・カンなど)の遺跡調査を実施。<マトゥラー地方の発祥ナーガ坐仏の歴史背景調査および東南アジアとの比較研究>マトゥラー地方ではクシャン朝(BC2世紀~AD6世紀)からグブタ朝(4~7世紀)にかけて多数のナーガ坐仏が製作された。これらナーガ坐仏は力強く量感に富む造形を持ち、インド各地、そして海外のカンボジアなどに伝播した。インドとカンボジアに共通するナーガ坐仏が何故時を超えて存在したかを問い、両地域に存続した仏教的精神価値体系の結晶を探ろうとする初めての試みであった。<カンボジア・インドのナーガ坐仏の図像学的特相調査および比較考察>(1)肉髷相、(2)衣相、(3)耳朶相、(4)自毫相、(5)手足の千幅輪相、(6)印層、(7)宝冠飾り、(8)身広長等相、(9)真青眼相などについて調査し、両地域における図像解明を実施し、信仰における受容状況とその展開、さらにその時代の仏教精神の比較検討をした。加えて両国におけるヒンドウ教徒と仏教の政治的背景と歴史展開をそれぞれ詳解に考究し、大きな学術研究の成果をおさめた。