著者
藤原 進 波多野 雄治 中村 浩章
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.35-41, 2022-01-05 (Released:2022-01-05)
参考文献数
44

トリチウム(三重水素,3HあるいはTと表記)は,極めて低いエネルギーのβ線と反ニュートリノを放出する放射性の水素同位体である.自然界では地球に降り注ぐ宇宙線と大気との核反応により生成される.また原子炉でも生成される.生体試験用のトレーサーや蛍光物質を用いたライトなどにも利用されており,高純度のトリチウムは,核融合反応の燃料にもなる.福島第一原子力発電所の処理水中にも存在しており,社会的関心を集めている.トリチウム由来のβ線の飛程は水中や細胞中で数ミクロン程度と短い.そのため,外部被ばくが問題となることはなく,内部被ばくに対する防護が重要となる.我々は,トリチウムが生体分子へ与える影響を計算機シミュレーションで解き明かすことにより,生体分子の損傷機構を明らかにすることを目指している.そこで,計算手法およびシミュレーション精度の確認のため,単純な系で生体分子の損傷速度を定量的に評価する実験技術の開発を進めている.実験では,蛍光顕微鏡を用いたDNA一分子観察法により,トリチウム水中に浮遊するDNAの二本鎖切断メカニズムを定量的に明らかにしつつある.具体的には,滅菌環境下でトリチウム水およびトリチウムを含まない注射用水中におけるDNAの平均長さの経時変化を,蛍光顕微鏡で観察した.その結果,注射用水と比べて高濃度トリチウム水中では,DNA二本鎖切断が速やかに起こることがわかった.一方で,1 kBq/cm3程度のトリチウム濃度では有意な照射効果が見られないことを確認した.トリチウムを含む化合物が生体内に取り込まれると,化合物中のトリチウムがDNA分子中の軽水素と置き換わることがある.このことは,メダカや大腸菌を使った実験で確かめられている.トリチウムに特有の壊変効果として,DNA分子中の軽水素に置換したトリチウムが3Heにβ壊変することによる化学結合の切断が挙げられる.法令による排水中の濃度限度(60 Bq/cm3)におけるトリチウムと軽水素の比はT/H=5×10-13と極めて小さく,置換トリチウムの影響が現れるとは考えにくい.一方で,「どの程度の濃度以上であれば置換トリチウムの影響が顕著になるのか?」という問いに対して,現時点では必ずしも明確な答えはない.そこで我々はトリチウムの壊変効果に着目し,DNAから置換トリチウムが除去されることに伴うDNA部分構造の変化を,分子動力学シミュレーションにより明らかにする.我々の戦略として,まずDNAよりも分子構造の単純な高分子の計算から始め,続いてDNAの計算を行った.高分子の分子動力学シミュレーションの結果,除去される水素の割合が大きいほど,高分子の熱安定性と構造安定性が低下することがわかった.また,二重結合や共役結合の生成など,化学結合の変化を確認することもできた.さらに,テロメア二重らせんDNAの分子動力学シミュレーションの結果,グアニンのアミノ基中の水素が除去されることにより,水素結合が消失し二重らせん構造が崩れる様子を明らかにすることができた.今後は,反応力場を用いた分子動力学シミュレーションにより,β壊変によるDNA二本鎖切断のメカニズムの解明といった展開が期待される.本記事の長さは通常の「最近の研究から」欄記事の規定を超過しておりますが,編集委員会の判断によりこのまま掲載しています.
著者
土田 陽平 齋藤 誠紀 中村 浩章 米谷 佳晃 藤原 進
出版者
日本シミュレーション学会
雑誌
日本シミュレーション学会論文誌 (ISSN:18835031)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.32-36, 2021 (Released:2021-06-15)
参考文献数
12

福島第一原子力発電所の廃炉に伴いトリチウム水の海洋放出が検討されている.また,将来の発電技術として期待されている核融合発電では,トリチウムを燃料として用いる.そのため,トリチウムの生体への影響を詳細に解明することが求められている.我々は,ヒトDNA中の軽水素がトリチウムに置換した際に生じる壊変効果がDNAを損傷するメカニズムを,分子動力学法を用いて解明することを目指している.壊変効果の影響を理解するためには,まずDNA中の各々の軽水素について,トリチウム置換のしやすさを評価する必要がある.そこで本研究では,ヒトDNAテロメア構造のバックボーン中に存在する水素原子を対象に,トリチウム置換のしやすさの指標を得るために分子動力学計算を実施し,各水素の溶媒接触表面積を計算した.計算結果から,バックボーン中の水素原子の中ではH5の水素の溶媒接触表面積が大きいことが判明した.
著者
藤原 進 中村 浩章 阿蘇 司 米谷 佳晃
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
挑戦的研究(萌芽)
巻号頁・発行日
2021-07-09

福島での原発事故において、トリチウム汚染水の処理が社会的関心を集めている。トリチウム被曝では、従来の研究で考慮されてきた直接作用と間接作用に加えて壊変効果が存在するにも関わらず、これまで見落とされてきた。本研究では、トリチウム被曝の第三要素「壊変効果」に着目し、置換トリチウムのβ壊変によるDNA損傷の分子機構を分子シミュレーションにより解明する。具体的には、トリチウムの置換部位を特定するための分子動力学(MD)計算とDNAの壊変効果を解析するための反応力場MD計算の組合せにより、置換トリチウムの壊変効果を解き明かす。さらに、置換トリチウムの壊変効果も含めたGeant4-DNAの開発を進める。
著者
白崎 良演 中村 浩章 羽田野 直道 町田 友樹 長谷川 靖洋
出版者
横浜国立大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2005

我々は、2次元電子系がメゾスケールの大きさである場合、強磁場下で系のネルンスト係数に量子振動が見られる(量子ネルンスト効果)ことを平成17年度から平成18年度にかけて線形応答理論を用いた理論計算で示していた。平成18年度にフランスのグループ(Bhenia, et. al. ESPCI, Paris)から、ビスマス(Bi)単結晶のネルンスト係数およびエッチングスハウゼン係数の測定結果が発表され、ネルンスト係数の量子振動が現実の系で示された。我々はこの実験結果の検討を行い、試料の3次元性の効果を取り入れた理論拡張を行った。我々は磁場中の3次元バリスティック系を考え、運動の自由度を磁場に垂直な2次元面内の自由度と磁場に平行な自由度に分け、2次元面内の運動成分は有限サイズのバリスティックなものと見なしてネルンスト係数を考察した。その結果、3次元系でもネルンスト係数の量子的な振動が現れ、ネルンスト係数のピークは弱磁場側に尾を引く左右非対称の形を持つことが分かった。この形はBiの実験結果と一致する。このように、量子ネルンスト効果が3次元系において理論・実験両面から確認された。一方、Biのネルンスト係数のピークは実験値が理論値に比べ非常に大きい。この原因の理論的解明は今後の課題として残っている。我々は量子ホール系における輸送係数の基本関係に関しても考察を行った。従来、電気伝導度テンソルの非対角成分の磁場微分と対角成分との間では線形な関係式が提案され、研究が進められていた。我々は線形応答理論を用いて量子ホール系の輸送係数を理論・解析的に導出し、成分間の関係が非対角成分の磁場微分と対角成分の二乗が比例する非線形な関係であることを示した。この理論では、電子の不純物散乱により、ランダウ準位近傍の電子状態密度がローレンツ型になると仮定している。我々はGaAsによる実験結果を用いて、数テスラ程度の磁場のもとでこの関係が良く成立していることを確かめた。