著者
原田 信之
出版者
新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.181-195, 2009

鹿児島県硫黄島には遣唐使漂着伝説が伝えられている。島の伝承によると、かつて遣唐使の息子が父親の遣唐使「軽(野)大臣」を中国から連れ戻したが、難破して漂着した硫黄島で軽大臣が亡くなったので、島に葬ったという。硫黄島にある徳鉢神社(とくたいじんじゃ)は遣唐使の軽大臣を祀っているとされ、島では徳鉢神社のことを「カルノト」「カルノトド」「カルノオトート」「カルノオトド」などと呼んでいる。遣唐使の軽大臣が中国で灯台鬼にされたという有名な説話は平康頼『宝物集』が初出とされるが、平康頼がどこで軽大臣の灯台鬼説話を知ったのかはよくわかっていない。硫黄島は鹿ヶ谷の変で平康頼・俊寛・藤原成経らが配流された鬼界島であるとされる。平康頼が硫黄島に流された時に遣唐使軽大臣を祀る塚と灯台鬼説話を知った可能性さえあり、極めて興味深い。硫黄島に伝承されている遣唐使「軽大臣」にまつわる伝説は、灯台鬼説話をめぐる問題等を考えるうえでも重要なてがかりを与えてくれるものと考えられる。
著者
原田 信之
出版者
新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.202-215, 2007

平安時代初期に、南都法相宗興福寺の高僧玄賓は、僧都職を辞して備中国哲多郡湯川寺に隠遁した。そのため、備中国各地には玄賓開基の伝承を持つ複数の寺院が存在している。備中国湯川寺は現在の岡山県新見市にある。新見市には玄賓開基伝承を持つ寺院が湯川寺、大椿寺、四王寺の三ヵ寺あり、それぞれに興味深い伝説が伝えられている。これら玄賓にまつわる諸伝説は、伝承地周辺の人々に玄賓がどのようにとらえられてきたかをうかがうことができるものであり、文献資料の間隙を埋めるものとして、玄賓像の一端を語る参考資料となりうるであろう。新見市にある三ヵ寺の事例は「玄賓隠遁地伝承圏」をめぐる問題等を検討する際にも重要なてがかりを与えてくれるものと考えられる。
著者
原田 信之 Nobuyuki Harada 岐阜大学教育学部
出版者
九州情報大学
雑誌
九州情報大学研究論集 (ISSN:13492780)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.51-68, 2006-03

ドイツでは、TIMSSやPISAなどの国際学力調査において、ドイツの生徒の学力低下とともに、60年代から取り組まれてきた「教育の機会均等」の理念の実現も立ち遅れている制度的課題も映し出された。また、地方分権国家のドイツでは国家的教育スタンダードによるカリキュラムの標準化が進行する一方、教科の再編・統合化の動きがみられる。そして新たな自由競争原理に根ざした改革と同時に、格差是正と平等性の保障が政策ターゲットとして掲げられている。米英型の「新自由主義政策」対独仏型の「社会的不平等の是正に重点を置く政策」という新たなるイデオロギーの対立が生じている情勢にあって、学力向上を目指すドイツのカリキュラム政策はどのような展開をみせているのか、その政策意図(政策ターゲット)と課題を本稿では明らかにするとともに、現代社会に求められる学力モデルについて考察する。
著者
難波 正義 原田 信之 桑原 一良
出版者
新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.173-176, 2005-12-25

本研究は一人でも多くの学生に読書習慣を身につけさせるための方法を考え出すことを目的として行った。そのために、2005年春休みに、看護学科1年生と2年生、地域福祉学科1年生、そして、5月の連休に、幼児教育学科1年生と2年生に、読書感想文を提出してもらい、その結果を分析した。この読書の課題は、正規の授業科目ではないので、提出ほ各自の裁量にまかせた。その結果、提出率は約87%であった。読まれた本を分類すると、ノンフィクションが多く(53%)、次いで、小説(23%)、実用書(17%)、随筆その他など(6%)、となった。もっともよく読まれた本は『五体不満足』であったが、281人中のわずか7人であった。このことは、学生が広範囲にわたって種々の本を読んでいることを示している。また、最近テレビで放映されたドラマを文字化した本や、新聞や雑誌で大きく宣伝されている本がよく読まれている傾向があった。このことは、歴史に耐えた良書が見のがされる危険性を示唆している。また、今回の感想文の分析より、学生に読書習慣を身につけさせるには、学生の目線にあった、あるいは、それより少し高いレベルの本を薦める必要があることが分かった。
著者
原田 信之
出版者
日本学校教育学会
雑誌
学校教育研究 (ISSN:09139427)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.36, 2021 (Released:2023-04-18)

