著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-14, 2012-08-31

現代の分析形而上学を代表する哲学者の一人であるジョナサン・ロウの4カテゴリー存在論の概略を明らかにする。ロウにとってカテゴリー論は哲学の中心に位置する(第1節)。「個体/普遍」と「実体的/非実体的」という2つの区別を交差させることによって, 対象(実体的個体)・モード(非実体的個体)・種(実体的普遍)・属性(非実体的普遍) の4つの根本的カテゴリーが生み出される。これら4カテゴリーの間には「個体は普遍を実例化し, 非実体は実体を特徴づける」という存在論的関係が成り立っている。また, 普遍は個体なしで存在することはできない(第2節)。ロウによると, 根本的カテゴリーの種類が少ない節約的な他のカテゴリー論よりも, 4カテゴリー存在論は説明力の点で優れている。すなわち, 4カテゴリー存在論は「性質の知覚」「トロープの個別化」「自然法則の分析」「傾向性の分析」などの問題を他の理論よりも適切に解決する。個体だけが因果関係に入りうるので, 知覚はモードを必要とする。モード(トロープ) は対象のあり方であって, その存在と同一性は対象に依存する。自然法則とは, 「種が属性によって特徴づけられる」ということである。傾向性とは, 「対象が, 或る属性によって特徴づけられる種の実例である」ということであり, 他方, 生起状態とは, 「対象が, 或る属性の実例であるモードによって, 特徴づけられる」ということである(第3節)。
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.33, no.1, pp.9-16, 2005-10-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
34
被引用文献数
1 1

「見かけの現在 (specious present) 」とはウィリアム・ジェイムズ (William James 1842~1910) が1890年に公刊した心理学に関する主著『心理学原理』の中で提出した概念である.本論文では同書に拠りジェイムズのこの概念に関して以下のことを明らかにする.即ち, 見かけの現在は瞬間ではなく幅を持つ現在であり, 「時間が経過しても過去へ移行しない」, 「その中で継起的経験が生じうる」という特徴を持つ (1, 2節).この特徴は, 見かけの現在が「一体として経験される」こと即ち「意識の連続性」に基づく.さらに, 意識の連続性は, 見かけの現在がその内部において, また未来と過去へ向けて, 「辺縁」を持つことに基づく (3, 4節).未来向きの辺縁とは「予視的時間感覚」であり, 過去向きの辺縁とは「再生的記憶」から区別された「1次記憶」である.また, これらの辺縁が我々の未来経験や過去経験の原型である (5, 6節).しかし, 「見かけの現在」はあくまでも物理的時間の存在を前提にした心理学的概念であり, 物理的時間における現在は瞬間であるとジェイムズは考えている (7節).
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学教育文化学部
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
no.23, pp.1-15, 2010-09

「不在因果」とは, 不作為(実行されなかった行為) や否定的出来事(生起しなかった出来事) を, 原因(或いは結果) とする因果関係のことである。### まず, 因果関係一般に関して, 「出来事個体間の因果関係は出来事類型間の関連性を暗黙の前提とする」, 「結果は原因だけでなく背景条件(産出条件の現存と妨害条件の不在)にも反事実的に依存する」, 「原因と背景条件の区別は文脈依存的・人間依存的である」という特徴を明らかにする。これらの特徴を踏まえ, 妨害条件の不在が「原因」として際立つと「不在因果」となることを明らかにする。### その上で, 「不在因果は真正の因果関係ではない」という批判に対して答える。まず,「不在因果は因果的説明の一種にすぎず, 因果関係そのものではない」という批判に対して「或る出来事が『何』であるかということの内に既に他の出来事類型との関連性が含まれており, 因果関係と因果的説明は相互依存的である」と答え, 次に, 「不在因果を認めると, 直観に反するくらい, 原因が多くなる」という批判に対して「原因・背景条件・それ以外の出来事の区別がある以上, 不在因果を認めても, 原因はそうやたらに多くはならない。しかし, 膨大な背景条件の広がりがあることはむしろ自然なことである」と答える。最後に, 「非存在は因果的な力を持たないから原因になりえない」という批判に対し「因果関係一般に既に『妨害条件の不在』という非存在が含まれている。そもそも因果関係とは世界と人間とが共同して作り出した秩序(出来事類型間の関連) であり, 不在因果もそのような秩序のひとつである」と答える。

2 0 0 0 OA 現在は瞬間か

著者
伊佐敷 隆弘
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.31-45, 2005-07-25 (Released:2009-05-29)
被引用文献数
1 1

Philosophers who study time often presuppose that the present is a durationless moment. But the reason is seldom explicitly expressed. There could be at least two arguments for it. And both arguments depend on the implicit assumption that when time passes the present becomes the past. But if we don't take the linear image of time for granted, this assumption is not self-evident though its converse proposition may be. Without this assumption I put forward a new image of the present and the past. The present is non-metrical and when we refer to an event-individual, the past emerges and the present comes to have a breadth. The emergence of the category of event-individuals and that of the past time are cooriginal.

2 0 0 0 OA 過去の確定性

著者
伊佐敷 隆弘
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.56, pp.130-141,6, 2005-04-01 (Released:2009-07-23)

We can't affect what happened. We can't change the past and the past doesn't change itself.The contents of my expectation may vary according to my actions in the present, but the contents of my memory don't.Thing-individuals endure through time, and they can change and vanish and even regenerate. On the other hand, event-individuals, once they emerge, don't change or vanish or regenerate.The contents of memory include reference to an event-individual. That is the reason why they don't vary according to actions in the present. The source of the fixedness of the past consists in the existence of event-individuals. And their existence, therefore also the fixedness of the past, largely depends on our referring to them.
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-24, 2005-09

出来事個体の同一性に関するデイヴィドソン説(因果基準)とクワイン説(時空基準)について検討する。因果基準は「同じ時空領域に複数の出来事が生じる可能性」を,時空基準は「4次元主義的存在論(出来事と物体の同一視)」を,それぞれ主な根拠としている。デイヴィドソンはクワインからの批判を受け,因果基準を捨て時空基準を採るに至った。しかし,どちらの基準も循環を含み,また因果基準はデイヴィドソンの単称因果言明分析と相性が悪く,時空基準はデイヴィドソンの非法則的一元論と相性が悪い。それゆえ,デイヴィドソンの転向は早計過ぎた。彼は他の可能性を探るべきだった。
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.1-11, 2008-09-30

出来事の同一性の基準に関する代表的な3つの提案はいずれも難点を抱えている。即ち,クワインの時空基準は,複数の出来事個体が同一時空領域に存在する可能性を確保できず,他方,キムの性質例化基準は,同一の出来事個体に複数の記述を与える可能性を確保できない。デイヴィドソンの因果基準は,両方の可能性を確保できるが,個別のケースがこれら2つの可能性のうちのどちらであるかを決定する根拠を提供できない。### 出来事の同一性が問題となる微妙なケースの検討から判明するのは,「出来事個体が物個体と事実との中間的な存在性格を持つ存在者であること」,および,「出来事の同一性はそれを記述する我々の視点に或る程度依存していること」である。我々は,各出来事個体の間に「重複」「修飾」「因果」「評価」などの多様な関連付けを与え,出来事のこのネットワークを頼りに各出来事個体への指示を行なっている。我々によるこのような指示の営みを通して出来事個体のネットワークは作り上げられ維持されていく。出来事の同一性の基準は単一ではなく,また,出来事に関する同一性基準は同一性判断に常に先行するとは限らない。
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学教育文化学部
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
no.26, pp.1-21, 2012-03

日本人の「死後の生」に関する考え方を「因果応報」という観点から4つの類型に分ける。 分類の基準は,1死後の因果応報を認めるか否か,2因果応報は個人単位か否か,3因果応報は1回限りか否か,という3点である。また,これら4類型はそれぞれ日本古来の習俗・儒教・仏教・キリスト教からの影響によることを明らかにする。「盆という古来の習俗」に現れている考え方は,因果応報を認めない(善人も悪人も死後は同じ場所へ行く)という点で他の3類型から区別される。「積善の家」ということばに表れているように,儒教においては因果応報が個人ではなく「生命の連続としての家」に生じる(先祖の行為の報いが子孫に生じる)。仏教では(極楽浄土に往生して輪廻しなくなるまで)「六道輪廻」という仕方で因果応報が無限に繰り返される。これに対し,キリスト教では生も死も「最後の審判」も1回限りであるから因果応報も1回限りである。さらに,古来の習俗と儒教において死者と生者の関わりが濃いのに対し,仏教とキリスト教では関わりが希薄である。また,古来の習俗と儒教において死者の魂の個別性がやがて失われるのに対し,仏教とキリスト教では死者の魂は永遠に個別性を失わない。日本人の「死後の生」に関する考え方はこれら4類型が混じりあったものである。

1 0 0 0 IR 因果と決定論

著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学教育文化学部
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-16, 2009-09

「自然法則から因果的決定論は帰結しない」ということを示す。因果的決定論とは, 過去の確定性から, 因果の鎖を介して, 未来の確定性を導き出そうとする主張であるが, そのためには, 自然の斉一性(「未来は過去に似る」), 因果律(「どんな出来事にも原因がある」), 行為者因果の不可能性(「行為者を最初の原因とする因果関係はありえない」) が必要である。しかし, これらすべてを認めたとしても決定論は帰結しない。なぜなら, そもそも自然法則が成り立つためには背景条件(産出条件の現存と妨害条件の不在) が必要であり, 背景条件をあらかじめすべて特定することは不可能かつ不必要だからである。つまり, 自然法則は, 背景条件抜きでは, 未来に向かって因果の鎖を形成できるほど結果を一通りに決定する力を持たず, 自然法則の例外許容的性格と決定論の細部決定性の間のギャップは未来に関しては埋めることができない。なお, 関連する背景条件の総計を原因とする法則(完全法則) が仮にあれば因果的決定論は成り立つが, 既知の自然法則の内に完全法則はない。また, 完全法則は出来事を説明する力を持ちえないから「法則」として認めることはできない。
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
日本大学哲学研究室
雑誌
精神科学 (ISSN:02876604)
巻号頁・発行日
no.54, pp.1-20, 2016
著者
伊佐敷 隆弘
出版者
宮崎大学
雑誌
宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学 (ISSN:13454005)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.25-52, 2004-09

アウグスティヌス『告白』第11巻の第14章から第28章を,それが置かれているコンテキストから引き離し,独立した時間論として読む。アウグスティヌスの時間探究は,日常の談話における時間についての3種類の語りに含まれている前概念的時間理解の間の不整合の解決を目指して進む。彼は,「時間の動的性格」から「過去非在説・未来非在説・現在瞬間説」を導き,他方,「過去物語・未来予言」と「時間の長さの測定」から「過去と未来の存在」を導く。これらの間の不整合を彼は「記憶としての過去」「予期としての未来」によって回避する。しかし,(1)予期や記憶の「長さ」,(2)時間の向きと「痕跡」「意図」「原因」「徴候」との関係,(3)時間の動的性格への心の寄与などについては彼は十分な説明を与えていない。