アクティブラーニングは,一般に課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習のことを指し,総合的な学習の時間(以下,「総合的な学習」と略す)で実現しようとしてきた授業の質的転換と符合するものであった。このアクティブラーニングは,一方向的で受動的な講義形式が主流だった大学の授業に対し,「学習者中心のパラダイムへの転換をはかるための牽引役として登場し」(松下 2015, 3頁),主に高等学校に普及していった。この時に出された文部科学大臣の諮問文(2014年11月)では,「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」と定義されていたことからすると,この時点では,主体的・協働的(対話的)に学ぶ姿(どのように学ぶか)までに留まり,到達点としての「深い学び」(どこまで学ぶのか)までは示されていなかった。
著者
原田 信之 Nobuyuki HARADA 新見公立短期大学地域福祉学科 Niimi College
出版者
新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.247-261, 2008

鬼虎は、第二尚氏王統第三代尚真王(一四七七~一五二六在位)の時代に活躍したとされる八重山諸島与那国島の首長であった。石垣島のオヤケ・アカハチと同様に、与那国島の鬼虎は琉球王に命じられた仲宗根豊見親らによって討伐された十六世紀に実在した人物である。与那国島には、鬼虎が琉球王に命じられた仲宗根豊見親らによって討伐された話が伝承されている。鬼虎には娘がいたとされ、鬼虎が征伐された時に捕らえられて宮古島に連れて行かれ、自害したという。鬼虎征伐に関しては「忠導氏家譜」の記述や「仲宗根豊見親八重山入の時(の)アヤゴ」、鬼虎の娘に関しては「鬼虎の娘のアヤゴ」などが伝えられている。鬼虎にまつわる伝説は、琉球王朝の先島諸島統治をめぐる問題や南西諸島における英雄伝説の問題等を考える際にも重要なてがかりを与えてくれるものと考えられる。
著者
原田 信之 Nobuyuki HARADA 日本文学 The Department of Liberal Arts Niimi College
雑誌
新見公立短期大学紀要 = The bulletin of Niimi College (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.241-254, 2005-12-25

多良間島には、十六世紀に島を統治した土原豊見親春源の父親「ペーンス(平屋西)」が平家の流れをくむヤマト(日本)の人であったという平家伝説がある。また、春源のおじで水納島を統治していたとされる「水納ペーンス」はペーンスの弟で、春源の多良間統一に協力したという伝承がある。南西諸島においては、源氏と平氏をめぐる伝説がそれぞれ存在しているが、通常、沖縄県には平家伝説はほとんどないとされている。日本と多良間との交流は海の道を通じて昔から存在したこと、ペーンスは日本から来た人物であった可能性が高いこと、「ヤマト墓」が存在すること、『遺老説伝』等にみえる「平屋西」という表記の存在(平家を連想する)などが多良間島の平家伝説の発生に重要な役割を果たしてきたと推定される。また、琉球王権北端の奄美と琉球王権南端の先島に平家伝説がある点が注目されるが、その理由の一つとして、奄美も先島も首里と地理的に離れているため琉球王権の影響力が比較的緩やかであったことが関係しているように思われる。
著者
原田 信之 Nobuyuki HARADA
雑誌
新見公立短期大学紀要 = The bulletin of Niimi College (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.209-220, 2002-12-25

琉球の歴代王統は,神話時代にあたる天孫氏時代を除外すると,舜天王統以降,英祖王統,察度王統,第一尚氏王統,第ニ尚氏王統と統いた。これらの王統のうち,本橋では察度王統の始祖である察度とその子孫をめぐる伝説を中心として扱った。在位時に多くの業績を残した察度も晩年には権勢におごる心が生じたというが,察度の世子武寧は父の死後即位してから日夜気ままに遊び暮らし,尚思紹・尚巴志父子に滅ぼされたという。琉球の正史には,武寧に関して,隠遁後の足跡も没年も伝わっていないと記してあるが,興味深いことに,宜野湾市我如古地区には,武寧の子をめぐる伝説が伝えられている。土地の伝承では,「武寧王の三男」とされる「我如古大主」が我如古地区にやってきて我如古グスクを築城し,その築城の際のお祝いの踊りが「我如古スンサーミー」であったという。本稿は,新たに採集した□承資料などの検討を通して,察度王統の始祖察度の子孫をめぐる伝説の全体像をまとめ,残存資料の少ない琉球王朝始祖伝説の一側面を考察した。
著者
原田 信之 Nobuyuki HARADA 新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 = The bulletin of Niimi College (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.275-293, 2004-12-25

琉球の歴代王統のうち、第一尚氏王統の始祖に関する伝説は伊平屋島から佐敷に渡ってきたという鮫川(佐銘川)大主の話に始まる。伝承によれば、屋蔵大主の息子の鮫川大主は、伊平屋島を出て場天の浜(佐敷町) に渡ったという。やがて鮫川は大城接司の娘の聟になり、男子苗代大親(尚思紹)と女子(場天ノロ) が生まれ、この苗代大親の子が成人して尚巴志となり、三山を統一して第一尚氏王統をたてたとされる。このため、佐敷町には、第一尚氏一族にまつわる史跡も多く、第一尚氏王統にまつわる諸伝承が濃密に伝えられている。本稿は、新たに採集した口承資料などの検討を通して、佐敷町の人々の間で語り継がれてきた第一尚氏関連史跡群とその伝承の全体像をまとめ、残存資料の少ない琉球王朝始祖伝説の一側面を考察した。
著者
原田 信之
出版者
新見公立短期大学
雑誌
新見公立短期大学紀要 (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.209-220, 2002-12-25

琉球の歴代王統は,神話時代にあたる天孫氏時代を除外すると,舜天王統以降,英祖王統,察度王統,第一尚氏王統,第ニ尚氏王統と統いた。これらの王統のうち,本橋では察度王統の始祖である察度とその子孫をめぐる伝説を中心として扱った。在位時に多くの業績を残した察度も晩年には権勢におごる心が生じたというが,察度の世子武寧は父の死後即位してから日夜気ままに遊び暮らし,尚思紹・尚巴志父子に滅ぼされたという。琉球の正史には,武寧に関して,隠遁後の足跡も没年も伝わっていないと記してあるが,興味深いことに,宜野湾市我如古地区には,武寧の子をめぐる伝説が伝えられている。土地の伝承では,「武寧王の三男」とされる「我如古大主」が我如古地区にやってきて我如古グスクを築城し,その築城の際のお祝いの踊りが「我如古スンサーミー」であったという。本稿は,新たに採集した□承資料などの検討を通して,察度王統の始祖察度の子孫をめぐる伝説の全体像をまとめ,残存資料の少ない琉球王朝始祖伝説の一側面を考察した。
著者
原田 信之
雑誌
新見公立大学紀要
巻号頁・発行日
no.39, pp.1-14, 2019

沖縄北部地方や中部の東海岸の島々ではウンジャミ(海神祭)とシヌグという行事が行われている。ウンジャミが女の折目といわれるのに対し、シヌグは男の折目といわれており、祭事の内容、目的、由来は多様なものとなっている。伊平屋島田名のウンジャミは、昔、喜界島のノロが首里に行く(または帰る)途中、風で田名に避難してしばらく滞在した事に由来すると伝えられている。『琉球国由来記』巻十五にみえる今帰仁城のウンジャミ(大折目、海神祭)記事と田名のウンジャミには、二十余人の神人による「乗馬行列」や「舟漕ぎ儀礼」など共通点が多い。田名と今帰仁城(北山城)には何らかの関係があったとみられる。田名のウンジャミでは、男神「田名のヒャー(田名ンサー)」が「乗馬行列」を先導するなどの重要な役割を担っている。田名のヒャーは田名村の創始者(根人)であった可能性が高い。田名のウンジャミ由来で伝えられている、喜界ノロが避難したという出来事が実際にあり、その事が元となって現在のような田名のウンジャミ祭事が成立した可能性が高いことを指摘した。
著者
原田 信之
雑誌
新見公立大学紀要 = The bulletin of Niimi College
巻号頁・発行日
vol.38-1, pp.1-12, 2017

玄賓(七三四~八一八)は南都法相宗興福寺の高僧であったが、備中国(岡山県)や伯耆国(鳥取県)など、隠遁した地で寺院を建立していたことが知られている。伯耆国に関するものでは、『日本三代実録』に伯耆国会見郡で阿弥陀寺を建立したことが記されているが、その場所がどこであったのかは未だにわかっていない。玄賓が伯耆国会見郡に建立した阿弥陀寺の場所については、これまでに伯耆大山建立説と伯耆賀祥建立説が提示されてきた。寛保二年(一七四二)成立の『伯耆民諺記』、安政五年(一八五八)編纂の『伯耆志』会見郡分などの地誌類に加え、地域に伝わっている文献や伝承を調査した結果、玄賓が伯耆国会見郡に建立した阿弥陀寺の場所は、伯耆賀祥(鳥取県南部町賀祥)であった可能性が極めて高いことがわかった。伯耆大山には玄賓の伝承は伝わっていないが、伯耆賀祥には玄賓が豊寧寺(伯耆三十三札所第三番。法寧寺、保寧寺、宝念寺とも。阿弥陀寺があった地とされる)と白山権現を草創したとの伝承があり、その地には「あみだいじ」という地名が残っている。
著者
原田 信之
出版者
新見公立大学
雑誌
新見公立大学紀要 (ISSN:21858489)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.182-192, 2015

鹿児島県トカラ列島の小宝島には、海賊に関する伝説が伝えられている。島の伝承によると、昔、与助・与太郎・甚之助という三人組の海賊たちがやってきて掠奪行為を働いたが、島の人たちは畝神山の所にある穴に隠れて助かったという。島で聞き取り調査を行うと、現在でも「畝神の隠れ穴」「与助にさらわれかけた子」「与助から逃げた人」「与助が焼いたセンリ堂」「与助の最期」など多数の関連伝説が伝えられていることが確認できた。与助は実在した海賊だったとみられ、『島津家列朝制度』や『三国名勝図会』には、弘治(一五五五〜一五五八)・天正(一五七三〜一五九二)の頃、日向国より海賊与助らが兵船を仕立ててトカラの島々(七島)に年々やってきたが中之島で殺害されたと記されている。興味深いのは与助の殺害方法で、中之島の伝承では焼き殺したと伝えられているが、小宝島では落とし穴に落として生き埋めにしたと伝えられている。島の自然を背景にして語られる小宝島の海賊伝説は、トカラの島々の自然や文化にまつわる諸問題を考察する手がかりを与えてくれる興味深い事例として注目される。
著者
原田 信之
出版者
新見公立大学
雑誌
新見公立大学紀要 (ISSN:21858489)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.235-247, 2011
著者
原田 信之 Nobuyuki HARADA 新見公立短期大学地域福祉学科 Niimi College
雑誌
新見公立短期大学紀要 = The bulletin of Niimi College (ISSN:13453599)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.247-261, 2008-01-01

鬼虎は、第二尚氏王統第三代尚真王(一四七七~一五二六在位)の時代に活躍したとされる八重山諸島与那国島の首長であった。石垣島のオヤケ・アカハチと同様に、与那国島の鬼虎は琉球王に命じられた仲宗根豊見親らによって討伐された十六世紀に実在した人物である。与那国島には、鬼虎が琉球王に命じられた仲宗根豊見親らによって討伐された話が伝承されている。鬼虎には娘がいたとされ、鬼虎が征伐された時に捕らえられて宮古島に連れて行かれ、自害したという。鬼虎征伐に関しては「忠導氏家譜」の記述や「仲宗根豊見親八重山入の時(の)アヤゴ」、鬼虎の娘に関しては「鬼虎の娘のアヤゴ」などが伝えられている。鬼虎にまつわる伝説は、琉球王朝の先島諸島統治をめぐる問題や南西諸島における英雄伝説の問題等を考える際にも重要なてがかりを与えてくれるものと考えられる。